4:古い痛み、忘れえぬ温度

 痛みとは、生きるために必要なものだ。

 なんの痛みも感じない体。そこに宿る精神はひどく希薄で、時に自分の命にすら執着できない。体の痛みを感じない人間は、心の痛みを覚えることも難しい。


 痛む心がある。それは生きている証。どれ程悲しく苦しくとも、そう感じる瞬間、心は確かに生きている。だから何度でもその痛みを思い出すのかもしれない。


 小さく密やかに聞こえた鈴の音。

 それを思い出す時、心の一番脆い部分が古傷のように痛むのだ。


 ※ ※ ※


「あんたって、実は生活能力皆無なんじゃないのか?」


 子供と暮らし始めて数日が過ぎ、互いの存在に慣れ始めたころのことだった。


 その日、魔法使いは子供と共に食卓を囲んでいた。

 ライ麦を練り込んだ焼きたてのバケット。ひよこ豆を丹念に裏ごしした豆のポタージュからは温かな湯気が立ち、生みたての卵を使ったオムレツと添えられたレタスの彩りが目にも鮮やかだ。


 簡素といえば簡素だが、手間をかけて作られたことがわかる料理の数々だった。

 問題はそれを誰が作ったかだ。それが今回の話の発端であるのだが——。


「……イクスよ。常々思うが、お前はアレか。ギャップで人を恐れさせるのが好きなのか」

「騎士。常々思うが、お前の言うことは意味がわからない。なぜ私が料理をすると毎度、そんなわけのわからないことばかり口走るのだ」


 台所で軽々とフライパンを振るっているのは、誰であろう——魔法使いである。

 フライパンを振るうのも慣れたもので、オムレツは三つめが出来上がるところだった。魔法使いと子供の分と、嫌々ながらも騎士の分と。すでに他のメニューは完成済みで、あとはオムレツと一緒に配膳するだけだ。


「いや、俺がおかしなことを言っているわけではないと思うぞ。お前が料理とか予想外を超えて異常事態にしか思えないだろう? なあ?」

「おれに言うのか……まあ、なんていうかさ。異常でないものなんてここにはないと思うんだ」


 絵本を広げながら、しみじみと子供は言う。その横でテーブルに肘をついた騎士は、遠回しの同意に深く頷く。

 いつの間にか馴染んでしまっている二人の様子に、魔法使いはなんとも言えない表情をする。だがその理由を追及されるのもしゃくで、適当な言葉で混ぜ返す。


「異常だと言われているぞ騎士よ」

「今更普通の人間だなんて言い張らないが、お前に言われるのだけは腹立つな」

「……ヴィル、あんたは腹が立つとやたら笑顔になるんだな」

「だから黒い騎士とよばれてるんだこいつは。さあ、できた。さっさと運べ」

「……その黒じゃねえよ」


 ヴィルが凶悪な笑顔で皿を運ぶ一幕はあったものの、概ね穏やかに食事の時間は始まった。


「……この面子で食卓を囲むのもおかしい気がするが」


 パンをちぎって口に運びながら、魔法使いはしばし食卓の光景を眺めやる。

 魔法使い、騎士。そして子供。なんの関連もない統一感もない。冷静に考えるまでもなくおかしな光景だ。


「お前の料理食べてる時点でかなりおかしいんだ。今更面子がどうこういう意味もないだろう」


 豆のポタージュをスプーンですくい、騎士は優雅な手つきで口に運ぶ。

 こういう食事作法を見ていると、騎士がいかに厳しく躾けられたかわかる。一片の無駄もない、正確なテーブルマナー。だが、口の悪さは誰譲りなのか。

 そんなことを考えながら魔法使いは、淡い緑色をしたスープを指差した。


「騎士、お前のスープにはほうれん草が入っている」

「……は⁉︎ 殺す気かお前!」

「なに? ヴィル、あんたほうれん草が嫌いなのか?」


 完全に青ざめた騎士を横目で見て、子供は素朴な疑問を口にする。

 ヴィルが見事なテーブルマナーを身につけているのに対して、子供の作法はかなり適当だった。

 そこまで無茶苦茶な食べ方をするわけではない。むしろその年頃の子供にしては綺麗な食べ方をする。だが、どこか見よう見まねの拙さがそこかしこに漂う。

 こぼさないように慎重にスープを口に運ぶ動きもまた然り。しかしスープを口にした子供は、軽く眉をひそめると魔法使いを見返した。


「……なあ。これ本当にほうれん草入ってるの? 豆とミルクと調味料とかの味しかしないけど」

「違いがわかるやつだな、お前は。その通りだ。このスープは裏ごししたひよこ豆にミルクを加えて煮込んである。そこに塩やコショウ、数種のスパイスを入れて味を仕上げた」

「へえ……いろいろ具を入れなくても美味しくなるんだ」

「具が多いと味に統一感をつけるのが難しくなるからな。素材にはそれぞれ相性があるし、高級素材を使ったとしても、そこを無視してしまうと美味い料理にはならない」


 そんな和やかな会話の外で、騎士が背中に暗雲を背負ってスプーンを握りしめていた。

 顔は笑っているのに目は笑っていない。だが魔法使いは特になんの反応もせず、食事を進める。


「……今回のことは俺に対する挑戦と見た。しっかり報告するぞー……」

「どうぞ勝手に。だが、『魔法使いの飯を食べたらほうれん草入っていると嘘吐かれた』と書くのか? ずいぶん騎士隊も愉快なところになったものだな」

「……ちくしょう。いつかぎゃふんと言わせてやる」


 暗雲立ち込める会話はそれまでで、あとは穏やかに時間は流れていった。

 食事を終え、文句を言いながらも片付けをする騎士の横で、子供が黙々と手伝いをする。その光景を椅子に座りながら眺めていると、魔法使いは妙な感覚に襲われた。


 まるで何か、その光景はごく普通の家族のようで——。


「……いや、それはどうなんだ」


 おかしな妄想に囚われそうになって、魔法使いは額に手を当て苦笑いした。

 ここにいる人間に、明確なつながりなどなにもない。騎士は魔法使いの監視役だし、子供は国を追われた孤児。魔法使いはそもそも魔法使いでしかない。

 それを家族なそ狂っているとしか思えない。ついに焼きが回ったか——そんな風に思っていると、子供が振り返って魔法使いに声をかけてきた。


「なあ、皿ってどこに戻すの? 同じものがあるところでいい?」

「ん? ああ……ちょっと待て、それは——」


 おかしいと思いつつも、その時間は妙に心地よく。

 魔法使いはいつの間にか、その時間がそれほど厭わしくなくなっていた。


 ※ ※ ※


 そして、昼を過ぎ午後を少し回った頃。


 魔法使いは箒を片手に沈黙していた。

 別に魔法使いだから箒を持っているわけではない。箒は本来の使い方——掃除のために手にしていた。いたはずなのだが。


「あんたって、実は生活能力皆無なんじゃなのか?」


 雑巾で床を磨き上げていた手を止め、子供は呆れた顔を魔法使いに向けた。

 その後ろでは騎士が無言で立ち尽くしている。視線を向ければすぐにそらす辺り、騎士自身、子供の言葉が痛いくらい響いているのだろう。

 だが何故、魔法使いだけが非難されているのか。それは魔法使いの掃除があまりにもずさんだったからだ。

 箒ではいたゴミを足で踏み散らす。踏み散らしたゴミに気づかず水をこぼす。水をこぼした上に集めたゴミをひっくり返すーー。

 そこで子供の堪忍袋の尾が切れた。ありえないほど鈍臭い魔法使いの動きに、掃除用具を奪い取ると一人で掃除を始めてしまったのだった。


「……いや、料理はできる」

「料理は好きだからだろ。掃除は好きじゃないからできないってことは、好きじゃないことは何にもできないってことじゃないの?」

「別に、魔法使えば」

「魔法魔法言うな。生きてるなら体使って働けよ。楽な方法ばかり取ってると、一番大切な時に動くこともできないだろ」

「……正論すぎて一言もない」


 子供に完敗した魔法使いは、箒を握るとがっくりとうなだれた。

 そんな魔法使いを見やって、ヴィルはニヤニヤと笑いながら小声で囁いた。


「やーい、言われてやんの」

「お前ほうれん草鼻に詰めるぞ」

「ほらうるさいぞ大人! 邪魔するなら出てけよ」


 大きな子供たちの会話を箒で隅に追いやって、子供は無言で掃除を開始した。

 上からホコリを払い落とし、棚やテーブルを拭き、床を掃き清める。その一連の行動は見ていて無駄がなく、魔法使いと騎士は部屋の隅で顔を見合わせた。


「これは手を出す方が足手まといというものだな」

「子供を働かせて高みの見物というのは気がひけるが。まあ、概ね同意だ」


 どちらがどちらとは特に明記しない。どちらでも大差ない話だ。

 二人が言い合っているうちに、掃除は恐ろしいほど手際で終わってしまう。手を出すまでもなかった。それは結果をみれば確かなことではあったのだが。


「あれ、これなんだろ?」


 棚の位置を直していた子供が、不思議そうな声を上げる。

 魔法使いが視線を向ければ、子供が棚の後ろに手を差し込んで何かを取り出した。


「棚の後ろに何か落ちてた。なんだろこれ……紐? じゃないなこれって……」


 子供の手にあったのは、色あせた細い紐のような『何か』。それを目にした瞬間、魔法使いの表情は音もなく消えていった。


「これって、首輪?」


 子供の手の中で、錆びた小さな鈴が音を立てた。

 魔法使いはゆっくりと歩むと、子供と騎士に背中を向ける。あまり顔を見られたくなかった。想像するまでもなく、ひどい顔をしているだろうから。


「……イクス」

「悪い。少し風に当たってくる」


 そう言い置くしかできないほど、心は揺らいでいた。

 どうすることもできなかった。その過ちはきっと、忘れただけでは許されない。


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