10:そして僕らの『夢』は終わる

 深夜を過ぎて、空の一番上に満月がのぼる。淡い光に照らされたヴァールハイト家の庭は、枯葉に覆われ美しい色合いを見せていた。


 枯葉を踏みしめ歩むイクスは、庭の端にあるベンチの前で足を止めた。古びたベンチにももれなく降り積もった枯葉をしばし見つめた後、無言でそれを払い腰を下ろす。


 背もたれに寄りかかって見上げる夜空は、いつもよりも深い色をしているように見えた。視界の端に寄れる木の梢を何気なく捉えながら、イクスは静かにため息をつく。


 ヴァールハイトの屋敷は、今は静けさに包まれていた。つい先ほどまで賑やかだった反動か、訪れた静寂がひどく心をざわつかせる。一人になればなるほど、世界には自分しかいないように錯覚してしまう。


 魔法使いは、孤独なものなのだ。かつて師に言われた言葉が、心の中で緩やかに影を落とす。

 孤独は確かに魔法使いの本質だ。孤独が魔法使いを作り、その何にも揺るがぬ心だけが、魔法という奇跡を生み出すことができる。


 だが——イクスは常々思うのだ。孤独であることが魔法使いの資質なら、イクスは魔法使いとは呼べないものに変わっていたのではないか、と。


 この国で、魔法使いはかけがえのないものを得た。気づけばイクスのそばから孤独は遠ざかり、いつしか魔法使いはのように笑うようになっていたのだ。


 それをいとわしいとは思えなかった。本来、イクスとはそういう人間だったはずだから。たとえ満月が体に満ちる魔力を強めたとしても、イクスはまだ、人間であり続けたいと願っていた。


「それは正しくないと、あなたは言うのだろうな……フラメウ」

「先生……どうしたんですか、こんなところで」


 独白を遮るように、少年の高い声が響く。イクスが視線を下げると、目の前にキールが立っていた。弟子である少年は柔らかな髪を風に揺らしながら、静かに微笑んでいる。


 夜は深まり、普通なら起きているような時間ではない。何かあったのだろうか——イクスは首をかしげると、ベンチの枯葉を払って隣を指差した。


「私は風に当たっていただけだ。そういうお前こそどうした。眠れないのか?」

「ああ、いえ……変な話ですけど、満月の夜は寝つきが悪くて……それに今日はいろいろあったから、神経が高ぶっているのかも知れません」

「そうか……まあ、確かに騒がしかったからな。……あれだけ騒げるのは、正直理解に苦しむが」

「みなさん元気ですからね。僕もちょっとびっくりしました」


 軽快に笑って、キールはイクスの隣に腰を下ろした。緩やかに秋の風が通り過ぎ、枯葉は音を立てながら散っていく。肌寒い空気を胸いっぱいに吸い込むと、少しだけ優しい香りがした。


 師弟は隣り合いながら、同じように空を見上げていた。視線の先にある満月は、何も語ることなく空に在り続けている。その淡い光を見つめる二人は、少なくともこの時だけは同じものを見ていた。


「ねえ先生、事件のことですけど」


 月を見上げたまま、キールは思い出したようにそれを口にした。イクスが隣を見れば、少年はどこか遠い目で空を見つめ続けている。けれどその瞳は確かに、ただ一つのものを捉えていた。


「ん……何だ、何かわかったことでも?」

「わかった、というほどではないんですけど。先生たちがルーヴァン侯爵のお屋敷に行っている間、僕はいろんな人に話を聞いていたんです。大半の人は事件自体を知らなかったんですが、諦めて戻ろうとした頃……事件について知っていると言うに出会ったんです」


 一体どういうことなのだろう。思わず身を乗り出したイクスは、少年の顔に複雑な感情が浮かんでいることに気づいた。戸惑いながらも先を促すと、キールはためらいながらも口を開く。


「こんなこと、言うべきなのかわからないですが……その人は、とても怖い目をしていました。そして僕が事件を調べていると知ると、笑って……こう言ったんです」


『七つの魔法石が集まれば、願いは成就する』


 口にされた言葉に対して、イクスはどう反応していいかわからなかった。七つの魔法石と願いの成就——それは今までの事件と、どう関わってくるのか。


 黙り込んだイクスに目を向け、キールはどこか諦めの混じる笑みを浮かべる。よくわからない話ですよね。そう呟いた少年の横顔は、ひどくもの悲しげに揺らいでいた。


「今言っていてもおかしな話だと思います。けれど、調べていくうちに……盗難事件で盗まれたものがすべて、をあしらった装飾品だと知って。どうしてもその言葉を無視できなくなって……」

「待て、キール。お前にそう言ったその人物はどうなったんだ。まさか何もしなかったわけではあるまい?」


 イクスの言葉に、少年の瞳は激しく揺らいだ。一度斜め上を見て目を閉じる。それだけ仕草にも苦悩が滲んでいて、どうしてもそれ以上強い言葉を紡げなくなる。


「その人物は……消えました」

「消えた? ……それはどういう……」

「僕にも、わかりません……わからないんです……! 夢だったと言われても仕方ないくらいに記憶が曖昧で、でも確かにそれはあったとわかるんですよ。おかしいですよね……まるで、その人は僕の前から一瞬で消えてしまったんですからね」


 魔法。それはある意味において、非常に甘美な響きを持つ。魔法といえば何でも説明できてしまえそうだが、その実——本当の魔法と幻を見分けることは容易ではない。


 キールの見たものが、ただの白昼夢だったなら話は簡単なのだ。けれどもし——万一、それがなら、この事件を解明するのは恐ろしく困難になる。


 魔法は、世界に残された最後の奇跡だ。だからこそ、それが悪しきことに振るわれることがあれば、あらゆる夢が悪夢に塗り替えてしまうのだから。


「先生……もしかして、この事件には魔法使いが関わっているんじゃないですか?」


 少しばかり抱いた懸念を、キールの言葉が貫く。イクスは顔を歪めると、首を強く横に振った。あり得ないとあってはならないは別の話でも、イクス自身はそれを信じられない。


「それだけは絶対にない。魔法使いは……魔法使いである限り、悪しきものにはならない。だからこの事件の犯人は絶対に人間だ。そうでなければ……」


 あまりにも、救いがなさすぎる。低く呟いた魔法使いを、キールが表情ない瞳で見つめていた。


「……ねえ、先生。使?」


 静かに吐き出された声には、少しだけ苦いものが混じっていた。二人の間を冷たい風が吹き抜け、イクスは身をすくませる。少年はそんな魔法使いをじっと見つめ、そっと顔を伏せた。


「魔法使いは孤独なもの——そう言って師は笑った」


 キールが顔を上げると、イクスは静かに笑っていた。どこか空っぽにも見えてしまうその笑みに、少年は何度も目を瞬かせる。微笑んだ魔法使いは長く息を吐きだしながら、そっと月を見上げた。


「私も、その言葉は真実だと思う。孤独が魔法使いを作り、魔法使いは孤独を糧に魔法を生み出す。魔法と孤独は切り離すことのできないもので、それは魔法が奇跡であり続けるために必要なことだから。誰かに想いを傾けた振るわれた魔法は、奇跡としての孤高を失い——ありきたりな事象へと貶められてしまう」


 ふ、と薄く笑い、イクスはそっと目を閉じる。けれど、師の言葉が正しいものだとは思いはしない。正しいなどとは、到底言うことができなかった。


「……先生は、魔法使いになったことを後悔しているんですか」

「私は」


 目を開き、イクスは緩慢に首を振った。後悔しているか——ああ、後悔しているとも。だが、イクスにとってその後悔は、魔法使いとして生きる道を選んだことではない。


「私が後悔しているのは……あの時、手を離してしまったことだけだ」


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