再会 ―その理由は―

 今日も何事もなく部活が終わった。なんの変わりもなく、何時ものように帰路に着く。そうして家の前になった。


「じゃあな」

「うん」


 ハルカはミノリを一瞥する。その間、数秒の沈黙が訪れた。


「…………あのさ」

「なんだよ?」


 強いて変わったことといえば、手を繋いでいることだろう。


「離さないのか?」

「そっちこそ」

「なら、タイミング合わせて離すか」

「タイミングって?」

「『せーの』で離す」

「いいけど……」


 承諾の後に、言葉を紡ごうとハルカは息を吸い込む。だが次の瞬間――背後から高い声が聞こえてきた。


「ミノリ……?」


 うかがう様子のその声に、ミノリの心臓が跳ねる。



 この声は――。



「お、母さ……ん……?」


 振り向かなくても判る。何度も聞いた声を、忘れる訳がない。

 ただ、何時も通りだった。――この時までは。

 なんの前触れもなかった。『虫の知らせ』というやつは、案外役に立たないらしい。

 ドクドクと早い鼓動に胸を掴む。服に皺が寄るが、構わなかった。


「……ミノリ、走れるか?」

「えっ?」


 腕を引っ張られ、目を見張った。次いでつんのめる。


「なん……っ? ハルカっ!?」


 二人は走り始めた。正確には、ミノリはハルカの後を付いているだけだが。


「ハルカっ、ちょっ、待てって!」


 声を掛けられ、すぐさま走るスピードを緩める。


「待てって……、どういう意味?」

「走ることないから……さ……」


 息を吐く彼を見遣り、訝しげに眉根を寄せた。


「あの人に、殴られてたんだろ?」

「そう、だけど……。そりゃあ、驚いたよ。……だけど、こうなることは解ってた。だってさ、考えて見れば同じ土地に生きてる訳だし、出会うことは解ってたよ……」


 ミノリは繋いでいた手を離し、大きく息を吐いて、聞こえる程度の小さな声で漏らした。


「声を聞くだけでも、心臓バクバクだけど……お母さんも苦しかったと思う」


 泣きそうな顔を思い出して、離したその手を握った。なぜ泣きそうな顔をしていたのか判らない。判らないから、知りたくなる。


「確かめたいんだ」


 離した手をハルカの背中に回し、抱きしめた。服を握りしめて、胸に顔を埋める。


「オレのワガママだって判ってる。ハルカを困らせるだけだけど、一緒にいてくれる?」

「あぁ。ミノリの気が済むまで、一緒にいるよ」


 ハルカもハルカで彼を抱きしめる。初めてのワガママを棒にふる訳にはいかない。そもそも端から、断ることは頭にないけれど。


「ごめんな……」

「謝るなよ」


 わしゃわしゃと頭を撫でる。次いでボサボサになった髪の毛をその手で整えれば、もう一度――今度は優しく頭を撫でた。


「ねぇ……、あの人達……」

「え? わっ、男同士で抱き合ってる」


 通りすがりの女子高生達に、そんなことを言われた。今時の女子高生は、制服を着ていなければ女子高生と判らない程だ。彼女達は物珍しさからだろうか、ちらちらと二人を窺う。きゃあきゃあと騒ぎ声が遠くなるのが長く感じられた。


「ご、ごめんっ、離すから」

「離さなくていい」

「っ……だって、変に思われるだろ?」


 また人が来たらどうだろうか。自分はどう思われてもいいが、大切な人が傷付くのは嫌だ。身を捩るが、腰に回された手は離れることはない。


「変でもなんでも、どう思われてもいいよ」


 その言葉に、ミノリは腕に力を込めた。――同じ、だ。


「……うん。オレだってどう思われてもいい。だから、もう少しこのままでいたい」


 彼の速い鼓動が伝わる。それも同じで、嬉しくなる。


「速いな、鼓動」

「ミノリを抱きしめてるからな」

「オレも速いや」


 触れられるだけで、触れるだけで、鼓動が速くなってしまう。


「一緒だな」

「うん」


 少しだけ照れながらハルカを見上げる。瞳に映る彼は、小さく笑っていた。


「一緒っていうのは……なんか、すごい『特別』だよな」

「うん?」

「一人じゃ感じられないモノを感じることが出来る。それって、すごくない?」


 一人では感じられない想いが二人で感じられる想いだ。淋しさ、苦しさ、愛しさ、友情、尊敬、恋心、憎悪、妬み、嫉み――たくさんある想い。その中でも、二人で感じられることは二人で感じたい。


「まぁ……そう考えると、すごいかもな」


 背中から手を離し、横腹にに据えられている彼の腕にそれを宛がう。


「ハルカ?」

「ごめん。ちょっと……抑えが利かなくなりそうだから」

「抑えって――っ、はっ、ははっ」


 彼の顔を一瞥してミノリは笑う。まるっきり合っていないから、吹き出さない訳がない。


「お前、なんか、スゲー悲しそうな顔してる。言葉と表情が合ってないし」


 解いた手を軽く握りしめて口に添え、肩を震わせ楽しそうに笑っていた。やっぱりこれがいい。


「そうやって、笑ってろよ」


 言って、またくしゃくしゃと頭を撫でた。そうしてまた同じように手櫛で整えて、繰り返す。


「笑ってろ」


 彼は柔らかく笑っている。多分、本人は気付いていないであろう。その顔があまりに綺麗で、鼓動がさらに速くなった。


「え、う、うん……」


 太陽の光でキラキラと輝く髪。愛しそうに見詰める瞳。優しく触れる掌――。軽く頷いた後に、綺麗さに堪えきれずに視線を逸らす。視線を逸らしたミノリに、彼は不思議そうに声を掛けた。


「ミノリ?」

「あ、えと……っ」


 視線を元に戻すが、それは一瞬だった。また逸らし、今度は俯く。


「なんでもねぇ」


 高鳴る心臓は、簡単には元に戻らない。バレたくなかった。


「なんでもないならいいけど」


 なにも追求されず話を切られる。思わぬことにほっと胸を撫で下ろした。


「戻るか」


 すっ、と手を差し出され、すぐさまその手を握る。温もりは、すぐ側にある。だから怖くない。

 知りたいんだ、お母さんの想いを。

 一歩を踏み出せば、近付く。知りたいことを知れるか判らないが、自分の気持ちは伝えたい。

 ――聞いてくれますか?



◇◆◇◆◇◆



 家の前に戻るが、そこには誰もいなかった。辺りを見渡しても人の姿はない。


「誰もいないな」

「そう、だな」


 正直にいえば、ほっとした。ハルカが側にいてくれても、心が受け入れても、躯は拒絶していたからだ。


「少し震えてる」


 言って彼はぎゅっと手に力を込める。


「……大丈夫だから」


 ハルカを見遣り、ゆっくりと息を吸い込んだ。そうしてゆっくりと吐き出し、きゅっと手を握り返す。


「大丈夫」


 笑っているが、上手く笑えていない。緊張か恐怖かは定かではないが、笑顔はひきつっていた。


「無理するなよ」

「無理じゃない」


 無理なんてしてない、と言い放つ。それは強く発せられた。


「……ならいいけど」


 本人が無理をしていないなら、それが一番だと思う。


「暑いから、家入るか」

「うん」


 紡がれた言葉に頷いて、ミノリは石階段を上がる。門を開けて敷地内へと足を踏み入れ、玄関へと進む。手を繋いでいるので、ハルカは自然と後を追う形になった。

 片手でカバンの側面にあるポケットからカギを取り出し、鍵穴に差し込む。


「あれ?」

「どうした?」


 背後から不思議そうな声が聞こえる。『いや、ちょっと』と返して首を傾げた。

 変だ。――開いてる、よな?

 カギをポケットに戻し、ドアノブに手を掛けた。それを下げてゆっくりと引くと、キイッ、と小さな音を立てドアは開いた。


「やっぱり開いてる」


 普段ならカギを掛けているのに、今日に限って掛けていない。何故だろう、と首を傾げる。不用心ではないか。


「あ……」


 ふと玄関先に視線を遣ると、婦人用の靴があった。母親の物ではないそれは、綺麗に揃えられている。そうか。――そういうこと、か。


「ミノリ」


 固まるミノリの肩に空いている手を置けば、彼はびくりと躯を竦めた。


「どうした? なにかあった?」

「く、つが……」


 振り返った顔は、血の気がなく青ざめている。動揺しているのだろう。


「靴?」


 隙間から玄関を覗く。黒色のハイヒールがキラリと光った。


「あぁ……それでか」


 青ざめている原因が判り、肩から手を外す。次いで繋いでいた手をも離し、両腕で後ろから抱きすくめる。


「大丈夫」


 ハルカが優しく頭を撫でると、ミノリは躯を預けてくる。


「大丈夫だ。俺が傍にいる」

「うん……。ハルカ……、一緒にいて……」


 腕に顔を擦り寄せて紡ぐ声は、掠れていて今にも消え入りそうだった。


「傍にいるよ」


 抱きしめる腕に、苦しまない程度に力を加える。温もりが、不安を消していく。そうすればゆっくりと顔を上げ、ミノリは微笑んだ。


「ありがとう、ハルカ」

「よし。ほら、行くぞ」


 とんっ、と背中を軽く押され、彼は玄関に足を踏み入れた。――そうしなければ、足を踏み入れれなかった。それでも、帰る家はここなのだ。ここだけで、他にはない。

 きゅっ、と軽く唇を噛む。覚悟を決めろよ。大丈夫。大丈夫。大丈夫だから――。強く言い聞かせた後に唇を解いて、靴を脱ぎ玄関へと上がる。


「ミノリ」


 その言葉に振り返ると、ぽんぽんと頭に手を置かれる。


「ちゃんと上がれたな」

「……ん」


 小さな子供を褒めるように何度も頭を撫でてくるハルカに、ミノリは軽く頷いた。


「ハルカも上がって」

「判ってるよ」


 促され、彼も靴を脱いで玄関先に上がった。


「なぁ……」


 言葉と共にきゅっ、とハルカの制服の裾を掴む。


「ん?」

「その……、取り乱してごめんな」

「気にするなよ。俺も取り乱したし……」


 お互い様だろ、と言い放ちながらまたまた頭を撫でた。


「お前ってさ、何時も頭撫でるよな」

「嫌か?」

「嫌じゃないけど……」

「けど?」

「いや、嫌じゃないよ。ハルカに頭撫でられるの好きだよ」

「そう」


 くしゃり、とまた頭を撫でてくる。あったかくて、好き。隣にいることが判って、安心する。本人にはそんなことは言えないけども。


「お母さんの気持ち、確かめられるかな?」

「確かめられるよ」


 一歩を踏み出そうとした次の瞬間に、それは訪れた。


「――っ、私がなにしたっていうのよ!」


 甲高い声と共に、勢いよくリビングのドアが開く。二人はその声と音に躯を竦め、すぐに音がした方を向いた。そこには女性らしき人がいた。『らしき人』なのは、ガラス戸だが、木の枠が邪魔をして大体にしか把握できないからだ。

 次いで、『待って下さいっ』と慌てる母親の声が聞こえる。


「アンタに……っ、アンタになにが解るのよっ!」


 ミノリは目を見開いた。ストレートの髪。つり上がる眉。発せられる声。この人は――。


「……お、母さん……?」


 紛れもない。目の前に、いるのは――。気持ちを知りたい相手だった。


「誰っ!?」


 呟きが聞こえたのか、その女性らしき人はミノリを見据える。


「ぁ……」


 彼女も彼を見て目を見開いた。


「……ミ、ノリ……」


 小さな声で呟く。それは小さすぎて、二人には聞こえていない。目の前にいる女性が、伏し目がちになり視線を逸らすまで、時間が止まったかと思った。


「お母さん……」


 ミノリが言葉を紡ぐと、彼女は躯を強張らせ無言で俯く。


「ミノリ」


 女性の横から顔を出し、友紀は名前を呼ぶ。


「今日ここに来たのは偶然なんかじゃないわ。私が呼んだのよ」

「友紀さんが?」

「……辛いことは解ってる。でも、どうしても話し合ってほしかったの」


 彼女はゆっくり言い放った。


「話し、合い……ですか?」


 ミノリは母親を見詰めながら、言葉を反芻する。ちらりとハルカを見ると、彼は手を握ってきた。


「確かめるんだろ?」

「うん……」


 確かめたい。――そうだ。これはチャンスだ。これを逃したら、中々会えないだろう。無駄にしたくない。

 ハルカの手をやんわりと外し、ミノリは母親に近付く。


「あ、の……っ」


 声を掛けると、母親はびくっ、と躯を竦め、弾かれたように顔を上げる。無言で彼を見る彼女は、泣き出しそうな顔をしていた。――あの時と、一緒だ。自分をぶっていた時と同じ顔。どうしてだろう。どうして、そんな顔をするのだろうか。



「お母さんは、どうして泣き出しそうな顔をするの?」



 そう言葉を紡ぐと、彼女はこれでもかという程に目を見開く。長い睫毛に縁取られた瞳は、不安に満ちて揺らいでいた。そのでなにかを探るようにこちらを見てくる。


「泣き出しそうな……顔……?」


 薄く開いた口から、弱々しい声が漏れた。


「何時も……してたよ」


 彼はポツリポツリと言い放つ。


「オレをぶつ時に、何時も泣き出しそうな顔をしてた」

「そんな顔、してないわ」


 母親は、その顔とは裏腹な冷淡な声で言った。


「泣き出しそうな顔なんてした覚えはない。貴方の勘違いじゃないかしら」


 彼女はそうまくし立て、彼の横を通り抜けようとする。


「待ってっ! お母さんっ」


 ミノリは横を過ぎる母親の手首を掴んだ。行かないで、まだ。


「行かないでよ」

「い、や……離してっ!」


 手を思い切り払われ、掴んだ手は行き場を失う。


「私に触らないでっ!」


 言葉と共に睨み付けられる。鋭い瞳が射抜く。これは怒っている時の顔だ。


「ご、ごめんなさい……」


 ミノリはしゅんと俯く。怒らせるつもりはなかった。またヘマをした、と自己嫌悪に陥る。


「謝れば許してもらえるなんて思わないでっ! 私は……、私はっ、私は何度も謝ったのに……っ」

「お母さん?」


 母親の様子が可笑しいので顔を上げれば、また泣き出しそうな顔をしていた。


「そうよ! 私は何度も謝ったのよっ!!」


 頭を押さえてその場に力なく座り込んだ。ストレートの髪が揺らぐ。


「それなのに、アイツは許してくれなかった……! アイツはっ……アイツは私を殴り続けた……」

「落ち着いて下さい」


 座り込む母親に、自分も座り込みつつ友紀は優しく言葉を掛けた。と同時に、背中に手を添えてゆっくりと擦る。


「大丈夫ですから、落ち着いて下さい」

「っ……アイツは……いない……?」

「えぇ。いませんよ」


 荒い息は、少しずつ元に戻る。次いで虚ろな瞳でミノリを見上げる。彼女は涙ぐんで微かに震えていた。


「大丈夫? お母さ――」

「呼ばないで」


 彼の言葉を遮り、母親は言葉を紡ぐ。


「私はもう貴方の母親じゃない。母親なんて無理だったのよ……」


 所詮幻想だった、と呟きながら涙を拭う。


「……じゃあ、どう呼んだらいい?」


 元母親だが、母親は母親に他ならない。『お母さん』と呼ぶ以外には選択肢がなかった。


「貴女でいいわ」

「そんな他人みたいなこと……」

「他人よ」


 ゆっくりと立ち上がり、母親は自分の二の腕に手を添える。彼女もミノリと同じ長袖だった。クリーム色の生地に、薄い茶色の縦縞模様がある。細い躯を包むそれはとてもよく似合っていた。


「もう親子の関係じゃない。赤の他人なのよ」


 きっぱりはっきりと言い放つ。――赤の他人。戸籍ではそうだろう。しかし、親子関係は続いている場合もある。あっさりと他人になることもあるが。母親は後者なのか。仮にも産みの親で、一緒に暮らしていたのに。

 ミノリは呆然と母親を見詰めた。


「なにか文句があるのかしら? 私は正しいことを言ったまでよ」


 言葉が突き刺さる。正論な気もするが、認めたくはない。


「っ……お母さん……」


 『貴女でいいわ』と言われても、『貴女』と呼べない。どうしたって、『お母さん』なのだ。


「呼ばないでって、言ってるでしょ!?」


 彼女は眉間に皺を寄せ、声を荒げる。


「でもっ、お母さんはお母さんだよ。それ以外なんてないっ」


 気迫に負けじと言い返す。負けたら終わりだと思った。


「……呼ばないでって、何度言ったら解るのよ……。私は貴方に手をあげていた、最低の母親だったのよ?」


 呆れたようなため息が聞こえる。


「違うっ! 最低なんかじゃない。お母さんは変わったんだ」


 優しかったじゃないか。何時からだったか忘れてしまったが、母親は変わってしまった。



「お母さんは優しかったよ」



 言い放つと、母親は目を白黒させてミノリを見据えた。


「なに、言ってるのよ……。あぁ……うん、もういいわ。貴方と話すのは疲れる」


 額に手を添えて、はぁ、と短いため息を吐く。


「すいませんが帰ります。これ以上、ここにいる意味はありませんから」


 友紀を見遣れば、踵を返してリビングに戻る。中を覗くと、母親はソファーに置いてあったカバンを手に取った。


「それで、いいんですか?」


 戻ってきた彼女に、友紀は声音を変えて言い放つ。


「話さなければ、なにも解りません。貴女は、本当にそれでいいんですか?」

「……いいのよ。会わない方が、お互いの為になる。もう、会わない方がいいの」


 彼女から目を逸らし、ポツリポツリと言葉を漏らす。


「そうですか。勝手なお願いですが、聞き流しても構いませんから、ミノリの話しは聞いてくれませんか?」


 友紀は真剣な顔付きだが、優しい声音で言葉を紡ぐ。母親は短いため息を吐いて、ミノリを見遣った。


「……判ったわ。聞くだけなら、聞いてあげる」


 聞くだけならね、と言いながら、もう一度リビングへと踵を返した。その背中が淋しそうなのは、気のせいじゃない。

 お母さんも苦しかったんだ。辛かったんだ。吐き出して楽になることもせずに、ずっと一人で抱えていたんだ。

 やっぱり、聞かなければ。確かめなければ。楽になればいい。――楽にしてあげたい。

 ミノリは一歩、リビングに足を踏み入れた。

 点在するテーブルの上には、ティーカップが二つ置いてある。察するに、友紀と母親が飲んでいたのだろう。


「話すなら早く話して」


 ソファーに深く座り、母親はじっと彼を見詰めていた。


「う、うん……」


 ミノリはゆっくりと母親に近付く。


「ずっと言いたかったんだけど……、オレがお母さんを嫌いになることはないよ」


 柔らかく笑い、そう言い放つ。


「貴方は分からず屋ね」


 しかし、さらりと切り捨てられてしまう。


「傷付けた人間を嫌いになることはない? そんなこと在るわけないじゃない。ただの綺麗事よ。私はアイツが許せない」


 彼女は二の腕に手を添えて、ぎゅっ、と握る。爪が食い込むほどに強く。


「例え実の親でも、殺してやりたかった。私を殴る父親を、この世から消し去りたかった」


 淡々と語る母親の躯は震えている。爪が食い込むほどに強く握ったのは、震えを押さえる為らしい。


「許せないのよ……、許したくない……! それなのに、貴方は――……、貴方はそれでも、嫌いになることはないと言えるの?」


 見上げる母親は、目に涙を溜めていた。


「ならないよ。だって、さ、優しかったよ。お母さんは優しかった」


 はっきりと言えば、殴ってくる母親は怖くて好きになれない。でも『好きか嫌いか』と問われれば、嫌いじゃない。



「オレはお母さんが好きだよ」



 その言葉に、彼女は力無げに笑う。


「貴方って本当にバカね……」


 ソファーの背もたれに頭を乗せ、手で目を覆い隠す。頬には涙が伝っていた。



◇◆◇◆◇◆



 ミノリは勿論、静かに見守っていたハルカに友紀もソファーに腰を掛けていた。

 一頻りすすり泣いた後、母親は消え入りそうな声で言葉を紡いだ。


「貴方が悪い訳じゃなかった。貴方が嫌いな訳じゃない」


 嫌っていなかったのか。それが判っただけでもいい。


「私の親――、いえ、父親の方ね。アイツは自分が気に入らないことがあると、手をあげてきたわ」


 ゆっくりと語る。震える躯が、痛々しかった。


「殴られて、蹴られて……、ボロボロだった……。友人には言えなかった。母親は手当てをしてくれるだけで、止めることはしなかったの」


 でも、嫌いにはなれなかったわ、と言い放つ。


「何時からだったか覚えていないけれど、私は愛し方を忘れた。アイツと同じで、手をあげるしか出来なくなってしまった……。同じ人間にはなりたくなかったのに……」


 また二の腕に手を添える。多分癖なのだろう。


「手をあげる度に、後悔した。殴るのはダメだと解っているのに、止められない。だから私は貴方と離れたのよ」

「え? 離婚って、お母さんから言い出したのか?」


 父親からは、自分から言い出したと聞いていたので、ミノリは驚きを隠せない。目を見開き、魚のように口をパクパクさせている。


「そうよ。貴方には酷いことばかりしていたから、最後も悪いままでいいと思ったのよ。その方が、アイツのようになった私にはお似合いよ」


 この人は変わったと思っていた。いや――、むしろ、優しかったあの時と、なにも変わってない気がした。


「話せてよかった」


 声が漏れる。それは自然にだ。


「話さなければ、なにも解らなかったから。オレの気持ちも、お母さんの気持ちも、なにもかも」


 話さなければこの先も、母親の想いは解らないままだっただろう。友紀には――母親には感謝をしなければ。そう思えば、いきなり母親はソファーから立ち上がる。


「お母さん?」


 ミノリは不思議そうに声を掛けた。


「ありがとうございました」


 彼女は深く頭を下げる。


「もういいんですか?」

「いいんです。もう十分ですから」


 顔を上げてミノリを一瞥し、歩き始めた。


「ちょっ、お母さんっ!」


 急いでソファーから立ち上がり、彼は母親の後を追う。


「待ってよっ」


 手を伸ばしてまた腕を掴んだ。届く範囲ギリギリにいる彼女の頭が垂れる。


「離しなさい。もう貴方と話し合うことは終わったの」


 一拍置いて振り返った母親は、冷たい目で彼を見下ろした。


「でも……、まだ話しがしたい」

「貴方はちゃんと聞き分けのある子よ」


 腕を掴んでいる手をやんわりと外し、そっとミノリの頬に触れる。


「私は二度と貴方に関わらないで生きていくの。貴方も私に関わってはダメ。解るわね?」


 今までにない優しい声。どうしてそんな声を出すのか解らない。


「でも……っ」


 彼の目尻に浮かぶ涙を拭い、母親はミノリを抱きしめた。



「愛してあげられなくてごめんね、ミノリ」



 久方ぶりに名前を呼んでくれた。それだけでも、嬉しい。『貴方』と呼ばれるようになって、ものすごく淋しかったのを覚えている。


「お、母さ……」


 涙が溢れて止まらない。

 優しさの中に厳しさがあり、厳しさの中に愛しさがある。使い方を間違った愛情は解りにくいことこの上ない。なにせ、本人さえも解らないことがあるのだから。


「お母さんの、息子でよかった」


 溢れた涙を拭いながら、震えた声で言い放つ。


「元気でね」


 ミノリを離し、母親は柔らかく笑った。そうして、振り返らずにリビンクから出ていく。友紀は彼女の後を追いかけた。

 残されたミノリはその場に崩れるように座り込む。


「うあぁぁあぁっ」


 先程拭ったが、また涙が溢れてきた。

 会いたくても、母親にはもう会えないだろう。それが哀しくて、同時に悔しかった。なにも知らなかった自分に、腹が立つ。


『愛してあげられなくてごめんね』


 言葉が甦る。愛してくれていたのに、解らなかった自分を殴りたかった。

 背後から、ぽふん、と頭になにかが乗せられる。


「話せて、よかったな」


 耳に届くハルカの声。憤りは沈む。


「う゛ん……う゛んっ」


 彼はこくこくと大きく頷く。


「そんなに泣くなよ。目が腫れるぞ」


 しゃくり上げるミノリの頭を優しく撫でるが泣き止まない。


「止まら、ないんだよぅ……」


 拭えば拭う程、溢れてきてしまう。自分ではどうしようも出来なかった。


「ほら」


 ハルカはミノリの前に座り、彼を抱きしめた。


「そんな顔されると、こっちまで泣きたくなる。ミノリには、笑っていてほしいんだ」

「止まらないんだからっ、しょうがないだろ」


 何度も涙を拭っているので、袖は確実に濡れていた。


「まぁ、泣き止むまで待つけど」

「そうかよ……」


 本当に泣き止むまで待ってくれたのは言うまでもない。ハルカの胸を借りたので、彼の服は少しだけ濡れてしまった。


「気がすんだか?」

「ん……ありがと。その、服濡らしてごめん」

「心配するな。すぐ乾くよ」


 笑ってくしゃくしゃと頭を撫でる。


「……なぁ、ミノリ」

「なんだよ?」


 ミノリは突如動きを止めたハルカを見上げる。



「俺達が好き合ってること、言わないか?」



 紡がれた言葉はなにを意味しているのか一瞬解らなかった。


「なんで? 別に言う必要ないだろ」

「お互いにどれだけ必要か、解ってほしいから」

「……そんなの、解らないだろ……」


 簡単に解る問題ではなかった。それこそ、簡単に解ってほしくない。


「親に言う権利ぐらいはある筈よ」


 張り詰めた空気を裂くような声に、二人はびくっ、と躯を竦める。


「お……、驚かさないで下さいよ、友紀さん」


 ハルカは後方を振り返る。閉めたリビングのドアの前に、友紀が微笑みながら立っていた。


「話したいことがあるなら、ちゃんと話しなさい」


 二人に近付きながら、ゆっくりと言い放つ。


「大抵の親はね、例え世界中が敵になっても、子供を守りたいものなのよ」


 そう言って、彼女は二人の頭を撫でた。


「友紀さん……」


 ミノリの瞳は真っ直ぐに彼女をとらえる。



「貴方達が選んだ道を、私に教えてくれないかしら?」



 友紀に促され、二人はソファーに座った。テーブルを挟み、向かい合うように友紀が一人、ミノリとハルカは二人で座っている。


「大体は立ち聞きして把握はしているけど、きちんと話してくれるわね」

「……はい。単刀直入に言えば、俺はミノリが好きで、ミノリも俺が好きなんです」


 小さく頷き、ハルカが口を開く。


「そうね。それは解っているわ」

「それだけです」

「時代で認められてきたとはいえ、男同士は――いえ、同性同士を見る目はまだ冷たいものよ」

「それでも、俺にはミノリが必要なんです」

「もしも、ハルカくんの傍にミノリが、ミノリの傍にハルカくんがいなかったら、他の人を好きになっていたかも知れないわね」


 彼女はさらりと言った。お互いがいなかったら、こうはならなかっただろう。


「そう、ですね」

「あら、例えばの話しだからそんなに気にしなくていいわよ」


 しょぼくれるハルカを見て、友紀はくすくす笑う。


「今はそれでいいのかも知れない。でも、五年、十年と一緒にいるのは難しいわ」


 そんなことは言われなくても判っていた。一緒にいられるのは、短い時間。それでも判った上で、一緒にいる。


「それに、私はミノリの幸せを願っているの。ハルカくんのお母様も同じだと思う。それを踏まえて、貴方達が幸せだと思うなら、私はなにも言わない」

「……え? なにも……、なにも言わないんですか?」


 目を見開きながらハルカは言い放った。


「言ったでしょ。例え世界中が反対しても、親は子供を守るって。私は守りたいの、二人を。貴方達で選んだなら、なにも言わない。――というか、元々薄々気付いていたもの」


 初めから知っていたのか。知っていて、見守ってくれていたんだ。


「あ、勿論、ミノリを傷付けたら許さないから。覚えておいてね、ハルカくん」


 ウインクをしながら言うが、気迫はある。破ったら確実になんらかの被害を被るだろう。


「――はいっ」


 ハルカが元気よく頷いた後に、二人は顔を見合わせる。そしてどちらかともなく笑い合う。

 彼女は優しい眼差しで、二人を見ていたのだった。




 

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