第3話

 榊の勤務は昼過ぎで、終わりは大体二十二時前後だ。毎日勤務してもいないが正社員程度には働いている。以前の店主が高齢で辞めたため、人気のあった榊が空いた席に収まった。他のスタッフも納得していた。当たるからである。

 上条は普通の大学生だった。曜日によるが、平日昼前から夕方は授業なり何なり、大学に身を置いていた。夜は多少フリーで榊に会えたが基本的に働いていた。夕方に少し寝て深夜のコンビニバイトをせっせとこなし、金曜だけは家庭教師のバイトに出掛け、友人のレポートを代わりに書いて金銭を要求したりもしていた。

 二人は絶望的に時間が噛み合わなかった。偶々バイトのなかった日に、榊の店に行けただけだった。

 通帳を見つめながら上条はため息をついた。せっかく恋人ができたのに、と部屋の中でストゼロを傾けながら呟いた。

「せやけど留年してもうたし、家はあんな状態やしなあ……」

 数ヶ月前を思い出す。夜中の電話で叩き起こされた上条は、憔悴した母親の声にまず驚いた。自分と同じような楽観的な人なのだ。それでも絶望的な声を出し、言いにくいんやけどと前置きをしてから泥棒に入られた旨を説明した。

 高価なものをいくつか盗まれたらしい。上条は慌てて一度実家へ戻った。その間に単位を落とした。留年が決定し、しかし実家は大変な様子で、上条は自力の金策を心に決めた。

 そこからの今である。はあ、と何度目になるかわからないため息を吐き、ベッドに転がりメッセージアプリをひとまず開く。榊との交流はほとんど文字のみだ。とても辛い。今すぐ会って飛びつきたいのだがいかんせんすこぶる眠い。

 竜二さんおやすみなさい。そう送ろうとしたが誤変換と誤字が多く、直している間に寝てしまった。

 朝には何とかメッセージを打ち直して送ったが、昼前まで眠っている榊は気がつかないままだった。


 どうにか都合をつけて榊と会ったのは付き合うことになってから二週間後だった。待ち合わせは夕方の公園噴水前で、黒髪長髪の長身イケメンは大変目立った。裾の長いカーディガンを羽織り、髪の隙間に覗いた耳にはピアスがいくつもつけられている。軟骨も貫通していた。榊のつけるピアスになってみたいなと上条はちょっと思った。

「竜二さん!」

 声を掛けると切れ長の目がこちらを向いた。なんて整った顔の人なんだろうと、舞い上がりながら駆け寄った。

「よう、久しぶりやな陸さん」

「リッキーでいいですって!」

「なんでやねんそれならせめて呼び捨てにするわ」

 もうなんでもいい、嬉しすぎてなんでもいい。呆れ顔の榊に構わずいそいそと手を繋ぐと、一瞬抵抗されたがため息の後に握り返された。

「で、どこ行くん? デートはええけど勝手がようわからん、俺もあんまり恋人がおったことなくてな」

「えっ嘘やろなんでですか?」

「さあ……」

 榊は垂れた髪を後ろへ払い、まあ行くか、と歩き始めた。

 とりあえず繁華街を歩いた。榊の職場近くである。腹が減っていたため上条は居酒屋を指差した。どこにでもある、秀でたところもなければ極度の欠陥もない、普通のチェーン店だった。

 店内は混んでいた。二人だったので、カウンター席へと並んで詰め込まれた。上条は上機嫌でストゼロを頼んだ。メニューにあると知っていて選んだ店でもあり、榊は頬杖をつきながらそれを咎めたが、ふと上条の手首をとると掌に視線を落とした。

「……まあ、二週間じゃ変わらんか」

 ぽいと手を離され、何がだろうと不思議に思う。自分達の相性だろうか。榊ならば即座に占えるのだろうけど、聞くのは少し怖かった。

 案外と本気で好きだった。見た目十割で入ったが、バイトに明け暮れ疲れた体に、気遣うような榊のメッセージが足されただけでやる気が戻った。口調は荒いが優しい人なのだ。付き合ってくれたのもきっと、優しさから来る慈愛みたいなものなのだろう。

 届いたストロングゼロ(氷抜き)を一気に煽った。ちょっとびっくりしている榊に、趣味や年齢などを勢いで聞いた。二十六歳、趣味はアクセ集め、身長は忘れたけど百八十はあった気がする、占いはなんとなく始めたら軌道に乗った、などなど、榊はいろいろ話してくれた。

 大変幸せな時間だった。店内の喧騒も、上条にはいいBGMに思えた。ストロングゼロはいつも通りスピード酩酊を齎して、随分いい気持ちになった。


 居酒屋を出る頃にはすっかり夜だった。繁華街のネオンは眩しく、心なしかカップルの姿が多い時間帯になっていた。

 くたびれた雰囲気のサラリーマンも多い。既に出来上がっている大学生の集団もいて、大きな笑い声が離れた場所にいても聞こえてきた。上条もあのような団体に含まれている時もある。留年してバイト三昧になってからはご無沙汰だったが、懐かしい。

 居酒屋のキャッチが声をかけてきた。榊がもう食べたと無愛想に断って、それでも食い下がられて今度は上条にどうですかと照準を定めた。まごつく前に、榊が上条の手を引いた。ぐいぐいと引っ張ってキャッチを振り切り、飲み屋街が遠のいたところでため息混じりに煙草を出した。

「陸さん、待ち合わせの公園の喫煙所寄ってええか?」

 いくらでも寄ってくれ、どこでも好きなところへ寄ってくれ。上条はそう伝えたつもりだったが、既にあまり舌が回っていなかった。

「お前、ほんまに酒飲むの辞めた方がええで……」

「ええ、れもりゅーじさんも、飲むyないdsk……」

「もう喋んな、行くぞ」

 榊はげんなりした顔で上条の手を引っ張った。中指や小指にはまった指輪の感触が掌を刺激して、ああおれ竜二さんに手繋いでもろとる! と一気に浮かれポンチになったが、喋んなと言われたので黙っていた。

 公園の喫煙所は誰もいなかった。ベンチはカップルだらけで、一箇所だけメルトダウンした泥酔客が眠っていた。

 煙草を吸う榊の手元や口元を、ぐるぐるした酔いの中でじっと見つめた。立ち上る紫煙は夜の中にぼうっと浮かび、漂ってくる気だるげな香りに、更に酔いが増した気分になった。

 榊はふと視線に気づいた。伸ばした手で上条の頭を掴むと、

「はは、犬みたいやな、ほんまに」

 笑いながらそう言った。可愛い笑顔だった。おれほんまに幸せですと口に出た。ちゃんと発音できていたらしく、榊は目を見開いた後に、そらよかったと押し殺した声で呟いた。

 おれの恋人は綺麗やなあ。上条は榊を見上げながら実感した。綺麗な髪、綺麗な目、綺麗な背筋、綺麗な声。自分の運、不可視のはずの運命が、具現化してそこに立っているようだった。酔うと本当に見えるのだ。見えないはずの、何かが。自分の周りに漂っている、拾い集めようにも術がない未来の粒子が、榊には読めるし見えるのだと上条は思った。

 当たっているが遠い感慨だった。それでもいいやと、整った横顔を見つめながら心の中で呟いた。


 煙草を吸い終わった榊を家まで送り届けた。つもりだったが、ふらふらしていたので泊まれと半ば脅された。榊の部屋は相変わらず汚い。物の散乱したベッドはそのままで、上条は床に敷かれた布団の中へと押し込められた。

「りゅーじさん、どこいくん」

「あ? 風呂で寝るんやけど」

「えっ、恋人なんやから、おれのよこ来てや」

「はっ? ……あー、まあ、せやな」

 榊は何度か頷いて、指輪やブレスレットやネックレスを外してハンガーなどに引っ掛ける。ハーフアップの髪も解く。脱ごうとしたジーンズは、上条の視線により一旦留まる。

「ジロジロ見んなって」

「ええやん」

「あかんわ」

「なんでなん」

「あかんもんはあかん」

 ケチやん。ジロジロ見られたら見られたなくなるわ。いつやったら見てええの。そのうちな。

 そんな会話をしているうちに、榊は部屋着に着替えるのを断念したようで、上条の隣へと寝転がった。

「やった、めっちゃ近い」

「……変なやつやわほんまに」

 そんなことない、と言ったつもりだったが口に出ていなかった。

 アパートに辿り着いた時点で相当眠かったのだ。気が付けばもう眠っていて、ハッとした時には朝だった。

 スマホを見て、慌てて起きた。朝のコンビニバイトを入れていた。すぐさま出ようとしたが、ジーンズの裾を掴まれて引き止められた。

 見下ろすと、心底眠そうな様子の榊が、手、と呟いた。

「えと、……はい」

 そばで膝を折り、手を出した。榊はそれをとり、何をするのかと思えば、寝た。眠気に勝てなかったようだった。

「うわ、なんやわからんけど可愛い」

 つい感想が漏れる。寝息を立て始めた榊を覗き込み、付き合ってるんやし、と言い訳のように言ってから、唇にキスをしようとしたが恥ずかしくなった。

 代わりに髪を掬い取った。サラサラと流れる綺麗な黒髪にキスをして、今度こそアパートを飛び出した。

 朝は爽やかだった。ストゼロは残っていて体は異様にだるかったが、榊を思えば軽かった。おれの恋人めっちゃ可愛いやんと、バイトに向かう電車の中でニヤニヤしており隣に誰も座ってくれなかった。


 上条が倒れたのは大学の学食内だった。人が大勢いたため救急車は即座に呼ばれた。端的に言えば過労だった。それでも昏睡してしまい、精密検査のためひとまず入院することになった。

 田舎の両親は病院からの連絡に驚いて、二人揃って上条の元へと駆けつけた。苦労をかけさせてしまったと新幹線内で悔やみに悔やみ、病室に転がり込もうとしたが、入り損ねた。

 黒髪長髪の見慣れない男性が、息子の枕元に立っていた。病室は異様な雰囲気で、ぶら下がる点滴や壁の清潔な白い塗装が、余計に男性の馴染まなさを強調させていた。

 男性は息子の手を取り、掌をじっと見た。溜め息を吐いてからベッドへと置き直し、

「そうか、この斜線、俺か……」

 と小さく呟いた。とても暗い声だった。

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