3:誰が為に花は咲く


 誰かの幸せを願うこと。

 それはとても『優しい』感情だと思う。


 ひとが他の誰かに優しくなれるのは、生まれてから一度でも『優しい』感情に触れたことがあるからだ。

 もし、その誰かから受けたものが、優しさでも愛でもなかったとしたら。心を凍らせるような冷たい感情だけだったならば。


 ひとは他の誰かを傷つけ、痛みを与えることしかできないのだろうか。温かな陽だまりも知らず、手のひらのぬくもりを知ることもなく。


 ※ ※ ※


 眠れない時間が増えるほど、夜は長く、つまらない時間になっていく。

 椅子に腰かけ、魔法使いは本の表紙を眺めていた。指先で巨木の意匠が施された装丁をなぞる。ただそれだけのことだったが、その姿を見られればこんな疑問を持たれそうだった。


 ――どうして、ページを開かないのか。


 以前、騎士が不思議そうに問いかけてきたのを思い出す。

 それに対して、どう答えただろう。そうだ、確かこんな風に返答したのだった。


「わざわざ本文を読む意味がないからな」


 その返答は、大半の人間にとって意味不明だろう。事実、答えを聞いた騎士もなんとも言えない顔で黙り込んでしまっていた。

 そもそも、本は読むものであって眺めるものではない。自分自身の行為が、どうあっても奇異に映ることくらい理解している。

 にも拘らず、一体どうしてそんな行為を繰り返しているのか? 問いかけられたところで、上手く説明する自信などなかったのだけれども。


「あんた……どうして本を眺めているんだ」


 不意に問いかけられて、表紙をなぞる指が止まった。予想外の声に恐々と顔を上げると、テーブルの向かい側に子どもが佇んでいた。

 見飽きるほど見慣れた空間に、見慣れない誰かが存在している。それだけのことだったのに、ひどく心の奥がざわめいていた、落ち着かない。そう、単純に落ち着かなかった。


 すでに窓の外は深い闇に閉ざされている。見まわしたところで、助けになりそうなヴィルの姿はどこにもない。騎士は話がひと段落ついたのち、定期報告のために帰還してしまっていた。


 帰り際、後ろ髪を引かれるようにヴィルが口にした言葉を思い出す。


「本来、こんな状況であればこの子供は騎士隊で保護すべきところだが。場所がお前の住んでいるこの森だからな……。俺の独断で森から連れ出すことはできないんだ」


 子どもがこの家にいるという現実は、どう考えても不合理のように思えた。とはいえ、自分の立場上なにもできないのも事実で。しかしながら、『落ち着かない』という理由だけで、幼い子どもを暗い森に放り出すというのも後味が悪い気がした。


「どうして本を眺めているか、だって? それが何か問題でもあるのか」


 胸の奥にざわつくものを抱えながら、魔法使いは軽く首を振った。どうにも、上手く言葉が出てこない。まともに人間と会話したのは、いつのことだっただろう。どうにも落ち着かない。落ち着けるわけもない。

 自然と眉間にしわが寄るのを感じる。そんなしかめっ面を前にして、子どもはわずかに唇を歪め、苦笑いらしきものを作った。


「答えたくないことなら、答えなくていいよ。少し気になっただけだから」

「答えたくないわけではないが……つまり、これはだから」


 その。と、意味もなく口ごもってしまった。騎士に対して話すのと何が違うわけでもないのに、無駄に緊張してしまう。果たして自分は、ここまで不器用だったのか。――今まで認識することさえなかった事実に、訳もなく打ちのめされてしまう。

 気づけば視線が下を向いていた。この程度のやり取りで、心折れるなど馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろうに。何とか自らを鼓舞して顔を上げれば、神妙そうに子どもがこちらを見つめていた。


「ええと。つまりだな……私は、本文を読まなくても触れるだけで内容を知ることができるのだ」

「え。本を開かなくても、中身がわかるってこと?」

「まあ、そういうことだな。上手く説明できないが、読んで理解する、のではなく、描かれている内容をそのまま頭の中に写し取っている……のか? 私自身、そこまで理解しているわけではないから……」

「よくわからない……けど、なんというか。あんた、変なやつだな……」

「へ、変だと? 否定する根拠がないのが辛い……で、ではなく。お前は本が好きなのか? やけに興味深そうに見つめていたようだが」

「いいや、そういうわけじゃない」

「そうなのか?」

「うん、そうだよ」


 言葉足らずなぎこちない会話。お互いに、言葉を尽くして語り合うような人間ではない。会話が成り立たないわけではないが、魔法使いも子供も足りないものが多すぎた。

 結果訪れたのは沈黙で、居心地悪く座り直した魔法使いは、言葉を探しながら本を手に取る。


「もし興味があるなら、どれか読んでみるか?」


 好きではない。そう言いつつも、子供の目は本を見つめていた。だからこそ読んでみるかと話を向けたのだが——。


「…………」


 予想に反して、返事はなにもなかった。

 口を閉ざし、表情の掻き消えた顔で本を見つめていた。いや、その黒い瞳は本を見ているようで見ていない。どこか遠い、ここではないどこかを映す虚ろな瞳。


 まただ。魔法使いはその瞳に強い違和感を覚える。

 何故、そんな目をする。どうして、そんなに目をしているのか。

 だが、理由を問いかけることもできない。しかし瞬く間に子供の目は焦点を結び、自虐的な笑みが口元を彩った。


「いや、いいよ。どうせ……読めないし」

「内容は確かに難しいものだが……」

「そうじゃない。……そういうことじゃ、ないんだ」


 触れてはならないことに触れた。それを感じ取った時には取り返しがつかない。

 子供の表情は薄い。自虐的な笑みもいつしか消えていた。それがなにを意味しているか、魔法使いには読み取れない。ただ一つ言えたのは、『失敗した』ということだけだ。


「おれは、文字が読めない」


 吐き出すように、告げられた言葉に感情はこもらない。それでも伝わるのは痛々しいまでの空虚さだ。魔法使いはなにも言うことができなかった。

 何かを言う資格など、魔法使いにはなかった。


「誰も教えてくれなかった。……本が嫌いなわけじゃない。でも」


 顔を上げた子供は微笑んでいた。しかしその微笑みの中にあったのは優しい感情ではなく、冷たいだけの現実だけだった。


「おれは、そういうのを哀しいとか寂しいとか思う気持ちが……大嫌いだ」


 同情なんて馬鹿げている。拒絶を表す瞳に、魔法使いは本当になにも言えなかった。

 もっと想いをうまく伝えることができたなら、違う結果もあったのかもしれない。しかし魔法使いに、今以上の結果を望めるはずもなかった。


「あんたにはなんの関係もない話だけど。……おれに構わなくてもいいよ」


 冷たい想いには、冷い言葉しか返らない。そんなことが事実だとしても納得はできない。

 世界は理不尽にできている。そんな当然で残酷なことを知っていたとしても。

 遠ざかる小さな背中ひとつ、変えてやることができない。優しくすることもできない。


 魔法だけでは誰も救えない。そんな事実は、魔法使いが誰よりも知っていた。


 ※ ※ ※


「で、言われたまますごすごと引き下がったわけか。情けないにもほどがあるだろ」


 翌日、再び森を訪れた騎士は、魔法使いの話を聞き終わるなりそう言った。

 はっきりと呆れをにじませた薄青い瞳に、魔法使いは珍しくたじろぐ。慰めを期待していたわけではなかったが、そこまで呆れられるとは予想外だった。


「ど真ん中を真面目に打ち抜いてくれるな。私だって自分の至らなさには絶望しているのだ」

「お前は必要以上に絶望しすぎるんだよ。……かなりデリケートな話ではあるが、あの子自身はそこまで難しい子供には見えない。むしろ、自分というものや環境を理解するだけの賢明さを持っているように思えるよ。まあ、だからこそ他人を遠ざけるのかもしれないが……それに対してお前のほうが折れてどうするんだ。万能の魔法使いが情けない」

「……一言もない」


 死んだ魚のような目をして、魔法使いは地面を見つめる。

 完全に自信喪失しているその姿に、ヴィルはこっそり苦笑いを漏らす。かつての『孤高』がここまで繊細な性質だと知っているのは、おそらくヴィルだけだろう。


『孤高』。それは絶対にして不可侵の孤独。その名で呼ばれた魔法使いは、かつて畏怖と恐怖を与える存在であった。はずだったのだが——。


「だがな、そう言ったところで、私になにができたというんだよ!」

「そりゃそうだがな。俺に怒ったってなにも解決しないだろうが」

「正論ばかり吐くな。肝心な時にはいつもいない癖に、私の努力を嘲笑うのか……!」

「いや嘲笑ってないって。いないのは俺の都合で悪いとは思うけど……泣くなよ」

「誰が泣くか。これは目にゴミが入っただけだ」


 魔法使いは感情が高ぶると涙腺が決壊するらしい。どう見ても目尻に涙がたまっているが、それを指摘すれば状況が混乱するだけだ。

 騎士はとりあえずそれを見なかったことにして、木立の向こうに建つ小さな家を眺めた。建ってからそれなりに時間が経っているにもかかわらず、古びた感じはしない。魔法使いの魔法が、家を時の流れから切り離しているのだろうか。

 魔法使いの魔法は何にも代えられない、偉大なものだ。だが魔法使い自身は——。


「なにを笑っている。そんなに私を貶めたいのかお前は」

「いや違うって。お前って普通にめんどうくさ……いやいや、考え過ぎる性質だよな」

「面倒臭くて悪かったな……どうせ魔法以外は使えない棒切れだよ……」

「いや待て落ち着け。自分で自分を貶め始めるな。そもそも問題にしているのは、イクスが面倒臭いかどうかじゃなくて、あの子をこれからどうするかだろう?」

「……そうだったな」


 地面にめり込むほど深くうつむいていた魔法使いは、その言葉で素早く顔を上げた。

 魔法使いの美点は、その切り替えの早さだろう。必要ならばすぐに意識を切り変えることができる。そして引きずりもしないのだから、見事なものだと言えた。


「騎士よ。あの子供の処遇はどうなるのだ」

「答えは保留、だ。上層部としては、お前の情報が外に漏れる可能性は排除したいのだろう。だが、あの子をここに留め置くことにも難色を示している。その辺り、上層部でも意見が割れているところだが……おそらく、近いうちにあの子をここから連れて行くことになる」


 彼らを取り巻く状況を告げ、騎士は魔法使いを静かに見つめた。

 魔法使いは無言で深く頷く。その顔には肯定も否定もなく、事実を受け入れるだけの静けさがあった。凪いだ表情でヴィルを見返して、魔法使いは一言だけ呟く。


「そうか」

「ああ。……だから、出来るなら。あの子に良くしてやってくれ。お前にしかわからないこともきっと、あるだろうから」


 騎士の言葉は、ある一面での真実を告げている。

 関わるにしても関わらないにしても、いつかあの子供はここから去っていく。それに対して己がどうあるべきか。魔法使いは木漏れ日を見つめ、瞳を静かに閉ざした。


 ※ ※ ※


 魔法使いの家から少し進むと、森の中に小川が流れている。

 誰にも気づかれず青い草に埋もれ、冬になれば凍りつき、訪れるのは森に棲む動物だけ。それでもその小川に流れる水はどの場所の水よりも澄んでいて、魔法使いの喉を潤す。

 そんな小川の岸に、子供は独り座っていた。軽く跳べば対岸にたどり着けてしまうほど小さな川を、子供は長い間見つめていた。

 ただ静かに、表情を動かすこともなく、たった独り水面を眺める。その行為は魔法使いにかつての己を思い起こさせた。孤独で誰も寄せ付けない、そんな強くも寂しい横顔。

 小川の対岸に佇んで、魔法使いは子供の姿を黙って見ていた。子供は顔を上げない。気づいかないはずもないだろうに、まつげも動かすことはなかった。

 拒絶というほど強くなく、だからと言って受け入れられるほど弱くもなれない。他人に対して絶望しているのに、心のどこかでは希望を捨てきれない。

 そんな相反する想いを、魔法使いはよく知っていた。そしてそれがどれほど己を傷つけ苦しめ、光も届かない暗い場所へと突き落とすかも。

 そして——痛みしかない想いの結末は、とても虚しい。だから魔法使いは、子供の孤独な姿から目をそらすことができなかった。


「……何を、見ているんだ」


 対岸からかけられた声に、子供はゆっくりと顔を上げた。

 どこか遠くを映しているような、けれど何も映していないような空虚な瞳。深い黒色は覗き込めば堕ちてしまう深淵のようでいて、夜明け前の一瞬の色のようにも見える。


「……花を、見ていたんだ」

「花?」

「うん……そこの岸に、小さくて白い花が咲いているだろう?」


 言われて初めて、魔法使いは小川の岸に花が咲いていることに気づいた。それは目にしたとしても気にとめないほど、地味で目立たない小さな花。

 ただ白いだけの、愛らしさもない小さな花。誰の目にも止まらず枯れていくだけだった花を、子供だけが見ていた。大切な何かをいとおしむような、そんな温かな瞳で。


「あの花、おれのいた場所の窓のそばに咲いていたんだ」


 何気ない言葉だった。けれど穏やかなのに痛ましさを感じる記憶の跡。しかし子供は微笑んでいた。降り注ぐ光を前にしても、手を伸ばすこともなくただ眺めているかのようだった。


「毎年、咲いて。冬になると枯れてしまったけれど。何度も窓のそばに咲くんだ、あの花だけは。おれは……なんでかな。あの花を見ていると、少しだけマシになれる気がしてた」


 独白は、穏やかな響きを持っていた。何かを憎んで傷つけることを望むような、暗い感情はそこにはない。子供は微笑んで、魔法使いを見上げた。たぶん本当の意味での、微笑みの形だった。


「なあ、あんた。魔法使いなんだろう? それならあの花の名前、教えてくれないか」


 真っ直ぐな声に、魔法使いは目を見張る。だがすぐにばつが悪そうな顔で、そっぽを向いた。


「……ひとつ、断っておくと」

「……なに?」

「魔法使いだからってなんでも知っているわけではない。魔法は万能でも、魔法使いは人間なんだ。欠点もあるし、できないことだってある……ええと、つまり。あの花の名前は知らない。だから教えてやることはできない」


 素直に告げた。誤魔化しもない、素直すぎる発言だった。魔法使いが言ったことに、子供はまた微笑みをかき消す。残るのは自嘲だけだ。まるで習い性のような、子供らしからぬ表情だけが口元に浮かぶ。


「……そう。なら別に」

「だがな! できることの方が圧倒的に多いんだぞ! たとえば、こんな——」


 暗い感情をかき消すように声を張り上げ、魔法使いは小川を飛び越える。

 突然の行動に、子供は驚いて目を見張る。そうして対岸に着地するなり、魔法使いは虚空に手を伸ばし何かを引き抜いた。


「——こんなことだって、できる」


 驚く子供の目の前に差し出されたもの。それは古びた一冊の本だった。

 かつては色彩豊かな表紙だったのだろう。しかし今は色褪せ、表紙は端が擦り切れている。けれど古びてはいても、その本のページは汚れたり千切れたりもしていなかった。


「……これは?」

「絵本だ。私には、花の名前を教えてやることはできない。だけどそれを知る手伝いくらいならしてやれる。——もし、学ぶ気があるならば」

「おれに、あんたが?」

「ああ、そうだ」

「本気で言ってるのか? なんのために?」

「嘘は自慢じゃないが得意じゃない。それにこれは私の自己満足だ。ただ自分のために、自分の満足のために提案している。だから……お前も、変に遠慮する必要はない」


 自己満足。そう言い切りながらも、魔法使いは目をそらさない。

 無茶苦茶といえば無茶苦茶、屁理屈といえば屁理屈にしか思えない。だがそれでも、魔法使いは真剣だった。そのまっすぐな瞳を、子供は黙って見返す。


「……なんていうか、さ」


 しばしの後、子供はため息をついた。子供らしからぬ、けれどこの子供には似合いの深々としたため息に、魔法使いは訳も分からずに眉を寄せる。


「……何だよ」

「いやなんかさ。……あんた、不器用だな。言ってること無茶苦茶なの、わかってる?」

「う、うるさいな。絶望的に色々足りないのは自分でもわかってるんだ」

「別にそこまで言ってないけど。……まあでも、なんか……そうだな」


 子供は一度笑うと、膝を打って立ち上がる。若さを感じさせる動きに、魔法使いは微妙な表情を浮かべる。先ほど川を飛び越えた瞬間が間抜けに見えてしまうほど、軽快な動きだった。


「……でも、悪くはない。たぶん、悪くはない」


 変な顔をしている魔法使いに向き合うと、子供はその手から絵本を取り上げる。そして軽くページをめくりながら、固まっている魔法使いに小さく笑いかけた。


「その提案、乗ってやるよ。あんたはあんたの、おれはおれのために。おれもやりたいことがある——だから。ありがとうは言わないよ。……最初に言っておく」

「わかった。……それで充分だよ」


 魔法使いは子供に笑い返す。心が通ったなんて到底言えはしない。だが少なくとも、魔法使いは子供に関わると決めた。それだけは確実に、本当のことだ。


 きっと、もしかしたら。この選択を後悔する時がくるかもしれない。

 けれどその時に痛みだけが残ることはないよう、それだけを願う。


「……帰るか。きっと騎士が待ちくたびれている」


 風は冷たく、誰の目にも触れない森の中はあまりにも孤独で。

 けれど誰かがそばで息をしている。それを奇跡というにはまだ、少し遠かった。

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