ミノリ ―閉ざされた過去―
――夢をみた。それは小学生の頃の夢だ。まだあの人と暮らしていた頃の夢。
あの人――母親の機嫌は何時も悪かった。なにかするたびにぶたれた。
「うるさい!」
ごめんなさい。もうしないから。
「うるさいっ! うるさい、うるさいっ!」
ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん。
悪いことはしないから。約束するから。だから元に戻ってよ。
外ではぶたれなかったのが、せめてもの救いだった。
痛い。痛いよ。でもこの痛みは自分が悪いからなんだ。オレが悪い子だから。だからお母さんはぶってくるんだ――。
◇◆◇◆◇◆
庭の木にはセミが止まり、鳴き声をあげている。季節は夏だった。
冷たい床に寝転がっていると、ピーンポーンとインターホンが鳴る。
母親は出掛けていて、家には自分一人だけ。
ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピーンポーン、と、続けざまに何度も鳴る。痺れを切らした彼は渋々玄関まで行き、ドアを開け放った。
「……はい」
「ミノリ」
セミの鳴き声に混じり、自分の名前を呼ぶ声。その聞き慣れた声に顔を上げると、そこにはハルカが立っていた。
「ハルカ……」
「今日、学校休んだろ」
黒色のランドセルの肩ベルトを片側だけ外し、片手で器用にランドセルを開ける。
「プリント、貰ってきたから」
中からプリントを取り出し、ミノリに差し出す。
「クラス違うのに?」
「家近いから渡された」
「あっそ」
プリントを受け取りドアを閉めるが、途中でハルカの手がドアを掴んだ。
「待った!」
「んなっ、危ないだろっ」
ゆっくり閉めなければ、怪我をするところだったじゃないか。
「外、行こうぜ」
「外? ――いいや。お母さんに怒られるから、行かない」
「大丈夫だよ。怒られそうになったら、俺が止めに入るし」
「お母さん、怒ると怖いし……」
「バーカ」
むにゅっとミノリの頬を軽くつねる。
「そんな顔すんな」
「しょんな顔って?」
頬をつねられている為に『そ』が『しょ』になってしまう。
「泣きそうな顔」
「……気のせいだろ」
「でも、俺といる時は泣いてもいいよ。ミノリが泣き止むまで、傍にいるから」
頬をつねる手を離し、ハルカは微笑んだ。
「……外……行ってもいい」
「じゃあ、行こうぜ」
手を取られる。だが彼はその手を引き剥がした。
「待った。カギ、取ってくるから」
「判った、待ってる」
パタン、とドアを閉め、彼はぱたぱたと廊下を走る。
久しぶりに外に出られる。それが嬉しかった。瞬間――ズキン、といきなり傷が痛みだす。淡く、しかし、鋭く。
「いっ……」
それは遊びに行くなと言っているように感じた。
痛みに目頭が熱くなる。泣かない。男だろう、泣いちゃダメだ。唇を噛んで堪えつつゆっくりと自分の部屋に行く。
「ってぇ……」
ドアを閉め、息を吐き出し、新しい空気を送る。荒い息を整えつつ、机に掛けてあるランドセルを開けて、内ポケットから家のカギを取り出す。それを握りしめ、ミノリは部屋を後にした。
「あ……」
玄関に続く廊下を歩いていると、ハルカの後ろ姿が見えた。彼は外で待っていた筈だ。なのに玄関先に座っている。ミノリはゆっくりと忍び足で近付く。
「な、なにしてんだよ?」
肩越しに振り返ったハルカは
「外暑いから、中で待つことにしたんだよ。で、カギ、持ってきた?」
「うん」
「じゃあ、行こう」
「いたっ」
ミノリの手首を掴むが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「あ、ごめんっ」
ハルカは謝りながら慌てて手を離す。
「違っ……、ハルカの所為じゃないから……」
慌てた様子に首を振り、息を吐き出して視線を逸らす。
「ミノリ?」
不審に思ったハルカは声を掛けた。しかしそれは聞き流されてしまう。
「ほ、ほら、早く行こう」
彼は慌ててハルカの横に座り、靴を履く。
「うん……」
府に落ちないが、軽く頷く。
なにかある。なにかが――。だって、可笑しいだろ。夏に長袖と長ズボンなんて。そう思ったけれど、口には出せなかった。いろんな可能性があるから――。
ハルカは立ち上がり玄関のドアを開ける。開け放たれたドアから陽射しが入り込んだ。
「っ……、眩しい」
ミノリは思わず額に手を当て、陽射しを遮る。
「ほら、早く行こう」
差し伸ばされた手を取り、ミノリは立ち上がった。
――外はいい。空が綺麗なことが判る。風が気持ちいい。だから外は好きだった。
「あっ」
手から滑り落ち、家のカギが階段に落ちる。チャリン、と金属音が響いた。
「大丈夫か?」
ハルカはそれを拾い上げ、慣れた要領で玄関のカギを掛ける。
「ほら」
ぽん、と掌にカギを乗せられた。
「ごめん……」
「落とさないようにしろよ」
「うん」
ミノリは軽く頷く。
「行こ」
差し出された手を繋げば、痛みなんてどこかに忘れることが出来た。
◇◆◇◆◇◆
二人は近所の公園に向かった。木の前に置いてあるベンチに二人は座る。
「暑いな」
「うん。でも、オレは外好きだよ」
「外が好き?」
「だって、空は青くて綺麗だし、風は気持ちいいよ?」
「空……ね」
ハルカは空を見上げた。白い雲に青い空。何時もと変わらないのに。それに、綺麗なのは空じゃない。本当に綺麗なのは――。
「青い空に白い雲。夕方になると、赤い空にオレンジ色の雲……すごく綺麗だよ」
ミノリはハルカを見て笑う。
彼は目を見開いた刹那、目を細めてミノリを見詰める。
「――……ミノリの方が、綺麗なのに」
彼に聞こえないように呟く。
「え、なに?」
聞こえないように呟いたが、ミノリが首を傾げたので彼は慌てて言い放った。
「なにもないからっ」
次の瞬間、強い風が吹いた。髪が靡き、木々が踊る。
「あ、」
風に煽られた砂が目に入り、咄嗟に目を擦れば、軽く咎めらてしまう。
「バカ。擦るなっ」
「っ、だって……」
「ほら、見せてみろ」
頬を掴まれ引き寄せられる。近付いた顔は心配そうに歪められていた。
「瞬きしろ、瞬き」
「う……ん」
促され、何回か目を瞬く。お蔭で痛みが引いていった。
「取れた……かも」
言い放ちながら少し長い服の袖で、目尻から伝う涙を拭いた。
「バッカ。服で拭くなよ。ハンカチで拭きなさい」
ハルカは半ズボンのポケットから、パンダの絵が描かれたタオルハンカチを取り出し、ミノリの顔を拭く。
「う゛ー、う゛ぅーっ」
「ん、これでよしっ」
数秒の後に拭いていた手を離し、ぽんぽんと頭を軽く叩けば、ポツ、となにかが手の甲に当たった。
「え……?」
彼は空を見上げる。そのなにかは、ポツポツと次々に降ってきた。――雨だ。さっきまでは晴れていたのに、一面灰色の雲に覆われていた。地面が少しずつ濡れていく。
「冷たっ」
地面が濡れるということは、自分達も濡れるということな訳で。
「っ、くそっ……」
ぐっとミノリの手首を掴み、走り出す。
「っえ? ハ、ハルカっ!?」
本格的に降る前に、雨宿りをしなくては。近くにあった土管が並列になっている遊具に入る。二人が土管に避難してすぐに、雨脚は強くなった。
「すげぇ……」
感嘆として呟くが、それは雨音に消されてしまう。
夕立だと思うが、まさにバケツをひっくり返したような雨。地面を叩く音が響く。
「ごめんな」
「なんでハルカが謝るんだよ?」
彼は首を傾げる。
「雨が降ってくることが判ってたなら、外には連れ出さなかった」
「雨が降ったのは、ハルカの所為じゃないよ。だって、天気は操れない。だから誰の所為でもないよ」
ミノリはハルカの頭を撫でる。何時もと逆で、少し可笑しい。
「だから元気だせよ」
「あぁ……。あ、そうだ。ミノリ、プリン食うか?」
「はぁ? なんだよ、いきなりっ」
「プリンあること、今思い出したんだよ」
ハルカは黒いランドセルを開けて、中を探った。そうして、ゆっくりと手が上がりる。そこにはプリンがあった。その手を差し出される。
「やるよ」
「いいよ、要らない。ハルカのだし、ハルカが食えよ」
「じゃあ、半分こしようぜ」
「半分こって……、スプーン一個しかないだろ?」
「大丈夫。もう一個あるし」
言い放ち、またランドセルを探る。
「ほら」
プラスチックの小さいスプーンが、掌に乗せられた。
「なんで二個あるんだよ!?」
「んー、余ったからもらったんだよ」
ハルカはプリンのフタを開けながら言い放った。
「二個あれば、ミノリと一緒に食べれるだろ?」
スプーンの袋を開け、プリンに切れ目を入れる。きっちり半分ではなく、半分よりやや右寄りに切れ目を入れた。
「ミノリはこっちな」
大きい方をスプーンで差す。
「ハルカが大きい方を食えよ」
「いいから」
「でも、ハルカの――」
「ミノリ。口開けて、口」
彼の言葉を遮るように、ハルカは言い放つ。
「なんっ」
『なんで?』と問いかけたかったが、出来なかった。甘い味が口内に広がる。無理矢理だが、プリンを食べさせられた為だ。
「もう食ったからこっちな」
ミノリの手から封が開けられていないスプーンを取る。
「バッカじゃねえのっ」
口からスプーンを外し、彼はフイとそっぽを向いた。
「バカはバカなりに生きてますよ」
よしよしと頭を撫でて小さく笑う。
「…………」
彼は無言でスプーンをかじる。耳まで赤くなるミノリを見て、ハルカは微笑んだ。
「ほら、早く食べようぜ」
「食えばいいんだろっ」
促され、黙々とプリンを食べる。
「……ミノリ、目ぇ瞑って」
「なんで?」
「カラメル付いてるから」
カラメルが付いていて、何故目を瞑らなくてはいけないのか。不思議に思ったけれど、彼は言われた通り目を閉じた。
「取れた?」
「まだ」
ハルカはミノリの頬に手を添える。――
「……取れたよ」
「今なにしたんだ?」
「なにも。唇拭っただけ」
「そうかよ」
ミノリは土管の入り口へと移動し、外を見遣る。雨は線を描き辺りを曇らせ、地面を叩く雨粒が跳ねて踊っていた。
「雨……止まないな」
「雨宿りしてれば何時かは止むだろ」
「まぁ、そうだけどさ……」
雨の日は好きにはなれない。何時も機嫌が悪かったが、雨の日は母親の機嫌がもっと悪くなるから。
「止まないかなぁ」
「……くしっ」
くしゃみにミノリはびくりと躯を竦める。
「あ……、寒い?」
「少しな」
ハルカはずっっと鼻を啜った。
「オレは長袖だけど、ハルカは半袖だもんな」
彼に近付きながら、言い放つ。そうして隣にまたちょこんと座る。二人の間には重ねてあるプリンの空容器があった。それにはスプーンが二本入れられている。
「雨……」
「ん?」
「早く止んでほしい」
「何時かは止むから」
「何時かなんて信じない。何時かなんて……っ」
そんな曖昧なことは信じたくない。
「ミ、ノ……リ?」
「――っ」
涙が頬を伝う。
◇◆◇◆◇◆
――何時かは終わる。我慢してれば終わるんだ。
お母さんがぶってくるのはオレが悪い子だから。
『ごめんなさいっ』
『うるさいっ!』
宿題をしていたら、突如壁にぶつけられてしまう。背中を打ち付け、痛みが走った。
どうやら機嫌が悪いようだ。
『ごめんなさい。ごめんなさい、お母さんっ』
母親を見遣ると、泣きそうな顔をしていた。
『――……ごめんな、さい』
何故泣きそうな顔をするのか判らない。
『謝れば許してもらえると思ってるの!?』
肩を殴られ、新たな激痛が躯に走る。
『っ――!』
何時かは、終わる。そう、何時かは――。
◇◆◇◆◇◆
「う、あ、あっ」
涙が溢れて止まらない。まるで洪水だ。
「どうし――」
ミノリはハルカに抱きつく。反動で、カラン、とプリンの空容器が転がった。
彼は震えながら咽び泣いている。泣きそうな顔も泣いた顔も何度も見たが、ここまでは初めてだ。
「うぁぁあぁっ」
何時かは終わる。でも、終わらない。
長袖の中に隠された、痣だらけの腕。――その腕を、ハルカの背中に回す。
「終わらないっ……」
哀しい。哀しいよ。痛くて、痛くて、哀しかった。
「終わらないよぉっ」
なにが終わらないのか、ハルカには全く判らない。けど、ミノリが泣くのなら、それは辛いことなのだろう。それなら――。
「――終わるよ。俺が、終わらせるから」
こう言うしかないだろ。
ハルカはミノリを抱きしめる。
「ミノリには辛い思いはさせないから」
「ハ、ルカぁっ」
「辛い思いはさせない。させないから――……」
ぎゅうっ、と抱きしめる腕に力を込めた。
「うん……」
ハルカの言葉に服を強く掴み、軽く頷いた。
「俺は……俺だけは、なにがあっても傍にいる」
泣かせない為に。辛い思いをさせない為に。ずっと、ずっと傍にいてあげよう。笑ってくれるように――。
「……お母さん……」
そう言って目を閉じる。そのまま意識が遠退いた。
「ミ……ミノリっ?」
うんともすんとも言わない彼を不思議に思い、ハルカは手を離す。
「おい、ミノリ!?」
すーっと寝息が聞こえた。どうやら寝ているようだった。泣き疲れたのかは解らないけれど。
「寝てるだけか……」
ほっと胸を撫で下ろす。
「俺がミノリを守るから」
そう呟き、涙を拭いた。どうかいい夢を見て下さい。
◇◆◇◆◇◆
……あぁ、そうだ。お母さんは変わったんだっけ。
『ミノリ、今日はなにが食べたい?』
『んーとねっ、麻婆豆腐っ』
『そう』
じゃあ、頑張って作るわね、と紡ぎ、微笑みながら小さな彼の頭を優しく撫でる。
――……何時から変わってしまったんだろうか。……覚えていないや。
母親を恨んだことは一度もなかった。だって、優しくしてくれたから。
悪いのは、全部オレなんだよ。お母さんはなにも悪くない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます