11:優しい手のひらの温度
イクス。名前を呼ばれて振り返ると、いつもそこには『その人』がいた。
もう何十年前になるのだろう。過ぎ去った年月を、イクスははっきりと記憶していない。それほどまでに遠い昔のことで、かつての思い出は色褪せ擦り切れている。
けれど、今でも思い出せることは——頭を撫でる大きな手と、少しだけ不器用な笑顔のこと。
まだ魔法使いではなかった子供は、とある国にある小さな村で暮らしていた。
その村は、深い森の中に存在していた。季節ごとに色を変える木々と、優しい森の香り。そんな穏やかなものの下で佇んだ子供は、満ち足りたようにいつも笑っていた。
子供は、自分が幸せだと知っていた。木こりである父と二人きりの暮らしだったが、それでも自分は幸せなのだと理解していたのだ。
暖かな家と、無骨だが優しい父。自分の頭を撫でる手が温かいこと。それがありきたりなものではなく、二つとない奇跡なのだと、なぜか子供は理解できてしまっていた。
「この子は神様の子供なのかもしれなねぇ」
そんな子供を、村の大人たちはそう言って可愛がってくれた。そもそも子供の少ない村であったから、子供は宝のように扱われていたのだ。けれど子供が特に可愛がられたのは、それだけが理由ではない。
子供は——願えば、小さな奇跡を越すことができた。不治の病を癒したり、大岩を砕いたりするような大それたものではない。本当に小さな、ともすれば偶然で片付けられてしまうようなことばかり。
しかしその少しだけの奇跡は、雪のように降り積もるような穏やかさで、人々の間に広がっていた。
あの村には、神様の子がいる——いつしかそんな噂が、近隣の村に流れ始めていた。その頃になると、子供の奇跡を目当てに多くの人が村を訪れるようになる。子供はそんな人々に、小さな奇跡を与えていた。
見返りも求めず、ただ笑顔で奇跡を与える姿は確かに——神様の子の名に相応しかった。けれどその裏で行われていたことを、その時の子供は気づくこともなかったのだ。
いつしか村の人々は、子供を『神様の子』と呼びながらも、彼を商品のように扱うようになっていった。子供の奇跡にあやかって商売を始めた村人たちを、子供は止めることもできない。
いや、むしろ子供は——それは当然のことだ、と思っていたのだ。貧しい村が利益を得るためには、人柱が必要だったのだと。ただ、それだけのこととして受け止めてしまえた。
そうやって小さな村は潤ったが、次第に子供の自由は失われていった。奇跡を求める人々は後を絶たず、昼も夜もなく家の扉を叩く。それを子供は当然のこととして受け入れていたが、そう思うことのできない人もいた。
「なぜ、お前がそんなことをしなければならないのだ?」
滅多に感情を表すことのない声が震えていた。その人は——父は、子供の肩を掴んで訴える。こんなことは正しくない。お前のやっていることは、いずれ皆を不幸にすると。
それは父の本心だったのだろう。だが、その時の子供にはわからなかった。他のことならなんでも理解できるのに、一番近しい人の心だけは理解できない。
ただそれだけのことが、わからない。けれど子供は、疑問を感じる前に『それ』を言い放ったのだ。
「それが、どうしたっていうんだい?」
ただ一言。たったそれだけのことで、今まで子供を包んでいた温かなものが遠ざかった。にもかかわらず、子供の目にはその理由が映ることもなく——。
——全てが崩れ落ちる瞬間が、やってくる。
その日は、とてもいい天気だった。晴れ渡る空の下、子供は父に連れられて草原にやってきていた。街の外れにあるそこは、かつて子供が父とともに遊んでいた場所だ。
だから、子供は疑問にも思わなかった。またいつかのように遊んでくれるのかと、期待に満ちた目で見上げる。けれど父は子供を見なかった。繋いだ手が微かに震えている理由を語ることもない。
「その子供が例の神様の子か?」
低い声がそばで響き、父の手の震えは止まった。静かな瞳で目の前に現れた黒い影のような男を見て、深く頷いてみせる。
「はい……これがお知らせした子です。魔法使いさま、どうか、どうか……」
この子が災いとなる前に、私の前から連れ去ってください。
父が口にしたものの意味を、子供は半分も理解できなかった。どうして、災いだなんていうのだろう。この力は、この奇跡は——人々に与えるためにあるのではないのか?
子供は父の手を握りしめた。だが、父はその手を振り払い、子供から距離を取る。離れたぶんだけ遠ざかった何かに、子供は手を伸ばし必死に呼びかるしかない。
「父さん……!」
「…………イクス」
名前を呼ばれた。いつものように、何気無い調子で。それだけで子供は足を止め、信じられないように首を振る。そんな子供に、父であるはずの男は微笑みかけた。それは何も変わらない、優しいものであるのに——。
「さよなら」
一言だけ。それだけの言葉で、過去と今は断絶した。愛しいものは永遠に遠ざかり、子供のそばに残ったのは大いなる孤独だけ。身を震わせ、涙をにじませた子供を、魔法使いの腕が包み込む。
「さあ行こう。お前は偉大なる唯一のものとなるだろう」
——もし、この瞬間にかけ出すことができたなら、運命は一つでも変わっただろうか。
魔法使いとなった子供は夢想する。けれど今となっては遠い過去で、かつて心を寄せた場所も、そして愛した人でさえも——もう、どこにも残っていないのだから。
「さよなら」
どうか、せめてあなただけは幸せに。
愛しい光景が消え去る瞬間、その瞳に光っていたものだけは、本当だったと信じている。
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