5:魔法使いの意味

 過ちは取り戻せない。どんなことがあろうと、後悔しようとも。

 たとえ許されることがあったとしても、過ちは過ちでしかない。それだけは忘れない。忘れてはならない。そう思っていたはずだった。


 けれど現実は綺麗なままではいられない。どんな理想を持ったところでいつか汚れる。それだけは覚えていたはずだった。


「醜いと、思うだろう? なあ——」


 答えなんて返るはずもない。虚しく響いた声は森に消える。

 いつしか森は闇に包まれようとしていた。少し離れた場所にある家に灯りが揺れていた。どうやらまだ騎士は家に残っているらしい。帰ろうにも気になって帰れないのだろう。気を遣いすぎるのも考えものだと、魔法使いは遠い目で光を眺める。


 子供はどう感じただろうか。おかしな奴だと思ったかもしれない。


 不意に現れた過去に、死んだはずのかつての心が息を吹き返したような気がした。それくらいに心は重く暗いものに覆われている。もうあの日の己には戻らない。そう心に刻んだはずだった。


 けれど、どう足掻いてもあの日の己を消すことはできない。魔法使いとして生き続ける限り、過去を切り離すことができないように。

 だからこんな風に無様に揺れてしまう。今の自分を食い破って過去が姿を表すのではないか——そんな妄想に近い想像を、考えすぎだと笑うことができなかった。


 それほどまでに過去の己は、愚かで醜い。いつも魔法使いは心のどこかで恐れている。またあの日のように多くを奪い傷つけるかもしれない。その時、また愚かな己を倒してくれる者がいるかなんて——。


「そんな奇跡みたいなこと、何度も起こらない」

「……奇跡って、なんのこと」


 振り返れば、そこには小さな姿があった。

 家の灯りを背に受け、陰になった表情はほとんどわからない。けれど魔法使いを気遣う気配だけは、表情を見ずとも伝わってくる。


「ごめん、邪魔して。でもいい加減冷えるし、ヴィルも戻るって言うから」

「いや……すまない。気を遣わせてしまったな」

「そんなの別にいいけど」


 そこで会話は途切れた。木々がざわめき、その音だけが二人の間に響いていた。魔法使いは言葉を探して、しかし見つけられず暗い地面に視線を落とした。

 不器用だ、と言ったところで、人並みの台詞も思い浮かばない。そんな自分に嫌気がさしてきた頃、不意に子供の声が聞こえてきた。


「なあ、聞いてもいいか」


 魔法使いが顔を上げると、子供は少しだけ笑った。

 本当に些細な、ともすれば見逃してしまいそうなほど小さな笑みだ。魔法使いが瞬くと、子供はそっと言葉を投げかける。


「あの、首輪のこと」


 その言葉に、魔法使いは情けないような悲しいような笑みをつくる。


「……気になるか、やはり」

「まあ、ちょっと。……いや、実はかなり」

「そうだな。……まあ、そうだろうな」


 不恰好な笑顔でため息をついて、魔法使いは子供をそっと手招く。


「長い話になる。もしかしたら……お前は私を軽蔑するかもしれないな」


 ※ ※ ※


「昔、この国には一人の魔法使いがいた」


 家の外に置かれた古びたベンチ。普段は小鳥が遊ぶばかりのそこに腰掛け、魔法使いはそんな風に語り始めた。


「魔法使いはこの国でとても尊敬されていてな。……まあ正直なところ、性格に難はあったが。それでも魔法使いはその魔法で多くを救ったし、少なからず理解してくれる友人もいた。だからたぶん……魔法使いはとても幸せだった」


 その言葉は遠い場所を懐かしむような響きを含んでいた。郷愁のような、今は届かなくなった場所をいとおしむような声だった。子供はそれを黙って聞いていた。そんな子供に魔法使いは笑いかける。


「そんな穏やかな日々が続いていた頃、魔法使いは一匹の猫に出会う。その猫はひどく痩せていて、手を伸ばせば魔法使いに牙をむいた。まるですべてを憎んでいるような……拒絶しているような姿だった。すべてに牙をむく猫に、誰も近づくことはできなかった。だけど魔法使いは、そんな猫に興味を持った」


 手を握り、魔法使いは少しだけ目を閉ざす。思い出すというのとは少し違う。それでもその記憶は、魂の奥底に刻み込まれている。


「魔法使いは、猫に毎日会いに行った。どんなに牙を剥かれようと、爪を立てられようと。それは端から見れば酔狂に映ったことだろう。だが魔法使いは猫に関わり続けた。その感情をなんというか……私は知らない。少なくとも、魔法使いは猫に同情していたわけではない。それだけは言える。魔法使いは……同情だけでは誰も救えないということを知っていたから」


 目を開けば夜の闇だ。そんな場所を見つめながら、魔法使いは微笑んだ。

 子供はそんな横顔を黙って見つめていた。その黒い瞳には否定も共感もなく、事実を事実として受け入れる公平さだけが存在している。


「そんな日々がしばらく続いて。ある日の昼下がりのことだった。猫は自分から魔法使いに近づいてきた。情にほだされた、という感じではなかったが。まあ……たぶん、あまりのしつこさに猫のほうが折れたのかもしれない。なんにせよ、その日から猫は魔法使いの猫になった」


 微笑みは苦笑いに近くなる。けれど穏やかに語る口調に苦さは混じらない。優しくも寂しい記憶を辿るような声だった。


「猫は気ままで、たまにふらりといなくなったりした。だが魔法使いはあえて探そうとはしなかった。帰りたくなったら帰ってくるだろう。そんな風に思っていたのかもしない。そしてその想いに応えたわけではないだろうが、猫はいつも最後には魔法使いの元に帰ってきた」


「それを信頼とか信用と呼べるのかはわからない。それでも魔法使いと猫の間には絆と呼べる何かがあったのだと思う。だから魔法使いは猫に首輪を贈った。本来なら、それはありえないことだった。魔法使いは何も所有しない。建前であれ何であれ、誰かに真の意味で心を寄せるべきではなかった。もしかしたら、この時点から何かが崩れ始めていたのかもしれない」


 後悔しているか、と問われれば、後悔していると答える。

 だが同時に後悔してはいない、とも答えるだろう。大いなる矛盾だが、その想いは魔法使いにとって真実だった。


「明確にいつからとは言えない。だが、魔法使いは次第に変わっていった。人としてあるべき心を失い、ただ己の欲望の赴くままに魔法を振るうようになっていった。それを諌める者も多かったが、魔法使いが聞き入れることはなかった。——そして、そんな魔法使いを人々は畏怖と恐怖を込めて『孤高』と呼ぶようになる。けれどもう、その頃の魔法使いには何も届かなかった。友人の声も、猫の瞳も何もかも——魔法使いの心から消え去って、そして」



 名前を呼ぶ声が聴こえる。それでも、魔法使いが振り返ることはなかった。何度も投げかけられた声は、そして想いは、魔法使いの心に何一つとして残らない。


 見上げた空に浮かぶ月が、誘うように輝いている。その輝きを目にした瞬間、魔法使いは


『なぜ、己は——?』



「そして——魔法使いは本物の『ばけもの』になった」


 過去。それは確かに過去だ。けれど真実でもある。動かしがたい、変えられない真実だった。


「その『ばけもの』に温かな心はなかった。ただ気の向くままに壊し奪い、そして悲しみだけを振りまいた。かつて大切だと感じていたものも、守るべきと感じていたものも何もかも。あらゆるものを破壊し奪い去っていった。その魔法はもう、奇跡でもなんでもなく、ただ壊すだけのものに成り果てた。けれど——その『ばけもの』の前に立ち塞がる者がいた」



『イクス』——そんな風に名前を呼んで、彼は『ばけもの』の前に立ち塞がった。薄青い瞳に苦しみをにじませて、これが最後だというように手を差し伸べる。その手を『ばけもの』は何も言わずに見つめていた。


 あらゆるものが燃え尽きていくその場所にあって、差し伸べられた手はあまりにも場違いだった。

 少なくとも、『ばけもの』を前にして取るべき行動ではない。そんなことは彼も承知していただろう。それでも——すべてが終わってしまう前に、彼はのだ。



「その人物は、漆黒の装束を身につけていた。まるで喪に服すような姿だったが、おそらくそれは錯覚ではなかった。彼は、魔法使いの死を悼んでいた。彼は魔法使いの友人だったから。だから本当に終わってしまう前に、彼は説得しに来たんだ。友人として、魔法使いのためにたった一人で。けれど……『ばけもの』は『ばけもの』でしかなかった」

 差し伸べられた手を、『ばけもの』は当然のように振り払う。彼は諦めたように目を伏せて、次の瞬間——剣の切っ先を『ばけもの』に突きつけた。


 剣を手にした騎士は、かつての友人の成れの果てに一切の憐憫を抱かない。目の前のは、国に災厄をもたらすだけの『ばけもの』でしかないのだ。


 だからもう、一歩踏み出した騎士が過去を振り返ることはなかった。そして『ばけもの』は、そんな彼の悲壮な決意すらも嘲笑ったのだ——。




「……結局、友人の言葉は届かなかった。そして『ばけもの』は友人であった彼——『黒獅子』と呼ばれた騎士に退治された。犠牲は計り知れないが、この国は救われた。皆、騎士を讃え、平和が戻ったことを喜んだ。——めでたし、めでたし。というやつだ」


 そう締めくくり、魔法使いは子供に笑いかけた。

 割と良くある物語だろう? そう気楽に言葉を投げかけた魔法使いに、子供はしばらく黙ってから、そっと呟いた。


「なあ、猫はどうなったんだ」

「死んだよ」


 早口に言ったところで、真実が軽くなるはずもない。だが、まともな顔で話し続けるには、早口で通り過ぎる以外方法がなかった。


「死んだ。……どうしてかはわからない。もしかしたら『ばけもの』が殺したのかもしれない。少なくとも……猫は逃げ出すことはなかったんだ。そんな狂った『ばけもの』のそばから、その時だけは逃げ出さなかったんだ」


 どうしてなのか。魔法使いには、どうしても猫の気持ちが理解できなかった。きっと、逃げようと思えばできたはずだ。それなのにどうして、離れることを選ばなかったのだろうか。


「どうして……逃げてくれなかったんだ」


 独白。それはいつも後悔に満ちている。

 悔いたところで失われたものは戻らない。どれほど願っても、魔法でも全部を元に戻すことはできなかった。失った日々に戻ることも、奪ったものを壊したものを——元に戻して返してあげることさえも。本当に叶えなければならないことなのに、魔法は奇跡も起こせない。

 その時になって、魔法使いはやっと気づいた。魔法は本物の絶望の前には無力なのだと。奪い壊し悲しみを振りまいた魔法は、すでに奇跡ですらないおぞましい何かに成り下がっていた。


 そんな魔法に、魔法使いに意味はない。だから魔法使いが泣くことなんて、許されるはずもなかった。そうたとえ、誰かが許してくれたとしても。


「きっと、意味がなかったからだよ」


 子供が呟いた言葉は、魔法使いの罪を知らしめるように響いた。

 痛いとは言えなかった。しかし耐えられもせず俯こうとした魔法使いの腕を、子供が引いた。


「猫はきっと、望んで魔法使いのそばに残ったんだよ。逃げるなんて、猫にとっては意味のないことだった」


 顔を上げた魔法使いの目に、子供の笑顔が映り込む。

 その笑顔を見た瞬間、魔法使いの中で何かが新たに生まれ直した気がした。

 悲しい、かなしい。苦しいさみしい。そんなものばかりで占められていたはずの胸に、他の感情が宿ったのだろうか。それをまだ、魔法使いは理解することが出来ない。


「猫はきっと、後悔してない。だから——」


 魔法使いの目に光るものが宿る。そばにある笑顔を直視できず、目を抑え俯いた魔法使いに、子供はそっとその言葉を贈った。


「だから、あんたはもう泣いていいんだ」


 目を覆った手の中に温かい雫が落ちた。

 なぜこんな風に心動かされたのだろう。騎士に何を言われても、心が揺らぐことはなかったのに。


 馬鹿みたいだ。魔法使いは心の中でつぶやく。こんな子供の言葉で心を動かされるなんて。馬鹿みたいだ。


 けれど同時に気づいてもいる。子供の言葉がこんなに響くのは、そこに純粋な想いが込められているからだ。何にも汚されない、真の意味で真っ直ぐな心があるからなのだ。


 それは何のしがらみもないからこそ、真実として心を揺さぶるのだろう。


「……情けないよ、本当に。今更こんな風になるなんてな」

「別にいいんじゃないか。大人だからって全部我慢しなきゃいなんて、おれは思わないし。でもまあ、なんていうかな」


 子供はベンチから立ち上がる。一歩前に踏み出し振り返ると、魔法使いの頰を流れたものに気づいていないかのような声で告げる。


「……なんとなく、あんたって人がわかった気がするよ」

「私が怖くないのか」

「おれは今しか知らない。だから本当のことはわからないよ。でも、たぶん、いやきっと」


 その笑顔は、魔法使いのためだけに浮かべたものなのだろう。

 それがわかるくらいには、魔法使いは人間だった。少なくとも、『ばけもの』ではなかった。


「きっと、あんたは良い人だよ。他の誰がなんと言おうと、おれはそう思う」


 やさしいものはもしかしたら、こんな姿をしているのかもしれない。


「……そうか」

「そうだよ。……さあ、家に入ろう。なんかさっきから視線を感じるし。おれもお腹空いてるんだ。夕飯には遅いけど、何か作ってよ『イクス』!」


 冬に近づけども、心は決して遠ざからない。

 少しずつでも、ほんのわずかでも。近づいた心は少しだけ温かかった。

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