12:叶わぬ憧憬、戻らない後先

「そして、子供だった『イクス』は魔法使いとなり——今に至るまで、ずっと孤独とともに生き続けている」


 月を見上げていても、気づけば目は指先を辿っている。指先に落ちた影を見つめ、イクスは薄っすらと笑みを浮かべた。過去は過去でしかないのに、心は未だにあの日に立ち止まろうとする。


 キールはそんな魔法使いに、寂しげな瞳を向けていた。悲しみとは違う感情は、澄んだ水のように透明な色を持つ。言葉もなく見つめてくる瞳に笑いかけ、イクスはベンチから立ち上がる。


「後悔しているか、と聞かれれば。……後悔していると答えるよ。あの頃の私は、何もかもわかったつもりで、本当に理解しなければならないことに気づけなかった。何故あの日、父が私の手を離したのか——理由なんて、分かりきったことだったのに」


 ——


 その声は、苦渋に満ちていた。イクスを手放すことは、父にとってギリギリの決断だったのだろう。

 幼いイクスの振るう奇跡は、いずれ破滅的な結末をもたらす。だが父には、それを止めるだけ力はなかった。だからこそ、イクスが、魔法使いに託すことを選んだのだ。


 そう、すべてはイクスのためだった。あの日、父は最後まで、遠ざかるイクスから目を離すことはなかった。


 様々なものを得た今ならわかる。どんなに苦しく、悲しい決断であったとしても——それが最善である場合も、確かにあるのだと。


「まあ……そう言ったところで、何もかも取り戻すことのできない過去なのだがな」


 枯れ草を踏みしめながら、イクスはゆっくりと振り返った。キールは変わらぬ寂しげな瞳で、魔法使いを見つめている。言葉もない二人の上に、月の光が降り注いでいる。淡い、今にも消えてしまいそうな光が。


「先生は……会いに行こうと思わなかったんですか。……お父さんに」

「思わなかったわけじゃない。……けれど」


 思わなかったはずもない。唇だけで告げて、イクスは困ったように笑う。今は過去となった時間の中で、イクスは何度も父に会いに行こうとしていた。しかしいつも、あと少しの距離で足は動かなくなるのだ。


「怖かったんだ。あんな風な別れだったから、父は私を拒絶するだろうと思っていた。何度も……そう、何度も、家のそばまで行って。結局、父の姿も見ることもできずに戻ってきてしまったんだ」


 会いたいと思うほどに、相手がそれを望んでいないと考えるほどに。心はかつてあった温もりを。何度も足を運んだのはきっと、偶然でもいいから気づいて欲しいと——そう願っていたからだ。


 だがその願いは、儚いものだった。過ぎ行く時は後戻りできない。そのことの意味を、イクスは思い知る。


「最後に会いに行った時、家があった場所は空き地になっていた。驚いて人に尋ねれば、家に住んでいた木こりの老人——父は、亡くなったと告げられた。独りきりで、眠るような最期だったと——その言葉を聞いて私は……自分が何をしてしまったのかを知った」


 粗末な墓標。それが父の全てだった。やっと再会できた人は、何も語ることはない。気づかないうちにそれだけの時間が流れていたのだと、イクスは改めて思い知る。


 人間は、駆け抜けるように去ってしまうのだということを、いつの間にか忘れていた。


「私は、父に何もできなかった」


 会いに行くことなど、どうということもなかったのだ。ただ会って話して、結局拒絶されたとしても。少なくとも、そうすれば諦めることができたはずだった。けれどもう、たったそれだけのことも叶わない。


 人は必ず死ぬ。だからこそ、生きて話せるうちに会いに行くべきだった。たとえ命が巡ったとしても、同じ人に出会う季節は二度と訪れない。


 会いたい人に会いに行くことも、大切な人に『大好きだ』と告げることさえ——過ぎ去れば二度と叶わないのだ。


「父に会いたかった」


 かつて涙もなく泣いた顔は、今は笑顔に変わっている。もう一度月を見上げれば、澄んだ光が目に映り込んだ。イクスは微笑みながら、目を閉じる。たぶん、後悔は消えない。それでも今だけは——。


「先生」


 呼びかけは、イクスの傍で響いた。かすかに鼻先をかすめた花の香りに、イクスは目を開く。月の光が周囲を淡く照らし、目の前に浮かび上がったのは——白い、取るに足らないほど小さな花。



 白い色だけが特徴といえば特徴の小さな花。風に揺れるそれをイクスに差し出して、少年は優しく笑う。


「シフソフィラ。花言葉は『叶えられた願い』です。先生……先生は、まだ何も失っていません」

「……キール?」

「だってそうでしょう? 先生は、お父さんに会えなかったことを後悔していると言った。だけど、それはあなたがなんですよ。本当に何も持たない人間は、そもそも会いたいなんて願いません。何も持たない人は、そこに意味なんて見出さないから……だからね、先生」


 キールの手の中で、白い花びらが舞い上がる。小さな花は強い風の中で空へと舞い上がり、月へと向かい駆け抜けて行く。そんな夜の光景の向こう側で、少年は魔法使いに笑いかける。


「先生は、誰かにです。温かなものを、ちゃんと持っている人なんです。だから、なんだかんだ言いながらも、みんな……先生のそばにいるんです。誰かに愛されたあなただから、誰かの愛を理解できるあなただから——まだ、大丈夫」


 そっと、キールは白い花を手渡す。その花を受け取りながら、イクスは不可思議な想いに囚われる。


 やさしいものはきっと、こんな形をしているのではないかと——。


「先生の中で、お父さんは消えていません。先生が温かなものである限り、想いは生き続けている」

「……キール」

「大好きですよ、先生。だから僕は、と思うんですから」


 照れくさそうな笑みに、イクスは唇の端を持ち上げた。夜の空気の合間に、優しい温もりを感じられたのは気のせいだっただろうか。二人は互いを見つめ笑い合った。


 一瞬で消えてしまうような記憶の中で、今という時はひどく鮮やかで。イクスは穏やかな目で、世界を見つめていた。


「ならキール、一つ聞いていいか」

「なんです? 僕に答えられることなら」

「シフソフィラがこの花なのは分かったが、ソフィラの花っていうのは——」


 ——問いは、途中で途切れた。イクスとキールは同時に屋敷に目を向ける。静けさに包まれた屋敷に、。死んだような静寂に包まれた場所を目にしたイクスは——次の瞬間、走り出していた。


「先生……!」

「お前はここにいろ」


 走り出したイクスの肩に、が舞い降りる。肩に止まった鳥を一度だけ見やって、イクスは庭を駆けていく。


 魔法使いの目は確かに捉えていた。禍々しさとともに屋敷を覆うもの——それは、紛うことなき魔法の輝き。


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