6:それを罪と人は呼ぶ

 少しずつ近づいて、少しずつ温かくなる。

 それを幸せだと思える程度には、心は人間のままでいる。

 だからきっと、それに甘んじてしまうことは許されない。


 罪は結局、罪でしかなく。暗がりでずっと、心は独り立ち尽くしている。


 ※ ※ ※


 窓を開くと、冷たい風が髪を揺らした。

 いつしか季節は、冬へと移り変わる。森の木々は葉を散らし、緩やかに地面に降り積もっていく。

 秋が過ぎ去っっていく光景を窓辺から眺めながら、魔法使いは長く息を吐き出した。

 冷え冷えとした空気が心地よい。身を縮ませるほどの寒さも、なぜか今は辛いと感じなかった。何気なく自分の額に触れて、魔法使いはぼんやりと首をひねる。


「なあイクス。ここはなんて読むんだ?」


 どれだけの時間、そうしていたのか、いつの間にか子供が顔を上げ、魔法使いを見つめていた。

 緩慢に視線を動かせば、魔法使いの瞳がかすかに震えた。おかしい、とつぶやきながらも。それでも散り散りになりそうな思考を叱咤しったし、絵本が広げられたテーブルに歩み寄る。


「うん? どこで詰まっているんだ?」

「ここ。だ、から……し……しょ……?」

「もうずいぶん読んだんだな。ここは『だから少年は』……」


 続くはずだった言葉は、唐突に途切れる。

 子供が顔を上げると、魔法使いの体が傾ぐ。驚き目を見開く子供の前で、魔法使いは——。


「——イクス!」


 倒れ伏す体。力なく床に倒れた魔法使いは、呼びかけに答えることもできず目を閉じた。


 ※ ※ ※


「そう心配するな。こいつはそう簡単にくたばるやつじゃない」

「でも、急に倒れるなんて……どこか……」


 そんなやり取りが聞こえて、魔法使いはおぼろげな意識のまま、ゆっくりと目を開いた。

 最初に目が映したのは、見慣れた家の天井だった。特に特徴もない、少しくすんだ白色。ベッドの脇に目を移せば、窓から西日が差し込んでいる。視界を鮮やかに染める色は、確かに夕暮れものだ。

 そのことに驚きながらも、魔法使いは起き上がることができなかった。ひどいだるさと、熱を発する体に疑問を覚える。一体どうしたのか。そう考えた瞬間、腕を走る痛みに呻きを上げた。


「……イクス? 目が覚めたのか」


 呻きに気づいた騎士が、早足でベッドに近づいてくる。

 その顔に浮かぶ明らかな安堵に、魔法使いは妙な気分になる。昔、騎士にそれと同じ表情を向けられたことがあるような気がした。明確にいつ、とも、どこでとすらも思い出せないのだが。


「気分はどうだ? どこか苦しいとか痛いとかあるか」

「……気分は悪い。苦しくはないがだるい。体が熱い。それに、腕が痛い」

「だるいのは熱があるからだよ。だが、痛いって……腕?」


 何かに思い至り、騎士は目を見開く。そうしてほとんど反射的に、そばに立つ子供を見た。


「……なに?」

「いや……」

「……腕が痛いって……怪我でもしてるの?」


 それは当然の問いかけだった。しかし騎士も、そして魔法使いですら答えをためらった。

 居心地の悪い空気が部屋の中に漂う。答えられない大人の表情の意味を、聡い子供が見逃すわけもなかった。覆い隠されようとする事実から、子供は決して目をそらさなかった。それだけが、唯一の愚かさと言えた。


「……見せて」


 低い声だった。子供らしからぬ、感情のない声だ。澄んでいたはずの黒い瞳は、目の前の光景ではなく、別の何かを映している。その瞳の虚ろさは、魔法使いに最初の頃を思い起こさせた。


 だからこそ、またと気づかされる。間違えてはならない瞬間に、取り返しのない過ちを犯したのだと思い知らされる。けれどそれを埋め合わせる言葉もなく、向けられた視線を受け止め切ることもできない。


 魔法使いは、静かに凍っていく瞳を見ていることしかできなかった。


「腕、見せて。……いいから」

「おい、待て——これは何でも」

「いいから‼︎ 見せて!」


 ヴィルが止めようとするより早く、子供は魔法使いに駆け寄り腕を取る。

 そしてその腕に巻かれた包帯を見て表情を消し、ずれた包帯から覗いた傷——それは明らかに歯型だ——を目にした瞬間、顔色さえも完全に消え失せた。


「これは、おれがやったのか」

「……それは」

「やったんだな」


 言葉は明瞭なのに、その想いだけが見えない。

 表情が消え去った顔に残ったのは、無情なまでの現実だ。自らが何をしたのか——何をしてしまったのか。あまりにも無邪気だった今までを恥じるように、子供は唇を噛んで魔法使いたちから離れた。


「これはお前のせいじゃない……ただ、間が悪かっただけだ」

「それでも、おれが傷をつけた」


 自らの罪を、自らに刻み付けるような言葉だった。伏せられた目に感情はかけらも浮かんでいない。それでも子供の感じている痛みに気づけないほど、魔法使いも騎士も無感情ではなかった。


 お前のせいじゃないんだ、と。繰り返したところで、事実は覆らない。その事実か消え去らない以上、子供の心を苛む痛みが消え去ることはないのだ。だとしたら、魔法使いにできることなど——。


「ごめんなさい」


 短い謝罪は、別れの言葉に似ていた。声を失った大人たちを前にして、子供は感情を押し殺したまま、言葉を紡ぎ続ける。


「傷つけて、ごめんなさい。そんなつもりじゃ、なかったなんて……言い訳にもならないけど。やっぱり、おれは……ここにいるべきじゃなかった」


 去っていく背中を引き止めることはできなかった。音も立てずに閉じられた扉を見つめ、魔法使いは我知らずと唇を噛み締めた。

 一番傷ついていたのは誰だったかなど、あまりにも明白だったのに。手を伸ばすことも、声すらも届かせることができず。

 去っていく子供を引き止めるだけのことが、魔法使いにはできなかった。


 ※ ※ ※


「……どうしたら、いい」


 腕に巻き直された真新しい包帯。白いばかりのそれを見つめて、魔法使いはつぶやいた。

 小さな問いに対する答えは、すぐにはなかった。治療器具を箱に片付けながら、騎士は静かな声で問いを返す。


「お前は、どうしたいんだ」

「私が聞いているんだ。問いに問いで返すな」

「なら改めて聞こうか。お前は、と思うんだ」


 反論しようとして、結局その言葉が口から出ることはなかった。

 あの子供は、傷ついている。それは確かなことだ。けれどそれは、ただ慰めるだけで埋められるようなものではない。どれほど痛みに共感し、寄り添おうとも。子供はきっとその心を受け取らない。自らの行いを悔いるほどに、心は頑なに閉ざされる。


「……わからない」

「わからない?」

「ああ……たぶん、いやきっと。仕方ないことだと、気にする必要はないのだと……言ったところで。あの子供は受け入れないだろう。子供が望んでいるのは、許されることじゃなく断罪されること……なのだと思う」


 小さな音を立てて箱が閉まる。顔を上げた騎士は、凪いだ水面のような表情で魔法使いを見返した。その薄青い瞳に感情はない。ただ目の前の問いを静かに見つめる。


「なら、望み通り責めてやるのか。それがお前にできることか」

「そんなことは言っていない。だが……わからないんだ。きっと言葉では届かない。私にはどうすることもできない。傷つけることしかできなかった私では、また……」


 魔法使いは目を閉ざす。強く振り切ろうとしてもできない。そんな苦しみと痛みの狭間で、まぶたの向こうの闇を見つめ続ける。


「また、奪ってしまうかもしれない。今度こそ、本当の意味で未来ごと」


 かつての己を思い出す。多くを奪い去り、その未来を閉ざしてしまったのは、間違いなく魔法使いだった。そんな風に壊すことしかできなかった自分に——誰かに手を差し伸べる資格があるのか?


 閉ざされたまぶたの向こうで、騎士が息を吐き出した。嘆息と言うには、少々苦い感情の混じる息遣い。少しだけ寂しげなそれが消え去る前に、騎士はそっと言葉を紡ぎ出す。


「……あのさ。たぶんお前は覚えていないんだろうけど」


 目を開けば、そこには騎士の笑みがあった。少し困ったような、迷うような——けれど笑みの中には、温かな感情が込められている。

 そんな風に優しい笑みを向けられる理由など、魔法使いは知らない。知るはずもないのに、何かを思い出すせそうな、そんなありえない想いにとらわれそうになる。

 困惑する魔法使いに、騎士は笑みを深くしそっと語り始めた。


「お前は昔、俺に『道』を教えてくれただろう」

「……『道』? なんのことだ」

「ああ、迷ってどこにも行けなくなった俺に、『正しい道』を教えてくれた」


 魔法使いは目を伏せる。どうしても、思い出すことができなかった。魔法使いの中で、過去と今は取り返しがつかないほどに断絶している。かつての己と今の自分。それは繋がっているのに大きくかけ離れていた。


『記録』として己の過去を知っていても、『記憶』として理解しているわけではない。かつての『孤高』の記憶は、『魔法使い』にとって本に書かれた記録と大差ないのだ。確かに自分が体験したものであるにもかかわらず、『孤高』の記憶は『魔法使い』にとって他人のものでしかなかった。


 だからいつも迷う。過去の己は自分の一部のはずなのに、どこかで存在が乖離かいりしている。だからこそ理解できない。過去の己と今の自分。騎士がどちらを見ていて、何を思っているかなど。


「……それは『私』じゃない」

「いいや、『お前』だよ。お前が『孤高』として眠りについて、再び目覚めた時。俺が最初に名前を訊いたのを覚えているか」


 ゆっくり、首を縦に振る。そのことは覚えていた。『魔法使い』としての一番最初の記憶で、何度も問いかけられた言葉。名前を知りたがった騎士の表情を、魔法使いははっきりと覚えている。


「俺はな、お前が本当に一度死んで、別のものとして生まれ変わったんだと思ったんだ。それならきっと、名前を持たないか、別の名前を持っているだろうと……。けれど、お前はそれでも『イクス』だった」


 確かに、『孤高』は騎士に倒された。それでも死ぬことができなかった『孤高』は、次に目覚めた時、


 記憶も心も、あるいは魂すらも——まっさらになった『孤高』は『ばけもの』でなくなっていた。そこにいたのはただの『魔法使い』で、それでも彼は自らを『イクス』だと認識していた。


 騎士は魔法使いに向かって笑いかける。『かつて』ではなく『今』でもなく、ただここにいる『イクス』に向かって、笑みを投げかけ続ける。


「それは俺が知っていた……俺の友人だった魔法使いと同じ名だ。……確かにお前は自分のものとして過去を記憶していないのかもしれない。過去の魔法使いとは繋がらないのかもしれない。けれどお前は『イクス』だ。かつても今も変わらない……不器用で優しい魔法使い」


 限りなく優しい声だった。そこには誤魔化しなど何もない。だからこその真実なのだと、魔法使いにもわかっている。わからないなどと、つまらない言葉で汚してしまえるほど、その想いは軽くない。


「だからきっと、お前なら大丈夫だ。あの子の想いを守ってやることは、お前にしかできない」

「……ヴィルヘルム」


 名を呼べば、ヴィルは目を細めて笑う。優しくて穏やかで、とても幸せなものを感じさせる笑み。

 それはきっと、本当にまっすぐな想いが生み出すかけがえのないものだ。その想いがあったから、魔法使いはいつもギリギリのところで救われている。


「さすが子持ち。人というものがよくわかっている」

「何言ってんだかなこの人は。俺に子供がいるわけないだろ。相手もいないのに子供がいてたまるか! なんでだよ、うちにいたのは妹の子供だけで……って、何笑ってるんだよ」

「いや別に。子持ちでもないのに所帯染みているのは元々だったなと」

「うるせえやい。そこだけ思い出してんのか。いいからさっと行ってこい!」


 邪険に手を振られても、心は暗がりに落ちてはいかない。

 だからきっと、大丈夫。今だけでもそう信じてみる。そう信じていく。


「ああ……行ってくる」


 立ち上がった体は、まだ熱く重さも消えない。

 それでも魔法使いは前を向く。なすべき事を成す。それは今しかできないこと。


 暗がりに沈んでいく小さな姿。それを追いかけ、魔法使いは森へと進む。


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