7:ほんの少しの温もりで
冷たい風が木の梢を揺らし、おぼろげな月明かりが道を照らし出す。
踏みしめるたび、枯葉はささやかな音を立て砕け散る。長い息を吐き出せば、遠くで低い鳥の声が響いた。そこにあるのは完全な静寂ではない。けれど人が好むような温かな気配もない。
目を向けた道の先は、深い闇に沈んでいた。それはまるで歩むものを呑み込むような、深い深い夜色をしている。黒ではなく闇色でもなく、透明な夜色の世界そこにあった。
頰をかすめた風に目を細め、魔法使いは深い森を歩み続ける。
誰でもないただひとり、あの子供の姿を探して。魔法使いの魔法は、子供の場所を正確に示し出す。魔法使いの目に映る、細くて頼りない白い光——それは森の奥へと続いている。
あと、少し。重い体を引きずるようにして、魔法使いは歩み続ける。魔法が紡ぎだす光は次第に強くなっていく。必死に光をたどり、森の中を進み——そして。
魔法使いは見た。唐突に開けた視界の向こうで、月明かりが照らし出す花園。その中にうずくまる小さな姿を。
白い花が月明かりの下、淡い光を放っている。夜に咲く花は、此方と彼方を繋いでいる。どこかで聞いた話を思い出し、魔法使いの体に震えが走った。
呼びかけることはできなかった。唇を噛み締め、魔法使いは淡い光を放つ花園に足を踏み出す。
歩むたび、花びらが足元で散る。密やかに咲く花を踏み荒らしても、この時だけは罪悪とは感じなかった。何かを踏みにじっても手を伸ばさなければ、届かないものもある。そうして手を伸ばすことが罪だというなら、魔法使いは罰を受けても構わなかった。本当に怖いのは、手を伸ばしても届かないことだ。
花を散らし、進んでいく。そうしてたどり着いたのは、手のひらひとつ分の距離だった。だが魔法使いは。手を伸ばすことなく立ち止まった。それでも子供は動かない。少しだけ上下する肩で、呼吸しているとわかる。命がここにあると、理解できる。
生きているという事実だけを確かめ、魔法使いは今にも消え去りそうな背中に声を投げかけた。
「なあ……帰ろう」
応えは返らなかった。小さな背中は動かない。聞こえていないはずもないのに、その場から動く気配はなかった。顔を上げることも、魔法使いを振り返ることもない。
それは、小さな拒絶。けれど子供にとっては、精一杯の拒絶だった。
魔法使いは何も言わず、子供の背中を見つめた。視線を感じたくらいで、その心が動くはずもない。子供は拒絶しながらも恐れている。顔を上げた瞬間、本当の意味で魔法使いに拒絶されることを。
——大丈夫だ、なんて軽々しく言ってくれたが、難しいものは難しいよヴィルヘルム。
どうすることが最善なのか。折れそうになる心を奮い立たせ、魔法使いは再び子供に呼びかける。
「帰ろう。それとも……もう私に愛想が尽きたか?」
似合いもしない明るい口調で呼びかければ、小さな背中が震えた。魔法使いの言葉は、暗闇に落ちていくだけの心にどう響いたのだろう。どうであったにせよ、子供の心が一瞬でも動いたのは確かだった。
「……お願いだ」
見えない何かに怯えるような声だった。それはすぐに消えてしまいそうなのに、強い悲しみをまとう。
苦しげな吐息をもらし、子供は痛みに耐えるように自分の腕を抱えた。痛いのは体なのか、それとも心なのか。どちらでも辛いことには変わりないが、子供は助けを求めなかった。
「お願いだから、もう。おれに優しくしないでくれ。辛いんだ……苦しいんだ……おれにはそんな資格も、価値もないのに。優しくされると、余計に強く感じてしまうんだよ。おれはやっぱり、最初から……存在しちゃいけなかったんだって!」
「……なぜ、そんな風に思う。誰かがお前にそう言ったのか」
魔法使いの声は、感情を失ったように乾いていた。だがもし、その瞳を見るものがいたなら、彼が静かに怒っていることに気づいただろう。
魔法使いは静かに怒っていた。消え去ったはずの黒い感情が、息を吹き返したかのように。
「おれは」
小さな体が堪えきれずに震えた。目をそらしたままでいた事実を前にして、収めきれない感情が溢れる。
「おれは、ずっと存在しない子供だった。誰も気づかない、見えない。誰も、おれの名を呼ばない——!」
子供は振り返ることなく叫んだ。それが悲しみだと知ることのない背中は、自分だけを責め続けていた。
※ ※ ※
彼は、その年の一番寒い日に生を受けた。
その日のことを、ただひとりだけ彼のことを気にかけてくれた人はこう語った。
『ひどく矛盾した——幸福と不幸が同時に存在した日だった』と。
彼の誕生を、家族は喜んだ。そう、確かに喜んでいたのだ。けれどそれは、瞬く間に悪夢へと変わる。なぜならそれは——子供の髪の色と瞳が、黒色だったから。
黒色が不吉だからとか、そんな迷信じみた話ではない。子供の生まれた国には、少なからず黒髪黒瞳の人が存在している。だが問題はそういうことではなかった。
——彼の家族には、黒い色を持つ者は誰もいない。その一点のみで、彼は異端になった。
彼の誕生は、家族にとって忌まわしいものとなった。産声が上がった後、どんな会話が交わされたか——彼が覚えているはずもない。しかし、母であった人が糾弾され、その果てに命を落としたこと。そして生まれたばかりだった彼が、存在を葬られようとしたこと。それだけは真実、存在した現実だった。
『だが、君を殺すには、彼らはあまりにも普通の人間すぎたんだ』
母が死んだことで、彼ら——もう家族とは呼べまい——は強い罪悪感と恐怖を感じたのだろう。
残された子供を『始末』することまではできなかった。そういう意味で、母は子を守れたのかもしれない。けれど守られたのは命だけで、『尊厳』までは守れはしなかった。
彼らは彼を生かす代わりに、彼の存在を奪った。
赤子だった彼は名前を与えられず、それ以降、ただ生かされるだけの日々を過ごすことになる。
彼は広い屋敷の中で、多くの時間を一人で過ごした。
閉じ込められているわけではなかったが、彼らに見つかれば『嫌なこと』しか起こらない。だから彼はほとんどの時間を、屋敷の外れの小さな部屋で過ごした。
狭くて、光もほとんど入らない、埃っぽくカビ臭い小さな部屋。そこだけが彼の居場所で、彼だけの世界だった。その部屋の窓辺には、いつも小さな白い花が咲いていた。
『君が孤独なのは君のせいではないけれど、助けてあげることはできないんだ』
満足に言葉も話せなかった幼い彼には、『その人』の言葉も微笑みの意味もよくわからなかった。
その人はいつも、白い服を着ていた。彼が物心ついた頃には近くにいて、彼が言葉を覚え取り巻く世界を知り、自分というものを知った頃にいなくなっていた人だ。
その人は彼に形あるものは与えなかった。けれど彼に、想いを表せるだけの言葉を与えてくれた。
その人が誰だったかはわからない。名前も知らない。だが、彼に向けられた声だけは温かかった。
その人がいなければ、彼は言葉も知らぬ小さな獣に成り果てていただろう。
たった一人、どんな理由であれ彼のそばに居てくれた人。彼はその人のことを『せんせい』と呼んだ。
口には出さず、心の中だけで呼びかける。彼にとってその人は、本当に『せんせい』だったから。
その『せんせい』が去った日のことを、彼は覚えていない。気がつけば、その人が彼の元を訪れることはなくなっていた。不安に駆られた彼は、部屋から出て『せんせい』を探した。
けれど、あの白い背中を見出すことはできなかった。結局、彼らに見咎められ『嫌なこと』をされた。『せんせい』はもうどこにもいない。彼はその時初めて、自分には何もないのだと気づいてしまった。
傍にいた『せんせい』が消えて以降は、本当に『何もない』日々だった。
食事は扉の外に置かれるだけ。いつも冷めた、味などろくにない、痛んでいないだけの食事。それを理不尽だと感じてしまう程度には、彼は賢明だった。だが同時にその賢明さが彼を苦しめた。
なぜ、自分はこんな風に扱われなければならないのか?
それはきっと、この髪と瞳の色のせいだ。思わず彼は、髪をつかんで引き抜いていた。数本の毛が手に残り、その色がやはり黒いことに嫌悪を覚えた。そして、髪を抜いたところで何も変わらないと、自分の行為を恥じる。まだ部屋に鏡がないだけ良かったのだろう。鏡があったなら、目を突いてしまったかもしれないから。
この頃になると、夜になるたび彼はどうしようもない恐怖を覚えていた。
部屋に近づく足音。それが聞こえるたび、彼は叫びをあげそうになる——。
もう、壊れ始めていた。だからあの日、町を襲った炎は、彼にとって本当の意味での『救い』だった。
屋敷は炎に包まれる。逃げ惑う彼らの姿を目にしても、彼は恐怖を感じなかった。
燃えてしまえ。彼の薄い唇が言葉を刻む。すべて焼き尽くされてしまえば、この心はやっと自由になれる。死ぬことに恐れはなかった。最初から何もないのだから、今更失うことを恐れはしない。
『——諦めては、いけないよ』
そう、思っていた。けれど、不意に思い出したのは『せんせい』の言葉だった。
いなくなってしまう少し前、窓辺に咲いた小さな白い花を見上げ、『せんせい』は彼に微笑んだ。
それはまるで、この先に起こることを予期しているかのような笑みだった。首を傾げた彼の頭に手を置いて、『せんせい』は刻み付けるように、その言葉を紡いだ。
『諦めてはいけないよ。君の足は、何にも繋がれていないってことを——よく覚えておいて』
君は自由だ。そう言われたような気がした。けれどその時の彼には、『せんせい』が何を望んでいるのか理解できななった。
だが——今なら、わかる。
足を見た。そこに枷はない。当然のことに突然気づいて、彼の心は震えた。
目の前に迫った炎を見た。。誰も彼を見ていない今なら逃げられる。逃げられる。逃げる——?
言葉の意味に気づいた瞬間、彼は顔を上げた。黒い瞳に映っていたのは、醜いまでの強い輝き。今まで閉じ込められていたすべてを解き放つように、彼は初めて大声を上げた。
——そうだ、ここから逃げるんだ。そしてずっと、ずっと遠くへ。
心が導き出した答え。初めて自分の意思で決められたと言う事に心が震えた。そうだ、行こう。そう口にすれば、足は迷うことなく前へと駆け出していた。
炎の中、叫ぶ彼らや人々や町を振り返ることもなく。
彼は走った。先のことなど考えもしなかったが、それでも生きているのだと感じていた。そうだ生きる。生きるんだ。何があっても生きるのだと——そう心に刻み、走り抜けた先で倒れ伏して。
そうして彼は、魔法使いに出会った。
※ ※ ※
「おれ、生きていたかった。何を犠牲にしてでも、生きていたかった」
立ち上がり、魔法使いを見た子供は、静かに泣いていた。しかしその目は乾いていた。涙を流すことも知らず、それでも悲しいと訴える瞳には、矛盾と理不尽が巣食っている。
子供の独白は、あまりに痛々しかった。痛いだけで、温かなものなど何もない。子供には何もなかったのだと知らしめるだけの、空虚な記憶だった。
だが、今の今に至るまで、子供がその過去の傷をはっきりと示したことがあっただろうか。
それほどの苦しみを背負いながらも、優しい感情だけを魔法使いたちに向けていた。その理由を思えば——子供は悲しい笑顔を浮かべて、魔法使いの腕を見つめる。
「でも、おれは……あんたを傷つけたくなかった。あんたや騎士には嫌われたくなかったんだ。でも……どんなに傷つけたくないと思っていても、結局あんたを傷つけてた。これからはすっと、優しいものになりたいと思ってたのに、あんたたちに苦しい思いをさせてた。どうやってもおれには、何一つ——」
乾ききった目に涙は流れない。しかし幼い顔には苦痛だけが刻まれ、青ざめた頰が震えた。
「——もう、耐えられないよ。おれは許されないことをした。こんな自分は嫌だなんだ。だからもう……嫌だ。嫌だよ……!」
悲鳴のように響いた想いは、言葉にすれば拙い。それでも恐ろしいまでの絶望がそこにはあった。
子供には明確に愛された記憶がない。だから少しでも温かなものを与えた魔法使いたちに、心を寄せたのだろう。優しくありたいと、正しくありたいと。その温かさに値する自分でありたいと思ったのかもしれない。
しかし、子供は魔法使いを傷つけていた。それは子供にとって、あまりにも大きく取り戻せない過ちだったのか。
大切なものを傷つけてしまった。たったそれだけの後悔だけで、子供は消えようとしていたのか。
「お前は悪くない。何も悪くないんだ」
繰り返し呼びかけながらも、魔法使いは強く手を握りしめた。子供の心に巣食う『彼ら』は、何を考えそんな仕打ちをしたのだろうか。
そんなにいらなかったのなら、目障りだったのなら。どうして遠くへ捨ててしまわなかったのだろう。
彼らのそばでなければ、少なくとも子供は名前を得られただろう。多くには恵まれなかったかもしれないが、わずかでも自分だけのものや気持ちを得られたかもしれない。
それを奪った『彼ら』をどうして許すことができるのか。たとえ死という制裁を受けたとしても、魔法使いには許すことなどできはしなかった。
「おれがいなければ、かあさんは死ななかった。みんなだって、あんな風にならなかった。それだけでもおれは『悪い』んだ。おれが生まれなければ、おれが存在しなければ、きっと、きっと……!!」
かなしみは、消え去ることも遠ざかりもしない。魔法使いの瞳を見上げ、子供は空っぽの叫びをあげた。
「きっと、おれがいなければみんな、『幸せ』だったんだ!」
——これほどまでに子供を追い詰めた『彼ら』を、憎むことは本当に『悪いこと』なのか?
「……ならば」
心のどこかで、何かが音を立てて繋がった。魔法使いの声は、硬く冷たいものに変わる。感情も表情も何もかも消え失せ、表層に現れたのは『孤高』のまなざし。
子供は目の前に立つ『それ』を、ただ見つめることしかできない。魔法使いの中で何かが変わってしまった。それを理解しても、崩れ壊れてしまったものは戻らない。
かつて抱いていた感情と今の想いの狭間で、『孤高』は静かにすべてを断罪する。
「ならば、お前を苦しめ否定した世界を、『俺』が
子供の前に立っているのは、確かに魔法使いだった。過去と今は分かち難く繋がり、
けれどそれは、一番守るべきものを貶めるのだと、魔法使いは気づけない。
「イク、ス?」
「お前は自分を苦しめた世界を理不尽だと感じているのだろう。ならば、そのすべてに復讐すればいい。その力は『俺』が与えてやる。お前は願うだけでいい。さあ——」
——願うがいい。それであらゆるすべては壊れ砕かれ、お前の苦しみの根源は消える。
『孤高』は優しく笑う。天使のように、あるいは慈悲深い神のように、安らかで優しい笑顔を子供に向ける。
だがその笑みが綺麗に見えるのは、その下に無数の死が潜んでいるからだ。美しい笑顔の下で、死神が鎌を持ち振り下ろす。そんな瞬間を思い描いてしまうほど、美しいはずの笑顔は禍々しい。
『孤高』は子供に向かって手を伸ばす。形ばかりが美しい笑顔は、これが最善なのだと告げていた。あらゆるすべてを欺くような笑みに、子供は耐えかね後退った。
「——どうした、お前の願いはそれだろう」
「ちがう」
「違わない。お前は少なくともこう思ったはずだ。『なぜ自分だけがこんな目に合うのか』と」
「……それは……」
「思ったはずだ。その気持ちは正しい。間違いなく、お前には何の罪もなかった。悪いのはそれを押し付けた『彼ら』——世界の方だろう?」
「……だけど」
「だけど? 『だけど世界の全部がそんなもののわけじゃない』? 違うな。それは大いなる間違いだ。
世界というものは理不尽でできている。得られるものは多くを得、持たざるものは何も得られない。それは世界というものに属している以上、仕方のないことなのか?
いいや、違う。理不尽はどこまで行こうと理不尽なのだ。そしてそれは世界に属している以上、誰も例外もない。得られぬ理不尽に、奪われる理不尽に——傍観者は存在しない。加害者はずっと加害者で、被害者は永遠に被害者のままだ」
告げられた言葉は毒だ。理解してはならないことだった。首を振って拒絶しても、『孤高』の言葉は子供の心に入り込む。
それはきっと、語られた言葉が目を背けている真実のひとつだからだ。どれほど歪んでいたとしても、奪われるだけだった心には甘い毒のように染み込んでしまう。
語り続ける『孤高』にはわかっているのだ。結局は——奇跡が起こらない限り、奪うものと奪われるものの力関係が変わることはない、ということを。
「だからお前が世界を壊したとしても、誰もお前を責められはしない。責めていいのは、何の過失もない人間だけだ。だがこの世界にそれがない以上——誰一人として、お前の願いを止める権利はない」
『孤高』は改めて手を差し出す。心のない白い手のひらだった。もしこの手をとって、願いを告げたなら。
自分の怒りと悲しみと憎しみで壊れる世界を、子供は夢想した。その光景はあまりにも甘美で——子供の心は暗い場所に引きずられていく。
たとえどんな意味があろうと、虐げられたことに正当な理由なんてなかったのだから。
「さあ、願え。『俺』がその願いを叶えてやるから」
子供は手を伸ばす。緩慢に、けれど確実に近づいていく距離。震えながらも伸ばされた手に、『孤高』は微笑む。
きっと、後悔する。子供は唇だけで呟く。でもきっと、これが『正しい』。
手が触れる。『孤高』は笑い、手を握りこむ。その刹那。
「——だけど、そんなのおれは欲しくない!」
触れた手を振り払った。はっきりとした決別を込めて、高く音が響く。
散った白い花びらの向こう側で、『孤高』は驚きに目をみはる。
「……なぜだ。お前はそれを望んでいたのではないのか」
「確かに、この世界はおれにひどいことしかしてない。何も与えてくれなかったし、名前すらもくれなかった。でも、それだけなんだ。『せんせい』は助けてくれないまま消えた。あいつらは、おれに痛みしか与えなかった。だけど……おれはまだ生きてる。まだ全部を諦めたくないって、今は思えたんだ。だから……! だから」
子供は一歩、『孤高』に近づいた。それだけで『孤高』は、何かを恐れるように表情を揺らす。強い瞳、それに込められた感情ひとつで、暗い場所で立ち尽くしたままの『孤高』は揺らいでしまう。
近いものを持っていたはずの、子供と『孤高』。それでも今、胸の内に抱いた願いは、光と影のようにはっきりと別れた。
「だから、壊すなんていやだ。おれは、これからたくさんいろんなものを見つけるんだ! いいことも悪いことも、全部、ぜんぶ……だから、だから‼︎」
子供は駆ける。ほんのわずかな、けれど遠かった距離を。白い花びらが舞い上がり、足元で散っていく。それでも止まることはない。まっすぐに走り、手を伸ばし——そして。
「だから! ばかやろう! おれの大事なものを、勝手に壊すな‼︎」
子供は魔法使いを抱きしめる。小さな温もりを感じた瞬間、壊れていた時が新しく動き出す。
魔法使いはのろのろと腕を上げ、しがみついている小さな背中に手をまわす。そしてゆっくりと傷つけないように撫でて——そっと、腕の中に抱きしめた。
「……怒ったな」
「うん」
「お前は……もっと怒って良かったんだ。悲しかったって、苦しかったって叫んで良かったんだ。どうしてそれで私たちが嫌うと思うんだ? いいんだよ、お前の方こそ泣いたって。どうせ大人になったら我慢しなきゃならないことだらけなんだ。だから今くらい、我慢するなよ」
「……うん」
腕の中で小さな声がかすれていく。それに気づかないふりをして、魔法使いは空を見上げる。
夜空は暗く冷たい。月があっても闇は払えない。淡い光だけでは全てを照らせない。けれど、それでも。
「……あたたかいな」
「…………うん」
ただ抱きしめる。それだけのことができなかったんだ。
きっと、それはとても単純で簡単なこと。たぶんそれができれば、こんなに遠回りせずに済んだ。
だが遠回りしたぶん、腕の中のぬくもりは温かく、そしていとおしく。
やさしい時間。それはきっと、この手のぬくもりでできていた。
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