僕は君のココロに幸せの鐘を鳴らそう

蒼月梨琴

僕は君のココロに幸せの鐘を鳴らそう

 小説の中で一度は目にしたシーンだと今の状況から現実逃避するような気持でその場で立っていた。平凡な主人公が突如呼び出され、目の前には権力を持つ人物が待ち構えている。そんな展開をまさか自分が体験することになるとは。

 「あなたが新しく入って来た人ね」

 田宮玲士は視線の先で書類仕事をしている女性が最初に言った言葉がそれだった。玲士と話しているにも関わらず目の前の女性は手を止めずにちらりとこちらを見るだけだ。

 その視線はとても冷たく鋭い。怒っているわけではないのだろうが、無表情でこちらを見てくる為威圧されているような気持になってしまう。

 「あなたがどんな気持ちでここに来たのか私はわからないし、知りたいとも思っていないわ。でも正直なところ長続きしないと私は考えています」

 話しながら進めていた作業が終わったのだろう。紙束を目の前で揃えた後クリップで止めて脇に置いたらようやく彼女は顔を上げてこちらを見た。

 長い黒髪が揺れて彼女の顔がようやくはっきりと見ることができ、端正な顔立ちにきりっとした目つき、まるでモデルのようだと思わずにはいられない。

 「まぁ、理由はどうあれ私達の力になってくれることはありがたいと思っているわ」

 彼女は一旦背もたれに体を預け、数秒目を閉じたまま動かなかった。再び目を開けこちらを見る彼女は相変わらず無表情のままだ。今から何を言われるのかなんとなく想像ができる。これも小説の中ではお約束の展開だ。

 そして彼女は口にする。お約束通りのセリフを。

 「ようこそ。生徒会へ」



 きっかけは夏季休暇が明けた八月の終わりだった。

 昼食を終えた午後の授業。満腹感と空調によって快適な状態になっている教室内で教師の声を聞きながら眠ることが玲士の最近の楽しみだ。

 今日も満腹感はあり、快晴なうえに教室内も冷房のおかげで快適だ。しかし、今日に限って玲士はいつものようにのんびりと眠ることはできなかった。眠気は吹き飛び、目の前の事実に冷や汗が止まらない。その答えは目の前にある。

 玲士の視線の先、黒板には何人かのクラスメイトの名前が書かれており、その中には玲士の名前も書かれている。

 玲士の名前の下には得票数を示す「正」の文字がいくつも並んでいる。他のクラスメイトの名前の下にも同じように得票数を示す文字が書かれているが、玲士が圧倒的に多い。

 これが意味することは一つしかない。——つまり、これは。

 「はい。それでは多数決の結果、田宮君が今回生徒会役員として推薦されることになりました」

 担任の女性教師が結果を読み上げ「拍手」と言いながら自分も拍手をする。それにつられてクラスメイト全員の拍手が教室内に響き渡り、騒がしくなる。

 その顔には安堵の表情が浮かんでいて、誰一人残念がる様子は見られない。

 「ちょっと待ってくれ!どうして俺なんだよ⁉」

 玲士は焦って声を上げながら立ち上がった。このままだと周りの雰囲気に流されて決まってしまう。それだけは何とか避けたい。

 「でもね田宮君。立候補が出なかった以上推薦で決めるのは当たり前だし、みんなの意見だから……」

 「推薦だとしても明らかに票の偏りがおかしいだろ!なんでこんな票が集中するんだよ」

 担任の言葉に玲士は言葉を遮って黒板を指さした。咄嗟のことで教師に対して敬語を使うことも忘れてしまっている。

 立候補を受け付けているにも関わらず推薦で選んでいる理由は至極簡単。誰もやりたくないからだ。

 自分がやりたくないから他者に押し付けたい。自分が選ばれなければいいので押し付けたい相手はそれぞれバラバラだ。個人的に嫌っている相手を選ぶか適当に思い浮かんだ人物を選ぶ。

 大半は後者になるがその場合はある程度票がばらけるはず。にも関わらず玲士が指摘している黒板にはクラスメイトの約八割が玲士に投票したことになっている。

 どう考えても不自然過ぎる。明らかに意図して玲士が選ばれるように動いたとしか考えられない。

 「いや~。俺達も悪気があってやったわけじゃないんだよ。今回は玲士が適任かなって思ったんだよ」

 玲士の斜め後ろの席から声がする。もはや意図して動いたことを隠すこともしていない発言に玲士は説明しろとばかりに振り返った。

 視線の先には友人の森川隼が申し訳なさそうに玲士を見ているが、クラスの投票結果は撤回する気は無いらしい。

 「なんで俺が適任なんだよ?」

 「だってあの生徒会だぞ?その補佐なんて並大抵の奴じゃ務まらねぇよ」

 「別に俺じゃなくても生徒会長が大体はやってくれるだろ。俺である必要は無いじゃないか」

 私立蒼西高校。全校生徒数二千人を超えるこの高校は名門校というわけではないが、部活動の多さや大学受験へのサポート体制・他府県からの生徒受け入れのために学生寮を設けるなど様々な面で生徒を支援してくれることもあり人気の学校だ。

 受験者数は少しずつ増えてきており、毎年狭き門を通るために全国から受験者がやって来る。

そんな蒼西高校にはあらゆる意味で有名な生徒がいる。

 蒼西高校三年、白峰瑞希。玲士の一年先輩にあたる彼女は二年の時に生徒会に入った。

 成績は常に上位をキープし、日々の授業態度も模範的。才色兼備な彼女は男子からも人気が高い。そんな文句の付け所のない彼女が生徒会に入ってきた時、当時の生徒会は快く歓迎したらしい。

 生徒数が多くなると小さな雑務を処理するだけでも膨大だ。生徒会メンバーは多いに越したことは無い。

 実際生徒会に入った瑞希の業務処理速度は速かった。瞬く間に仕事内容を覚え、誰よりも先に仕事を終わらせるその姿に誰もが感心した。

 しかし、それはあくまでも生徒会内での話で瑞希もそれほど有名なわけではなかった。そんな彼女が存在感を出し始めたのは生徒会に入って半年が過ぎた頃だった。


 生徒会の全ての作業を頭に叩き込んでいた瑞希は誰からも頼れる存在になっていたが、その頃から生徒会の仕事に対して意見を言うようになっていた。「部費の割り振りが適切ではない」「何故一部の部活だけ優遇されているのか」「空き教室を有効活用する提案」など内容は幅広い。

 特に一部の者が優遇されているような部分に関しては特に力を入れており、優遇制度を撤廃し平等に部活動を支援していきたいと何度も当時の生徒会長に改善の要求をしていたらしい。

 しかし、ある意味習慣化していたルールを変えるとなると簡単にはいかない。所属している部員の数と出費の割合や空き教室の管理や維持するためのルール作り。何より優遇されている者からの反発。

 ただでさえ膨大な作業に苦労しているのに、これ以上仕事を増やしたいと思う生徒会メンバーは誰もいなかった。

 それでも何度も改善を求める彼女に生徒会メンバーは皆して瑞希に苦言を呈した。


 ——余計なことはするなと


 最初こそ反論していた彼女だったが、諦めたのかある時から瑞希は改善の要望を出すことはしなくなった。静かに割り当てられた仕事をするようになり、ひとまずは落ち着いたと生徒会メンバーは判断したらしい。

そしてその日はやって来た。


 ある日の昼食時間。学園長は一人学園長室で妻が作ってくれたお弁当を開けて昼食にしようとしていた。

 とりあえず最初は好物の春巻きを食べようと口を開いた瞬間、瑞希が蹴り破るような勢いで扉を開け放って学園長室内に単身突撃してきたのだ。

 あまりにも突然すぎて箸から春巻きを落としてしまう学園長を瑞希は気にも留めず、抱えていた紙束を見せつけるように豪華な装飾の施されたテーブルに音を立てながら置いた。

 瑞希が持ってきたのは部費の不平等さや優遇されている部活動の実態、今の時代にはそぐわない慣習などの一覧が事細かに記されていた。

 瑞希が目立った行動をしなくなったのは諦めたわけではなく、そう見えていたのは学園長に直談判するための準備をしていたからなのであった。

 当然生徒会メンバーは寝耳に水で事態を知ると慌てて瑞希を連れ出そうと駆け付けたが、それまで提示された資料と瑞希と言葉を交わしていた学園長から逆に学園長室から追い出される事態となってしまった。

 その後二人の長い協議は続き、瑞希が責任持って動くのであれば認めるとまさかの許可が出てしまった。勿論瑞希以外の生徒会メンバーは大反対したが、一度許可を出された彼女は止まることは無く次々と改革を進めるようになった。一方で仕事の多さに耐えきれなくなったメンバーは次々と辞めていき、現在の生徒会メンバーは瑞希一人と助っ人が二人いるだけとなっている。


 勿論生徒会メンバーの募集はかけており、生徒会に入った者は何人かはいたが純粋に生徒会の仕事を手伝うという理由ではなく、瑞希とお近づきになりたいとか付き合いたいなどの理由ばかりで真面目な理由は誰一人おらず、瑞希もまともに取り合わなかったので短期間の内に次々と生徒会に入っては辞めていくを繰り返す光景が見られた。その為今は生徒会に入ろうとするのはよほどの物好きだと思われ、新しく入ろうとする生徒は誰もいない。

 助っ人を除けば実質一人しかいない生徒会だが、彼女自身の処理能力の高さのおかげで一人でも生徒会の活動には支障は出ていない。

 そんな瑞希でも一人で対応できない時期がある。それが十月の半ばに開催される学園祭だ。全クラスの出し物を管理やスペースの確保や割り振りなど生徒数が多い分、やるべきことも膨大だ。

 そのために学園祭までの補佐要員として強制的に生徒会に入らされる。募集しても誰も参加しないことは分かりきっているので、生徒会長がクラスを指定するので、指定されたクラスは必ず誰かを選ばなければならない。選ばれたクラスに拒否権は無く、文化祭が終わるまではたとえ脱落者が出ても代わりをクラスの中から選ばなくてはならない。

 今回は運悪く玲士のクラスが選ばれてしまったわけだ。

 「玲士ならまとめたりするの得意だろ?それに期間は文化祭が終わるまでだから頼むよ」

 「隼はどうなんだよ。別に俺じゃなくても隼でもいいんじゃないか?」

 「俺は部活があるから参加できねぇよ。玲士は帰宅部だから放課後参加できるだろ?」

 どうせなら隼も巻き込んでやろうと考えていた玲士だったが正当な理由で反論されると何も言い返せない。

 実際、部活動に入っているメンバーでも選ばれた場合には生徒会の方が優先されることになる。だから隼の拒否する理由にはあまり効力が無いのはわかってはいるのだが、帰宅部の玲士が相手に部活動を一時的にとはいえ参加するなとは言えない。

 「田宮君お願い。これが決まらないと授業を始めることができないの。必ず今日には決めるようにって言われているから、後は田宮君が頷いてくれたら終われるの」

 「あとからそれを言うのは卑怯ですよ」

 担任が縋るような眼差しで見ており、周りも頷いてくれと言わんばかりにこちらを見ている。そもそも教師が生徒会長に従っていること自体が既におかしい。

 仕組まれた結果で釈然としないが、いつまでもごねているわけにもいかない。玲士は深く溜息をついた。

 「わかりました。一応行ってみますが、もし耐え切れなくなって辞めたいと言った時は説得など無しで誰か代わりを選んでくださいね」

 「もちろんよ!その時は遠慮なく言ってちょうだい」

 玲士は担任に確認を取ると、相手もようやく決まると安心したのかすぐに頷いた。玲士の言葉にクラスメイトはぎょっとなり慌てて意見を口にしようとしたが、その前に担任が認めてしまったために言い出せなくなってしまった。

 玲士は内心ほそく笑んだ。これで言質は取れた。あとは少しでも不満が出たらとっとと辞めてしまって他の誰かに擦り付けよう。

 とりあえずは生徒会に行ってみるしかない。

 「生徒会には私から伝えておくから、田宮君は放課後に生徒会室に顔を出してくださいね」

 「わかりました」

 さて、生徒会はいったいどんな所なのだろうか……



 そして時間は放課後の生徒会に顔を出した今に至る。

 「まず初めに自己紹介をしましょうか。知っていると思うけど私が生徒会長の白峰瑞希よ。そして二人は助っ人として手伝ってもらっている臨時メンバーね」

 この生徒会室には現在四人いる。一人は瑞希で一人は玲士、残りは男子と女子が一人ずつ生徒会室の中央に設置されている大きめのテーブルの席に着いて玲士を見ている。

 最初に反応したのは女子の方だ。ショートヘアの髪を揺らしながら手を振り元気よくアピールしている。

 「は~い!まずは私から言うわね。私は笹苗梨恵。瑞希と同じ三年よ。よろしくね後輩くん。ちなみに瑞希と宮っちとは幼馴染みたいな感じだから、お互いのことはよく知っているからね」

 「よ、よろしくお願いします」

 何やら変な呼ばれ方をしたが、とりあえず玲士は挨拶を返した。隣にいる男子から「誰が宮っちだ」と突っ込まれているが梨恵は笑うだけで訂正しない。性格は瑞希と正反対なぐらいに明るい。梨恵が言い終わると次はもう一人の男子が口を開いた

 「宮川真司だ。二人とは同学年になる。毎日は参加できないがよろしく」

 「はじめまして。田宮玲士です。文化祭が終わるまでですけど、よろしくお願いします」

 真司は静かに挨拶を終えるとパソコン業務に戻ってしまった。あまりお喋りな方ではなさそうだ。

 「それじゃあ、お互いの挨拶も済んだことだし作業に戻るわよ」

 「えっ⁉今からですか?」

 当たり前のように作業に戻ろうとする三人に玲士は驚いた。今日はてっきり顔合わせだけだと思っていたのに、まさかそのあと作業を再開するとは。

 瑞希は振り返りながら玲士を一瞥し、

 「文化祭まであと一か月と少ししかないのよ?今から動かないと間に合うわけないでしょう。用事があるなら今日はもう帰ってもいいわよ」

 本当に瑞希は玲士に対して期待もしていないのだろう。引き留めることもせず玲士を突き放す言葉は冷たい。

 おそらくこのまま帰っても瑞希は何も言わないのだろう。

 「帰りません。とりあえず俺にできることを教えてください」

 望んで生徒会に入ったわけではないが、だからと言ってやるべきことを初めから放り出す気はない。見切りをつけるまでは真剣に取り組むとは決めている。

 瑞希は玲士の言葉に特に反応は示さず黙ったままだ。席に着いた瑞希は手近な書類の束を手に取り玲士に突き出した。

 「夏季休暇前の各部活動の支出報告書よ。提出していない部があるか確認して、提出していない部は後でまとめて報告してちょうだい。提出している部は数字に間違いがないかチェックして問題が無かったら宮川君に渡してくれたらいいわ」

 「これ全部ですか⁉」

 玲士は紙束を受け取りながら顔を引き攣らせた。蒼西高校の部活動は運動系と文化系を合わせると膨大なものになる。これは「学生は学生らしいことを楽しむべきだ」と部活動を推奨している学園長の方針の影響がある。最低限の人数が集まれば部として認められ、少ないながらも部費が支給されることになっている。その全ての支出内容をチェックするとなると膨大な作業量になる。

 「当たり前でしょ。部費は無尽蔵なわけじゃないのよ?必要なところに必要な分だけ支給するのが常識よ。でないと無駄遣いに繋がってしまうわ」

 「す、すみません」

 瑞希のあまりの剣幕に慌てて玲士は謝った。どうやら瑞希の怒りに触れたのかもしれない。委縮する玲士に梨恵はフォローするように会話に割り込んだ。

 「もう~。瑞希は本気になりすぎ。今日来た後輩くんが細かい所までわかるわけ無いじゃない。後輩くんは知らないと思うけど、瑞希が部費の管理をしていなかった頃は大変だったらしいわよ」

 「大変だった、ですか?」

 部費を管理することの何が大変なのだろう。適切に扱っていれば問題は起こらないと思うが、あいにく帰宅部の玲士は部費のことに関しては無知に近い。

 そんな玲士に梨恵はざっくりとだがこれまでの経緯を話してくれた。


 実績のある部は他の部よりも少し多めに部費を支給されていたのだが、ある時部費が少ないと要望を出してきたことがあったらしいが、当時の生徒会は本来なら使用用途などを確認するところを一切調査せず、相手の言葉だけを信じて来年分の部費を増やしたらしい。

 それに味をしめて毎年申請する部が増え続け、活動実績に合わない高級な道具を買いだすことに繋がってしまったらしい。

 部費の使い道は道具だけではなく、様々な名目で何度も部員が集まって食費に使うことが多くなっており、瑞希が改革に乗り出したときは部員だけでなく顧問の教師からも反発を受けたそうだ。

 反発理由も深い理由はなく単純だった。卒業した先輩の代から続いている伝統なのだと。その伝統を無くすなんてとんでもない。これには瑞希も堪忍袋の緒が切れたらしい。

 後日、反発する部と部員・顧問を広い多目的教室一か所に集めて瑞希は反対意見を全て一蹴した。活動実績が無いのに部費ばかり求めて何を言っているんだと。そんな伝統なんて潰れてしまえばいい。文句があるなら部費に見合うだけの活動をしてみたらどうかと言って全員を黙らせたそうだ。

 梨恵の説明に玲士は内心瑞希の覚悟を改めて思い知らされた。下手をすれば部の大半を敵に回すような行動だが瑞希は恐れずに立ち向かったらしい。その結果が今の様々な部の支援に繋がっているのだろう。

 「わかりました。しっかりと確認していくのでわからないことがあったら聞きますね」

 「おっ!後輩くんやる気だね。まぁ無理しない程度で進めてちょうだい」

 玲士の反応に梨恵は笑ってはいたが、瑞希と真司は何の反応も示さない。玲士はそんな二人を横目に渡された紙束を持って席に着いた。


 窓の外が夕焼けに染まったころようやく玲士の仕事が終わった。

 「会長終わりました」

 「お疲れ様。今日はもう十分だから帰ってもらって大丈夫よ。基本的に生徒会は文化祭が終わるまで毎日開けるつもりだから明日も必ず来てちょうだい」

 玲士は体をひねったり腕を回したりして固まった体を伸ばしていた。時計を見ればすでに時間は六時を過ぎている。実に三時間以上椅子に座って書類とにらめっこしていたことになる。その間に休憩は一度も無かった。各々が勝手に飲み物を買いに行ったりするだけでそれ以外はずっと作業し続けるだけだった。

 これが毎日続くとなると辛い。そう考えると昨年から助っ人がいるとはいえ一人でこなしていた瑞希の処理能力は異常なレベルだ。

 とりあえずこの作業環境は何とかしたい所ではあるが入ってすぐの玲士の声は聞いてはもらえないだろう。とりあえずしばらく様子を見てから動こうと決めた玲士は、「お疲れさまでした」と言って生徒会室をあとにした。



 その日の夜、玲士は自宅でのんびりと文庫を片手にリラックスした時間を楽しんでいた。

キリのいい所まで読み終えた玲士はベッドの上でゴロゴロと何もしない時間を過ごす。

 一人暮らしをしていると、こうして時間を好きに使えるのが一番嬉しい。誰にも干渉されずに本を読めるのはなんと素晴らしい事か。

 そんなことを考えていた玲士だったが、突然スマホから呼び出し音が鳴った。ベッドから体を起こし画面に表示された相手の名前確認した玲士は「うわっ」と露骨に嫌な顔をした。面倒な相手だと分かり今から気が重い。

 このまま無視しようかと考えもしたが、緊急の連絡だった場合は困る。気乗りしないまま玲士は画面の通話ボタンを押した。

 「息子よーーーーー‼元気にしているかーーー‼」

 「……」

 黙って通話終了ボタンを押す。真面目に考えていたさっきまでの自分が馬鹿らしくなる。今日はもう疲れたから早めに寝よう。行動しそうになった玲士の耳にまた呼び出し音が聞こえ始めた。もう一度通話ボタンを押して相手の声に耳を傾ける。またふざけるようなら今度こそ電源を切ってしまおう。

 「酷いぞ息子よ。父さんからの電話を一方的に切るなんて、いつからお前はそんな親不孝者になったんだ」

 「やかましい!いきなり大声で叫ぶ奴に気を使う必要なんて欠片も無い。しかも息子なんて今まで俺のことをそう呼んだことは無いだろう」

 「はっはっはっ!親子のスキンシップだよ。新鮮でいいだろう玲士?」

 玲士の言葉に相手は気にした様子もなく笑うばかりだ。その様子に玲士はやはり電源を切っておけばよかったと今更ながら後悔した。

 田宮祐司。玲士の父親であり現在は小説家としてある程度成功している人物だ。普段は落ち着きのある人物なのだが、時折こうしてテンションがおかしくなり騒がしくそして面倒くさい人物になってしまうのが大きな欠点だ。

 そしてこうして騒がしくしているということは何か理由があるはずだ。

 「で?わざわざ連絡を寄越すぐらいなんだから何か進展があったのか?」

 「そう!少し詰まりかけていたストーリーにようやく活路が見出せそうな気がするんだ。そこで玲士に感想を聞いておきたかったんだよ」

 祐司は興奮が抑えきれないのか早口で捲し立てるが、できればもう少し落ち着いてほしい。玲士は壁に掛けられた時計をちらりと見て、

 「そんなに長々と話せないぞ。要点だけ短く教えて欲しい」

 「わかっているよ。ジャンルは恋愛小説で、内容は簡単に言うとお互いに愛し合っている主人公と他国のそこそこ身分の高いお嬢さんが苦難を乗り越えて結ばれるって話だな」

 「ふむふむ」

 割とまともなストーリーだ。鉄板と言えば鉄板ネタにはなるのだが、苦難を乗り越えて結ばれる恋愛小説はいまだに人気が高い。かくいう玲士も一時期は恋愛小説にはまって何冊も読み漁っていた記憶がある。

 「二人の愛は順調に育まれていたのだがそこで立ち塞がるのが娘のご両親。娘の父親は身分の低い主人公と娘が付き合うのは大反対で、付き合いたければ私が提示する試練に乗り越えてみよと言うんだよ」

 「それって王道展開過ぎないか?その類の内容は俺もいくつか読んだことがあるぞ。いつもの展開だと読者が飽きるだろ?」

 玲士は懸念を口にした。お決まりのストーリーは人気もあるが同時に似た作品との差別化ができないデメリットも存在する。あまりにも似すぎていると読者は先の展開が想像できてしまって面白味がない。

 しかしその懸念は想定したのだろう。電話の向こうで祐司が「もちろんそれは理解しているよ」と自信ありげに言った。

 「展開はおなじみだけど、その代わりに試練の方を少し捻ってみた。父親が代々受け継がれてきた婚約指輪を片手に収まるぐらいの小さな箱に入れるんだ。そしてそれを河に流して暫くしたら主人公が追いかけるといった内容だね。無事に指輪を持ち帰ってきたら二人の交際を認めるといった展開だよ。ちなみに流れが速いからのんびりしていると見失っちゃうし、下手をしたら行き先が海になってしまうおまけ付き。……どうだ?素晴らしいだろ」

 「却下だよ!なんだよその難易度トップクラスの試練は⁉行先不明で下手をしたら海って交際認めるつもり絶対ないだろ」

 自信ありげに説明する祐司に玲士は思わず突っ込んだ。設定はとりあえず良しとしよう。問題は試練の内容だ。本流を流れ続けるだけならいいが、枝分かれした支流に入り込んでしまうと追跡はあまりにも困難だ。そもそも娘の交際を阻止するために由緒ある品物を河に流すなんてどう考えても普通じゃない。

 主人公が見失ったら大切な指輪が紛失することにも問題がある。

 「え~。いいじゃないか。一応主人公は海の上で指輪を見つけるんだよ。そんな主人公を追って娘さんも家を飛び出すけど、海の上で無事二人は再会できるんだよ。そして身分に囚われない生活がしたいと言って二人はそのまま彼女の家には戻らず国を離れるって結末にするんだよ。いい話じゃないか」

 ……見つけるんだ主人公。しかも海に運ばれた指輪を。その執念凄くないか?

 「結末は悪くないと思う。だから試練内容だけ考え直したらマシにはなるんじゃないか?今のままだと少し無理がある」

 とりあえずは聞いた限りの感想はこんな所だろう。あとは祐司の頑張り次第だ。

 「そっか~。まぁいいや。とりあえずはまた考えてみるよ。この作品を書き上げたら次回作の構想の既にあるんだよ。古い資料によると私達の世界には鬼や妖怪の類は実在したらしいんだよ。そして人の姿に近い種族は今も人として私達の生活に紛れ込んで暮らしているらしくてね……」

 自信のあった展開が認めてもらえなくて祐司は残念そうな声になったが、すぐさま元の調子に戻って思いついたことや知ったことを早口で玲士に説明する。この気持ちの切り替えの早さが祐司の強みなのかもしれない。

 「そういえば玲士、そっちの生活はどうだ?何か変化があったなら教えて欲しいな」

 「特に変わりはないよ。どうしてそんなに知りたがるんだ?」

 「ん?だって青春小説の貴重な資料になるじゃないか」

 「言わないよ!あったとしても資料にされてたまるか!」

 誰が好き好んで学生生活の思い出を話すというのか。しかも小説の材料にされるなんて絶対にごめんだ。

 それでも両親には伝えるべきこともある。

 「まぁ、今までと違うと言えば生徒会に入ったぐらいだな」

 「……何?」

 電話の向こうから聞こえる祐司の態度が一気に変わった。さっきまでの友人とだらだら過ごすような緩み切った声でから一変して真剣さが伝わってくる。

 「玲士、お前が生徒会に入ったのか?自分の意思で?」

 「俺が自分から入ったわけじゃないよ。文化祭が終わるまでの助っ人要員で入っているだけだ。終わったら辞めるつもりだよ」

 祐司は「そうか」と言って黙り込んでしまった。祐司が何を考えているのかわかっている為玲士からは何も言えない。今は祐司からの言葉を待つだけだ。

 「なら、父さんからは何も言うべきではないな。玲士が思うように行動してくれたらいいよ。」

 「そうするつもりだ。……じゃあ、もう切るぞ」

 「そうだな。——ああ玲士!最後に行っておくことがある」

 時計をちらりと見ていた玲士だったが祐司の呼び止めに動きが止まった。

 「もし素敵な出会いがあったら、状況を詳しく——」

 最後まで言い切る前に玲士は通話を切った。最初から最後まで祐司は自分らしさを貫いていた。


 一週間が経ち玲士はほぼ毎日生徒会に顔を出しているが仕事が一向に減らない。捌いても捌いても減らないのはもちろんだが、昨日から少しずつ文化祭の仕事が混じり始めて本格的に文化祭に向けて準備を進めている。

 今日の仕事は各クラスから提出されている出し物の申請内容のチェックだ。出し物は大きく分けて二種類に分かれており、演劇やミュージカルなどの舞台を使った出し物と教室や中庭で出し物をするどちらかになる。基本的にはどのクラスもオーソドックスな内容にはなるのだが、中には駄目元で突拍子のないことをやりたがるクラスも存在しているらしい。

 「『世界の歴史的な刀剣を本格的に作って展示する』ですか……。これって求めてるクオリティによっては刃物扱いになるから危なくないですか?」

 「確かにそうだな。本人達はその気が無くても銃刀法違反で引っかかる可能性があるから却下だな。他者を傷付けるものはアウトとして突き返した方が良いな」

 「こっちなんて数人だけでもいいから屋上からの低高度パラシュートパフォーマンスをしたいだって。どう考えても認められるわけ無いでしょ」

 「そんなこと申請しているクラスあるんですか⁉」

 玲士は申請内容を確認しては「許可」「不許可」のスタンプを休まず押していき、不許可の場合は理由をわざわざ書き添えて決められているトレーに分けていく。

申請内容に感想を混ぜながら目を通していくが、なかなかに酷い内容が多い。我が校の学生はここまでアホな事を考えているのかと思うと頭が痛くなる。突き返されると分かっていながら申請を出す方も出す方だ。真面目に考えれば突き返される可能性は低くなるというのに……。

 こんなくだらないことを真面目に検討しなければならないこっちの身にもなって欲しいものだ。

 次の申請用紙を手に取った玲士は書かれている内容に戸惑った。書かれている内容はまともそうに見えるが専門知識が無いため判断できない。

 「あの、このクラスのやりたいことがいまいちわからないんですけど誰かわかる方いますか?」

 「ん?後輩くんどんなネタを引いたの」

 「ネタって芸人じゃないんですから。……えっとですね『自己反応性物質を使用した科学の体験』って書いてありますね」

 「……ごめん。もう少しわかりやすく教えてくれない?」

 梨恵の反応はもっともだ。実際に用紙を手にした玲士ですら書かれている内容を理解できない。何かしらの化学反応を実演するとはなんとなくわかるのだが、専門用語の内容がいまいちわからない。どうしたものかと悩んでいた玲士だったが、助けはすぐに来た。

 「田宮君その申請用紙ちょっと見せてくれないかしら?」

 「ええ。構いませんよ」

 瑞希に用紙を手渡した玲士はとりあえず彼女の判断を待つことにした。隣では真司がパソコンで調べ始めている。じっと申請用紙に目を通していた瑞希は溜息をつきながら背もたれに体を預けた。

 「……これは明らかに許可してはいけない気がするわね」

 そんな瑞希の言葉に真司も同意する。

 「ああ。これは不許可一択だ。どう考えても素人が手を出していい代物じゃない」

 明らかに真司の言葉には不穏な単語が混じっている。素人が手を出してはいけない物質とは一体何を使うつもりだったんだ。

 「宮川先輩、それってどういう意味ですか?」

 「そのままの意味だ。詳しい説明は省くが、自己反応性物質とはその字のごとく、こちらが手を加えなくても化学反応を起こし自然発火や爆発を起こす物質の事だ。勝手に反応を続けるから手順を間違えれば消火は困難になるし、最悪は被害が拡大する可能性がある」

 「……爆弾でも作るつもりですか?」

 玲士は呆れ果てて怒ることもできない。そもそもそんな物質を一般生徒が入手できるとは思えないが、そんな危険な物を人でごった返す文化祭で使うなんてとんでもない。

 瑞希は手元にあるスタンプを手に取り、用紙の真ん中に遠慮なく押し付けた。当然内容は不許可だ。

 「恐ろしいことを考えるクラスもあるんですね」

 「慣れたから平気よ」

 しみじみと呟いた玲士に淡々と返事を返した瑞希にはなんだか同情する気持ちが芽生えたのは気のせいではないはずだ。


 作業を再開してどれくらい経っただろうか、ようやく紙束をある程度消化した梨恵は大きく伸びをした。

 「う~ん。ようやくここまで終わったよ~」

 「あっ。それじゃあ一旦休憩にしませんか?」

 いい機会だと思い玲士は部屋の隅にある戸棚に近づき中から一口サイズのチョコレートが入ったプラスチックボトルを持ってきた。

 「あれ?ここにそんなお菓子なんてあったっけ?」

 「少し前に休憩用に買っておいたものですよ。なかなか言い出せなくて今日になっちゃいました。飲み物も用意するのでちょっと待っていてください」

 深く考えずに買っておいた紅茶のティーバッグで人数分淹れてそれぞれのテーブルに置いていく。チョコレートは人数分の小皿が無かったのでボトルをテーブルの中央に置いただけだ。

 「わ~!ありがとう後輩くん。ずっと頭を使ってばかりだったから甘いものが食べたかったんだよ」

 最初にボトルに手を伸ばしたのは梨恵で、いくつもボトルから取り出していくと自分の手の届く範囲に小さな山を作っている。一つを口に放り込んだ梨恵は「糖分が染み込む~」と言いながらリラックスしている。真司も「すまんな」と短く礼を言った後ボトルから数個だけ取り出している。

 そんな中、瑞希だけがチョコレートにも紅茶にも手を付けずじっとボトルを見続けている。

 「どうしましたか会長?もしかしてチョコは苦手でしたか?」

 「いえ。そうではないけど、これは田宮君が用意したものなのかしら?」

 「えっ。まぁそうですね」

 三人の好みがわからなかった玲士はどれを買うべきか悩みはしたが、甘いものがいいだろうと思ってチョコレートを選んだ。今日辺りには要望を聞いて種類を増やすつもりだ。

 すると瑞希はおもむろに自分の鞄から財布を取り出し「いくらかしら?」と言ってきた。

 これには玲士も慌てた。別に費用を補填してもらいたかったわけではない。

 「別に大した金額じゃないですよ。今回は俺が勝手に買ってきただけですから気にしないでください」

 「そんなわけにはいかないわ。たとえ大した金額でないにしても必要経費は払うべきだわ」

 頑として聞き入れようとしない瑞希の態度に困り果てていた玲士だったが、隣から声が上がった。

 「瑞希。それならこれから今日みたいに休憩タイムを入れようよ。それでその時に後輩くんが買ってきたお菓子を食べるの。今日は後輩くんの気持ちに感謝しておいて、次から払えばいいじゃない。経費は生徒会予算を使えば文句は無いでしょう?」

 「でもいくら生徒会に予算が割り当てられていると言っても、お菓子に使うなんてそんな無駄遣いは……」

「どうせそんなに買い直すような物じゃ無いんだからいいんじゃないか?ちなみに予算全体から見ればこの程度は些細な出費だ」

 なお瑞希が言い募ろうとしたが、真司からも援護が来て瑞希は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。梨恵だけでなく真司までもが玲士の意見に賛同したために反論ができなくなったのだ。

 「わかったわ。休憩時間は作るようにするからその代わり高価なものは駄目よ」

 「はい。分かりました。とりあえず、また買ってくると思いますけど先輩たちは何か希望はありますか?」

 諦めたように肩を落とす瑞希だったが、セリフが完全に母親だ。せっかくだから指摘しようと思った玲士だったが、以前の激怒する瑞希の顔が思い浮かんだので心の中に留めておいた。——口は禍の元である。

 「私はチョコレートがいいな~。一口サイズのアーモンド入りのやつ」

 「……俺はクッキーの方が良いな。あまり甘すぎる菓子は好きじゃない」

 なんだかんだで二人とも菓子は食べたいようで、希望を聞けば以外にもそれぞれの好みを言ってくれる。瑞希だけがずっと黙っていたのでもしかして真剣にお菓子を選んでいるのではと思っていたのだが、瑞希からの返事は

 「特に希望は無いわ。でも、できれば飲み物のバリエーションは増やしてほしいわね」

 「わかりました。俺の方でいくつか選んでおきますね」

 彼女の希望を聞けただけでも十分だ。無表情のまま答える瑞希に玲士は笑顔で頷いた。



 九月も半ばに入ろうとしている生徒会。そんな部屋の中に大声が響き渡った。

「終わらねー‼なんでこんなに仕事が減らないんだよ。どう考えてもおかしいだろ⁉」

 玲士は思わず思っていたことをとうとう口にした。文化祭が近づいてきているから関係書類が多くなるのはわかるし納得はできる。それには納得できるが文化祭とは関係ない仕事がいつまで経っても減らないのだ。今日は先のことを考えて文化祭関係の作業は後回しにしている。

 「仕方ないでしょう。私達しかいないのだから一日の処理数には限りがあるわ。喋っている暇があるのなら手を動かしなさい」

 「いやいや、どう考えても生徒会とは無関係の内容もありますよね⁉これも生徒会で処理するんですか?」

 今のこの部屋には玲士と瑞希しかいない。梨恵と真司はあくまでも助っ人要員なので、毎日顔を出せるわけではない。よって二人きりになる日が必ずあり、すでに何度も経験している。

 玲士は横に除けておいた一枚の紙を手に取った。紙には要望書と書かれており、その下に生徒会への意見が書き込まれている。

 この要望書も瑞希が始めた試みであり、校内の敷地内に数か所設置されている。日々勉学に励む中でどうしても不満に思っていることや叶えて欲しいことが出てくると考えて、気軽に意見を言える場を設けたらしい。

 要望書の中には学生からの純粋な声もあるが、中には悪戯や相談する相手を間違えているような内容も紛れている。

 「『学生寮の廊下の蛍光灯が切れているから何とかしてください』って、これは絶対生徒会じゃなくて寮の管理人に言うべきことですよね。これも俺達が動くんですか?」

 「当然よ。もしかしたら管理人が気づいていないのかもしれないわ。こんな小さなことでも受験勉強している生徒にとっては集中の妨げに繋がるかもしれないわ」

 当然のように瑞希は答えているが、玲士にとっては不必要な業務のように感じる。そんなことまで気にしていたら生徒会がすべての面倒を見なければならない。

 「他の人に任せたりしないんですか?」

 「任せられるのなら任せるわ。でも私にできることなら私が処理するわ」

 ここまで来るとワーカーホリックだ。あまりにも瑞希に負担がかかり過ぎているが当の瑞希が譲る気がないとこちらもフォローに入れない。何より玲士はまだ生徒会に入って日が浅く知識も浅いままだ。瑞希の代わりはまだ務まらない。

 それよりも玲士は気になっていることがある。

 「会長って大学受験大丈夫なんですか?放課後はずっと生徒会の仕事しているのは流石に心配になるんですけど」

 玲士が知る限り瑞希はほぼ毎日生徒会に顔を出している。梨恵や真司はたまにしか顔を出していないが、それはおそらく受験勉強の為だろう。そうなると同じ受験生という立場である瑞希がずっと生徒会に時間を割かれているのは気になってしょうがない。大学には進学せずに就職するならば話は別だが……。

 「私は大丈夫よ。受験勉強は家でしているし、難関校を狙うわけじゃないから」

 「えっ?そうなんですか?てっきり会長は国立の名門校に進学するものだと思っていましたよ」

 常に成績上位をキープしている瑞希ならば努力すれば一流大学も狙えるはずだ。それなのに行く気はないと言い切っている瑞希の答えには驚きだ。

 「私は特待枠で近くの大学に行くつもりよ。一流の大学に行くことが私の将来に必ずしも繋がるわけではないわ。大切なのは私がその大学へ行くことでメリットがちゃんとあるのかどうかよ。目的が無いのに行くことは無駄でしかないわ。

 さぁ、話は終わりよ。まだまだやるべきことは残っているわ」

 瑞希はそう言って話を切り上げてしまったため。玲士もそれ以上は何も言わず、仕事に戻った。


 校内にチャイムが鳴り響いたことで玲士は顔を上げた。時刻は六時。放課後の終わりを知らせるチャイムだ。

 「会長、時間ですしそろそろ終わりにしましょう」

 玲士は大きく伸びをしながら瑞希に話しかけた。瑞希は顔を上げずに手を動かし続けている。

 「お疲れ様。ここは私が閉めておくから帰ってもいいわよ」

 「……会長は帰らないんですか?」

 玲士は気になって尋ねた。瑞希の言い方だとまだ残るつもりに聞こえる。

 「私はまだ残るわ。これだけでも今日中に終わらせたいから田宮君は気にしなくてもいいわ」

 「そうは言っても俺は気にするんですけど」

 瑞希が残ると言っている中玲士一人だけ変えるのはなんだか気が引ける。それでも瑞希は途中で帰る選択はしないようにも見える。

 玲士は瑞希の近くにある紙束と時計を交互に見ながらしばらく考えた。しばらく思案した玲士は荷物をそのままに部屋の隅にある戸棚へ近づいて紅茶と菓子を用意し始めた。

 「どうぞ」

 瑞希に紅茶の入ったカップを渡して玲士も自分の分を用意して席に戻った。その様子を見ていた瑞希は困惑したように玲士を見ている。おそらく玲士は帰ると思っていたのだろう。

 「何をしているの?」

 「俺も残りますよ。会長一人を残して帰れません」

 「田宮君が残る必要は無いわ。私の仕事だから気にしないで。わざわざ手伝ってもらう必要は無いわ」

 残ると言った玲士に瑞希は憮然とした面持ちとなり、冷たく突き放してくる。そう言われた玲士だったがここまできて「はいそうですか」と言って帰れない。

 「会長は気にしないでください。別に会長を手伝うつもりはありません。俺の仕事を減らそうと思っているんですよ。会長が終わるまでは付き合うんで一旦休憩しましょうよ」

 玲士は涼しい顔で瑞希の視線を受け流す。あくまでも玲士が残るのは自分の為だ。自分の仕事をするだけなのだから瑞希の手伝いをするわけではない。

 お菓子を食べながらさりげなく瑞希のそばにあった紙束を引き寄せて作業を再開する。

玲士をじっと睨んでいた瑞希だったが、やがて玲士から視線を外し用意されたカップを持ち上げ何も言わずに口を付けた。



 「こほっ、こほっ」

 翌日の夕方、いつものように生徒会室で作業をしていると、咳き込む声が聞こえた。

 顔を上げると瑞希が口に手を当て咳き込んでいた。

 「会長風邪ですか?」

 「……風邪気味だけど、こほっ。大したことじゃないわ」

 「いや、咳き込みながらそう言われても説得力無いですよ」

 瑞希の返事に玲士は苦笑した。

 玲士が生徒会に顔を出していた時から瑞希が時折咳き込んでいたのは知っている。

 最初は大したことないと思っていたが、ずっと咳き込んでいるとどうしても気になってしまう。

 「今日はもう帰った方がいいんじゃないですか?」

 玲士は心配しながら言う。流石にこのまま無茶をして風邪が悪化しても困る。

 「私は大丈夫よ。うつるのが気になるなら田宮君はもう帰っていいわよ。あとは私がやっておくから」

 「なんで健康な俺が帰らされるんですか?帰るべきなのは会長でしょう」

 これまでの付き合いから予想はしていたが、予想していた返事に思わず突っ込む。

 「笹苗先輩と宮川先輩は明日手伝ってくれるんでしょう?明日に今ある分回せばいいじゃないですか」

 明日は土曜で学校は休みだが、部活動で校内は開放されるから生徒会室も使用できる。

 文化祭が近づいてきており、生徒会には各クラスの修正された企画書が続々と届いてきている。

 蒼西高校全クラスが文化祭の出し物をするとなると、必ずどこかで使用したい場所が重なるクラスが出てしまう。

 その際の場所の割り振りを生徒会が行うのだが、できる限り偏りが出ないように調整が必要なのでできる限り早めに動き始めないといけない。

 そのため、明日は今日来ていない二人も加わって作業することになっている。

 「明日に回せばその分明日の負担が大きくなるでしょう?」

 「別にサボっているわけじゃないですし、風邪気味だって説明すれば皆さん納得してくれますよ」

 「それでも休むほどではないわ」

 聞く耳を持たない瑞希の様子に玲士はこれ以上説得しようとすると意地でも残りそうだと感じた。

 「わかりました」

 短く溜息をついた玲士は作業を止めて立ち上がった。

 玲士はそのまま戸棚まで歩いてく。後ろから「田宮君?」と瑞希が声をかけてくるが、「そのまま座っといてください」と戸棚から目的の物を取り出しながら返事をする。

 部屋の隅にある小型のポットまで持って行き、封を切ったティーバッグをカップに入れた。

 用意した二人分のカップにお湯を注ぎ、それを持って瑞希の所に戻る。

 「どうぞ。今回はレモンティーにしてみました」

 瑞希に淹れたてのカップを渡して席に戻る玲士。

 席に着いたところで瑞希がカップを受け取った姿勢のまま目を丸くしてこちらを見ているのに気がついた。

 「どうしました?個人的にレモンティーが好きだったのでこれにしたんですけど」

 「いえ。田宮君は帰らないのかしら?」

 「風邪気味な会長を残して帰れませんよ。俺も手伝います」

 不思議がっている瑞希を横目に見ながら玲士は笑顔で答えながら処理が終わっていない紙束を引き寄せた。数日前にも同じようなことがあったはずだが今回は瑞希が風邪気味なので流石に一人残して帰るわけにはいかない。

 カップに手を伸ばし紅茶を口にする。ほのかなレモンの味が口の中に広がり、飲んだ後はほぅと口から吐息が漏れる。

 「二人でやった方が早く終わらせますからね」

 そう言いながら仕分けを始めようとした玲士だったが「ただし」と一旦言葉を区切り、

 「進めるのは今日終わらせないといけない最低限の量だけです。それ以上は明日にしてもらいますからね」

 一応瑞希に釘を刺しておくそうしないと今日も遅くまで残ってしまうだろう。

 できればもう帰ってほしいが、こちらもある程度妥協するべきだ。早く終わらせれば瑞希の為にもなる。

 瑞希は何か言いたそうにしていたが、口には出さず「仕方ないわね」とだけ呟き、レモンティーを一口飲んだ後手元の紙束に手を伸ばした。



 「……来ないね」

 梨恵の呟きが隣から聞こえ、玲士は扉に視線を向けた。

 翌朝、生徒会室に集まったメンバーは互いに顔を見合わせていた。部屋には玲士を含めて梨恵と真司の三人がいるが、本来この場にいるはずの瑞希がいない。

 時間に遅れることがない瑞希を三人は珍しいと思っていたが、すぐに来るだろうと思い瑞希がいない中三人は作業を始めた。

 しかし、いつまで経っても瑞希が扉を開けて入って来ない。

 時間は十一時を過ぎ、すでに予定の時間から一時間が経過しようとしている。

 さすがに何の連絡もないことに三人は心配し始めていた。

 「先輩達にはメールは来てないんですか?」

 「来てないわね。瑞季が何の連絡もしてこないなんて今まで無かったんじゃない?」

 梨恵がスマホを操作しながら答える。

 真司もポケットからスマホを取り出すが、すぐに「来てないな」と短く答えた。

 「もしかして集まるのは実は明日でした~。とか?」

 「いやいや。流石に三人も聞き間違えることはないでしょう。俺は昨日会長と集まるのは今日みたいなことを話しましたし」

 梨恵の意見を玲士はすぐに否定した。瑞希以外の三人全員が間違える可能性は低いだろう。

 毎日生徒会に顔を出していない梨恵と真司が間違ってしまうのは、確率は低いがあり得るかもしれない。しかし玲士は昨日瑞希と会話したばかりだ。その時のことははっきりと覚えている。

 明日のために二人で残ったこと。そのためにレモンティーを用意したこと。レモンティーを用意する前に帰る帰らないの問答を繰り返し……

 「あっ」

 思わず漏れた声に梨恵がこちらを見る。

 「どうしたの?」

 「昨日のことですけど、会長ちょっと風邪気味だったんですよ。本人は大したことないって言っていたんですけど」

 そうだ。昨日瑞希は風邪気味だった。だから明日にしようと会話をしたのだった。

 もしかして風邪が悪化したのだろうか。

 「そうなの?ちょっと待って一回電話してみる」

 そう言って梨恵は電話をかけ始めた。その様子を見守りながら玲士は隣の真司に話しかけた。

 「会長って以前にもこんなことがあったんですか?」

 「いや。少なくとも俺の知っている限りでは今まで無かったことだな。瑞希は昨日それほど体調が悪かったのか?」

 「そんなことは無かったと思います。咳き込んではいましたけどそこまで酷いわけではなかったです」

 真司の言葉に答えながら昨日の瑞希を思い浮かべる。

 じっくり見ていたわけではなかったが、顔色は悪くはなかったはず。帰る際もそれほど変化はなかった。

 変化があるとすれば玲士と一緒に学校を出て別れた後だろうか。

 「宮川先輩。会長の家ってここから遠いんですか?」

 ふと玲士は瑞希の住んでいる場所が気になった。家が近いから遅くまで生徒会室に残っていると勝手に思い込んでいたが、本人から聞いてないし玲士から聞いたわけでもない。

 生徒の中には電車やバスなど公共機関を利用して通学している者も多い。中には学生寮には引っ越さず片道一時間以上かけて通学している生徒もいると聞いている。

 もしかして多少とはいえ残る選択は間違いだったのだろうか。

 「心配するな」

 どうすればよかったのか、いろいろと考え始めた玲士に一言声がかけられた。

 ハッとして顔を上げると真司は顔を上げず、手元の書類にサインをし続けている。

 「あいつは一人暮らしだが家はここから十分もかからない所にある。仮に帰る途中で風邪が悪化したのだとしても、お前が責任を感じる必要はない」

 「宮川先輩……」

 「逆に俺達の方が……」

 真司がさらに言葉を続けようとしたところで「何を言ってるの!」と梨恵の強く責めるような声が生徒会室に響き話は中断された。

 驚いて梨恵の方を見ると、眉を寄せ怒った表情になっている。

 「だから無理しなくてもいいって。まだ先でしょ。……なんでよ。……だから私達でも問題無いでしょ?……だからぁ。」

 梨恵の言葉に少しずつ苛立ちが混じってきている。内容はわからないが、瑞希が何か無茶をしようとしていることはわかった。

 「だから瑞希はおとなしく……ちょっと!瑞希!」

 最後はもはや怒声に近い。梨恵は「もう!」と言いながらスマホを耳から離した。

 普段は笑顔を絶やさない梨恵が今は怒りの感情一色に染まっている。

 「瑞希がどうかしたのか?」

 普段見せない表情を見てしまいなかなか声をかけれずにいた玲士に代わって真司が梨恵に声をかけた。玲士と話していた時とは違い、手を止め梨恵の方を見ている。

 「瑞希ったら風邪で動けなくなっているみたいだけど『大したことはない。すぐに行くから』ってずっと言い続けているのよ。私達で何とかなるからって言っても聞かないし、最後は電話を切られたわ」

 二人のやり取りを聞いて玲士は呆れて何も言えなかった。瑞希らしいといえば瑞希らしいが、流石に無理し過ぎだ。

「……一時間以上経った今でも動けないのにあいつは何時間後に顔を出す気なんだ?」

 真司も同じ気持ちなのだろう。さすがに呆れ果てている。

 「どうするんですか?もう一度電話で説得しますか?」

 玲士は心配しながら梨恵を見た。呆れてはいるがこのまま放っておくわけにはいかない。

 梨恵は首を横に振り玲士の案を否定した。

 「瑞希のことだからどうせ着信無視するに決まっているわ。向こうがそのつもりなら、こっちにも考えがあるわ」

 瑞希なら確かにあり得る。鞄に入れていたとかマナーモードにしていたとか適当な理由を付けそうだ。だがどうやって瑞希を止めるつもりなのだろう。

 そう思っていると梨恵がこちらを見ているのに気がついた。こちらを見ながらニヤリと笑っているのはいったい何故だろう。正直言って嫌な予感しかしない。

 「後輩くん。先輩からの命令です。今から言うことを実行しなさい」

 「格好よく言いたいのでしょうけど、俺が可能な範囲でお願いします」

 びしっとこちらに指をさしてくる梨恵に無駄とは思うが一応要望は言っておく。

 「大丈夫、簡単なことよ。今から瑞希の家に行って瑞希を止めればいいの。ほら、簡単でしょ?」

 「どう考えても簡単じゃないでしょ!」

 一体何を言っているのだろうこの人は。俺があの瑞希を止める?実行する前から結果が見えている。

 「そもそもなんで俺なんですか?この場合適任なのは笹苗先輩でしょう」

 いくら同じ生徒会メンバーでも瑞希との付き合いは二人に比べれば短い。見舞い目的でも家に行くならば同性の梨恵の方が適任である。

 それにそれほど親しくも無い玲士が部屋に入るのは瑞希が嫌がるだろう。

 「私が行っても構わないけど、その場合ここの仕事を全部宮っちに任せちゃうことになるけど、後輩くんはそれでもいいの?」

 「それは……確かに良くはありませんけど……」

 生徒会の仕事はある程度こなせるようにはなっているが、最終判断はまだ瑞希や梨恵達に頼っている。

 瑞希がいない中、さらに梨恵が抜けるとなると必然的に真司がすべて判断していかなければならない。

 さすがに玲士も一人にすべてを負担させたくはない。

 「でも、男の俺が行くのはまずいでしょ。」

 「別に初対面の人が行くわけじゃないんだから問題ないわよ」

 玲士が懸念していたことを特に気にした素振りを見せない梨恵。

 初対面じゃなくても問題あると思ってしまうのは自分だけなのだろうか。それとも玲士が気にし過ぎているだけなのだろうか。言われても流石にまだ行くのは気が引けてしまう。

 「それに瑞希の家には宮っちも行ったことあるんだから、後輩くんが初めてなわけじゃないよ」

 「そうなんですか?」

 確認のために真司を見ると少し間があった後に無言で頷いた。真司が行ったことがあるなら確かに行くことに問題はない。

 玲士は溜息をついた。結局は梨恵の指示通り行くしかなさそうだ。

 「わかりました。でも会長の家は何処なんですか。当然ですけれど俺は知りませんよ?」

 「安心しなさい。正門を出たら左に曲がって大通りに沿って真っ直ぐ進めば見えてくるから。詳しい場所はスマホに送るわ。だから早く行って来なさい。あっ、これ瑞希の合鍵ね」

 そう言いながら鍵を玲士に握らせる。

 なんと大雑把な説明なんだ。梨恵らしい説明を聞きながら玲士は荷物を鞄に戻す。

 「それじゃあ行って来ますね。ちゃんと詳しい住所送ってくださいよ」

 荷物をまとめ扉に手をかけたところで振り返る。

 真司は黙々と作業を再開している。梨恵はソファーに寝ころび「頑張ってね~」とこちらに向けてスマホを持った手を振っている。

 ……住所を送った後ちゃんと真司を手伝ってくれるはず。そう信じたい。そんなことを考えながら玲士は扉を閉めた。


 「どういうつもりだ」

 二人きりになった生徒会室。そんな中、真司はじろりとソファーに寝転んでいる友人を睨んだ。

 そんな視線をものともせず梨恵はソファーでだらけている。

 「なにが~?」

 「確かに俺は瑞希の家に行ったことはある。だが、それは入学前に引越しの手伝いでお前と一緒に行っただけだ。その時以外では行ったことはないぞ」

 「まぁ、そうだよね~」

 梨恵はスマホを操作しながら相槌を打つ。

 「でも嘘は言ってないでしょ?だから何の問題も無いわ」

 「田宮に何かさせるつもりなのか?」

 梨恵は確かに嘘は言っていない。それでもわざわざこんな回りくどいことをするには何か理由があるはず。いったい梨恵は何を考えているのだろうと真司は梨恵の答えを待った。

 「後輩くんに何かして欲しいとは思ってないよ。もし瑞希が恥ずかしい思いでもしたら、それはそれで私達を心配させた罰にはなるわ」

 ニヤニヤと笑っている梨恵を横目に真司は小さく溜息をついた。つまるところ梨恵は瑞希にそんな展開が起こることを期待しているのだろう。

「瑞希のことをあいつに任せるなら、梨恵はこっちに来て手伝え。」

 真司の言葉に「りょうか~い」と返事をしながら梨恵はスマホの送信ボタンをタッチした。


 正門を出たところでスマホが震えた。

 確認してみると梨恵から瑞希の家の地図が送られていた。大通りに面したマンションのようで、真司の言った通り確かに真っ直ぐ進めば見えてくるだろう。

 スマホでおおよその位置を確認した後、玲士は瑞希の家に向かって歩き始めた。


 「ここか」

 玲士は目の前の建物を見上げた。

 マンション「コンジェラシオン」。七階建てのごく一般的なマンションだ。

 スマホの地図を片手にここまで来たが、辿り着くのは正直何の問題もなかった。

 梨恵が言っていたように大通りに面しているのでマンション名さえわかればすぐに目的地だと分かった。

 「さて、行くか」

 スマホをポケットにしまい玲士はマンションの入り口に向かって歩き始めた。

 左手には近くのコンビニで買ってきたゼリーやプリン、スポーツドリンクなどが入っている。

 瑞希の風邪がどの程度まで悪化しているのかよくわからなかったから、とりあえずてきとうに買っただけだ。

 エレベーターに乗り込み目的階である四階を押してエレベーターが上昇し始める。

 四階に着いた玲士はまっすぐ廊下を進んで行く。部屋に近づくにつれて徐々に緊張し始めているのが分かる。左手に持った袋を持つ手が汗ばんでくる。そもそも誰かの家に行ったことがこれまで一度も無かった玲士にとって初めて訪れるのが女子の家。それもあの瑞希の家なのだから緊張もする。

 玲士は歩きながら瑞希のことを考えていた。生徒会室で梨恵から聞いた時は動けないほどに悪化していたらしいが、今はどうだろうか。

 電話で話していたようにまだ動こうとしていたら止めないといけないが、意地でも自分の意思を曲げようとしない瑞希を説得できる自分の姿が想像できない。

 答えの出ないことを考えながら歩いていると、目的の部屋がもう目の前まで迫っていた。

 木目調のデザインな扉には四〇八と部屋番号のプレートが取り付けられている。

 そして扉のすぐそばにはインターホンが取り付けられており、上には「白峰」の文字がある。

 表札の名前を確認した玲士はインターホンを押した。呼び出し音が鳴りそのあと静かになるが、インターホンから返事はない。

 念のためもう一度インターホンを押して呼び出してみるが、さっきと同じで返事は返ってこない。

 「寝ているのかな?」

もしかしたら諦めて今は寝ているのかもしれない。そうならこれ以上インターホンを鳴らすのは迷惑だろう。ただ瑞希が寝ているのを直接見たわけではないので確証が無い。

 流石に梨恵から様子を見てこいと言われて合鍵まで持たされているからには、確認をしないといけないだろう。

 上着のポケットに入れてあった鍵を取り出し、掌の上でそれを見た。玲士は一度深呼吸をして合鍵を鍵穴に差し込んだ。

 「お邪魔します。会長、田宮です」

 扉を開けて中に声をかけてみるが、返事はない。

 玄関から細い廊下が続いており、その先にあるリビングに繋がっている扉は閉められている。

 玲士は廊下を進み、一旦扉の前で立ち止まった。

 「会長。田宮です。笹苗先輩達に頼まれて様子を見に来ました。大丈夫ですか?」

 扉をノックして声をかける。物語の主人公ならそのまま入ってラッキースケベな展開が発生するのだろうが、玲士はその可能性を潰しておく。

 自分は物語の主人公になりたいわけでもないし、ましてやテンプレのような展開など—若干気にはなるが——望んではいない。

 相変わらず返事がないので「入らせてもらいます」と声をかけてから玲士は目の前の扉を開けた。

 扉の先は九畳ほどの部屋が広がっており隅にはベッド、中央にはカーペットが敷いてありそこで瑞希が座り込んでいた。目の前のテーブルに突っ伏した状態で。

 「会長⁉」

 玲士は持っていた袋や鞄を放り出し慌てて瑞希に駆け寄った。

 「会長、大丈夫ですか?」

 肩を揺すり瑞希に声をかけながら玲士は表情をうかがった。

 目を閉じたまま苦しげな表情で荒い呼吸を繰り返している瑞希は見ているだけでも辛そうだ。

 「んぅ。田宮君?」

 片目をわずかに開けこちらを見た瑞希は小さな声でようやく返事をしてくれた。

 「そうです。俺ですよ会長。っていうかどうしてこんな所にいるんですか!寝ていなきゃダメじゃないですか!」

 瑞希は淡い青色のパジャマを着ているが、その上には何も羽織らない状態でいた。体調を崩しているのにこんな場所で座り込んでいるのは悪化するだけだ。

 「決まっているでしょう。学校に行くために用意をしていたところよ。……今は少し、休んでいただけ」

 「こんな状態で行けるわけないじゃないですか!」

 思わず玲士は口調が強くなった。いったい何を言っているんだろうかこの人は。あまりにも自分のことを顧みなさすぎる。

 「とにかくベッドに行きましょう。立てますか?」

 手を引きベッドまで連れて行こうとしたが、瑞希は座り込んだまま動かない。

 熱もあるのだろう。握った手を通して瑞希の熱い体温がよくわかる。

 「私……は大丈夫……よ。気に……しなくても……いい」

 瑞希の言葉が途切れ始め、玲士が握っている手も振りほどこうとはしない。

 これは本当にまずいかもしれない。

 「会長、失礼しますね」

 もう無理矢理連れて行くしかない。玲士は座り込んだままの瑞希に手を伸ばし抱き上げた。いわゆるお姫様抱っこ状態で運ぶことになる。

 抱き上げた瑞希は玲士の腕の中で抵抗もせずされるがままとなっている。相当辛いのだろう。

 腕の中に瑞希がいて密着している部分からより体温が感じられる。これまで女子を抱き上げた経験が無かったので、自分の鼓動が早くなっているのが分かるが頭を振って考えを振り払った。——今はそんなことを考えている場合ではない。

 瑞希をゆっくりベッドに下ろし掛布団をかける。

 玲士は放り出したままの自分の荷物に近寄り、鞄を開けた。鞄の中を漁り中から少し大きめのタオルを取り出しキッチンへ向かった。キッチンでタオルを濡らしてきた玲士は瑞希の元へと戻り、タオルを額に乗せておいた。

 流石にここまで悪化しているとは思わなかったので冷却シートは買ってはいなかった。薬の類はすぐには用意できないが、マンションの近くにはコンビニがあったはず。玲士は急いで玄関に向かって歩き出した。


 「うっ」

 ベッドにもたれかけるように座っていた玲士は後ろから聞こえてきた瑞希の声に気がつき振り返った。

 瑞希はうっすら瞼を開けて天井を見上げている。

 「会長起きましたか?」

 玲士はベッドの端から覗き込んだ。天井を見ていた瑞希の視線がこちらに向いた。

 訪れた時よりも心なしか表情が和らいでいるように見えるのは気のせいだろうか。

 「田宮君?私は……」

 「会長があまりにも辛そうだったんで、ベッドまで運びました。体調はどうですか?」

 「……少しはましになっているわ。今は何時かわかる?」

 右手を額に当て布団の中で身じろぎしている瑞希を横目で見ながら玲士はスマホを取り出した。

 「今は……十二時半を過ぎたところですね。額のシートは俺が勝手に貼らせてもらいました」

 玲士が瑞希の家に着いてから一時間程度しか経っていない。

瑞希から「そう」と声が聞こえた後、もぞもぞと動き始めたので、玲士が視線を戻すと、なんと瑞希が起き上がろうとしていた。

 「ちょっと⁉何をしているんですか!」

 慌てて玲士はもたれていた体を起こした。

 「まだこの時間からでも遅くないわ。着替えて学校へ行くのよ」

 「いくら何でも無茶ですよ。おとなしく休んでください!」

 「大丈夫。さっきよりも怠さはましになっているから心配しなくてもいいわ」

 そう言いながら起き上がろうとしているが力が入らないのだろう。瑞希は上半身すら起こせずにいる。

 「いいから、休んでください!」

 そう言いながら玲士は起き上がろうとしている瑞希の両肩をつかみ、ベッドに押し戻した。瑞希はあっさりと押し戻されベッドに沈みこんだ。

 押し込まれた瑞希は驚いた顔をしている。

 「今の会長が優先すべきなのはおとなしく休むことです!これ以上無理するなら俺がこのまま会長を押さえつけていますよ?」

 玲士は瑞希の両肩を抑えたまま動こうとはしない。瑞希の顔が間近にあり、吸い込まれそうな綺麗な瞳に自分の顔が映っている。これ以上は無理矢理にでもおとなしくしてもらうしかない。

 「強引なのね田宮君は」

 「これぐらい出来ないと会長の補佐はできませんよ」

 ベッドに抑え込まれている瑞希は起き上がろうと抵抗していたが、しばらくすると全身から力が抜け起き上がろうとしなくなった。瑞希の体がさらにベッドに沈みこんでいく。

 大人しくなったのを確認してから玲士はゆっくり瑞希から手をどかして様子を見た。やっぱりまだ調子が悪いのだろう。全身から力が抜けると徐々に瞼が下がっていき最後は穏やかな寝息が聞こえてきた。

 調子を崩しているとは思えない穏やかな寝顔だ。

 その寝顔から視線を外せないでいると、瑞希がわずかに身じろぎした。その動きでハッと我に返った玲士は起こさないようにゆっくりと布団をかけ直し、瑞希から視線を外してベッドから離れた。

 一旦リビングから廊下へと移動した玲士はスマホを取り出して相手を呼び出す。

 「はいは~い。後輩くんどうだった~?」

 相手は梨恵だ。静かな廊下で聞く梨恵の声はいつもより大きく聞こえる。

 「連絡するのが遅くなってすみません。一応会長をベッドで寝かせはしました」

 玲士は少し声を抑えてこれまでのことを話した。

 「そっか~。そんなことがあったんだね。お疲れ様」

 玲士からの報告を聞いた梨恵はいつも通りのんびりとした口調だったが、その声には安心したような安堵の響きが含まれている。

 「じゃあ後輩くんはこれからどうする?こっちに戻ってくる?」

 「いえ。俺はこのまま会長が起きるまでいようと思います。会長の様子も気になりますし、また無茶されても困るので」

 今はおとなしく寝ているが、直前まで起き上がろうとしていたから心配だ。このまま残って様子を見ておいた方がいいだろう。

 「そっか。助かるよ、ありがとう。後輩くんが良ければ私の方からお願いしようかなって思ってたんだ」

 「大丈夫ですよ。会長には俺から行く必要はないと伝えておきますね」

 玲士が通話を切ろうとしたところでスマホから「ちょっと待って」と梨恵の声が聞こえた。

 切ろうと下げていた手を戻して再び耳にスマホに耳を近づける玲士。何か伝え忘れがあったのだろうか。

 「そのまま瑞希の家にいるなら伝えないといけないことがあったわ」

 さっきまでののんびりとした口調から真剣なものに変わっており、玲士も自然と気持ちを切り替えた。

 あの梨恵が真剣になるほどだ。部屋の主が眠っている女子の部屋に居続けるのだから、自分の行動は注意しなければならない。

 もちろんおかしなことをするつもりは微塵も無いが、意図せず瑞希の嫌がる結果に繋がるかもしれない。友人の梨恵ならばその辺り、ある程度は知っているかもしれない。

 玲士は聞き逃すまいとこれから聞こえてくる梨恵の言葉に集中する。

 梨恵が「あのね」と前置きしたあと、

 「今の瑞希は弱っているからね。間違っても襲っちゃだめだぞ」

 「……」

 真剣に聞こうとしていた自分が馬鹿らしく感じる。

 「どうしたの後輩くん?もしかしてそのつもりだった?」

 「何を言っているんですか!そんなこと言われるまでもなくしませんよ!」

 からかい交じりの声が聞こえてきて、スマホの向こうで梨恵がニヤニヤしているのが想像できる。玲士は大声にならないよう注意しながら通話口に向かって言い返した。

 スマホから梨恵の笑い声が聞こえてくる。……もう切ってしまってもいいのでは?

 もうこのまま通話を切ろうかなと思っていると「ごめんごめん」と梨恵の声が聞こえてきた。

 「まぁ実際のところ瑞希のこと見ていてくれるなら、私からはこれ以上何も言うことはないわ。強いて言うなら瑞希が起きたら『月曜までおとなしく寝てなさい』って伝えといてくれる」

 「それならかまいませんよ」

 スマホから「じゃあね~」と聞こえた後、通話が終了し玲士はポケットにスマホを入れ瑞希の元に戻った。


 どれくらい時間が経っただろうか。カーテンから差し込む光に赤みが混じり始めたころベッドで瑞希が身じろぎした。

 玲士はさっきまで読んでいた文庫に栞を挟み振り返った。

 「会長、調子はどうですか?」

 玲士は顔だけ瑞希の方に向けて聞いた。

 「……だいぶ楽になったわ。どれくらい寝ていたのかしら?」

 昼に目覚めた時と同じように右手を動かし、額に乗せたままで瑞希は答えた。

 「……今は五時過ぎですね。言っておきますけど、もう生徒会の仕事は終わっているので今から行っても開いていませんからね。笹苗先輩からは『月曜までおとなしく寝てなさい』とのことです」

 時間を聞いてきたのに答えながら玲士は瑞希に伝えるべきことを先に伝えた。

 瑞希が寝ている間に玲士のスマホに梨恵からメールが届いていた。

 「もう生徒会は閉めるから、来ても入れないよ~。瑞希が起きたら伝えといてちょうだいね~」とわざわざ正門が閉められているところの写真まで添付してあった。

 玲士は梨恵からのメールを見やすいように瑞希の目の前にかざす。

 瑞希は「そう」と呟くだけで、起き上がりもせず手を額に乗せたままでいる。

 天井を見続けている瑞希は玲士がいつも学校で見ている頼れる印象とは違い、弱弱しく別人のように見える。

 「会長食欲はどうですか?」

 しんみりした空気を切り替えようと玲士は立ち上がった。

 買ってきたゼリーなどは瑞希が寝ている間に冷蔵庫に入れておいた。

 勝手に冷蔵庫を開けるのは気が引けたが、常温のまま置いておかずに玲士の判断で最終的には入れた。事後報告の形になってしまったことを謝ったが、瑞希は気にした様子も無かった。

 冷蔵庫に向かおうとした玲士の背後から「田宮君」と小さな声で呼ばれた。

 「どうしましたか?」

 玲士は冷蔵庫に向かおうとした足を止め、振り返った。

 瑞希はベッドから体を起こさず、顔だけ動かしてこちらを見ている。

 玲士はベッドの側まで戻り、会話しやすいようその場に座った。

 「……して、……るの。」

 「え?」

 「どうして田宮君はそこまでして私に関わろうとするの。今回のことは私の体調管理ができていなかったせいで、田宮君が責任を感じる必要は無いはずよ」

 小さな声で呟かれた言葉に玲士は最初何を言っているのかわからなかった。

 寝たままの状態でこちらを見てくる瑞希の目は真剣で、本気で知りたいという思いが伝わってくる。

 「体調を崩してしまった先輩を心配するのはおかしいですか?」

 玲士は苦笑しながら答えた。

 「心配してくれるのは嬉しいわ。けど、それなら用事だけ済まして帰ればいいだけでしょう。こうしてずっと残っているのは何故?」

 瑞希は納得しておらず、さらに言葉を重ねる。玲士の表情からはぐらかされているのだと感じたのだろう。

 「会長が心配だったのは本当ですよ。それに昨日、一緒に残ろうとせずに帰ってもらうよう努力していればと後悔している部分もあります」

 玲士は心の中で思っていたことを正直に話した。

 そう。瑞希が眠っている間、玲士はそのことが頭から離れなかった。

 どうしてあの時、一緒に残ろうと決めてしまったのか。どうして無理にでも帰そうとしなかったのか。

 ただの風邪がここまで悪化するとは勿論思っていなかったし、結果論からの後悔であるのも分かっている。それでも別の選択肢があったのではないかと思ってしまう。

 玲士がこの部屋で最初に見た瑞希の苦しそうな表情でより強く後悔が玲士の中にはあった。あんな苦しそうにしている瑞希を玲士は見たかったわけではない。

 「それは、それこそ私の管理不足でしょう」

 瑞希の口調が強くなる。

 「そうですね。確かに俺が関わるほどのことでもないかもしれません。」

 「それでも」と玲士は付け加え、

 「あんな苦しそうな会長を放っとけるわけないじゃないですか」

 思い浮かぶのはテーブルに突っ伏したまま動くことができなくなっている瑞希の苦しそうな表情。

 瑞希は目を丸くし、何も言わない。少しキザっぽいセリフだっただろうか。

 少し気恥しくなり玲士はゼリーを取りに冷蔵庫へ向かった。

 さすがに朝から何も食べていなかったので食欲はあるようだ。玲士が買ってきたスポーツドリンクを傍らにゼリーを少しずつ口にしている。

 瑞希が食べている間、玲士は彼女から視線を外している。食べる姿をじっと見られているのは流石に食べづらいだろう。

 「私の両親は昔から家を空けることが多かったの」

 「えっ?」

 不意に話し始めた瑞希に玲士は、意図が分からず振り返る。

 「二人とも会社の責任ある役職に就いていたから自然と帰りが遅くなっていたの」

 食べかけのゼリーに視線を落としたまま話す瑞希を玲士は黙って聞く。

 「自然と家に一人でいることが多くてね、誰にも頼れないからどうしても一人で何とかしなければならなかったの」

 「生徒会の仕事を一人で抱え込むのはそれが影響しているんですか?」

 玲士が言ったことに黙って頷く瑞希を見て、玲士は内心納得した。

 小さい頃から誰かに頼ることはせず一人で何とかしてきたらからこそ、今も同じように行動しているのだろう。だからこそ周りにどう頼っていいのかわからない。

 「さっきも言いましたが、会長は一人じゃありませんよ」

 玲士は笑みを浮かべながら瑞希に話しかける。

 「今は笹苗先輩や宮川先輩もいますし、俺もいます。一人で抱え込まずに相談してくれてもいいですし、頼ってください」

 玲士は思っていることを伝えた。確かに瑞希は幼い頃は一人で背負うことしかできなかったのかもしれない。

 しかし、今の生徒会は瑞希一人ではない。相談できる相手もいれば助けてくれる人もいる。これまで頼ることができなかった分頼ってほしいと思う。

 「それじゃあ、そろそろ俺は帰りますね」

 学校も閉まって、瑞希も顔色も訪れた時よりも良くなっているように感じた玲士は帰ろうと立ち上がった。さすがに今から外出しようとは思わないはずだし、不必要に長居しすぎるのも良くないだろう。

 帰ろうとする玲士に瑞希は「そう」と返しただけだ。

 「田宮君」

 廊下への扉に手をかけたところで背後から呼ばれた。

 「なんです……か……」

 振り返りながら出た言葉は最後まで言い切れたかどうかわからない。

 玲士は視線の先の光景から目を離せないでいた。

 視線の先には瑞希がいる。瑞希はベッドの上で体を起こし、振り返ってこちらを見ている。

 「ありがとう」

 瑞希のお礼に玲士は何も反応することはできなかった。玲士はその場で棒立ちになっている。

 「田宮君?」

 「す、すみません。会長はおとなしく休んでくださいね。今度は生徒会で会いましょう」

 いつまでも動かない玲士に瑞希は訝しげな表情になった。

 ようやく我に返った玲士は早口で退室を伝え、早足で玄関の扉を開けてマンションの廊下に出た。

 背後で玄関の扉が閉まった後、玲士は扉にもたれかかった。

 鼓動が早くなっているのが分かる。どうして鼓動が早くなっているのか理由は分かりきっていた。さっきまでの光景がまだ鮮明に思い出せる。

 「不意打ち過ぎるだろ」

 そう言わずにはいられなかった。

 「ありがとう」そう言った瑞希は玲士がおもわず見惚れてしまうほど優しげな表情で笑っていたのだから。



 週明け、玲士はいつも通り夕方生徒会に顔を出していた。

 梨恵と真司は参加していないので今日も瑞希と二人きりだ。玲士はちらりと瑞希を見る。

 瑞希は黙々と作業をこなしている。その様子に玲士は先週に見たあの笑顔は見間違いだったのかと思ってしまう。

 大丈夫だと信じていても瑞希の体調を心配していた玲士だったが、本人は放課後いつも通りに生徒会に顔を出した。

 「一昨日は心配させてしまったわね。私はもう大丈夫よ」

 生徒会室に入って来た瑞希は開口一番それだけ伝えた後、いつも通り自分の席について作業を始めてしまった。

 体調を崩す前と変わらない状態。それでも以前と変わったところもある。

 「田宮君。演劇を予定しているクラスの演目はすべて揃っているかしら?」

 「えーっと。……そうですね。今日最後のクラスが提出してきたので、内容を許可すればすべて揃いますね」

 玲士は「演劇」とテープが貼られたファイルを手に取りリストを確認する。

 そして書類ケースに手を伸ばし、「許可待ち」の棚から演劇を申請しているクラスの活動計画書を取り出して瑞希に渡した。

 瑞希は玲士から書類を受け取り、書かれている内容をじっくり読みこんでいる。

 「これなら問題無いわね。あとはスケジュールの調整ね……」

 瑞希は書類を玲士に返し、持っていたペンでこめかみ辺りをぐりぐりしている。

 各クラスの出し物の中で一番スケジュール調整に苦労するのが演劇で使用する大ホールである。

 スペースの割り振りをする屋外とは違い、演劇ができる大ホールは一つだけだ。

 その大ホールでの演劇は文化祭期間毎日行われる。

 毎日の演目内容に偏りが出ないようにできる限りジャンルを分散し、調整しないといけない。演目ジャンルごとに仕分け、それぞれの日に割り振ったうえで一日のスケジュールを決める。

 小規模な学校なら大した問題ではないが、生憎とこの学校の文化祭は他校よりも規模が大きい。

 一人で考えるにしてもある程度時間は必要になるだろう。

 「それなら、俺がとりあえず考えてみますよ。会長は後でそれを確認してもらってもいいですか?」

 「それは私が……いえ。それなら、頼んでもいいかしら?」

 「わかりました」

 瑞希は一瞬手を止めたが、玲士の提案を受け入れてくれた。

 そう。玲士が瑞希の仕事を引き受けようとしても瑞希はそれを拒まなくなった。誰かに任せることを頑なに拒んでいた以前と比べると良い傾向である。

 まだ多少他人に任せることに抵抗を感じているようだが、じきに慣れてくれるだろう。

 瑞希から頼られる。そのことに嬉しさを感じながら、玲士は演劇のスケジュールを組み始めた。



 「今日こそ私達のクラスの出し物を決めるわよ!!」

 数日後、教室でクラス委員である佐嶋の声が響いた。

 佐嶋の背後の黒板には「文化祭出し物」と大きく目的が書かれている。

 目的は書かれてはいるが、その先に続いているはずの案が無い。

 「文化祭までそろそろ一か月を切ろうとしているから、決まるまで全員帰さないわよ」

 佐嶋の宣言にクラスから不満の声が上がるが、佐嶋は取り合わない。

 「あ~、委員長。俺、生徒会が、」

 「生徒会は後回し!田宮君も決まるまではどこにも行かせないわよ」

 「……あ、はい」

 この空間から逃れようとゆっくり手を上げた玲士だが、佐嶋にぴしゃりと言われてしまい、上げた手を下すしかなかった。こうなると決まるまで教室に残るしかない。

 自分のクラスの出し物についてだが、玲士は生徒会の見回りがあるためにそれほどクラスの出し物には参加できない。その為参加しない出し物に関してあまり積極的には参加していない。クラスメイトが騒いでいるのを玲士は頬をつきながら眺めていた。

 「やっぱりここはメイドカフェ一択だろう!それなら俺達は喜んで協力するぞ!」

 「嫌よ!なんで私達がそんな恥ずかしい格好をしなくちゃいけないの!」

 「俺達は裏方で調理係をやるからいいだろ」

 「それなら私達が調理係やるからあんた達が代わりにやりなさいよ」

 「俺達がメイド服着たらただの変態じゃねぇか!」

 男子と女子の派閥に分かれて話し合いが白熱し始めたが、内容がなんともアホらしい。

 しかし、どうやらカフェにすることには異論はないようだ。

 (カフェか。それならよっぽど変なことにならない限りは申請通りそうだな)

 玲士の頭の中ではその先、生徒会の処理について考えていた。騒がしい教室の中で玲士はぼんやりと考えていると、

 「あ~。皆ちょっといいか」

 「なんだよ隼。お前はメイド反対派か?」

 隼がおもむろに手を上げクラスの皆が注目する。指摘する部分はそこなのかと玲士は心の中で突っ込みを入れる。

 「男子はメイドカフェがやりたいが、女子はそれが嫌だ。でもカフェをやること自体は構わないんだよな?」

 「あぁ」

 「そういうことね」

 隼の話を静かに聞くクラスメイト。さっきまでの白熱具合が嘘のようだ。この切り替えの早さはこのクラスの強みでもある。騒ぐ時は騒いで話を聞く際はすぐに静かになる。口にすると単純なように聞こえるが、実際はそう簡単なことではないだろう。

 そんな中、隼の話は続く。

 「それならメイドカフェみたいな派手なやつじゃなくて、おとなしめの喫茶店みたいなのにしないか?」

 「おとなしめ?」

 「あぁ。相手と積極的に関わるようなカフェじゃなくて、主人の後ろに静かに控えているタイプ。あるだろ?昔のヨーロッパ辺りでそんな職種みたいなの」

 隼の言葉にあちこちから「ああ~」と納得の声が漏れる。玲士はその辺りの職種に詳しくはないが、本でそんな存在は確かにいた。

 玲士が知っているのは王族や貴族などの位の高い人物に付き従っているイメージだ。確かにその役職に携わっている人は目立たないながらも主人のサポートをしっかりとこなしている。これも一種のメイド業務に近いだろう。

 従者のような立場なら男性でもその職種に携わっている者はいたはずだ。確かに隼の提案なら男女で役割を分ける必要は無くなる。

 「カフェね。いい案じゃない」

 佐嶋はそう言いながら黒板にカフェと書いていく。

 (そこは構わないんだな)

 話し合いには積極的に参加せずに一歩引いた形で話を聞いていた玲士は気づいていた。メイドカフェが提案された時、佐嶋はその提案を聞き流し黒板に書こうとすらしなかった。意見を求めながらも行動しなかったのは佐嶋自身内心嫌だったのだろう。

 「カフェならメニューはどうするの?あまり凝ったのは作るのに時間がかかるわよ?」

 「別に無理して作らなくてもいいんじゃないか?単純に休憩できる場所でも問題ないだろ」

 隼の発言に玲士は目を丸くした。

 「隼、それだと軽い応対だけで何もすることがないぞ。そんなんでいいのか?」

 隼の案だとわざわざクラスでやるメリットが無い。おそらくクラスのメンバーはただ休憩しに来た人を眺めるだけの時間が多くなってしまうことになるだろう。

 クラスでわざわざせずとも使わない部屋を適当に休憩スペースにしておけばそれで十分だと思う。

 そんな玲士の言葉を隼は首を横に振って否定した。

 「甘いな玲士。いくら文化祭を数日かけてやるとはいえ、各クラスを回るだけでも大変だ。そんな中でゆっくりと休憩できる場所は貴重だぞ」

 「飲み物だけなら別にクラスでやることないだろ」

 「流石に飲み物だけじゃ味気ないから、ちょっとした菓子ぐらいは用意してもいいだろう。メンバーは前半と後半に分ければ他のクラスも見に行けるだろ」

 玲士の疑問に苦も無く答えていく隼。思っていた以上に真面目に考えていた隼を玲士は意外に感じた。

 なぜ隼はここまで真剣に考えるのだろうか。

 「飲み物はできる限り種類があった方がいいよな。定番はとりあえず揃えておくか」

 「お菓子は手が汚れるのは避けた方がいいわよ。ポテチとかは論外ね」

 「ウエットティッシュ用意しとけばいいんじゃないか?わざわざ外す必要ないだろ」

 玲士の疑問をよそにクラスメイトは内容の議論を交わしていた。隼の提案が行き詰まりかけていた議論に突破口を作ったようだ。

 カフェ以外の案は出ていないが、もうカフェにすることは自然と決まっているようだ。

 「言っておくが派手なことをしない分、衣装はしっかりとこだわらないとあの生徒会長を納得させられないからな。そこは協力してくれよ」

 「へ~い」「りょうか~い」と返事が返ってきた。

 「やっぱり布選びが重要よね」

 「デザインは任せて!今回の文化祭でぴったりな衣装の資料は私持っているわ」

 「……ようやくありのままの姿で学校に行けるのね!」

 「ちょっと⁉何か勘違いしている人がいるわよ⁉」

 変にこだわりを持っている一部のメンバーを中心に騒がしくなっているのを見届けると隼はそれ以上何も言わず机に突っ伏した。

 「おい隼。どうしたんだ」

 「ん?何がだ」

 クラスメイトが話し合っている中、玲士は隼に話しかけた。

 隼は突っ伏したままの状態のまま顔だけ玲士に向けた。

 「お前、文化祭なんてこれまで積極的に参加しようとはしなかっただろ。なんで今年はそんなやる気なんだ?」

 隼は文化祭にそれほどこだわりは無かったはずだ。実際この二年は裏方で作業しかしていなかった。

 「別にやる気があるわけじゃないぞ。これなら長時間頑張る必要がないからな」

 隼は特に気にした様子もなく話した後、少し声を抑え、

 「それに女子にメイド服着てもらおうと思ったらこれぐらいはしないとな」

 「……」

 ニヤリとする隼に玲士は何も言えなかった。結局のところは目の前の友人も他の男子と同じく、メイド服を推していたようだった。



 「お礼、ですか?」

 玲士は手を止め困惑した表情で相手を見ていた。文化祭に向けて本格的に忙しくなってきた。

 すでにクラスの出し物はすべて決まっており、生徒会はスケジュールの調整と文化祭のパンフレット作製に追われていた。

 いつも通り二人だけの生徒会室。そんな中瑞希は言ったのだった。お礼は何が欲しいのかと。

 「そう。この前私の看病をしてくれたでしょう。そのお礼をしたいのだけれど、何がいいのか私にはわからなかったわ。だから田宮君に聞くことにしたの」

 瑞希も手を止め、真っ直ぐこちらを見ている。

 「いやいや。俺は大したことはしてませんから、気にしなくてもいいですよ」

 玲士は慌てながら目の前で手を振った。お礼をされるようなことはしていない。

 「それだと私の気が済まないわ。田宮君には受け取ってもらわないといけないの」

 目を閉じながら言う瑞希に玲士はどうしたものかと悩んだ。

 瑞希は絶対にお礼を返すまで納得はしないだろう。しかし玲士は見返りが欲しくて瑞希の側にいたわけではない。流石に何かをもらうのは抵抗がある。何かいい案はないだろうか。

 顔をしかめ、うんうんと悩んでいる玲士に救いの手を差し伸べたのは提案した瑞希であった。

 「田宮君の好きな料理は何かしら」

 「えっ?好きな料理ですか?」

 「そうよ。田宮君の食べたいものを今度作ってきてあげるわ。それならいいでしょう」

 瑞希の提案を少し考え、玲士は受け入れることにした。それならお礼として受け取っても何ら問題はないだろう。

 材料費の単語が口から出かかったが、出さずに飲み込んだ。

 ここは瑞希の厚意に甘えよう。そうなると作ってもらうのはいったい何がいいだろうか。頭の中でいくつかの料理が浮かぶが、どれもしっくりこない。

 しばらく頭の中で料理が浮かんでは消してを繰り返し、玲士の口から出た料理は、

 「肉じゃが、ですかね」

 「肉じゃが?」

 瑞希は目を丸くしている。何かおかしいことを言っただろうか

 「どうかしましたか」

 「いえ。意外だと思ってね。田宮君は肉じゃがは作れないのかしら?」

 瑞希は顎に手をやりながら聞いてくる。

 「作ることはできますよ。でも、俺が好きなのは味がよく染み込んだ肉じゃがなんですよ」

 「時間をかければ染み込むでしょう?」

 瑞希がますます理解できない表情になる。瑞希の言うことはごもっともだ。

 「俺って作ったらすぐ食べちゃうんで、あんまり煮込むのに時間かけたりしないんですよ。昔、時間かけたことはあるんですけど、具材が崩れちゃったんですよね」

 玲士は笑いながら右手で頭をかいた。

 一人暮らしの玲士はそこまで料理にこだわりを持たない。最低限美味しくできれば満足するからそれ以上は求めない。

 具材が崩れてしまったのは玲士のミスだが、それ以降は肉じゃがを極めようと挑戦していない。

 それでも食べたいとは思っていた。今回瑞希が料理を作ってくれるならいい機会だ。

 瑞希は黙って玲士の言葉を聞いていた。

 「あっ、別にそこまでこだわってもらわなくてもいいですからね。肉じゃがが好きなのは本当ですから」

 玲士は一応瑞希にそれだけは伝えておいた。瑞希のことだから変にこだわりそうな気がしそうだ。

 「わかったわ。今度作って来るからその時は連絡するわね」

 「楽しみにしていますね」

 瑞希の手作り料理。それを食べれることが嬉しいし、楽しみだ。家族以外で料理を作ってもらえるのは玲士にとっては初めてだ。

 「ちなみに肉料理とか答えていたらどうしていたんですか?」

 「料理の内容にもよるけど、牛肉なら黒毛和牛を、」

 「そこまでしないでください‼言っておきますけど、肉じゃがにも使わないでくださいね⁉」

 ただのお礼になんてものを使おうとしているんだこの人は。せっかくの手料理なのに、気を使ってしまって味が分からなくなってしまうではないか。ちなみに玲士の質問はあくまで料理の種類を聞いたつもりだったのだが、予想外な返事が返ってきたことには驚いたが聞いておいて良かったと心から思った。出来る限り常識の範囲で収まる料理になることを玲士は本気で願った。



 瑞希の手料理のイベントは以外にも早くやってきた。

 三日後。昼休憩の時間、玲士は生徒会にいた。

 今日は梨恵や真司が参加しており、久しぶりに生徒会室が賑やかになっていた。

 「後輩くん~目の前にある仕事が減らないんだけど~」

 「……そうですね」

 「私、こんなに今手を動かしているのに減らないなんておかしくない?こっそり私の仕事増やしているでしょ?」

 「……増えてはいません。あと言っておきますが減ってもいませんからね」

 果たしてこの問答は必要なのだろうか。玲士は内心そう思いながらも梨恵の会話に付き合う。

 「なんでよ?」

 「お弁当を食べるだけで仕事が減るなら、今頃大半は終わっているからですよ」

 玲士はジト目で梨恵を見る。梨恵は確かに手を動かしているが、それは手元にある弁当を食べる為である。そんなことで仕事が減るなら隼や他のクラスメイトを引きずってでも連れて来ている。

 「後輩くんは食べないの?もしかして買い忘れた?」

 梨恵は玲士の手元を見て言う。玲士の手元には小さなおにぎりがあるだけで他は何もない。普段の玲士はもう少し昼食のバリエーションがあるが今日は違う。

 「いえ、俺は今日、」

 そう言ったところで生徒会室の扉が開き瑞希が入ってきた。

 「あれ?瑞希今日はお弁当の量がいつもより多いわね」

 梨恵は付き合いが長いからか一目見ただけで普段と違う部分に気がついた。今日の瑞希はいつものお弁当に加え、タッパーを持ってきている。

 「ええ。でも私が全部食べるわけじゃないわ」

 「えっ?じゃあ誰の?」

 梨恵の疑問に瑞希は答えずに部屋の隅にある電子レンジにタッパーを入れて中身を温め、温めたそれを玲士の前に置いた。

 「はいどうぞ。約束の肉じゃがよ」

 「わざわざありがとうございます。それじゃあ、いただきますね」

 普段と変わらない淡々とした口調の瑞希にお礼を言いながら玲士は置かれたタッパーの中に入っている料理に目を向けた。瑞希の肉じゃがはじゃがいもが多めになっており、他の具材は少なめとなっている。それでもインゲンやニンジンなどが入っており色鮮やかだ。

肉じゃがと言っても人によって作り方には個人差が出てくる。具材の種類を多くする人もいれば最低限の具材しか入れない人もいる。

 じゃがいもを口にした玲士は目も見開いた。美味しい。濃過ぎず薄過ぎない絶妙な味付けだ。ジャガイモも煮崩れしていなく、中までしっかりと味が染み込んでいる。まさかここまで本格的な肉じゃがを作って来てくれるとは驚きはあるが、嬉しさの方が勝る。

 まさか玲士が口にした「味がよく染み込んだ」という部分をしっかりと守ってくれているとは。

 「とても美味しいですよ」

 「そうか。それはよかった」

 月並みな事しか言えないことに申し訳ないと思いつつも玲士は思ったことを素直に口にした。瑞希はほっとしたように表情をほころばせ、少し目を細めた。普段見せない瑞希の表情に玲士はドキッとした。

 「そ、そういえば作るのに時間かかったんじゃないですか?味がしっかり染み込んでいてびっくりしたんですけど」

 「それほど手間はかかっていないわよ。いつも私が作っているのと変わらないわよ」

 「そうなんですか⁉こんな美味しいのを作れるなんて羨ましいですね」

 なんと、瑞希はいつもこのレベルの料理を作っているのか。純粋にその料理スキルが羨ましい。このレベルで普段から料理をするということは意外にも瑞希は料理に関してこだわるタイプなのだろうか。

 「ん?」

 瑞希の手料理をゆっくりと味わいながら食べていたが、玲士はそこで視線が集まっているのに気がついた。

 玲士の感想を待っていた瑞希だけでなく梨恵や真司も食べるのを中断してこちらを見ている。二人の顔にははっきりと驚きの感情が出ている。いったい何を驚いているのだろうか。

 「どうかしましたか?」

 「い、いや、何でもないわ。気にしないで」

 梨恵に聞いてみても、結局何を驚いているのかわからなかったがとりあえず玲士は再び肉じゃがを食べ始めた。


 「ごちそうさまでした」

 「お粗末様。タッパーは持って帰るから置いておいてちょうだい」

 瑞希はすでに食べ終えており弁当の代わりに書類を広げている。

 「流石にこのまま返すわけにはいけませんよ。ちょっと洗ってきますので席を外しますね」

 玲士はタッパーを持って生徒会室の隣にある給湯室へ向かった。

 給湯室にあるシンクでタッパーを洗っている玲士は、突然背後から誰かから腕を回された。

 「うわっ!って笹苗先輩じゃないですか」

 思わずシンクに突っ込みそうになった体を何とか元に戻して振り返ってみると、腕を回していたのは梨恵だった。腕を回しているので梨恵の顔がすぐ横にある。

 「ちょっと!さっきのは一体どういうことよ!」

 「さっきのってどのことですか?」

 「そんなの決まっているでしょう。なんで瑞希が後輩くんに肉じゃがを作ってくるのよ。どう考えてもおかしいでしょう」

 給湯室は生徒会室に近いため梨恵は玲士だけに聞こえるように声を落として問い詰めてきた。

 あぁ。そういえば肉じゃがの件は瑞希と二人きりの生徒会で話していた。

 何も知らない二人からすれば瑞希が突然玲士に昼食を作ってきたみたいに見えるのか。確かに梨恵の立場になると困惑するのは当然だ。

 「それはですね、お礼ですよ」

 「お礼?」

 「俺が会長の家に行った日があったでしょう?その時、会長の看病をしたのでそのお礼をしたいと言われたんですよ。俺は大したことはしていないので気にしなくてもいいと言ったんですけど、会長が納得してくれなかったので今度手料理を振舞ってくれることで納得してもらったんですよ」

 「なるほどね~。でも、まさか瑞希が誰かに料理を作るなんて思わなかったわ」

 梨恵からの拘束が解かれて自由になったことで、玲士は中断していたタッパー洗いを再開した。梨恵の言葉には心底驚いたような響きが含まれている。

 「なんでそんなに驚いているんですか。笹苗先輩達は昔から一緒なんですから、食べたことあるでしょう」

 「無いわよ」

 「えっ?」

 玲士は動かしていた手を止め、困惑して梨恵を見た。手料理を作ってもらう機会が無かったのだろうか。

 「瑞希は誰かに料理を作ったことは一度も無いわよ。それこそ、私が頼んでも作ってくれなかったんだから。だから私は驚いているの」

 「頼んでも作ってくれなかったんですか?」

 「そうよ。昔作って欲しいと言ったことはあるけど、瑞希は絶対作ってくれなかったわ。むしろ食べられるのを避けてたぐらいだしね」

 梨恵の言葉に玲士は引っ掛かりを感じた。あれだけ美味しい料理を作れるのに何故瑞希は作ることも食べられるのも避けるのだろうか。友人である梨恵が頼んでも作らないなんてよっぽどの理由があるはずだ。

 そんな瑞希が玲士のために手料理を作ってくれた。これまでと今回では何かが違ったのだろう。

 「まぁなんにしても、瑞希がわざわざ手料理を作って食べたのは私が知る限り後輩くんが初めてということよ。羨ましいわね~」

 「……」

 梨恵の言葉に玲士は何も言えなかった。瑞希が最初に手料理を作ってくれたのが自分。そのことがなんだか嬉しく感じてしまった。


 「会長ありがとうございました」

 「わざわざありがとう。どう?これで良かったのかしら」

 「もちろんですよ。文句の付け所のない最高の肉じゃがでした」

 タッパーを瑞希に返した玲士は思っていたことを素直に口にした。瑞希はまんざらでもない様子で、

 「それほど大してことはしてないわよ。田宮君ならいずれ作れるわよ」

 「俺だとこんな美味しく作れないですよ。また食べたいって思っちゃうんですから」

 「それならまた……っ!」

 瑞希は途中でハッとしたように言葉を切り、口元に手をやった。どうしたのだろうかと玲士は怪訝な表情になったが、瑞希自身困惑したような表情をしている。瑞希が何に困惑しているのかわからない。

 「会長?どうかしましたか?」

 「……いえ。なんでもないわ気にしないで」

 気になって聞いてみるが何かは言ってくれず瑞希は手元の書類に視線を落としてしまった。

 瑞希は一体何を言おうとしていたのだろう。釈然としないまま昼食の時間は過ぎていった。


 玲士に手料理を振舞った日の夜、瑞希は湯船に浸かりながら一人物思いにふけっていた。

 (私はどうしてあんなことを)

 それは昼食時、自分自身が口にした言葉だ。

 田宮君が私の料理をまた食べたいと言った時、自然と口にしそうになったのだ。「また作ってあげようか」と。

 看病してくれたお礼だから、今回限り。そう思っていても考えてしまう。また作ってあげられないかと。特に意識したわけではなかったはずなのに気がついた時には途中まで喋っていた。幸いにも周りには言いかけていた内容には気がついていない。

 (一体何でこんなことを考えてしまうのかしら)

 瑞希自身何故そう思ってしまうのかがわからない。今まで誰かに料理を作ってあげたいと思わなかったし、お願いされても作ってあげようとは思わなかった。それなのに今日は違った。美味しそうに私が作った料理を美味しそうに食べる彼を見ているとそう思わずにはいられなかった。

 料理を作っている時もそうだ。普段ならそれほどまで出来栄えを気にしたりはしていないのに、今回に限っては何度も味見をして納得できるまで妥協しなかった。あまりにも味見をし過ぎて朝食を抜いてもしまうぐらいになったのには自分自身驚いていた。

 そしてこれまであまり実感できなかったある感情。


——料理を作るのはこんなにも楽しいことだったんだ。


 それでもどうして今回はこんなにも料理することが楽しいと感じたのだろうか。これまで毎日作っているがこんな気持ちになるのは初めてだ。

 もしかしたら料理に注文が付いていたからなのかもしれない。ただの肉じゃがじゃなくて今回作ったのは「味の染み込んだ肉じゃが」だ。それでも田宮君は特にこだわらなくてもいいと言ってくれていたのに何故か私は細かい所まで拘った。どうしてそうしようと思ったのか今も分からない。

 「あ~、もう!」

 これ以上考えても仕方ない。瑞希は考えを振り払うように湯船から立ち上がった。



 文化祭まで残り一週間。間近に迫って来ると学校の敷地内いたる所で準備を進めているクラスが多くなった。

 現在、玲士は中身の詰まったビニール袋を抱えて廊下を歩いている。

 玲士も自分のクラスの手伝いはしているが、生徒会の仕事が優先されるのであまり参加できていない。

 衣装に関しては女子メンバーが率先して動いているので、玲士は装飾や小物を運ぶだけである。

 「これで良しっと。あとは流石に当日まで待つしかないか」

 教室の隅に抱えていた荷物を降ろし、ようやく一息ついた。テーブルは邪魔になるから空き教室に運ぶだけにしてある。

 さて、やることがなくなって手持無沙汰になってしまった。どうしようか。

 「生徒会に行ってみるか」

 もしかしたら瑞希がいるかもしれない。また一人で作業しているなら手伝おう。

 そう思って廊下を歩いていると、視界にあるものが入り、玲士は足をそちらに向けて歩き出した。


 「やっと終わったわ」

 「いや~。流石に私もあそこまで拘るとは思ってなかったわよ」

 隣を歩く瑞希の声に疲れが混じっているのに梨恵は同意しながら一緒に歩いていた。

 瑞希がクラスの出し物に参加しないことは事前に知らせていた。それでも、せっかく作るのだから協力してほしいと言われれば断ることはできなく、さっきまでずっと付き合わされていた。梨恵は瑞希の付き添いだ。

 「いくら何でもこだわり過ぎでしょう。彼女達の目の色が変わっていたわよ?」

 「私の時はあそこまでの熱は無かったわよ。試作品で瑞希がぴったりだったから、やる気が出たんでしょうね?」

 「ほとんど参加できない私にこだわっても仕方ないでしょう」

 「まぁ、いいんじゃない?最後だからやりたいことをやらせたらいいじゃない」

 笑いながら話していると不意に瑞希が足を止めた。何かあったのかと瑞希の顔を横から覗き込んでも梨恵のことは気にせず、真っ直ぐ前を見ている。

 「あれって後輩くんじゃない?」

 「……」

 瑞希の視線の先を見ると後輩くんが女子生徒数人と一緒にいた。荷物を抱えている後輩くんの周りに女子生徒が集まっているように見える。瑞希は何も答えずじっと後輩くんを見ている。

 「先輩ありがとうございます。うちの男子達まったく手伝ってくれなくて困ってたんですよ」

 「気にしないでいいよ。特にやることもなかったからね。これぐらいお安い御用さ」

 どうやら後輩くんは別のクラスの荷物を運んでいるみたいだ。女子生徒と話しながら長机を抱えている。

 後輩くんは私達に背を向けて前を歩いているからこちらには気がついていない。

 「先輩って文化祭中は自分のクラスから離れられないんですか?」

 「そんなことはないよ。生徒会の仕事で見回りもしないといけないから、うろうろしていることが多いよ。逆に自分のクラスにほとんど関わることは無いんじゃないかな」

 「なら私達のクラスに来てください。お礼にうちのクラスで飲み物をサービスしますよ」

 「君たちは1―6だったね。必ず行くと約束はできないけれど、できる限り行くようにはするね」

 「「「是非来てください」」」

 女子に囲まれている後輩くんは楽しそうに話をしている。こうして離れて見るとまるでハーレム状態だ。

 「後輩くんモテモテだね~。……って瑞希⁉」

 隣の瑞希に話しかけていたはずなのに、隣を見ればそこにいるはずの瑞希がいなくなっており、瑞希は踵返して歩いてきた道を戻り始めていた。

 「ちょっと、どうしたの?」

 「なんでもない」

 「何でもないなんて無いでしょ。どこ行くのよ」

 「……生徒会よ」

 堅い声でそう答えた瑞希はずんずんと歩いていくのを梨恵は付いて行くしかなかった。


 生徒会に着いてから瑞希は黙々とテーブルで雑務をこなしている。一緒に廊下を歩いていた時のリラックスした雰囲気は無くなっており、生徒会室の中は若干ピリピリとした空気になっている。原因はなんとなくわかるけど、一応そうなのか確かめてみよう。

 「後輩くんって結構人気あるみたいだよ」

 「……唐突に何を言い出すの」

 梨恵の言葉に瑞希はぴくっと反応して手が止まった。これはもしかして……

 「彼って元々相手のことをいきなり拒絶したりせずに一旦は受け入れるような包容力みたいなのあるじゃない?それだけでも女子からの評判は良かったんだけど、生徒会に入ってから学年とかクラス関係なく関わっているから頼もしく思われているみたいよ」

 実際、後輩くんの良い評判はよく聞く。普段表情を変えることもなく淡々と冷静に仕事をしている瑞希とは違って後輩くんは相手の立場になってできる限り相手の希望に沿えるように努めている。実は友人経由で、後輩くんのことを教えて欲しいと言われたこともあるのは瑞希には秘密にしてある。

 「……そうなの。でもまだ一人で任せるのはできないわね」

 ……そうくるか。わかっていたことではあるけど、変に遠回しに言っても聞けなさそうね。

 回りくどいことはせずに梨恵はストレートに聞くことにした。

 「瑞希ってさ、後輩くんのことをどう思っているの?」

 「……どうとは?」

 「いや。言葉通りそのままの意味なんだけど?」

 瑞希の言葉に梨恵は呆れた。冗談のような返答だが、瑞希自身は本気で分かっていないから手に負えない。

 瑞希は顔を上げしばらく思案顔になった。

 「そうね。さっきも言ったけど、一人だとまだできることは少ないけれど、細かい所に気を配れているからまずまずといったところかしらね」

 瑞希からの言葉に梨恵は内心溜息をついた。この子は生徒会のことでしか感想は言えないのだろうか。

 実際、後輩くんとは生徒会でしか関わることが無いが、それでも他に思うことはあるだろう。悪い評価ではないのは嬉しいが、それだけなわけがない。

 「瑞希、本当にそれだけなの?」

 「それだけ?。それ以外に何があるのかしら。それぐらいしか私は言えることは無いわよ」

 さも当然というような瑞希だが、梨恵からすればそれだけではないと言える。

 廊下で後輩くんが女子生徒に囲まれながら楽しそうに笑っているのを見つけた時、何故瑞希は来た道を戻ったのか。普段の瑞希なら引き返すことはせずそのまま歩いていたはずだ。

 後輩くんから離れるように歩き始めた瑞希からは不機嫌な感情があからさまにわかるほどだった。瑞希は後輩くんが女子生徒と笑い合っていたことに嫉妬めいたものを感じていたはずだ。

 (誤魔化されているのかしら。いえ、瑞希の場合、嫉妬だと分かっていないのかしら)

 いっそのこと瑞希に話してしまおうかと思ったが、梨恵は伝えようとはせず心の中に留めた。本人が自分の気持ちを理解していないなら、梨恵から伝えても何の意味もなさないだろう。それでも、何か言ってやりたかった。

 「瑞希はさ、もう少し自分の気持ちに正直になろうよ」

 「何のことかわからないけど、私はいつも正直に生きているわ」

 瑞希は相変わらず真面目に返してくるだけで、それ以上何も言わなかった。



 文化祭初日、とうとうこの日がやってきたかと玲士はまるで他人事のように思っていた。実際、玲士は普段生徒会の方を優先していたし、クラスの手伝いと言っても荷物運びくらいしかしていないので、余計に実感がわかない。

 休憩スペースとしているが、飲み物や菓子の準備もあるから衝立を用意して一角が見えないようにしている。

 それより気になっているのは、衣装がどうなっているのかだ。そう、玲士はまだ制服姿のままで準備を進めている。なんと文化祭当日になってもまだ玲士は衣装を一度も目にしていない。衣装に関して何度か進捗を聞いてはいたが、

 「問題無いわ‼衣装は絶対完成させるからこっちは私達に任せておいて‼」

 衣装リーダーである月野にそう言い切られてしまっては信じて任せるしかない。

 (もう三十分後には始まってしまうぞ。流石に心配になってきたな)

 玲士は教室にある時計を見て内心冷や冷やし始めた。着替えもあるし、これ以上は待てない。

 声をかけに行くかと思ったところで教室のドアが凄まじい勢いで開けられた。

 あまりの勢いに教室内にいた全員がビクッっと驚いて入り口を見る。

 扉を開けた月野の後ろには段ボールを抱えた衣装担当になったクラスメイトが何人かいるのが見える。

 「お待たせ!ようやくみんなの分の最終調整が完成したわ。早速着替えてちょうだい!」

 「ギリギリ過ぎるだろ。言ってくれたら俺も少しは手伝ったぞ」

 「いや~。ほんとはもう少し早く完成していたんだけど、途中で納得できなくて少し作り直していたらギリギリになっちゃったんだよね」

 「おいこら。なんだよその理由は」

 理由を聞いた玲士は流石に突っ込んだ。まさかそんな理由でギリギリになっているとは。

 「だって作っている途中で親戚からぴったりな布を紹介されたら、確認しないといけないじゃない」

 「実際そっちの布の方がしっくりしたし、いいじゃない」

 「流石に予算的に全員分用意できなかったのは残念だけど、その分とことん拘ったわ」

 「ちょっと待て。まさかブランド物に手を出していないだろうな⁉」

 教室の中央に段ボールを降ろしているメンバーから聞き捨てできない内容が混じっていてギョッとした玲士は慌てて月野に詰め寄った。

 いったい文化祭の衣装にどこまで拘るつもりだ。

 「も、もちろんブランド物なんて買ってないわよ。流石に予算が足りないわよ」

 詰め寄られた月野は玲士から目を逸らしながら答える。しばらくじっと見続けているが、相変わらず目を合わせようとしない。

 「まぁ、それならいいけど。確認しとくが、予算以内には抑えているんだよな?」

 「そこは安心して。あとで材料費のレシートも整理して出せるよ」

 ハァっと溜息をついた玲士とは裏腹に衣装組のメンバーは満足そうだ。どうやら余程の自信があるんだろう。とりあえずは予算以内に抑えられたことにひとまずほっと胸をなでおろした。

 瑞希から指摘されたらどうしようと悩む玲士の後ろで「布ってブランド品じゃないわよね?」「バッグとか小物じゃないんだしセーフでしょ」「レシートは目立たないように貼っておく?」など衣装組がひそひそと会話をしていたが、頭を悩ませる玲士には聞こえていなかった。

 衣装組から自分用の衣装を受け取った玲士はさっそく衝立の奥で着替えた。

 (以外にも古めかしい感じじゃないな)

 着替えた玲士が自分の姿で最初に思った感想はそれだった。ジャケットやベストなどデザインに違いはあるが、スーツっぽい感じで着替えるのに苦労はしない。衝立から顔を出すと他のメンバーも似たような衣装を着て集まっていた。

 個人差はほとんど無いような状態だが、逆に統一感が出ていいだろう。

 「玲士、ちょっといいか」

 「ん?……どうした」

 玲士と同じように執事姿になったクラスメイトから声をかけられて振り返った。

 彼は玲士の執事姿を上から下までじっくり見ている。

 「どうかしたか?」

 「いや。玲士の服って俺らと若干違わなくないか?」

 「えっ?」

 もしかして着方が間違っていたのか?慌てて下を向いて自分の姿を確認するが見た感じはどこもおかしい所は無いように見える。何か変だろうか。

 前だけでなく後ろも確認しようと左右から後ろを見ようと体を何度も捻る。その様子に何だ何だと周りも玲士の元に集まって来た。

 「どこがおかしいんだ?ちょっとわからないぞ」

 「いや。別におかしいわけじゃないんだ。ただ、ジャケットがな」

 「ジャケット?」

 その言葉に玲士だけでなく他のメンバーもジャケットを見る。う~ん。やっぱりわからない。

 頭を捻っている玲士の元に隼が「どうした」と近寄って来た。周りから説明された隼は玲士の姿を見た後、隣のクラスメイトを見た。何度か二人を見比べた隼は「あぁ」と納得した表情になった。

 「隼。なにが違うのかわかったか?」

 「おう。色だな」

 「「「色?」」」

 玲士の声が周りと被った。色と言われても全員が黒だ。違いなどほぼ無いに等しいはずだ。

 「玲士のジャケットは真っ黒じゃなくて、ちょっと色が違うな。なんだろ緑?いや青っぽさが少しあるんだよ。並んだら気がつくレベルだけどな」

 近くにいた一人を玲士の横に立たせた隼は一歩下がり、代わりに周りの男子が前に出て二人を見比べる。

 じろじろと見られている玲士はなんだか落ち着かない気分だ。俺だけが違う?もしかしてハズレを引いてしまっただろうか。

 「男子~、入るわよ~。……って何やってるの?」

 別の部屋で着替えていた女子が扉を開けたところで立ち止まっていた。いや、こっちが聞きたいくらいだよ。

 入って来た女子メンバーは全身メイド姿に衣装チェンジしている。デザインは玲士が小説の挿絵でも見たことのあるものだ。

 「月野、なんか俺だけジャケットの色が違うみたいだけど何でなんだ?」

 “執事”姿で入ってきた月野に玲士は自分の衣装について尋ねた。今はこっちの疑問を先に解決するのが先だ。

 「あぁ。それはあれよ。生地の差よ」

 「生地?一緒じゃないのか?」

 「最初に言ったでしょ。ぴったりな生地が見つかったって。全員分は用意できなかったから、ランダムで配ったの」

 そういえば最初に言っていたな。玲士は記憶の隅に追いやられていた会話を思い出した。そのあとの内容がインパクト強すぎたからすっかり忘れていた。それにしてもぴったりな生地ね……

 「みんなの黒と何が違うんだ?」

 生地の良し悪しはもちろんのこと、執事服に関して詳しくない玲士は違いが判らない。黒ければ別に問題ないのでは?

 月野は腰に手を当てて、

 「別に大した違いは無いわよ。ただ、黒だけじゃなく、深い青が入ったジャケットもあるのは事実よ。あんまり青味が強いと執事っぽくなくなるけど、それぐらいなら十分執事服として使えるわ。もちろん私のも田宮君と一緒の生地よ」

 そう言う彼女はものすごく自信満々だ。玲士は月野の執事服を見た。

 たしかに、じっくり見れば真っ黒ではなく少し明るめになっている。これは青というより藍に近そうだ。光に当てると違いがよく分かるだろう。

 「なるほど。それで月野はなんで執事服姿なんだ。メイド服じゃないのか?」

 「別に女子はメイド服って決まっていたわけじゃないでしょ。もしかして、メイド服の方がよかった?まだ余ってるわよ」

 「いらねぇよ!」

 玲士の突っ込みに月野はけらけらと笑っている。誰が好き好んで着るか。

 月野は男子達と一緒にお辞儀をして執事っぽい仕草をしている。執事服を完璧に着こなしている月野は制服姿よりも細く見え、まるで男装の麗人のようだ。

 (それにしても、まさか自分に特別な衣装が当たるとは思っていなかったな)

 てっきり隼達と同じ衣装になるだろうと玲士は思っていた。ランダムとはいえ完全に自分が当たる可能性を考えていなかった。

 「それより、俺がこの衣装でいいのか?もちろんできる限りここにいるようにはするが、抜けるとしばらく帰って来なくなるぞ」

 玲士はカフェだけでなく生徒会の見回りもある。一度見回りに出てしまうと、帰ってくるのはかなり遅くなってしまう。そんな人物に特別な服を着せるのは勿体なくないだろうかと玲士は思った。しかし、月野の感想は違ったようだ。

 「逆に田宮君で良かったのよ」

 「なんでだよ」

 月野は振り返りながらそう答えるが、言っている意味が分からず玲士は首を傾げた。カフェにいない玲士が着ることがなぜいいのだろう。

 「田宮君は教室にいない間、宣伝係をしてもらうつもりだから。アピールするならいい服着ていた方がいいでしょ。……え~っと、……あぁ。これこれ」

 月野は衣装組が持ってきた段ボールの一つの中を漁り、奥の方から一枚の紙を取り出した。それはクリアファイルぐらいの大きさで、真ん中には大きく「2―4 執事・メイド付き休憩所」と書かれている。

 文字の周りには各々が描いたであろうイラストがあり、手作り感が満載だ。それをどこから持ってきたのか、細長いプラスチックパイプに貼り付けて受け取れと言わんばかりに玲士に突き出してきた。

 受け取らないわけにもいかず、戸惑いながらも玲士は即席プラカードを受け取った。初めから宣伝係をやらせるつもりでこれを作ったな。それにしてもこの衣装といい宣伝用の小道具といい随分と用意がいいように思える。

 「一応聞いておくが、この服になったのは本当に偶然なんだよな?」

 頭に引っかかったことを月野に聞いてみるが、月野は「さぁね~」と言うだけでそれ以上は何も言わなかった。



 「つ、疲れた」

 二時を過ぎた頃、玲士は机に突っ伏していた。玲士が疲れているのは自分たちのカフェが原因だ。歩き疲れた人を相手にするだけだから楽だと思っていたが、そんな考えは簡単に吹き飛んだ。

 なぜなら手の空いている学生がひっきりなしに教室に訪れるのだ。相手をする時も、いつもの話し方ではなく「ご主人様」「お嬢様」などコンセプトにあった話し方にしなければならない。それを面白がって別のクラスの生徒がひっきりなしに訪れている。

 意外にも接し方で疲れてしまうのは玲士にも予想外だった。明日は噂を聞きつけて今日より人も増えるからさらに忙しくなるだろう。

 当初は生徒会の仕事で何も手伝うことは無いだろうと思っていた玲士だったが、誰かが生徒会に頼みに行ったのだろう。昨日に連絡を取り合う為と言って瑞希と連絡先は交換していたのだが、その瑞希から「初日だから田宮君はクラスの出し物に専念しなさい」と連絡を受けた時は驚いた。二日目からは本格的に生徒会の仕事を手伝わないといけない。

 とりあえず、午後からはメンバーが変わるから玲士はフリーだ。休憩も兼ねて玲士は現在生徒会室で一人過ごしている。

 (これがあと二日も続くと考えると気が滅入るなぁ)

 見回りとなると行く先々で多くの生徒から声をかけられることは避けられないだろう。宣伝も兼ねているのである程度はその場で演技をしなければならない。玲士は顔も上げず突っ伏したままだ。シワになったら困るから今はジャケットを脱いで椅子に引っ掛けてある。

 うつらうつらと眠気に負けそうになっていると玲士の背後でドアノブが回って誰かが入ってきた気がした。

 (誰だろう?気になるけど、今は休ませてくれ)

 眠気でうまく頭が働かない。とりあえず呼ばれないなら気にしなくてもいいだろう。

 ぼんやりとした意識の中、不意に背中に何かがふわりとかけられた気がした。

 そして玲士の隣の椅子が引かれ、誰かが座る音がした。眠気に負けそうになりながら頭だけ動かし、入ってきた人物を見た。

 「う~ん。誰ですかぁ」

 「……随分と疲れているみたいね。大丈夫?」

 少し間延びした玲士の声に反応した人物は思ったよりも近くにいた。視線の先には玲士の隣に座り、背もたれに身体を預けリラックスした状態の瑞希がいた。

 しばらくぼ~っと瑞希を見つめていた玲士だったが、目の前に誰がいるのか理解がようやく追いついてきて、完全に理解した瞬間一気に眠気が吹っ飛び、玲士は慌てて上体を起こした。

 「か、会長⁉す、すみません。勝手に休憩場所で使っていました」

 「ふふっ。別に謝ることじゃないわよ。私も田宮君と同じ理由よ」

 いきなり起き上がった玲士に最初は驚いた様子の瑞希だったが、そのあとはクスリと笑って玲士を見ている。

 どうやら瑞希しか入ってきていないようだ。辺りを見回そう思った玲士の肩から何かが背中に向かって滑り落ちた。後ろを振り返れば、玲士がこの部屋に入ってきた時に脱いで椅子に引っ掛けておいたジャケットがあった。

 玲士の記憶では椅子に引っ掛けておいたはずだ。

 「もしかして会長、俺にジャケットをかけてくれたんですか?」

 「ええ。流石にそのまま眠るにしては薄着だと思ったから、とりあえずそれだけでもと思ったけれど、必要は無くなったわね」

 「それでもかけてくれたのはうれしかったです。ありがとうございます」

 礼を言いながら玲士はジャケットに袖を通していた。室内で締め切っていたとはいえ、ジャケットを脱いで居眠りするには少し寒い。あのまま眠っていればもしかすると風邪をひいていたかもしれない。

 「田宮君のクラスって休憩場所になっていたわよね。どうしてそんなに疲れているのかしら?」

 ジャケットを着ている玲士を見ながら瑞希は首を傾げていた。確かに、玲士のクラスは休憩場所となっているので激しく動き回るようなことはしていない。事情を知らない者からすればここまで玲士が疲れ切っているのは不思議に思うだろう。

 「体力的に疲れたっていうよりも、精神的に疲れた感じですね。ほら、俺のクラスって喋り方もそれっぽく変えないといけないので」

 「あら。田宮君はその辺り普段から慣れていると私は思っていたのだけれど、違うのかしら?」

 そう。意外にも疲れる要因になったのは相手との会話だった。カフェのコンセプトからそれほど相手と話すことは無いが、全く話さないわけではない。

 お嬢様やご主人様、旦那様など呼び方はそれほど多くないが、最後まで呼び方に合わせた対応をするのが以外にも大変だった。

 相手と年齢が近いこともあってふとした時に素の話し方になりそうになる。別のクラスの生徒がニヤニヤとしている時は恥ずかしさも重なって何度軽口を叩きたいと思ったことか。

 「へぇ。ここでの田宮君を見ていると苦手そうなイメージが浮かばないわね」

 瑞希は意外そうに目を丸くしている。それは玲士自身も同じだ。まさかこんなに気疲れするとは思わなかった。

 玲士は気分を切り替えるように背伸びをした。その傍らで瑞希は顎に手をやり何かを考えている。そして、おもむろに口を開き、

 「ねぇ田宮君。私に一度やってもらえないかしら」

 「えっ?」

 瑞希の言葉に玲士は背伸びをしたままの姿勢のまま瑞希を見た。瑞希が何を希望しているかはわかるが、それでも聞き返してしまった。

 「そこまで聞くとどんな感じか興味が出たわ。私も休むためにここに来たわけだから、条件はそろっているわよね。」

 「いや。俺も休憩しに来たんですが……」

 自信満々に言う瑞希に思わず突っ込んだ。休憩しに来たのにまさか生徒会室でもすることになるとは。

 「気になるなら教室まで顔を出したらいいじゃないですか。誰でも入れるから、別に会長が来ても何も問題は——」

 「嫌よ」

 「えっ?」

 とりあえず教室に来てもらおうかと玲士は提案しようとすると、言葉を遮るように瑞希が拒絶した。なんで嫌なんだ?

 「田宮君のクラスに行ったら田宮君が相手してくれるかわからないでしょ。私は田宮君のしているところを見たいのよ」

 プイっと顔を背ける瑞希の姿はまるで駄々をこねる子供のようだ。頼りになるお姉さんのような印象を持っていた玲士だったが、今の瑞希を見るとそのイメージは無く、見た目よりも幼く見えてしまう。見た目よりも幼い仕草がなんとも可愛らしい。——いやいや。今考えるのはそこじゃない。

 「私がお願いしているのに、田宮君はそのお願いも聞いてくれないのかしら」

 黙ったままのの玲士の様子から拒否と受け取ったのだろう。先ほどまで顔を背けていた瑞希が眉を寄せてこちらを睨んでいる。

 今日の瑞希はころころと表情が変わるなぁ。普段は感情があまり表情に現れないのに、今日は感情が分かりやすいくらいだ。何かあったのだろうかと思わずにはいられない。

 さも当然というように俺を指定しているけど、そんなシステムは採用していないのに。

 (これはやるしかないのか?)

 内心冷や汗を垂らしながら玲士は必死に頭をフル回転させていた。重要なのはこのまま断った場合、瑞希がどんな行動をするかだ。

 さっきまでの言動からおそらくクラスに突撃してくる可能性は低いと思うが、それでも絶対とは言い切れない。


 「生徒会長として生徒会メンバーの働きぶりを見に来たので私に田宮君を付けてください!」


 教室の入り口で腰に手を当てながらクラス全員に宣言する瑞希の姿を想像し、

 (あ、ありえる!)

 十分にあり得る。まるで一度目にしたことがあるように想像できてしまう。ちらりと瑞希に目をやると期待した目でこちらを見ている。

 逃げることは無理そうだと玲士は諦めた表情になった。万が一玲士のクラスに来てそれを許してしまうとカフェの目的が歪んでしまいかねない。

 「いいですよ。ここだと大したものは用意できないですから、飲み物を提供するぐらいしかしないですよ?それにあくまでもそれっぽい感じで演技をするだけですから、期待するほど代わり映えしないかもしれないですよ?」

 「構わないわ。飲み物は特に指定しないから、田宮君が飲みたいのと一緒でお願いするわね」

 お願いが叶うと知った瑞希はなんだか嬉しそうだ。

 渋々立ち上がった玲士は部屋の隅にあるポットに向かって歩き始めた。肩越しに瑞希と会話をしながら慣れた手つきで準備をする。最初に目に留まったのがアップルティーだったので特に悩まず、それに決めた。

 お湯が準備できるまでの間にカップを用意していた玲士はふと違和感なく準備をしていた自分に気がついた。

 (そういえば、普段会長達にしていることとあまり変わらないな)

 何が飲みたいのかを相手に聞いて、梨恵達がいる場合は多数決で飲み物を決めて人数分を用意する。言葉遣いに違いはあれど、やっていることは普段とあまり変わり無い。

 それでも普段慣れている生徒会の方が気持ちは楽だ。いつも通りのことをすればいいのだから。

 カップは玲士自身の分も用意したが、とりあえず瑞希の分だけ紅茶を入れて瑞希の元に戻った。いつの間に用意したのだろう。テーブルの上には生徒会でストックしておいた小分けされているクッキーの詰め合わせが置かれていた。瑞希にずっと見られているのはなんだか気恥しい感じがしたが、感情には出さずぐっとこらえる。「失礼します」と声をかけた。

 「お嬢様お待たせいたしました。今回はそちらの菓子に合うようアップルティーを選ばせていただきました。ゆっくり堪能ください。私は傍で控えていますので何かあればお呼びください」

 もちろん、クッキーと合わせたわけではない。それでもあえて言ったのは、普段と違うのだという意味も込めてあえて付け加えた。

 笑顔で瑞希の前にカップを置いた玲士はそのまま瑞希の右斜め後ろに下がった。

 とりあえずここまでにはなるが、玲士自身特に気負わずにできたと思った。あとは瑞希がどんな反応をするかだ。静かにカップを持ち上げアップルティーを口にした瑞希は何も言わなかったが、ほぅと吐息を漏らした後微笑んだ。

 「っ!」

 斜め後ろからでもわかる。それはあの時の、看病した瑞希からお礼を言われた時のように目を少し細めて優しげな表情をしている。

 「っと。あぁ、ごめんなさい。ありがとう、座ってちょうだい」

 しばらく余韻に浸っていた瑞希だったが、ようやく満足したのか振り返って座るように促してきたので、すぐには座らず自分用に用意していたカップに紅茶を注いでから席に着いた。

 「どうでしたか?大体こんな感じでやっていますね」

 「そうね。正直なところ、ここで田宮君がしていることとあまり変わりがないように思えたわね」

 「そうですね。俺もそう思いますよ」

 それに関しては玲士も同感だと頷いた。やっていることは今までしていたことと変わらないのであまり真新しさというものが感じられなかったのは事実だ。

 「それでも……」と瑞希は言葉を続け、

 「やっぱり私は、ここで気兼ねなく紅茶を用意してくれる田宮君の方がいいわね。別に田宮君のクラスでやっていることに不満があるわけじゃないのだけれど、お嬢様って言われたこともないしなんだか田宮君との距離がいつもより離れたように感じてしまったわ」

 そう言いながら背もたれに軽く体を預けた。まるで自分の気持ちを代わりに言ってくれているみたいだなと玲士は少し驚いていた。

 いつもは瑞希のことを会長と呼んではいるが、梨恵達と軽く雑談を交わしたりのんびりと一緒に菓子を食べたりしているので、友人としての距離感で接してきている。

 今回、玲士は瑞希のことを「お嬢様」という役割に合った接し方で演技をしていたが、その時は玲士と瑞希の間に見えない壁のようなものがあるような気がしていた。決してそれ以上は決して縮まることはない距離感。生きる世界が違うのだと実感させるような印象だった。

 実際執事という立場ではそう簡単に相手との線引きを変えてはならないだろうし、職務に忠実にならなければならないのだから昔はそれが普通だったのだろう。

 それでも友人感覚での距離感から始めた玲士にとっては、相手と間に明確な線引きをしてそれ以上踏み込まない関係には寂しさを覚えてしまう。これまではそんな気持ちすら持ったことが無かったのに……

 「そうですね。俺も会長のことをお嬢様って呼ぶのはなんだか違和感がありましたよ」

 「……それって私が雑な人間って思われているのかしら?」

 「なんでそうなるんですか⁉」

 玲士の言葉に冗談めかして聞いてくる瑞希に慌てたりしながらも、二人だけの楽しい時間が穏やかに過ぎていった。



 「それじゃあ、何人かでいいからゴミ出しに行ってもらって溢れないようにしてくださいね」

 「「うい~っす」」

 「ごめんね~」

 相手からの返事を聞いた玲士はそばに立てかけていたプラカードを手に取ってその場をあとにした。

 文化祭二日目の昼前、玲士はプラカードを持ちながら敷地内のあちこちに点在しているクラスのいくつかを訪れていた。

 初日とは違って皆、するべきことが分かっているので準備に手間取ることはなくなったが、その代わりに苦情やトラブルの報告が生徒会に届くようになっていた。

 先程のクラスは正門近くで鯛焼きを作っていたのだが、その過程で発生するごみに関して生徒会に意見が届いていた。

 本来ならある程度の量になったら廃棄場に捨てに行くだけなのだが、他のクラスの出し物を見に行ったりして人出が減ってごみ捨てまで手が回らなくなり、結果大量のごみ袋が正門近くに置かれ続けていた。

 学校の玄関口である正門に大量のごみが放置し続けるのは、訪れた人からいい印象を持たれないだろうと近くで出し物をしていた別のクラスから生徒会に意見が届いていたのだった。

 とりあえず、生徒会で内容をまとめて今日は対象になっているクラスを一つ一つ回らなければならないので、玲士は今日宣伝係として一日フリーに動き回れるようになっている。

 「これでとりあえず、食べ物系は全部か。あとはどこだったかな?」

 歩きながら手元のメモに目を落とし、行く場所を確認する。あちこちに点在しているのでどうしても時間がかかってしまう。 あまりのんびりしすぎるとまた苦情に繋がってしまうから玲士はメモをポケットに突っ込んだ後、足早に次の目的地に向かった。


 「ん?なんだあれ」

 校舎の立ち並ぶ敷地の中央にある中庭に訪れた玲士はある一角に人が集まっているのに気がついた。

 何かを見ているようで円状に集まりその中心を見ている。後ろの生徒はよく見えないのかその場でジャンプをして何とか見ようとしている。近くを歩いていた生徒もその集まりに興味が出たのか次々とそちらに向かって歩き始めている。

 「すみませ~ん。生徒会です。この集まりは何ですか~」

 「さぁ?とりあえず気になったから来たけどよく見えないんだよ」

 玲士は近くにいた生徒に声をかけたが困惑した表情でいい返事はない。後ろの方にいる人達は何かわからないままとりあえず集まっているだけだろう。

 (このまま放置するのは良くないな)

 中心に何があるのかわからないが、このまま放置していると押し合いになって怪我をしてしまう人が出てくる可能性もある。

 あの集団の中に割り込みたくないなと玲士はうんざりするが、そうも言っていられない。意を決して玲士はよくわからない集団の中に入っていった。

 「すみませ~ん。ちょっと通してください」

 玲士は人込みをかき分けながら中心へ進む。周りから押されて苦しいが何とか少しずつ前には進めている。中心に向かうにつれて人の密度が高くなって中々前に進めないが今のところ問題はない。

 かき分けながら玲士は中心に何があるのか気になっていた。玲士は何度か見回りも兼ねてこの場所は通り過ぎてはいるがこれほど人が集まるよう何かは無かったはずだ。

 昨日も同じようなことがあったなら少なからず玲士や瑞希の耳には入っているはず。そうなると昨日は実施していなかったのだろう。予告も無しに当日これほどの規模になるなら余程の何かがあるのだろう。

 玲士はもみくちゃにされながら中心へ進んでいった。

 「ようやく……って、うわっ!」

 ようやく抜け出せたと思った玲士だったが、押し合いが無くなったことで逆に弾き出されるように前に押し出されてしまった

 躓きそうになるのを何とか堪え、ようやく周りを見る余裕ができると、生徒の視線の先に一人の人物が立っているのに気がついた。

 「えっ⁉」

 予想外な人物に玲士は目を丸くした。

 「あぁ、田宮君。騒がせてごめんなさいね」

 噴水の前に瑞希が一人立っていた。瑞希は人混みでもみくちゃにされてきた玲士を初めは目を丸くして驚いていたが、そのあとは眉を下げ申し訳なさそうにこちらを見ている。

 この騒ぎの中心に瑞希がいることにも驚いているが、玲士が驚いているのは瑞希の格好だった。

 「会長。その姿はどうしたんですか?」

 「私のクラスの出し物よ。呼び込みのためにこの格好で外に出たのだけど、見ての通り人が集まりすぎて困っていたのよ」

 瑞希もこの事態は予想外だったのか苦笑しながら玲士に経緯を説明した。

 瑞希は全身ドレス姿で立っていた。白と青の二色な長袖のドレスだ。袖口と裾周りにレースやフリルなどの装飾はされているが、あまり派手過ぎずどちらかというとシンプルな部類に入るのかもしれない。

 それでもシンプルな分、瑞希の美貌と肩に流れる黒髪がよく似合っており瑞希自身の魅力がより強調されている。

 右手に持っている閉じられた日傘と背後の噴水が見事にマッチしており、散歩に訪れた令嬢のようでそれだけで十分絵になる。

 その美しさに目を奪われた玲士だったが、同時にこれだけの人混みになったことに納得もした。

 普段学生がドレスを校内で着ることはまず無い。着る機会があるならば、今日のような文化祭など特別な行事で着るぐらいだ。玲士のクラスも瑞希のドレスとは違い執事やメイド服を着ているが、あくまでも教室内でしか活動はしていない。

 汚したくないのと周りに絡まれるのが嫌だという理由でクラスメイトの大半が外に出ていない。

 その代わり、休憩組が校舎内のあちこちで自慢したりして騒いでいるらしいが……。

 さて、話を戻すがこれでこの人の集まりようは理解した。理解したところで、玲士はこの後どうするべきか頭を悩ませた。

 「そうだったんですね。それなら会長はここにいますか?見る限り宣伝効果は十分あるみたいですし」

 初めは生徒会に申請を出さずに一部の生徒がパフォーマンスを始めていたのかと玲士は思っていた。だから説明をして一旦解散してもらおうと思っていたのだが、真相は玲士と同じ宣伝活動。自分達のクラスの出し物を知ってもらおうと活動しているから止めろとは言いづらい。

 瑞希のドレス姿でこれだけの人が集まっているのだ。今頃瑞希のクラスの元には大勢の人が押し寄せて溢れかえっているんじゃないだろうか。ドレス効果恐るべし。

 玲士と一緒に周りを見渡す瑞希は若干引いているような気がしているが今は気にしない。

 「そうね。もう十分宣伝になったと思うから、私は一旦教室に戻るわ。これ以上集まるとさすがに周りの人の移動の妨げにもなるわ」

 「いいんですか?」

 意外な答えに玲士は目を丸くした。てっきり瑞希はここに残るものだと思っていた。その際は瑞希のクラスから何人か人を回してもらって、人の整理を頼もうと思っていたところだったからだ。

 瑞希は気にした様子もなく「構わないわよ」と答えるだけだ。

 付き添いはいなかったのかと一応瑞希に聞いてみると、初めはいたのだがどうやら服の装飾が外れてしまったらしい。急遽教室へ帰ることになってしまったため瑞希が一人残ることになったようだ。

 とりあえず瑞希が帰るにしてもこの場を何とかしなければ動けない。無理に押し通ろうとすればドレスが破れてしまう。

 玲士は瑞希から視線を外し、二人の周囲を取り囲んでいる生徒に目を向けた。

 「みなさ~ん!ここでの集まりは解散です!メイン会場は……えっと、四階にあるのでそちらまでお願いします~!」

 玲士はできるだけ周りに聞こえるように大声で解散を伝えた。もちろん周りからはブーイングが上がるが気にしない。周りからの不平不満に動じずにいると諦めたのだろう。しばらく残り続けていた人も徐々に散り始め、ようやくこの人混みから抜け出せそうだ。

 撤収しようと瑞希が近くに立てかけていたプラカードを取ろうとする前に、横から玲士がそれを先に手に取った。

 「俺が持ちますよ。会長はそのまま教室に行ってください」

 横取りされた形なので瑞希はプラカードに手を伸ばしたままの姿で固まっている。何をしているんだと言わんばかりの表情でこちらを見上げている。

 「わざわざ持ってもらわなくてもいいわよ。教室に帰るだけだから」

 「特にすることもないので付いて行きますよ。俺たちのクラスの宣伝にもなりますからね」

 「そこまでしなくてもいいわよ。いいから返しなさい」

 「いえいえいえ。遠慮しなくてもいいんですよ」

 すぐに玲士が手にしたプラカードを取り返そうと手を伸ばすが、玲士も譲るつもりはない。何度も迫ってくる瑞希の手をさりげなくひょいひょいと躱していく。

 見回るクラスはまだ残っているが、一つくらい寄り道しても問題ない。玲士はニコニコと笑顔のまま二つのプラカードをしっかりと持ち直し、暗に渡しませんよと意思表示をしているのだが果たしてわかってくれるだろうか。

 二人のやり取りに「何をやっているんだ」と周りが不思議そうな視線を向けてくる中、瑞希は恨めしそうな目でこちらを睨んでいたが、はぁ~と諦めたように溜息をつきながら手を下した。

 「……言っても返してくれないなら、持ってもらおうかしらね」

 どうやらこちらの意志の強さを理解してくれたようだ。玲士もこれ以上説得をしなくて済むので何よりだ。それならこれからすることも納得してもらおう。

 瑞希と入れ替わるように今度は玲士が瑞希に右手を差し出した。意図が分からず訝し気に瑞希は玲士の手を見ている。

 「……これはなにかしら?」

 「俺の手を持ってください。今の姿だと会長歩きにくいでしょう」

 「な、なにを言い出すの!そんなことをしてもらわなくても私は歩けるわ!」

 瑞希は両手を胸元に寄せ一歩下がった。恥ずかしいのか顔は赤くなっている。

 「せっかくのドレスなんですから、躓いて汚したら大変じゃないですか。ちょうど俺の衣装も会長のドレスと設定が似ていますから問題ないでしょう」

 「問題があるとか無いの話じゃないでしょう。わざわざ田宮君に手伝ってもらわなくても大丈夫よ!」

 「でも、ここに来るまではもう一人に手伝ってもらっていたんですよね?」

 「うっ。そ、それはそうだけど……」

 冷静な玲士の指摘に瑞希はたじろぎながら視線をきょろきょろと動かしている。

 瑞希のドレスは引きずるほど長くはなくそれほど裾周りが広がっているわけではないが、制服と違って足元はいつもより見えにくいはずだ。だからこの場所に来る際は一人ではなく誰かと一緒にいたのだろう。

 その点、玲士の服は動きやすい格好でドレス姿の瑞希と執事服の玲士はぴったりな組み合わせだ。

 「ねぇ、あの二人ものすごく似合ってるんじゃない?」

 「だよね。私もあんな風にリードしてもらいたいなぁ」

 「会長が羨ましい~」

 実際玲士たちのやり取りを見ていた女子からは好印象なのか何度も頷いていたり、何人かが騒いでいる。

 瑞希にも当然周りの反応には気づいている。恥ずかしいのかさっきからそわそわして落ち着かなさそうにしている。

 「会長、早くしないとまた人が集まってきてしまいますよ?」

 「だ、誰のせいだと思っているの」

 もちろん俺だ。わかってはいるが引くつもりはない。じっと瑞希を見つめ、手を差し出したまま待つ。

 その場をあとにしようとした人もどうなるのかが気になって、歩みを止めて瑞希の動きに注目している。

 しばらくは何かを言いかけては何も言わないを繰り返し、パクパクと口を動かしていた瑞希だったが、ようやくその手が動き始めた。

 「た、田宮君がそこまで言うなら仕方ないわね。なんだか周りの雰囲気に負けたような気がするけど、ついて来てもらおうかしら」

 「ええ。いいですよ」

 瑞希のほっそりとした手が玲士の手に置かれる。周りの女子からは「キャーッ」と黄色い声が上がって嬉しそうにはしゃいでいる。いつから外にいたのかわからないが、瑞希の手は少し冷たくなっているのが掌を通してわかる。

 その手を優しく握ると、瑞希はプイっと顔を背けてしまった。明らかに恥ずかしさを紛らわせようとしているのが分かるから、玲士もその様子に笑ってしまう。

 ようやく瑞希が折れてくれたんだ。これ以上からかってヘソを曲げられても困るからさっさと移動しよう。

 そう思って口を開こうとした瞬間、

 カシャカシャカシャカシャカシャ

 「ん?」

 その場の音を裂くような機械音がやけにはっきりと耳に届いた。何の音だと思い左に顔を向けると一人の学生がカメラをこちらに向けてシャッターを切りまくっていた。

 「二人ともそのままでいてください!あと三枚、いえ二枚は撮らせてください」

 一眼レフのカメラを覗き込みながら一心不乱にシャッターを切っているのは玲士と同学年か一つ上の学年だと思われる女子生徒だった。

 最前列から一歩前に出てカメラを構えているので明らかに目立っている。

 玲士は瑞希の前に出るようにして女子生徒に向き直った。玲士の体に隠れるような形になったので、背後の瑞希は撮影できない。

 女子生徒が「あぁ」と残念そうな声を上げているが玲士は気にしない。玲士は眉を寄せ一歩踏み込んだ。

 「すみませんそのカメラはいったい何ですか?相手に断りもなく写真を撮るのはどうかと思うのですが」

 問い質す言葉には自然と非難する気持ちが混ざってしまう。相手の許可があるならまだしも、何も言われないまま勝手に写真を撮られるのは気分がいいものではない。

 「あわわ、すみません。私は決して隠し撮りするつもりはなかったんです。部活の一環で写真を撮っていたんですよ」

 せっかくの雰囲気をぶち壊した張本人を見るギャラリーの目と玲士の態度から流石にこのままだとまずいと感じ取ったのだろう。女子生徒は先程までの真剣さを微塵も感じさせないぐらいに慌てて目的を話した。——あわわってリアルで初めて聞いたな。

 「部活?」

 「はい。私は写真部に所属しているんですが、文化祭の写真を撮らないといけないんです。文化祭期間中に撮影した写真を最終日に全員が一か所に貼り出して、皆さんに投票してもらってベストショットを決めるんです」

 そういえばと玲士は昨年の文化祭を思い出した。確かに玲士も見たことはある。

 教員棟の廊下壁一面にずらっと写真がびっしりと並べられ、それが一階から三階まで続くものだからその光景は圧倒される。文化祭最終日にその場所を訪れて思い出を振り返る生徒も多いことで有名だ。

 「それなら声をかけてくれてもいいでしょう。なんで黙って写真を撮っているんですか」

 「私はできる限り自然な表情を撮りたいんですよ。写真を撮りたいですなんて言ったら作り笑いみたいでいまいちしっくりこないですし」

 熱心に語っている写真部員に玲士は半ば呆れたような視線を送った。熱心なのは感心するが突き詰め過ぎだろう。

 「会長どうしますか?流石に俺の一存で決めるわけにはいかないんですけど……」

 玲士は背後にいる瑞希に意見を求めた。玲士一人だけなら玲士の判断で決めてもいいが、今回は瑞希も撮影されている。彼女の意見も聞かなければ勝手なことはできない。

 瑞希は真剣な面持ちで考え、その反対側では写真部員が祈るような目で瑞希を見ている。

 「そうね。隠し撮りされたような感じだったけれど、今回は事情を説明してくれたから私はこのままでも構わないわ。田宮君がもし嫌ならこの場でデータは削除してもらいなさい」

 さっきまでの頬を赤らめていた弱弱しさは感じさせないはっきりとした意見だ。この切り替えの早さはやっぱり瑞希らしいなと思ってしまう。

 「そ、それで……」

 おっと、早く返事をしてあげないといけない。さっきから心配そうな目でこちらをずっと見てきている。

 「とりあえず、今回は消さなくてもいいです。それでも、また同じようなトラブルがあっても困るので、次からは必ず相手に一言声をかけてから撮影してくださいね。……言っておきますけど他の人には言ったつもりはありませんので勘違いしないように」

 玲士は仕方がないといった風に伝えながらも、最後はしっかり釘を刺しておく。後半は事の成り行きを眺めていた周りに向けて言ったものだ。

撮影が許可されたのを知ると何人もの学生がポケットからスマホを出そうとしたが、玲士の最後の一言でその動きは止めざるをえなくなった。写真部員は何度も頭を下げながらお礼を言ってきたので、流石に同じことはしないだろうと信じたい。

 「それより、どんな感じに写真が撮れたんだい?ちょっと見てみたいんだけど」

 「駄目ですよ。今見たら楽しみがなくなるじゃないですか。明日の夕方には貼り出されているんで、それまで楽しみにしておいてください」

 少しは見せてもらえるかなと思ったが、駄目らしい。どんな感じに撮られているのか少し気にはなるが、明日になれば見ることができるのでそれまでは待っておこう。

 まだ撮るものだと思っていた玲士だったが、どうやら満足する写真が撮れたらしくそれ以上は長居せずに「それでは明日楽しみにしていてくださいね~」言いながら笑顔で去ってしまった。

 (なんだか慌ただしい子だったな。熱意があるのはいいことだけど)

 突然やってきて目的が終わればさっさとまた別の場所に行ってしまう様子はまるで嵐のようだ。

 そこでようやく玲士は写真を撮られる直前にしようとしていたことを思い出して、慌てて振り返った。せっかく瑞希が手を取ってくれたのに、写真騒動のせいでいったん瑞希の手を放してしまっている。

 振り返った先にはまだ瑞希が立っており、玲士の方をじっと見ている。手を取った時の恥ずかしさを押し隠した表情はすでになく、生徒会長としての顔がそこにはあった。

 「あ~。え~っと……じゃあ行きましょうか」

 気まずい。今更また「手を取ってください」なんて言えないし、言ったとしても今度は断られるだろう。

 とりあえず瑞希の教室までは付いて行くことに変わりはないので、玲士は若干引き攣った笑顔で瑞希に声をかけた。

 瑞希は黙ったまま歩き出そうとはしないその様子に玲士は頭を抱えた。これはまた説得するところから始めないといけないではないか。さっきの写真部員が恨めしく感じてしまう。

 「――。」

 「えっ?」

 ぼそりと口を開いた瑞希の言葉がよく聞き取れなかった。次は聞き逃すまいと瑞希に近づくと、玲士だけに聞こえるように改めて口を開いた。

 「手……」

 「手?」

 「田宮君が言い出したことでしょう?連れて行ってくれるなら早く手を出してちょうだい」

 瑞希が動こうとしなかったのは機嫌が悪くなったわけでも気が変わったわけでもなく、玲士がもう一度手を差し出すのを待っていたようだ。うやむやになってしまったのではと気がかりだったがそれは杞憂だったようだ。

 玲士は改めて瑞希の前に右手を差し出して「会長、行きましょうか」と声をかけると、瑞希はためらいもなく玲士の右手に手を重ねた。

 軽く握った玲士の手を瑞希がきゅっと握り返したような気がしたが、歩き始めていた玲士は気のせいだと思って気に留めなかった。



 翌日、玲士は瑞希と共に文化祭のまとめをしていた。まとめと言っても各クラスの活動内容と、その際にどんな不具合があったかを生徒会へ寄せられた意見と一緒に提出するぐらいである。

 そのまとめが次回以降の文化祭で参考資料として使われることがあるから、できる限り細かく書かなければならない。どんなトラブルがあり、どんな風に解決したのかが重要になってくる。

 単純な作業だがクラス数が多いとそれなりに時間がかかってしまうため、できる範囲を最終日の早い段階から進めないといけない。

 「わかっていたことですけど、やっぱり舞台関係と屋台でのトラブルが多いですね」

 「仕方ないわね。特に舞台は毎年似たようなことが必ず出てしまうから、毎年注意するしかないわね」

 演奏や演劇で使う舞台は今のところ一番多くトラブルが発生していた。内容の大半は準備や撤収作業で思ったよりも時間がかかってしまい、定められた時間通りに終わることができず、結果タイムスケジュールが大幅にずれてしまうことだった。

 中には他のクラスの出し物を見に行ってしまって予定時間になっても帰って来ず、クラスメンバーが探しに行くという出来事もあった。

確かに瑞希の言った通り事前に注意しておき、それぞれが守ってくれることを信じるしかないだろう。

 それでも似たようなことを書き続けるのは精神的にもどっと疲れてしまう。一つのクラスがずれてしまうとそれ以降のクラス全体にまで影響が出てしまう。

 あと何クラスあるんだろうなと遠い目をしていると玲士の背後にある扉が勢いよく開け放たれた。

 飛び上がりそうなほど驚いた玲士は「何事か⁉」と思いながら背後を振り返った。

 扉を開けたのは梨恵で、走ってきたのだろうか肩で息をしている。

 「やっぱり、ここ、に、いたわね」

 「笹苗先輩、何があったのか知らないですけれど一旦落ち着いて息を整えてください」

 玲士の言葉をよそに梨恵はずんずんとこちらに歩いてきて、玲士の隣を通り過ぎ瑞希の隣に立った。

 「な、何かしら?」

 何か瑞希に用があるのかと思うが本人は全く心当たりがないのか戸惑った表情をしている。梨恵は「ちょっと来て」と言うと瑞希の腕をつかんでそのまま生徒会を出ようとする。

 しばらくは帰って来れなさそうだなと一人考えていた玲士だったが、再び梨恵が玲士の横を通り過ぎようとした際に玲士の腕もつかまれてしまった。

 「ちょっ⁉笹苗先輩、俺もですか⁉」

 まさか自分も連れて行かれるとは思わなかった玲士は、梨恵と同様に困惑しながら梨恵に連れ出されてしまった。

 ずるずると梨恵に引きずられるように歩かされている玲士は何が何だかわからない。玲士は同じように困惑顔の瑞希と歩きながら顔を見合わせていた。

 「会長何か知っていますか?俺、全く心当たりがないんですけど」

 「それは私も同じよ。ねぇ梨恵。いったいどうしたのよ」

 瑞希だけでなく玲士まで連れ出されているということはおそらく二人が関係していることだと思うが、共通したこととなると生徒会関係だろうか。

 生徒会に来てから詳しいことを何も言ってくれなかった梨恵だったが、二人を引っ張りながらようやく口を開いた。

 「どうしたじゃないわよ。二人とも今とんでもなく有名になっているわよ。学校中が今その話題で持ちきりなんだから」

 「「ええっ⁉」」

 あまりの驚きに瑞希と声がハモってしまった。なんだそれは。そもそも何故瑞希と一緒に有名になっているのだろう。

 驚きと困惑が隠せないまま連れてこられたのは、生徒会のある建物の隣にある教員棟だった。

 壁一面には写真部員が撮影した文化祭の写真がずらりと貼り出されている。写真には一枚一枚番号が振られており、何人かの生徒はその番号をメモしていた。

 写真部が撮影した写真は購入することが可能である。もちろんスマホでそれぞれ撮っているだろうが、記念として写真部が撮影した写真を購入する者も多い。

 生徒は購入申請用紙に欲しい写真の番号を記入して担当教員に渡せばいい。

 金銭のやり取りが発生することから担当教員以外が手続きを行うことはない。転売などが横行しないようにとの意味合いもあるので、写真部員はもちろんのこと生徒会もこの件には関わることはない。

 (そういえば、写真部って……)

 玲士があることを思い出そうとした矢先、玲士達の進む先で人が集まっているのに気がついた。

どうやら貼り出された写真を見ているようで、じっと静かに見ている者もいれば騒いでいる者もいる。

 騒ぎの中心に近づいてくると、騒ぎの中から玲士の知った顔が抜け出してきた。

 「隼?」

玲士の声が聞こえたわけではないだろうが、玲士がぽつりと呟いたタイミングで隼とばっちり目が合った。

 「れ~い~じぃ~~!」

 恨めしそうな声を出しながらこちらに突撃してきた隼は玲士の肩をがしっと掴んだ。

 「な、なんだよ?」

 「お前、いつの間にあんな写真撮ってもらってるんだよ!羨ましすぎるだろ!」

 「は?はい⁉」

 血の涙を流しそうな表情の隼に肩を強く揺さぶられる中、玲士は隼が何を言っているのかわからない。

 隼の言葉が聞こえたのだろう。何人かの生徒が玲士達の方を振り返ってきた。

 「あの二人よね?」

 「こうして見るとあの二人には見えないわよね」

 「写真じゃなくて直接見たかったな~」

 「私実際に見ちゃったわよ。物凄くお似合いだったんだから!」

 さっきまで写真を見ていたはずなのに、今は玲士達の方を見ながらあちこちで話している。

 女性組はにやにやとしているが、男子組からは恨みがましい視線が「玲士だけ」に注がれている。……俺が一体何をした。

 そんな視線の中、玲士は人混みの中を突き進んでいく。……こんなことが最近もどこかであったような気が。

 玲士がその記憶を手繰り寄せる前に目的の場所に着いてしまった。

 「これよ。瑞希も後輩君もいつの間にこんなことしていたのよ」

 びしっと梨恵が指さした写真を見た玲士は息をのんだ。

 そこには一枚の写真が貼られていた。そこに写っている光景は玲士も覚えている。

 噴水の前で玲士と瑞希が立っている。少し意固地になっているドレス姿の瑞希が顔を背けながら左手を差し出し、執事姿の玲士が笑顔でその手を取っていた。舞台の演出でもなく、写真を撮られることを想定していたわけでもない純粋な二人のやり取りの一場面が写っていた。

 しかも、あれだけ人が集まっていたはずなのに、写真には玲士と瑞希しか写っておらず他の生徒は一人も入り込んでいない。その技術はさすが写真部と言わざるを得ない。

 (こ、これは少し恥ずかしいな)

 あの時は特に深く考えもしなかったが、こんな風に写真を撮られていたとは思わなかった。いざ目にしてみるとこれが大勢の生徒に見られると思うとなんだか恥ずかしい。顔が何だか熱くなってきた。

 ちらりと隣にいる瑞希を横目で見ると、何も言わず静かに写真を見ていた。その表情からは瑞希がどう感じているのかは読み取れない。

 それでもと玲士は視線を目の前の写真に戻しながら思った。

 (いい写真だな)

 後ろでは「会長のドレス姿……」「あいつが写っていなければ……」など悲痛な声が聞こえてきており、その中に隼も混じっていたような気がしたが玲士は何も言わず無視した。

 この後玲士が梨恵から質問攻めにあったのは言うまでもない。


 「とうとう文化祭も終わりだね~」

 梨恵はそう言いながらジャムクッキーを口の中にポイっと投げ入れた。

文化祭最終日。後片付けが終わった夕方玲士達は生徒会室で打ち上げをしていた。打ち上げと言っても、ストックしてある菓子と飲み物を用意しただけの簡素なものだ。

 今日は梨恵と真司も参加しているので騒がしくなっている。

 「いや~。まさか瑞希と後輩くんがあんな格好で一緒にいたのも驚いたけど、まさか二人の写真がグランプリまで取るとはね~」

 「だから言ったでしょう。あの時は偶然その場にいただけですし、そもそもグランプリを取ったことは俺も驚いているんですから」

 そう。玲士達が写真を見に行った後も噂を聞き付けた生徒が話題の写真を一目見ようと教員棟に絶えず人が訪れ、ようやく落ち着いたころに写真部での人気投票が終わった。

 投票結果を確認してみれば、玲士と瑞希の写真がぶっちぎりのトップで見事グランプリの座を獲得した。

 撮影した本人は「やっぱり私の直感は正しかった」と満足げに玲士達に報告しに来たのがついさっきだ。写真部でも打ち上げのようなものがあるのだろう。報告を済ませるとさっさと帰ってしまった。

 「後輩くんも今日で最後だからね~。ここも寂しくなるね~」

 「……まぁ、文化祭の助っ人みたいな形でしたしね」

 梨恵が残念そうにしているのを玲士は苦笑しながら相槌を打った。瑞希が梨恵の言葉にぴくっと反応し手を止めたが誰も気がつかない。

 もともと、玲士は文化祭で人手不足になっている生徒会の補助要員で一時的に生徒会メンバーとなっている。文化祭が終わろうとしている今、これ以上玲士が手伝うことは何もない。

 明日からは生徒会に来ることもなくなり、また三人に戻る。三人と言っても内二人は毎回いるわけではないので実質瑞希一人になってしまう。

 「これからどうなるんですか?また忙しくなったら募集する感じですか?」

 玲士は気になって問いを投げかけた。瑞希達は受験生だ。あまり生徒会に時間をかけすぎていては試験に支障が出てしまう。

 「特に何もすることは無いわ。残りの期間でやることが全く無いわけではないけれど、文化祭みたいにバタバタするようなイベントはもう無いから楽よ」

 瑞希は特に気にした風でもなくカップに口を付けた。

 「まぁ、やることと言えば来年に向けた引継ぎの資料と今年のまとめを作ることぐらいだな。膨大な量になるわけじゃないが、少しずつ進めておかないと後々しんどくはなるな」

 瑞希の言葉を補足するような形で真司が具体的な内容を教えてくれた。

 たしかに瑞希が普段こなしている作業は相当な量だ。来年生徒会になる人間はそれをこなさなければならなくなるので、内容を整理しないと絶対に手が回らなくなるか忘れてしまうだろう。

 まだ見ぬ未来の生徒会メンバーの苦労している姿を想像しながら玲士は心の中で手を合わせた。お疲れさまと。

 「なら安心ですけど、会長は無理しないでくださいね。また前みたいに倒れるのは厳禁ですよ」

 「問題無いわ。自分の体調管理くらいは自分でできるから」

 「……倒れた本人が言っても全く説得力がないですよ」

 「……。」

 さも当然という瑞希を玲士はジト目で見た。その自信はいったいどこから来るのだろうか。

 「受験があるんですから、せめて誰か募集かけたらどうですか?」

 「長続きしないと意味ないんだけどね~」

 梨恵の指摘に玲士は黙り込んだ。玲士が生徒会に来るまでに何人かは入ったらしいが、結局長続きせず離れて行った者ばかりだ。到底今後も同じようなことが起こらないとは考えにくい。でもそうしなければ瑞希の試験勉強に当てる時間が減ってしまう。

 どうしたものかと考えていたら、瑞希がこちらを見ているのに気がついた。何かを言おうとしているのか口を開けるが、そのまま何も喋らず口を閉じてしまった。

 その行動に玲士は内心首を傾げた。何を言おうとしていたのだろう。瑞希の行動に疑問を持ったが、結局追及はせず気にしないことにした。


 「それじゃあ、俺はこれで失礼します」

 生徒会室を出たところで玲士は振り返った。後ろには瑞希や梨恵、真司がドアの前で立っている。

 「本当に助かったわ。短い間だったけどありがとう」

 「本当だよ~。後輩くんに手伝ってもらってよかったよ」

 「確かにそうだな。来てくれて感謝する」

 三人がそれぞれお礼を言ってくれることに玲士は気恥しさを感じながらも嬉しさも込み上げてきた。彼女達の手助けをすることができて本当に良かった。

 普段の玲士が関わることのない作業で悪戦苦闘したが、それでも楽しさの方が勝っていたのは事実だ。途中でハプニングもあったが、今となってはそれもいい思い出の一つになった。

 そんなことを考えていると、また瑞希が何か言いたそうにこちらを見ている。

 「会長?どうかしましたか」

 「……いえ。えっと……」

 「?」

 瑞希にしては珍しく口ごもっている。何か言い忘れていることがあるのだろうか?

 「何でもないわ。来てくれたことは本当に助かったわ。ご苦労様でした」

 「……いえ。こちらこそ本当にお世話になりました」

 何か引っかかるような感じがしたが、これ以上は何も聞かず玲士はそのまま生徒会をあとにした。


 生徒会をあとにした玲士は隣の教員棟に来ていた。辺りはすでに夕焼けに染まっており、窓から夕陽が差し込んでいる。文化祭の賑やかさはすでになく、今は風の音と風に揺られている木々の音しかしない。

 玲士はそんな中、写真部が撮影した写真を眺めていた。前回来たときは梨恵に連れられて瑞希との写真しか見れなかった為、今度はゆっくりと一枚一枚眺めている。

 写真に写っているのは様々だ。撮影者に気がつかず、目の前の焼きそばを料理している者。記念撮影のように仲間同士集まって笑顔でカメラにポーズを決めている者、写真を撮ろうとしている撮影者を撮った写真などそれぞれが撮りたいと思ったものが溢れていた。

 中にはもちろん玲士達のクラスの写真もある。着慣れていない服に戸惑った表情の者もいれば、カメラに撮られることを意識しているのか明らかに自分の全身が見えるように移動している者までいる。

 月野に関しては教室の前で仲間と一緒に撮ってもらっているのもある。これは写真部にお願いして取ってもらったな。自由過ぎるメンバーの行動に玲士は思わず笑ってしまう。

 今年はこれまでと違った楽しみ方ができたような気がする。隼以外では「名前も知らない」クラスメイトとも関われたような気がするので新鮮だった。

 時間をかけてゆっくり眺めていた玲士はある所で足を止めた。それは一度目にしたことのある写真。今回グランプリとなった瑞希との写真だ。

 改めて見てもこの写真だけ他とは違い目立っている。この時だけ撮影者が違うのでは?と思わずにいられないような見事なタイミングだ。

 (本当に楽しそうにしているな)

 じっと玲士は写真に写る自分自身を見続けた。写真の中の玲士は笑顔で瑞希の手を取っている。撮られていると気づいていなかったが、あの時はこんな表情で瑞希と話していたのか。

 自分自身を見続けていた玲士は、しばらくするとその場を離れ真っ直ぐ目的の部屋まで歩いていく。

 扉に手をかけ、開けた先にいるであろう人物を見つけるとそのまま歩み寄った。

 「すみません。ちょっといいですか?」



 数日後、瑞希はいつも通り生徒会室に居る。文化祭もひとまず落ち着き今は急いで処理する仕事もなくのんびりと過ごすことができていた。

 それでも変わったことはある。ちらりと向けられた視線の先には誰も座っていない椅子がある。

 数日前までは田宮君がそこに座っていた。多くのことができたわけではなく、あくまで補助として瑞希達を支えてくれた。

 時には生徒会と関係ない所にまで首を突っ込んでいた。お菓子を持ち込み、休憩時間と言ってさりげなく作業を止めたりもした。

 (一人……か)

  改めて実感すると何故だか寂しく感じてしまうのは何故だろう。文化祭最終日、生徒会を去ろうとしていた田宮君に言うべきかどうか悩んでしまった。このまま生徒会に残ってはどうかと。

 正直どうしてそんなことを言おうと思ったのか瑞希自身もよくわからなかった。その時、急に頭の中に浮かんだような感じだった。

 彼は文化祭が終わるまでの条件で入ってくれたのだ。それ以上は単瑞希のわがままなので田宮君に言うのをためらってしまい結局は言えずじまいになってしまった。

 田宮君には田宮君の都合がある。そう自分自身に言い聞かせることで瑞希は納得しようとした。

 (さぁ。少しは受験勉強をしないと)

 瑞希は気持ちを切り替えて鞄から勉強道具を取り出そうとしたとき、生徒会のドアが開いた。


 「あ、会長。やっぱりここにいましたね」

 扉を開けて玲士が中を覗き込むと予想した通り瑞希が部屋の中にいた。机には何もないのは瑞希も来たばかりだろうか。

 するりと中に入った玲士は真っすぐ瑞希の元へ歩いていく。瑞希は目を丸くしたまま固まっている。

 「どうしたの田宮君。何か私に用かしら?」

 「そうですね。会長に用があってきました」

 瑞希は心当たりがないように首を傾げている。瑞希の疑問はもっともだ。生徒会から離れた玲士は瑞希と関わることはほとんど無いに等しい。玲士自身文化祭の助っ人になるまで瑞希の元を訪れるような用事は今まで無かった。

 玲士は瑞希の隣まで来ると、鞄から一枚の紙を取り出し瑞希の前に置いた。

 「会長。これにサインかハンコを押してもらってもいいですか。先生に聞いたら生徒会の許可が必要だと言われたんで」

 「私の?許可がいるっていったい何……を?……」

 瑞希は手元の紙に目を落とし、固まってしまった。目は大きく見開き、目の前の紙を凝視している。

 「えっと、田宮君。これはいったい」

 「何って入部届ですよ。入部って言っても部活じゃないと思いますけど」

 「そうじゃないでしょ。なんで田宮君が『生徒会』への入部届を出そうとしているのよ!」

 こちらに向かって問い詰めるような瑞希に玲士はどう説明したものか悩んだ。確かに生徒会での役目を終えて挨拶まで終わらせたのにも関わらず、数日後にはまた生徒会に入りたいなんてどうかしている。

文化祭最終日、写真を見ていた玲士はそのまま真っ直ぐ職員室まで向かい生徒会に入りたいと申請をしに行ったのだ。すぐに申請が通るものだと思っていた玲士だったが、それに待ったをかけたのがその時玲士の相手をした教員だった。

 回りくどい言い回しがあったりオブラートに包んでいるところがいくつかあったが、長々と話していた教員の話を要約すると、

 「無理して文化祭の後も手伝う必要は無い」「内申点を上げるために生徒会に入っても、これまでチャレンジした生徒のように短期間で抜けると逆に大学受験時に印象を悪くしてしまう可能性がある」「無理に続けるように言われているなら教員側から注意をする」と大まかには三点になった。

 それでも玲士は意思を曲げることなく必死に頼み込み教員側も初めは考え直すよう粘っていたが、ついに教員側が根負けするような形で申請用紙を渡してくれたのだ。そもそも内申点を上げるために生徒会に入ると決めたわけではない。

 玲士も勢いで決めるべきではないと考えていたので、文化祭が終わって昨日まで申請用紙に手を付けず自宅に置いたままにしていた。今日になっても自分の意思に変わりはないと分かった玲士は改めて休み時間に書き上げ、生徒会まで来たわけだ。

 「もし先生達から続けるように言われたのなら正直に言ってちょうだい。本人の意思を無視して続けさせるつもりなら私が直接抗議します」

 「ええっ⁉」

 怒りを滲ませている瑞希の様子に玲士は慌てた。なぜそのままの意味で受け取ってもらえないのだろう。ただ承認してもらうだけのはずが何だかややこしい事態に発展しようとしている。

 教員側は瑞希が続けさせようとしているのだと思っており、瑞希は教員側が玲士の意思を無視しているのだと勘違いしている。

 「違いますよ会長。俺は自分の意思で続けたいと思ったからこうして来ているんです。誰かから強要されたわけでもありませんし、もちろん脅されてもしていません」

 玲士は本心を瑞希に必死に説明した。このまま勘違いさせたままだと瑞希が職員室に乗り込んで教員との口論に発展しかねない。

 「……私のことを心配しているなら大丈夫よ。今は仕事も落ち着いてゆっくりできるほどの余裕はあるし、受験勉強にも支障が出ないようにしているわ」

 未だに玲士の言葉が信じられないのだろう。玲士の説明を聞いても瑞希は疑いの目をこちらに向けてきたままだ。流石に玲士も頭を抱えたくなる。まさかここまで疑われているとは……。

 「もう一度言いますけど、俺は生徒会を続けたいから自分の意思でここに来ているんですよ。別に誰かから言われたわけじゃありません。先に職員室に行って話はしましたけど、先生達も今の会長みたいなことを言っていましたよ。会長が俺を無理に引き留めようとしていると」

 「……そんなこと私は言わないわ!」

 激高した瑞希が立ち上がろうとするのを玲士は「わかっていますから」となだめ椅子に座らせる。一瞬反応が遅れたのは少し気になるが多分何を言われたのか理解できなかったのだろう。

 それでも怒りが収まらないのか瑞希は険しい表情のままだ。

 「会長。俺が生徒会に入るのはふさわしくないですか?」

 「っ!そんなことないわ。田宮君はこれまでしっかりと生徒会の仕事をこなしてきてくれたし、私達も助けられたわ。梨恵も真司もそう言っていたでしょう?」

 「だったら別に構わないんじゃないですか?」

 「そ、それはそうだけど……」

 瑞希は視線をさまよわせ何か言おうとしていたが、結局何も言うことなく黙ってしまった。

 玲士はそんな瑞希を黙って見守る。さらに言葉を重ねることもできるが、最後は瑞希が納得してくれないと玲士の生徒会入りは果たせない。ここは彼女が納得するのを待つしかない。

 「……本当にいいの?さっきも言ったけど無理して入らなくてもいいのよ」

 見上げてくる瑞希は不安そうな表情をしているが、一方でどこか期待しているようにも見える。

 素直に入って欲しいと言えばいいのに。そう思いはするが玲士は決して口にはしない。それでまた意固地になられても面倒だ。きっと誰かに頼りたくはないという瑞希のスタンスが判断に待ったをかけているのだろう。

 「大丈夫ですよ。そんなに深く考えないでください」

 玲士の返答に安心したのか瑞希は肩の力を抜き、引き出しを開けて目的の物を取り出した。

 申請用紙の空欄になっている部分に生徒会の承認印が押され、玲士に申請用紙を差し出しながら「これからもよろしくね」と瑞希は微笑んでいた。



 「会長。この部とこの部はどうして部費が削られているんですか?」

 「あぁ。その二つはね部費を部活には活用せず、飲食に使ったりゲームセンターで遊ぶのに使っているのが分かってね。発覚した後は最低限しか割り振っていないのよ」

 「それはまた酷いですね。……そもそもなんでバレたんですか?部費の使用明細はちゃんとしていたんですよね?」

 「明細はきっちり誤魔化していたわ。でも調べてみると毎年適当な理由を付けて部費を増やせと言ってきているのに備品がそんなに変化していなかったのよ。それでそれとなく探りを入れたら、部活動はろくにせずに遊びまわっていると分かったの。だから部費の割り振りは慎重にしないといけないし、内容もよく確認しないといけないわ。必要以上に高価な材料や道具を購入しているようなら要注意ね」

 「なるほど」

 ふむふむと頷きながら玲士は手にしたメモ帳に要点だけを書きこんでいく。

 助っ人要員ではなく正式に生徒会メンバーになった玲士は瑞希から仕事のレクチャーを受けていた。

 受験勉強もあり、玲士の都合ばかり優先するわけにもいかないので週末の金曜日に集まると瑞希と決めてある。

 生徒会の仕事を引き受けるにあたって玲士が覚えることは山のようにあった。部費の割り振りから毎年行われる行事の参加内容、決して少なくはない生徒会への意見書の対応内容など慎重にならないことなどがあり玲士の頭はパンクしそうだ。

 (よく会長は一人でこなせているな)

 そもそもここまで仕事量が増大したのは瑞希本人なのだが、当の本人はいつも涼しい顔で作業をこなしている。

 今は瑞希が大半を引き受けてくれるが、来年からは玲士が引き継がなければならない。

 果たしてここまで涼しい顔でいられるだろうかと今から嫌な汗が出てきそうだ。

 「ねぇ後輩く~~ん。そろそろ甘いものが食べたいよ~」

 そんな空気とは無縁な間延びした声が聞こえてきて、玲士は声の主に視線を向けた。

 視線の先には梨恵がノートに顔を埋め突っ伏している。

 「……あぁ。それなら休憩にしましょうか。会長もいいですよね?」

 「そうね。こっちもきりがいいし丁度いいわね」

 ちらりと壁に掛けられた時計を見ながら玲士は立ち上がって菓子を用意しようと戸棚に歩み寄った。

 「あれっ?」

 いつものように中にある菓子を大皿に移し持って行こうとしていた玲士は戸棚を開けたところであることに気がついた。

 (菓子がもうこれだけしかない)

 戸棚の中には玲士が買い込んでおいた菓子や紅茶、緑茶などいろいろな種類が入っているのだがそれらがもう僅かしか残っていない。

 念のため隣の戸棚も開けてみるが中には何も入っていない。すっからかんだった。

 とりあえず全員分の飲み物を用意して盆に載せた後、残っている菓子を全部大皿に移して瑞希達の元へ戻った。

 「あれっ?後輩くん。今日は種類が多いね」

 「どれも残り少なかったんで一つにまとめたんですよ。ストックも尽きちゃったので今日辺りまた買ってきますよ」

 「そうなんだ~。まぁ文化祭でずっとバタバタしていたし、最終日にパーっと使っちゃったもんね」

 梨恵はそう言いながら手近な一口クッキーの包装を開けて中身を口に放り込んだ。

 瑞希も大皿の中から小分けされた一口バームクーヘンを手にしており、その傍らで玲士は二人の前にカップを置いていく。

 確かにこれまで文化祭の準備で大忙しだったし、文化祭中はそれぞれのクラスにいることが多かったが、打ち上げの際はかなり豪勢にしていたような気がする。

 消費していたにも関わらずその後の補充をすっかり忘れていた。

 ちなみに真司は不参加だ。受験勉強のラストスパートをかけたいということで受験終了まではよほどのことが無い限りは顔を出さないらしい。

 「それより笹苗先輩はここで勉強なんて大丈夫なんですか?自習室の方が静かで集中できると思うんですけど」

 「あ~、ダメダメ。確かに勉強するなら一番なのでしょうけど、今の時期は人が多くて逆に集中できないわ。一人になりたいわけじゃないけど、いても数人ぐらいが私は落ち着いて集中できるわね」

 「そんなもんですか?」

 人が多くても静かな空間の方が勉強に集中できそうなものだと思うが、梨恵は「そんなもんよ」と言って紅茶を飲んで一息ついた。

 梨恵は広いテーブルに参考書や教科書を出せるものは全てテーブルに置いてその広さを余すところなく使っている。

 「そういえば、笹苗先輩ってどこの大学に進むんですか?」

 「ありっ?言ったことなかったっけ?」

 「少なくとも俺が生徒会で出会ってからは聞いたことはないですね」

 瑞希は以前に聞いてはいたし知ってはいるが、梨恵については聞いたことが無く玲士の方からも今まで聞こうとはしなかった。

 「私はね~ファッション関係の仕事に憧れているんだよね。だから他県になっちゃうけど専門的な大学に行こうと思っているのよ」

 「ファッションって言うとテレビとかで見るファッションショーみたいな感じですか?」

 その道に詳しくない玲士は記憶の中からファッションっぽい職業を思い浮かべると、最初に出てきたのはファッションショーだった。

 大勢の前でかなり派手な衣装を着て女性が歩いていく姿は何度かテレビで見たことはある。玲士が思い浮かべているのが分かったのだろう。梨恵は「違うよ」と言いながら否定した。

 「私の目指しているファッションっていうのは後輩くんが考えているようなのじゃないの。私は普段私服として着られるような服を作って売り出していきたいのよ。そこまで目立ったことはしたくはないわね」

 どうやら一口にファッションと言ってもジャンルが違うようだ。その業界の知識が無いためどうしても一括りにしてしまう。

 そんなことを考えている玲士だったが「でもね~」と言葉を続けたことで意識を戻して梨恵の話を聞く。

 「第一志望の大学ってなんだかハードルが高いのよね~。模試の判定もなんだか微妙だったし~」

 玲士は反応に困った。玲士自身がまだ受験生でないこともあるが、受験生相手への言動には気を遣う。下手なことを言ってモチベーションが下がっても困るし気を抜きすぎてしまっても困る。

 「ん?あ~、そんなに気を使わなくてもいいわよ。言葉の一つ一つで反応していたらきりが無いわよ」

 こちらの反応に気がついたのか梨恵は安心させるように手をひらひら振る。それどころか鞄の中から封筒を取り出し玲士に届くように投げてきた。すでに一度開封されておりわずかな隙間から封筒の中には何枚かの紙が入っていることは分かった。

 「一応確認しますけど笹苗先輩。これは何が入っているんですか?」

 「もちろん、この前の模試の結果よ。見てもいいわよ」

 「見ませんよ!」

 すぐさま玲士は手にした封筒を梨恵に突き返した。たとえ本人がいいと言っても「はい。そうですか」と言って見るものではないと玲士は思っている。

 「真面目ね~」と言いながら突き返した封筒を受け取ると梨恵は「B判定よ」と答えた。見るつもりはないと思って突き返したのに、言ってしまっては意味がないではないか。

 確かにまだ油断できない結果だ。確か玲士の記憶が正しければ、B判定は合格率が六十%ぐらいで、A判定は合格率が八十%ぐらいだったはずだ。

 「まだ四十%近くもあるのはさすがに心配だけど、なかなか縮めれないんだよね~」

 「四十%?」

 梨恵の言葉に玲士は引っ掛かりを感じた。そこは六十%ではないだろうか。

 「あぁ。後輩君はそっちの考え方なんだ。私は合格する可能性を見るんじゃなくて落ちる可能性の方を見ているの。どう勉強すれば落ちる可能性を減らせるか。どうすればこの数値を減らせることができるのかって考えるのよ」

 「そうなんですか。俺だったらやっぱり合格率の方を見ちゃいますね」

 「別に後輩くんの考え方が間違っているわけじゃないよ。判定結果を全部信じているわけじゃないけど、Aにすることを目標にしていたらAをもらった時に安心しちゃってそれ以上頑張らなくなるのが嫌だったの」

 説明を聞いた時、玲士は梨恵の心構えの強さに驚かされた。基本的に模試の判定基準は受験生にとっては無視できない指標となる。

 判定結果を確認した後でさらに努力を重ねていく者もいれば、何度模試を受けても判定結果が低いままなら選ぶべき進路を変える選択も必要となってくる。

 A判定を受けた後も変わらず努力を続ければ、——倍率は一旦無視して——当日に大きなミスをしない限りはおそらく試験は突破できるだろう。

 しかし中には判定結果で安心・満足してしまい努力を怠ってしまう者も少なくはない。その結果周りとあっという間に差をつけられてしまい受験に失敗してしまう話は後を絶たない。

 その点、梨恵の考え方は最後まで気を抜きにくいだろう。

 今のままだと「四十%も落ちる可能性がある」と常に悪い面を考えさせられる。模試ではA判定以上の結果は存在しないため、最低でも失敗する可能性が「二十%も残ってしまう」結果となる。

 常に自分自身を追い込むような形となり、モチベーションが長期間維持できるかは本人次第だろう。

 「あっ。ちなみに宮っちも同じ考え方みたい。いつだったか模試の結果を見せ合った時にそんな話になったから」

 「宮川先輩らしいですね。それじゃあ会長も同じですか?」

 玲士は瑞希の方を見たが瑞希は首を横に振った。

 「確かに梨恵や真司の考え方と同じだけど、判定に関しては見ていないわね。私はできる限り点数を伸ばすように努力しているわ」

 「判定より点数ですか?」

 「前にも言ったと思うけど私は特待生として大学に入りたいの。だからできる限り点数を伸ばさないといけないのよ」

 特待生は大学にただ合格するのとは難易度が圧倒的に違う。大学によって判断基準は多少変動するが入学試験での正答率が九割近くなければ選ばれることは無い狭き門だ。

 人数も制限があり全員が特待生になれるわけでもなく、特待生となっても在学中は成績を維持し続けなければならない。

 厳しい条件が常に課せられるが特待生に選ばれた際のメリットは大きい。

 それは授業料の免除である。学部によって違いはあるが四年間の授業料は平均三百万から四百万ほどでかなりの額である。

 それが免除されるのは経済的にかなり助けられることになるだろう。それを瑞希は狙っているようだ。

 「そうなんですか。俺は何もできないですけど応援していますね」

 瑞希はクッキーを齧りながら「ありがとう」と口にした。そんな二人を見ていた梨恵が「私も応援してよ~」とごねてしまったのは余談だ。



 「ふぅ。とりあえずこんなもんか」

 玲士は手に持ったレジ袋を見て呟いた。

 瑞希からレクチャーを受けた帰り玲士は駅前のショッピングセンターに消費しつくしてしまった菓子などの買い出しに来ていた。

 あれから玲士はへそを曲げてしまった梨恵の機嫌を直すのに苦労し、梨恵が希望する菓子をできるだけ用意することで何とか納得してもらった。レジ袋の中は詰め込んだ菓子でパンパンになっている。

 玲士のやるべきことは終わった。終わってはいるのだが玲士は帰れない。その理由は玲士の背後にあり、振り返って後ろにいる人物に声をかけた。

 「俺の方は大丈夫ですよ。それじゃあ行きましょうか会長」

 「ええ。二階の文具屋で買えると思うからそこまで時間はかからないと思うわ」

 玲士の背後では瑞希が当然のように付いて来ていた。

 瑞希の隣を歩きながらどうしてこうなったのかと頭を悩ませていた。

 もともと玲士は一人で買い出しをするつもりだったのだが、そこで待ったをかけたのが瑞希だった。玲士だけに任せるのは申し訳ないということでついて来ようとしたのだが、買うのは菓子や飲み物のパックぐらいでそれほど荷物にならない。

 一人で大丈夫だからとやんわり断っていたのだが、瑞希は遠慮しなくてもいいと言って頑なについて来ようとした。

 受験勉強を優先してほしいと思っていたのだが、最終的に生徒会で使用する消耗品も補充するという名目で一緒に買い物をすることになって今に至る。

 (そういえば校外で会長と二人で出かけるのは初めてだな)

 ちらりと隣を歩く瑞希を横目で見ながら玲士はそんなことを考えていた。そもそも校外に二人で一緒に出かける用事がこれまで無かったのである意味当然と言えば当然である。

 「田宮君ってここにはよく来るの?」

 「そうですね。買い物するならまずここに来ますね。店も品揃えも十分なので便利ですから」

 玲士が今いるショッピングセンターは周辺で一番大きな商業複合施設であり、中には書店やドラッグストア・ファッション専門店など日常生活で必要になりそうな店舗の大半があるので玲士自身買い物の際はかなり助かっている。

 もちろん複合施設の為専門店と比較すると差は出てしまうが、一つの敷地内で用事の全てを済ませることができるので玲士は特に不満も持たずに利用し続けている。

 「会長もここを利用しているんじゃないんですか?」

 「確かに何度も利用するけど、食料品はここだけじゃなくて他にもいくつかの店で買っているわ。他の店の方が安く帰る時もあるから」

 「いくつも店を回るのって面倒にならないんですか?」

 「確かに面倒だと思うけれど、日々の生活のことを考えたらこれぐらいのことは苦にはならないわよ。時々、行った先で売り切れていてまた最初に入った店に戻らないといけない場合もあるけどね」

 流石にそれは瑞希も二度手間になり過ぎて嫌なのだろう。笑ってはいるが嫌そうなのが言葉の端々から伝わってくる。

 雑談を交わしながら文具屋に到着すると、瑞希は玲士に入り口で待つように言い残しあっという間に店の中に消えて行ってしまった。

 一人店の前で待っている玲士はほぅっと息を短く吐いた。二人で出かけることは無かったため今回の瑞希と二人きりの買い物はなんだか緊張する。誰かと一緒に買い出しに出たことが無いのでこんな時どう相手と接すればいいのか〝わからない〟。

 (とりあえずはこのまま流れで進めて行こう)

 瑞希の買い物はそれほど多くなかったのだろう。数分後には少し大きめのレジ袋を持って戻ってきた。

 「会長随分と早かったですけど、買ったのは……コピー用紙ですか?」

 「そうね。あとは個人的に買っておきたかったノートとかかしらね」

 瑞希は玲士に見えるようにレジ袋を持ち上げて見せる。中にはコピー用紙が三束とノートが数冊入っている。

 それぐらいならついでに買ってあげても問題ないような気もしたが、瑞希個人で使用する物もあり玲士では瑞希の好みに合わせられるかどうかわからないし、ここまで一緒についてきた瑞希の性格から決して意地でも付いて来そうだったので何も言うことなくその場は流した。


 「あっ!会長ちょっと寄り道していいですか?」

 「え?それは構わないけど」

 エスカレーターでゆっくりと下りていた玲士は一階のホール辺りに気になるものを見つけて思わずそれを視線で追った。

 瑞希に断りを入れた玲士は視線の先にあるものに向かって歩き出す。そこには移動式の小型ショーケースが設置されており、その隣には玲士の身長より少し高いぐらいののぼり旗が設置されており、そこには大きく「パティスリー プレリー」と書かれている。

 ショーケースの中を覗き込んだ玲士は肩を落とした。ショーケースの中にはケーキの名称が書かれたプレートだけが残っており、商品自体は全て無くなっており売り切れになっていた。

 「あっ、ごめんね。もう売り切れちゃったから撤収しようと思っていたところなのよ」

 この場所で売り子をしていたのだろう。玲士に気づいたのかショーケースの奥からひょっこりと女性が顔を出した。

 玲士達より少し年上の印象があり、おそらく大学生ぐらいだろう。髪を後ろでまとめた上からバンダナをつけている。せっかく足を運んだ玲士を申し訳なさそうな表情で見ている。

 「あぁ気にしないでください。もうこんな時間ですからしょうがないですよ」

 玲士がショッピングモールに着いた時点ですでに辺りは暗くなり始めていた。ちらりと腕時計で時間を確認すると六時半を過ぎたところだ。流石にこの時間まで売れ残ることは無いだろう。

 それでも玲士が足を運んだのは何が売られていたのか気になったからだ。

 「すみません。この期間限定ってやつはまたここに来れば買えますか?」

 暗くなりそうな雰囲気を振り払うように玲士は気になっていた二つのプレートを指さした。プレートには手作りで「期間限定!」「おすすめ」と追加で装飾されていて興味を引くようになっている。

 一つは梨のケーキ。もう一つはレモンを使ったケーキのようだ。

 期間限定と書かれていると他よりも特別感があり、一度は食べてみたくなってしまうのはこの言葉の力だろうか。

 一方で聞かれた女性の表情は芳しくない。

 「あ~。確かに売ってはいるけど、数はそんなに多くは無いよ。売れ残っちゃうと困るからあくまでも最低限の量しかないし、この二つは人気だからすぐに売り切れちゃうね」

 「じゃあ、放課後俺がここに来る頃には……」

 「まぁ無くなっているでしょうね」

 いつからこの場所で売り始めているのかわからないが、この大型施設内で玲士が来るまで人気商品が残っていることの方が稀だろう。

 「でもでも、店まで来てくれたらここよりも数はあるから、この時間でもそっちに行った方が残っているかもしれないですよ」

 流石にこのまま帰らせるのは気が引けるのだろうか背後の荷物からチラシを取り出してこちらに渡してきた。

 いつの間にか玲士の隣に近寄ってきた瑞希にも渡している。

 チラシには色とりどりのケーキの写真が並べられており、見た感じワゴン販売では扱っていないケーキもあるようだ。

 裏をめくってみればかなり簡略化されているが店の地図が載っており、地図によるとどうやらここから駅を二つほど離れた場所に店はあるようだ。徒歩では流石に遠すぎるため電車で移動しなければならない。

 「どうするの?今から行くなら営業時間ギリギリになりそうだけど」

 「流石に今からは行きませんよ。また今度都合のいい時に行きますよ」

 瑞希が聞いてくるが、玲士は行かないことをすぐに決めた。今から行くにしては遅すぎるし、今日の目的は果たしているから十分だ。菓子を持ってこれ以上うろうろすることはせずにおとなしく帰った方がいい。

 売り子の女性と別れ自動扉を抜けて外に出ると辺りはもう真っ暗で景色は夕焼けの赤から電球の白さに今は彩られている。

 帰宅の途につくため玲士と瑞希は申し合わせたわけでもなくほぼ同時に足を踏み出した。

 「そういえばさっきは言い出せなかったのだけど、田宮君ってケーキが好きなの?なんだか以外ね」

 瑞希を送っている途中、歩きながら瑞希はずっと気になっていたのかそんなことを言ってきた。

確かにワゴン販売しているショーケースに突撃し、中を眺めて気を落としたり期間限定商品が入手できるか質問している姿を見られているわけだからそう思われても不思議ではない。

 「確かに好きですけど、ケーキだけが好きなわけじゃないですよ。今は俺の中でスイーツブームが来ているんですよ」

 「スイーツブーム?」

 なんだそれはと瑞希が首を傾げた。

 「特に深い理由は無いんですけど、俺の中で無性にこれが食べたいって思うことがあるんですよ。それで、しばらくはそればっかり食べたくなるんですよね。今はそれがスイーツになっているってわけですよ」

 「なんだか変わっているわね。今がってことはスイーツ以外にどんなブームがあったのかしら」

 「いろいろありましたよ。スムージーブームだったりミカンの缶詰ブーム、カレーブームとかコロッケブームなんて時もありましたね」

 「聞いている限りだと身近な料理だったり手軽に買えるものばかりね」

 瑞希の意見はもっともだ。玲士がこれまでマイブームにしてきたのはどれも簡単に食べられるものばかりだ。

 コロッケブームは学校帰りにあるコロッケ専門店で、文字通りコロッケしか販売していない小さな販売所である。スーパーで売られているコロッケとは違い種類が圧倒的に多く、揚げたてを食べられることが多かったので毎日とはいかなかったがよく何個も買いこんで歩き食いをしていた。

 カレーブームの際は作り置くことを考えたが授業があるため昼間に温めることができないので傷むのを避けてレトルトカレーで満足していた気がする。数日間ずっと夕食がカレーだったが特に苦にはならなかった。

 他のブームもほぼ似たような感じで数日、長い時で数週間にもわたって食べているような感じである。

 「そうですね。準備に手間がかかるようなのは今のところ挑戦していないですね。あっ。あそこにあるパン屋もブームの時に全種類食べつくしたことはありましたよ」

 「ふふ。そんなに食べてばかりだと体が丸くなってしまいそうね。田宮君と一緒に食べ歩きをすると大変なことになりそう」

 瑞希は隣でくすくすと笑っている。普段見せない瑞希の笑顔を見られていることもなんだか嬉しいと思うが、生徒会とは違う穏やかな時間を過ごせているのが何だか新鮮な感じだ。

 「田宮君は今までに和菓子ブームは来たことはあるのかしら?」

 「ありますね。おはぎブームでしばらく夜食がずっとおはぎだったことはありますね」

 「……なんとなく聞いてみたけど、まさかもう実施しているとは思わなかったわね。それじゃあ洋菓子と和菓子なら田宮君はどっちの方が好きなのかしら?」

 瑞希からの質問に玲士は考え込んだ。どちらが好きなのかこれまで考えたことが無かったが、いったい俺はどっちの方が好きなんだろう。

 「そうですね~。どちらも好きですけれど、どっちかなら俺は洋菓子ですかね。ケーキのバリエーションも多いですし、ケーキだけじゃなくてタルトも個人的には好きですしね」

 「期間限定って言葉が田宮君は弱そうだから毎年新作が出ると大変そうね」

 「新作はできる限り食べようとはしていますね。会長って新作とか期間限定って言葉には影響されないんですか?」

 「私も期間限定って言葉には弱いわね。ただ、期間限定でも毎年出ているような定番メニューは買うかどうか躊躇ってしまうわね」

 瑞希の言葉に玲士は少し意外に感じた。瑞希なら普段から意志が強くて誘惑に負けないようなイメージがある。そんな彼女が期間限定の言葉に負けて順番待ちしている姿は想像できない。

そんなことを聞いてしまうと嬉しそうにケーキを頬張る瑞希を見てみたいと思ってしまうのはきっと玲士だけではないはずだ。

 街灯の光に照らされながら雑談で盛り上がっていると、目的地である瑞希のマンション前にたどり着いてしまった。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうがこんな雑談でも時間が過ぎるのは早い。

 「それじゃあ、今日はわざわざ付き合ってもらってありがとうございました」

  マンションの入り口で瑞希に向き合った玲士はお礼を言った。

 「こちらこそ付いて行っただけじゃなく、私の買い物に付き合ってくれたからこちらこそお礼を言うわ。帰り道はとても楽しい話であっという間だったわ。ありがとうね」

 玲士の心配をいい意味で裏切るようで玲士は一安心した。瑞希から話題を振ってくれたことも助けとなり玲士の話で楽しんでくれたのはよかった。

 (俺だと話題のネタが絶対に尽きてしまって話が続かなかっただろうな)

 なかなか瑞希が興味を持つような話題を持ち合わせていなくて内心冷や冷やしていたが、玲士自身の話も混ぜることで以外にも話が盛り上がったような気がする。

 「今日はケーキが買えれば良かったんですけど、残念でしたね。また買いに行った時には生徒会まで差し入れするので楽しみにしておいてください」

 「それは楽しみだけど、私も気になるから行ってみたいわね。気分転換で田宮君より先に行ったときは私が買ってきてあげるわ」

 瑞希は顎に手を当てて悪戯っぽい笑みを浮かべこちらを見返してきており、その仕草は大人っぽく妖艶な雰囲気を醸し出していて見ているだけでもなんだか鼓動が早くなってくる。

 鼓動が早くなっているのを感じ、名残惜しいが玲士は「また来週」と声をかけた後瑞希と別れ自宅に向かって歩き始めた。



 休日が明けて木曜日の朝、ホームルームを待っている騒がしい中玲士は教室の自分の席で文庫を開いて担任の教師が入ってくるのを待っていた。

 しばらくすると担任が入ってきて教壇の前に立ち全員を見回した。

 「はい。それじゃあホームルームを始めますよ~。まず最初に文化祭の写真を注文していた人は写真が用意できたのでこの後取りに来てくださいね。あとは全員に進路調査のアンケートも配ります。卒業後みんながどんな道に進むのかを再確認する意味もありますので忘れず受け取ってくださいね」

 アンケートが配られていく中、写真を注文していた生徒が順番に担任から写真の入った封筒が渡されていく。玲士も写真の入った封筒を受け取った。封筒の表には間違えて渡さないように名前がはっきりと記載されている。

 玲士は封筒から写真は取り出さず封筒の口を開けて中に入っている写真を覗き込んだ。玲士はあまり購入しておらず、クラスメイト全員が写っている集合写真が何枚か入っている。

 その中に一枚だけ集合写真ではないものが混じっており、その写真に視線が吸い寄せられる。

 「おーい玲士。お前も写真買ったのかよ。何買ったんだ?」

 「買ったのはクラスの集合写真だよ。せっかくみんなが着飾ったんだから記念にな。お前は買わなかったのか?」

 後ろから隼に話しかけられた玲士は顔を上げ封筒の口を閉じながら気になったことを口にした。見れば隼の机には進路調査のプリントだけで写真の入った封筒は無い。

 「ああ。俺はわざわざ写真なんて部屋に飾ったりはしないからな。飾らなくても写真はしっかりここに入ってる」

 隼はポケットからスマホを取り出し写真フォルダを開いて写真を見せてくれた。画面には玲士が購入した写真とほぼ一緒でクラスメイトが集合した写真が映っている。

 「集合写真だけか?他には何も買わなかったのかよ」

 「……俺だって必要以上に写真を飾る趣味は無いよ。それより他に何を買うと思っていたんだよ」

 隼から疑惑の目を向けられているが記念写真以外そもそも玲士は買うつもりが無い。だから写真選びもそれほど時間をかけることはしなかった。

 「他にって……。気になる写真とか少しは無かったのかよ」

 「気になる写真?」

 「あ~。ほら、気になる女子の写真とか一枚ぐらい欲しいって思ったりするだろ。どうなんだ?それぐらいは一枚ぐらいあるんじゃないか」

 「……」

 周りに聞こえないように声を落としてニヤニヤと笑っている隼に玲士は何も言えなかった。こいつは真面目な顔でどうしてこうしょうもないことしか言えないのだろうか。

 「なにアホなこと言ってるんだ。そんなことで買うわけないだろ」

 玲士の言葉に隼は信じられないものを見るような目でこちらを見た。……何故そんな目でこちらを見るんだ。

 「おいおい嘘だろ⁉今年は他のクラスも比較的コスプレ率が高かった。それなら一枚ぐらい持ちたいと思うだろ。」

 「思わねぇよ!そもそもそれを防ぐために撮影は二人以上と決められていたはずだぞ。それでも買うやつがいるのか?」

 「甘いな玲士。ツーショットぐらいじゃ何の障害にもならねぇよ。ツーショットぐらいだったら周りの男子は気にせずに買っているぞ」

 玲士は隼の言葉に内心頭を抱えた。どうしても自分の写真が不特定多数の男子に持たれるのは嫌だという理由で撮影の際は最低でも二人以上と決められており、できる限り女子の意見を取り入れていたつもりだったが、まさかこんなことになっているとは……。

 (これは会長に知らせておかないとまずいな)

 今年はもうどうしようもないが、来年からは対策をしないと発覚した際に男女間でいろいろと問題が発生しそうだ。男子生徒全員から恨まれそうな気がするがそんなのは関係ない。トラブルを起こされるよりかはましだろう。

 かといって規制しすぎると今度は記念写真を撮りたいと考えている女子側からや写真部からクレームが来そうなのでその辺りは瑞希に判断してもらおう。

 「それでどうなんだ?やっぱり誰かの写真は買ったのか?」

 「買ってない!」

 いい加減しつこい友人だな。少し声が大きくなり周りにいた何人かが玲士の声に振り返ってくるが愛想笑いで何とか誤魔化した。

 「なら玲士は文化祭中誰にも興味を持たなかったのか?一人ぐらいいるだろ。そんな女子ぐらい」

 「気になった女子ねぇ」

 隼の言葉に玲士は誰かいたかなと文化祭を思い出してみる。とりあえず印象に残っている人物が誰だったかと記憶を掘り起こしていると、ある人物が自然と思い浮かんだ。

 普段の彼女からは想像もできないような衣装に身を包み、周りから注目されて困惑していたのは……。

 「ちょっとそこの二人、無駄話は止めなさい。進路のことだから後から聞いていませんでしたなんて困るのはあなた達なんだからね」

 頭の中が文化祭一色になっている玲士だったが、自分に向けられた注意に気づいて思考の海から抜け出した。

 玲士に詰め寄るような形で体を傾けていた隼は「やべっ」っと一言口にした後慌てて体を元に戻した。若干「いい所だったのに」と残念がっていたのは気にしなくてもいいだろう。

 「それじゃあ説明するわね。今回配ったアンケートはこれまでとほとんど変わらない内容だから代わり映えしないと思うかもしれないと思うけど、もう十月も残り少ないです。数か月後には進級して本格的に進路について考えないといけないですし、実現に向けて大学受験も対策していかないといけません。だから、これまで曖昧にしか考えていなかった人も一度真剣に自分は将来どうしたいのか、どうなりたいのかを考えて書いてください。期限は今月まででお願いしますね」

 担任の言葉に対する周りの反応は様々だ。真剣に悩む者もいればまだ決まっていないのかあるいは決まっているのかあまり気にしていない者。そんな中玲士はどちらかというと悩む側にいる。

(どうなりたい……か)

 玲士は窓の外を眺めながらぼんやりとそのことについて考えていた。今のところ玲士は将来どうなりたいかという明確な目標があるわけではない。とりあえず大学には進学するつもりだが、その先に関しては完全に決まっていない。

 早く決めてしまわないといけないが、どう決めていいのかよくわからない。これからの人生に関わることだから安易には決められない。どうするべきなのか答えの出ない悩みは一限目の教師が入ってくるまで続いた。



 「ケーキ?」

 「そうなんですよ。このあと会長と行こうってことになっているんですけど、笹苗先輩はどうしますか?一緒に行きます?」

 翌日の放課後いつも通り三人が生徒会に集まってそれぞれやるべきことを進めている中、梨恵は受験勉強をしていた手を止めて不思議そうな顔をしている。もちろん梨恵の近くには玲士が買ってきた菓子が広げられている。

 「そもそもなんで後輩くんと瑞希が一緒にケーキを食べに行くことになっているのよ。私としてはそっちが物凄く気になるんですけど⁉」

 「そんなに気になることですか?」

 説明しろと言わんばかりに梨恵は玲士達の方に座ったまま身を乗り出している。説明と言っても実は玲士自身誘われる側なので経緯ぐらいしか説明できない。ケーキを食べに行こうと誘ってきたのは驚くことになんと瑞希の方からだった。

 昨日いつものように食堂で昼食をとっていた玲士はズボンのポケットに入れていたスマホが震えているのに気がつき、受信していたメールの差出人が瑞希だと分かった時はいったい何事だと思った。

 連絡先は交換していたが交換しただけでメールのやり取りは最低限で、何かあれば生徒会で会った時に伝えてくるのが普通だった。そんな瑞希がわざわざメールを送ってくるのだからいったいどんな要件だろうと思いながらメールを開いてみれば、まさかのケーキを食べに行く誘いだった。

 まぁ、まだ玲士も行けてはいなかったので今回の誘いはありがたい。

 とりあえず玲士はきっかけを梨恵に話した。先週の買い出しの際にワゴン販売していたケーキ屋を見つけたこと。その日は売り切れで買えずじまいで、放課後に買おうとするならワゴン販売じゃなく店舗まで行く方がいいと教えられていたことや日を改めて店舗まで行ってみようと考えていたこと。まだ行けていなかったところで昨日瑞希から誘われたこと。

 「ふぅん。そんなことがあったんだ」

 「だから、今日は早めに切り上げて買いに行こうかなと思っているんですよ。電車での移動になるんであまり遅くまで残っているとまた買えなくなりますからね」

 「それはそうね。期間限定なんて一番に売れていくものだから、のんびりしているとあっという間になくなっちゃうわね。それよりも瑞希、あなたがケーキを食べに行くなんて珍しいわね。今までそんなことに興味なかったのに」

 「……別に。ずっと勉強ばかりしていると息が詰まりそうだったのよ。気分転換に甘いものが食べたくなっただけよ」

 「わざわざ電車で移動してまで買いに行くなんて珍しい。本当に瑞希が食べたくなっただけなの?」

 「……それ以外に何があるっていうのよ」

 訝しむ梨恵の視線も瑞希はどこ吹く風と言ったように特に気にした様子もなく答える中、玲士は玲士で「あぁ。やっぱり」という感想があった。

 今回瑞希が誘ってきた時、玲士自身も彼女の行動を意外だと感じていた。玲士の中の瑞希は買い食いや食べ歩きをしているイメージが思い浮かばない。瑞希なら買ったケーキを自室で一人静かに食べている方だと思っていたがどうやら玲士の想像は正しいようだ。

 なら、今回何故行こうと思ったのだろう。行くと決めるきっかけとなった何かがあったのだろうか。

 「とりあえず笹苗先輩はどうしますか?俺と会長はそろそろ行こうかなと思いますけど一緒に来るならそろそろ片付けないとまずいですよ」

 梨恵はどうしようかと天井を見上げながら「う~ん」と唸っていたが、ふと天井を見上げていた梨恵の視線が玲士達に向けられた。梨恵は並んで座っている玲士と瑞希をじっと見ているがいったいどうしたのだろうか。

 「あ~~。私は今回遠慮するわ。私はこのままここで勉強するから瑞希たちは二人で行って来なさい。ここを出るときは私が戸締りしておくから気にしなくてもいいわよ」

 「そう?ならお願いするわ。田宮君そろそろ行きましょうか。急がないと電車の時間に遅れてしまうわ」

 「わかりました。でも笹苗先輩本当にいいんですか?たまには先輩も気分転換してもいいと思いますけど」

 「変な気を使わなくても私は大丈夫よ。勉強に集中できないときは諦めて帰るから心配しないで。それより早く行きなさい。せっかく瑞希が誘ってくれたんだから、それを破らないようにするのが後輩くんの今やるべきことよ」

 念のため梨恵にもう一度声をかけるが、意思は変わらずのようで逆に玲士の方が注意されてしまった。玲士は急いで机の上に広げていた筆記用具を鞄の中に放り込み準備を整えた。

 瑞希が「それじゃあね」と言って退室し、それに付いて行くような形で「笹苗先輩、無理しないで下さいね」と言って玲士が退室した後静かに生徒会室の扉が閉まった。


 二人の足音が遠ざかり一人になった生徒会室で梨恵は試験勉強を中断して立ち上がった。「ん~~」と声を出し背伸びをしていた梨恵は体を伸ばした後立ち上がり、そのまま窓際まで近づき窓から見える光景を眺めた。見下ろせば生徒達が帰宅のために正門へ向かう姿がちらほらと見える。

 その生徒達の中に先程別れたばかりの瑞希と玲士が歩いているのが見えた。二人並んで正門へ向かう姿を目で追いかけ続け、正門を出たところで二人の姿が見えなくなると何も言わず先程まで勉強していた席に戻った。

 「あの瑞希が後輩くんをわざわざ誘うか~。あの様子じゃ二人ともわかってないんでしょうね~」

 梨恵以外誰もいない生徒会室で発せられた独り言は呆れたような感情がこもっていたが、嬉しさも少しは入っていた。そんな梨恵の言葉は誰にも聞かれることなく外の騒がしさの中に消えていった。


 梨恵と別れた玲士と瑞希は乗り遅れることなく予定の電車に乗ることができ、数分電車に揺られた後目的の駅に着いた。改札を抜け駅の外に出ると空はまだ夕焼けで明るいが、この時期は日没まであっという間だ。のんびりしているとすぐに辺りは暗くなってしまうだろう。

 「それじゃあ、行きましょうか」「そうですね」瑞希に促された玲士は鞄から以前にもらった店のチラシを出しながら答え、瑞希は玲士が隣に並んだのを確認してから二人並んで歩き始めた。

 「会長って結構知らない場所でも迷わずに行けるタイプですか?」

 「流石に調べずに毎回行けるわけじゃないけど、ある程度目的地までの道を覚えておいたらそれほど迷うことは無いかしらね。もしかして田宮君は道に迷いやすいのかしら?」

 瑞希は駅を出てからこれまでスマホも地図の書かれたチラシを取り出しもせずに迷いなく歩いている。

 一方で玲士はチラシを片手に周りをきょろきょろと見渡しながら進んでいた。正反対の行動をとる二人が並ぶとお互いの行動の差がよりはっきりとわかる。

 「そうですね。普段からそれ程寄り道しないってのもありますけど、初めて行く場所だとどうしても迷ってしまうんですよね。たまに案内板があったりしますけど、それを見てもいまいちうまく進めないんですよね」

 玲士は恥ずかしそうに答えた。実際これまで何度か街中で迷っていたことがあるのは事実だ。

 「迷うって、この辺りはそれほど学校周りと変わらないわよね。環境が似たような場所でもダメなのかしら?」

 「一人暮らし始めた当初はよく迷っていましたよ。流石に住む街ぐらいはもう迷わずに移動できますけど、街から離れるとスマホの地図が無いと目的地にたどり着けるかわからないですね。時間かければスマホを使わなくても行けるときもありますけどね」

 瑞希は意外そうに玲士を見ている。まさか玲士がここまで方向音痴だとは思わなかったのだろう。

 「田宮君って初めて行くような場所にはいつもどんな風に向かっているのかしら?」

 「どんな風に……ですか?」

 「ええ。例えば曲がらないといけない交差点周りの建物を覚えておくとか、できる限り真っすぐ進めるようにルートを調整したりとかあるでしょう。あとは迷った時はいつもどうしているのかしら」

 瑞希に聞かれて玲士は歩きながらこれまでの自分の動きを思い出していた。いったい自分はいつもどんな風に動いていただろう。

 「そうですね。基本的に駅から目的地までの最短ルートで細道には入らずに大通りばかりを進むようにはしていますね。あとは目印になるような建物を覚えておいて、わからなくなったらひたすらその建物に向かうようにはしていますね。毎回その段階で見失うんですけど」

 「見失う?」

 瑞希は玲士の言っていることが分からず首を傾げた。建物が分かっているのに見失うとはどういうことなのだろう。

 「建物がすべて同じように見えて違いが判らないんですよね。気がついたら目的の建物を通り過ぎていて、また引き返したりとかを繰り返してようやく着く感じですね」

 もともと玲士が住んでいた実家は何もない田舎だ。コンビニもなく田畑に囲まれ生活必需品を買うにしても徒歩では行けないような場所なので自転車やバスなどを利用するしかない。

 店舗もそれほど多くなく一か所にある程度まとまっているからそれほど移動する必要もなかった。

 しかし、一人暮らしをする際田舎から街中に移り住んだ時は環境の違いに戸惑った。周りは林のようにビルが建ち並び、店の指し示す看板は壁面に小さく掛けられているだけ。実家のように遠くから目的地を確認してそれを目指して進もうにも建ち並んだビルが邪魔で目的地が見えない。まるで自分が小人のようになってしまったのではないかと思わずにいられなかった。

 駅では出口が複数に分かれており、天井から吊り下げられている案内板を頼りに進んでいたはずなのになぜか同じ場所をぐるぐる回ったりもしていた。

 買い出しが便利になった分玲士は意外なところで苦労をすることになったのは玲士本人にも予想外だった。

 「そうだったの。ルートは問題ないのだとしたらポイントを認識する方が重要ね。問題は何を目印にするか……」

 玲士の話を聞いた瑞希はブツブツと呟き始めているが、それには玲士は困惑するしかなかった。ただ単に「方向音痴なんですよ~」「あら、そうなの。以外ね~」程度の軽い話で終わる予定だったのになぜか隣で真剣に考え始めている。

 「会長⁉今はマシになりましたからね。確かに未だに自信のない時はありますけど、同じ場所をグルグル歩き回るようなこと今はしていないですからね!」

 「そうなの?てっきり今も田宮君が迷子になっているなら何とかしないとって思っていたんだけど」

 「迷子……。とりあえず俺は大丈夫です。昔はそうだったという笑い話ですから気にしないでください」

 キョトンとした顔で瑞希は玲士を見返してくる。「迷子」という単語が玲士の心にグサリと刺さりその場で崩れ落ちそうになるが何とか耐える。高校生にもなって迷子扱いされるのも十分ダメージがあったが、さらに瑞希から本気で心配されるのはキツイ。これだと瑞希が玲士の保護者のようではないか。

 まぁ、もう迷わないと言い切れないところが残念だが事実なので玲士にはどうすることもできない。


 二人が向かっている場所はたいして駅から離れていたわけではない。おそらく十分くらいは歩いていただろう。大通りから細い脇道に入りしばらく歩くと少し開けた場所に出たところに店はあった。

 「思っていたより大きな店ね。てっきりもう少し小ぢんまりした店だと思っていたわ」

 「それでも俺はこんな店好きですね。なんていうか静かで落ち着いた雰囲気ですし、この辺りだけ別世界に思えてきちゃいますよ」

 二人は店の前で佇み思っていたことを口にしていた。目的の店「パティスリー プレリー」は二階建ての白い店だった。二階建てでも広さ的には一軒家よりかは少し小さいがそれでも十分な広さを持っていると思う。

 その店を囲う様に花が植えられており、色とりどりの花が店を綺麗に飾り立て周りは芝生になっておりコンクリートに囲まれた街中でここだけが周りと切り離されているかのような自然がそこにはあった。

 大通りから離れている分行き交う車がなく、周りにそびえ立つビルが大通りからの音を防ぐ壁のような役割をしているので、比較的静かな環境になっている。こんな店は玲士の周りでは見たことが無かったのでとても印象的だ。

 大きめのガラス扉に付けられているベルが「チリーン」と音を立てる中、玲士と瑞希が店内に入ると駅前で見たワゴンとは比べ物にならないほどにショーケースが並んでおりその中にはそれに見合うほどの数多くのケーキが並べられていた。

 店内にはすでに何人もの客がショーケースの中にあるケーキをじっくりと見ながらどれを注文するべきか真剣に悩んでいたり、友人達とワイワイ話しながら選んでいる。

 どうやらこの店は店内で食べることも可能なようで店内の奥の方を見ればいくつかのテーブルと椅子が用意されており、何組かは買ったケーキを美味しそうに食べている。

 「思っていたよりも種類が多くて迷ってしまいそうですね。会長はどれにするんですか?」

 「そうね。せっかく来たのだからここでしか食べられないような特別なものを食べてみたいわね。どれくらいあるのかしら?」

 玲士と瑞希は前の客の背後からショーケースの中を覗き込んでいるが、時間も時間なので所々売り切れになっている種類もいくつかある。玲士としては駅前で買えなかった梨とレモンのケーキを狙っているが、果たして残っているだろうか。

 ショーケースの中にあるプレートと現物を見ながら玲士は一つずつ見ていく。瑞希も数あるケーキの中から食べたいと思うものを静かに見定めている。

 一段ずつ視線を動かしていた玲士だったが、ある所でその視線がピタッと止まった。ショーケースの左端の最上段。レジに一番近い所にあった。プレートにはワゴン販売していた時のように手作りでアピールコメントが付けられている。

 梨とレモン、どちらのケーキも幸運なことに残っている。せっかく残っているのだからこれを選ぶしかないだろう。

 「ご注文はお決まりでしょうか~。ってあれ?この前買えなくてしょぼくれていた人じゃない」

 「え?」

 聞き覚えのある声がしたので顔を上げると、レジ前には先週ワゴン販売をしていた大学生の女性がいた。相手も直前まで玲士に気がついていなかったのか驚いたように目を丸くしている。

 「久しぶりだね。まさか本当にこっちに来るとは思わなかったよ。わざわざ電車で移動しないといけないからこっちには来ないと思っていたんだけどね」

 「先週ぶりです。せっかくなのでいろいろと種類も見たかったのでこっちに来ることになりました。今日は買えそうなので良かったですよ。えっと、藤沢さんですね。今日はこっちなんですね」

 玲士は胸元にある名札を見ながら答える。ワゴン販売の時は私服姿だったが、今日は店舗内での仕事の為制服姿だ。

 「私は基本ここで働いているわ。先週はたまたま外で販売することになっただけで毎回なわけじゃないもの。それよりも良かったわね~。今日はちゃんと買えそうだからしょぼくれなくて済むわよ」

 「しょぼくれてなんていません!っていうか俺のことより他のお客さんの対応をしたらどうですか。仕事をサボっちゃ駄目ですよね?」

 「大丈夫よ。私の他にもスタッフはいるし、それにあなたの対応をするために私は今絶賛仕事中よ!」

 ニヤニヤとからかうような口調で開き直る藤沢。言い返そうにも仕事中と宣言している彼女はこの場から離れる気はなさそうだ。

 それよりもしょぼくれていたとは一体どういうことだろうか。確かに前回は買えないことに関して残念だと思ったがあの時の自分はそこまで落ち込んでいたのだろうか。

 「お待たせ田宮君。……どうかしたの?」

 眉を寄せて当時のことを思い出そうとしている玲士の元へ瑞希がやってきた。

 「会長。先週ケーキが買えなかった俺ってそんなに落ち込んだ表情していましたか?」

 自分のことながら不安になった玲士は瑞希に問いかけた。瑞希は「先週?」と呟いた後顎に手をやりしばらく考え込んだ。出来れば玲士の望む答えであってほしい。

 「私はそれほど田宮君が落ち込んでいたようには見えなかったわね。」

 「……落ち込んでいたことは否定しないんですね」

 正直な瑞希の答えに玲士はがっくりと肩を落とした。自分自身はそれほど気にしていないつもりだったはずだが、周りからするとそうではなかったようだ。

 藤沢は二人のやり取りをニコニコと笑顔で聞きながら「やっぱりそうでしょう?」と瑞希に同意している。

 「それより、二人とも来てくれたのは嬉しいわ。ここのケーキは私も何度か食べているけど、とっても美味しいからどれもおすすめよ。そこの君は何を買うか予想着くけど、貴女はどれにするのかしら?」

 「そうね。私は田宮君と同じ期間限定の梨のケーキとあのミルクレープにするわ」

 「わかりました。こちらは持ち帰りですか?それとも店内で食べられますか?」

 さっきまで気軽に話しかけていた藤沢はスイッチが切り替わったように対応している。こちらが本来の対応なのだろうが、それなら初めからそうしておけばいいのにと思っても口には出さない。

 それにしても、ケーキはどうするべきか。店内で食べられるとは思っていなかったから玲士は持ち帰るつもりだった。

 (せっかくだからここで食べようかな。でも俺だけ残って会長だけ帰すのもさすがに悪いな)

 せっかくだからと瑞希に店内で食べようかと提案しようと口を開きかけた玲士だったが、提案を口に出す前に瑞希から「店内で食べるわ」と先に言った。

 「田宮君、私はせっかくだからここで食べて帰ろうかなと思うのだけど田宮君も一緒にどうかしら?もちろん田宮君が良ければだけど」

 「そうですね。俺もせっかくだからここで食べたいなと思っていたので会長に聞こうかなと思っていたんですよ。俺も店内で食べます」

 「そう。なんだか事後承諾みたいで悪いわね。私としてはできれば美味しく感じられる場所で食べたいと思っていたのよ」

 少し申し訳なさそうにしている瑞希だったが、玲士は逆に感謝している。持ち帰るとなるとどうしても自宅に着くまでに多少形が崩れてしまったり、細かなチョコ細工などは外の気温で溶け始めたりする。今の時期だとそれほどまで影響は出ないと思うが、それでもいい状態で食べられるのならその方がいいだろう。

 玲士がこれまでに食べたケーキの中には見た目はしっかりとしているように見えて実はほんの小さな揺れでも形が崩れてしまうようなケーキもあった。玲士が帰宅するまで綺麗な状態のままいられるか判断できない。

 何よりこの店の落ち着いた空間の中で食べてみたいと店内で食べている人達を見た時から思っていた。

 瑞希は会計を済ませた後、「先に行っているわね」と言い残してテーブルの確保に向かった。玲士も瑞希の後に続いてケーキを注文し藤沢からお釣りを受け取る。

 瑞希は窓際に一番近くに設置されたテーブルにいた。窓の外は植えられた色とりどりの花や芝生が広がっておりとても綺麗だ。

 「いい場所ですね」

 「そうでしょ?せっかくなら眺めのいい場所で食べたくなるじゃない。偶然空いていたから迷わずここにしたわ」

 素直な感想を口にした玲士に瑞希は嬉しそうに、そして「どうだ!」と言わんばかりの自慢げな表情で答える。

 「それにしても思っていた以上にバリエーションがあったわね。どれにしようか中々決まらなくて悩んでしまったわ」

 「そういえば会長は結構時間かかっていましたね。まぁ、あれだけ種類があるなら悩むのはわかる気がしますね」

 瑞希の視線につられるように玲士もついさっきまでいたショーケースの方に視線を向けた。そこにはどれにしようか中々決められず眉を寄せている客が何人もいた。

 玲士は最初から何を買うのか予め決めていた為それほど悩むことは無かったが、決めずに訪れたのならばあのバリエーションの多さだ。すぐに決めろと言われると難しいだろう。

 「そういえば、会長はレモンの方は買わなかったんですね。てっきり期間限定だからどっちも食べるのかと思っていましたよ」

 「確かに興味はあったけど、私はそんなに酸っぱいのは得意じゃないのよ。最初から失敗はしたくは無いわ」

 「まぁ、レモンですからね」

 肩をすくめる瑞希に玲士は同意した。そもそもレモンを使用したケーキを実際に販売している店は玲士が知る限りではここが初めてだ。

 ただ単に玲士の周りでは扱っていないだけで売っている所はもちろんあるだろう。しかし、どの店でも積極的に作ってはいないだろうと玲士個人ではそう思っている。

 何せメインで使用するのがレモンだ。甘さを求めるイチゴやブドウなどと言ったフルーツとは違い、レモンは酸っぱさが際立つ。人によって好き嫌いが分かれてしまうだろう。

 あの刺激的な酸っぱさを想像するだけでなんだか口をすぼめたくなってしまう。


 話をしている内に「お待たせしました」と言いながら店員が玲士と瑞希のケーキを同時に運んできた。瑞希の次に注文をしていたのでそれほど間隔が空いたわけではないが、同時に運んできたのを見るともしかしたら藤沢が何か指示を出していたのかもしれない。ケーキと一緒に注文した紅茶も一緒だ。

 店員にお礼を言った玲士は目の前に置かれたケーキを見た。白いプレートの上に玲士が注文したケーキが二つ並べられている。ケーキ一つ一つが分けられているのではなく、一枚のプレートにまとめてあるのはこの店のこだわりなのだろう。

 プレートの隅には花柄の装飾がされており、この店の雰囲気とよく合っている。

 梨のケーキは一見するとショートケーキのように見える。スポンジの間には梨が挟まっているのが断面から見え、生クリームで覆われた部分には薄くスライスされた梨が敷き詰められている。

 レモンのケーキはタルトのようで、玲士は気になっていたレモンの方から口にした。

 (思っていたより酸っぱくないな)

 しばらく食べ続けていた玲士は意外に思った。

 さすがにレモンの酸味がそのまま残っているはずはないと思っていたが、玲士の予想よりも酸味が抑えられている。クリームにもレモンが使われているが、そのクリームの上にレモンの輪切りも酸味はあるがそれと同じくらいに甘みもあった。

 ケーキを作ったことのない玲士だったので、専門的なことは分からないし作り方も素人目線でしかわからないがおそらくレモンを甘く煮たりしたのだろう。

 (これなら会長も食べられるんじゃないか?)

 そう思って顔を上げると瑞希はミルクレープを食べていた。食べていることは当然と言えば当然なのだが、普段の感情が読めない真顔ではなく、今は表情が緩み幸せそうに食べている。

 しばらく瑞希の食べる姿を見ていた玲士だったが、不意に視線を上げた瑞希とばっちり目が合ってしまった。

 「どうしたの?」

 「ああ、いえ。このケーキですけれど、思っていたよりも酸っぱくは無かったので会長も食べれるんじゃないかなって思ったんですよ」

 「そうなの?でも、レモンが薄めに切られていたわよね。田宮君まさかそれも食べたの?」

 瑞希は信じられないと言った風に驚いている。食べていないと思っていたのだろう。

 「酸っぱさはありますけど、甘く煮たのか浸けたのかしているので食べられないことは無いと思いますよ。会長がどの程度までの酸っぱさまでならいいのかわからないのであくまで俺の感想ですけど」

 「そうなの。じゃあ次来た時に一度食べてみようかしら。このミルクレープもとっても美味しくておすすめよ。これだと他のもどんなのか気になってしまうわ」

 少し興奮気味に話す瑞希の意見に玲士も同意見だ。今回は期間限定の物しか手を出さなかったが、瑞希のミルクレープも気にはなっている。他の物もどんな味なのか気になってしまうからまた食べに来ることになってしまうと思う。

 「それは俺も同意見ですね。ただ、また来るにしても頻繁に行けそうもないですね。生徒会の仕事もありますし、何より会長も試験対策で忙しいでしょうし」

 瑞希は「そうなのよね」と言いながらも諦めきれないのか眉を寄せ思い悩んでいる。

 どうやら相当この店のケーキが気に入っているようだ。

 しばらく思い悩んでいた瑞希だったが名案が思い浮かんだのか、ぱっと顔を上げた。

 「そうだわ。それなら日を決めてここに来ましょうよ」

 「日を決めるんですか?次はいつ行くつもりなんですか?」

 「流石に週に何回も行くのは経済的にも現実的じゃないわ。だから週に一回、もしくは二週間に一度行くのはどうかしら。行くのは生徒会のある週末なら翌日は休みだから問題ないでしょう」

 「毎週行くのも十分頻度的には多い気がするのですけど、どれだけここに通うつもりなんですか⁉もう少し頻度減らしましょうよ」

 自信ありげな瑞希に玲士は思わず突っ込んでしまった。確かに頻繁に行くのはお金がかかりすぎるのはわかるが、瑞希は自分が受験生だという自覚があるのだろうか。

 「ずっと試験勉強ばかりだと効率が悪くなってしまうわ。たまには息抜きも大切だからそれも兼ねて週末に行くのよ。休日にわざわざ外出するよりよっぽどいいと思うわよ」

 瑞希の返答に玲士は黙るしかない。おそらく瑞希の中で週末の予定はすでに決まっているようなものなのだろう。息抜きをしたいという言い分も否定できないので彼女の方が優位だ。

 「行くのは構わないですけど、年内だけにしましょうよ。流石に年明けも行くのは俺が気になってしまって落ち着かないです」

 ここだけは譲れないと玲士は条件を付けた。瑞希は気にしなくても問題ないと言うが、大学受験はそんな簡単なものではない。瑞希には不安要素を少しでも減らした状態で受験に臨んでもらいたいし、玲士自身も気になってしょうがない。

 ケーキ巡りをしていて受験に失敗しましたなんて目も当てられないし、そんなことになって欲しくない。

 瑞希は不満そうな顔でこちらを見ているがこれが受け入れないなら年内も諦めてもらうというつもりだが、果たしてどうだろう。

 「……いいわ。気を遣わせたまま食べるのはなんだか申し訳ないわ。年内だけを条件に行きましょうか」

 瑞希の答えに玲士はほっと安堵の息を漏らした。とりあえずは納得してもらえたようで何よりだ。

 安堵していた矢先、「別の店も探さないといけないわね」と瑞希の声が聞こえ、ギョッとした。

 「あの~会長。まさかここ以外の店にも行くつもりなんですか?」

 「当然よ。今年も残り少ないのに、週末となると回数も限られてくるわ。できるなら他の店も行ってみたくなるじゃない」

 「俺、この店以外はほとんど知らないですよ?他の店って会長は知っているんですか?」

 恐る恐る聞いてみた玲士に瑞希は何を言っているんだと言わんばかりの表情だ。

 そもそも玲士としてはこの店に年内は通い続けると思っていたが、まさか別の店も行くことになるのは予想外だ。

 「それほど多くは無いけれど、いくつかは知っているわ。行く機会が無かったのだけど、ちょうどいい機会だからそっちも行ってみたいわ」

 「……会長にお任せします」

 どうやら瑞希の中ではどんどん計画が立てられているようだ。もう瑞希にすべて任せてもいいのではないだろうか。

 それにしても、と玲士はずっと気になっていたことがある。

 「会長がここまで積極的なのは初めてですね。何か理由でもあるんですか?」

 そう、瑞希がここまで積極的に学外で行動するのは珍しい。普段は生徒会が終われば真っ直ぐ帰宅の途に就くはずなのに、今回のケーキの一件で放課後を外で楽しむようになっている。

 学生なら放課後に友人と遊び回ったり食べ歩きをするのは特段おかしくは無いが、これまでの瑞希を見ているとあまり身近なことではなかったと玲士は思う。何かきっかけでもあるのだろうか。

 「そうね。やっぱり生徒会の仕事が忙しかったからの理由が大きいわね。あとはそれほど必要だと思わなかったから周りに言わなかったせいもあるわね。梨恵も今年は受験勉強で何かと忙しいから誘いにくかったのもあるかしら。それに、」

 「それに?」

 「せっかく一緒に食べに行けるのだから、行かないと損じゃない」

 素直に口にする瑞希に他意は無いのだろう。そう言う瑞希の言葉に玲士は「そうですか」としか返せず、手元のカップを口に運んだ。紅茶を一口飲んだ後もしばらく玲士はカップを口元から離せなかった。離せば抑えきれなくてにやけてしまっている自分の表情を瑞希に見られてしまうのだから。


 ケーキを食べ終えた玲士と瑞希はそのまま店をあとにし、電車に乗り込んで駅まで戻ってきた。

 改札を出たところで玲士は買おうと思っていたものを思い出した。

 「あっ、会長。俺はこの後少し買い物があるんですけど、会長はどうしますか?ちょっと雑貨屋に寄りたいんですけど」

 「別に私は構わないわ。いったい何を買うつもりなのかしら?」

 「え~っと。……写真立てですね」

 玲士は瑞希の問いかけに少し言い淀んだ。別におかしなことは無い。瑞希は写真立てで玲士が何を言いたいのか理解したようだ。

 「そういえば文化祭の写真を購入希望していた学生への配布があったわね。それじゃあ、田宮君も文化祭の写真を買っていたのかしら」

 「そうですね。せっかくの記念なのでクラスの集合写真を何枚か買いましたけど、会長は買わなかったんですか?」

 「もちろん私もクラス写真は買ってはいるわ。クラス写真以外は特に買ってはいないわね。せっかくだから私も買って帰ろうかしら」

 瑞希もどうやら買ってはいるみたいだ。買ったものを聞いた玲士は内心少し落ち込みはしたが、表情には出さない。瑞希も玲士の様子に気づいた様子もなく話している。

 瑞希が買ったのはクラス写真だけなのか。

 瑞希の同意も得られた玲士はそのまま駅内にある雑貨に立ち寄った。

 雑貨店内の写真立てが並べられているコーナーの一角で玲士はどれを買うべきかとりあえず見て回っていた。

 シンプルなものや少し装飾が派手なものなど数多くある中、どれにしようか考えていた。瑞希もどれにするべきか玲士から少し離れた棚に置かれているサンプルを見ている。

 (とりあえず一つはこれでいいか)

 玲士はサンプルの中から装飾のないシンプルな写真立てを一つ手に取った。透明なアクリルプレートで挟み込むタイプだ。写真を挟み込んだプレートの四方をこれもまた装飾が一切ないネジで止める簡素なものだ。

 特に写真立てにこだわりを持っていないし、あまり派手なのは好きじゃないからこれで十分だろう。これで一つは決まった。あと一つを選ぶだけ、選ぶだけなのだが……

 (できれば少しデザインを変えたいな)

 今選んだのはクラス写真用だ。あともう一枚はできればもう少し代わり映えのある方がいい。しかし、何が写真と会うのかいまいちわからない。

売り場全体をうろうろとしていた玲士だったが、これと言ってしっくりくるものが無い。あまり自分に合わないのを選ぶのもらしくないと思っていた玲士は、一個目と同じデザインにしておこうと引き返し始めたが視界の隅に気になるのを見つけた。

 (あれは……)

 玲士のいる場所から少し離れた場所、少し開けた場所に特設ブースができている。玲士が来た方向からは周りの棚が少し邪魔になっていて気がつかなかった。

 気になって近寄ってみると栞やリボンといった小物や筆記具、玲士達が買おうとしている写真立てなど様々なものが並べられている。

 いったい何のブースかと思っていた玲士だったが、並べられている物にある特徴を見つけた。

 (花や植物ごとに分けられているってことは、それぞれをもとに作られた小物特集なのか?)

 ブースに並べられた商品は栞やリボンといった品物のジャンルで分けられているのではなく、それぞれの商品の中にデザインされている植物ごとに分けられていた。リボンは元となっている植物の花や葉のデザインが小さくプリントされており、ペンに関してはキーホルダーのように付けられている。

 写真立てに関してはあまり派手なデザインではなく、木枠のフレームにワンポイントの花が付けられていたり、小さな花に関してはフレーム全体に散りばめられていたりする。

 桜やヒマワリ、イチョウなどの知っている種類もあれば玲士が知らないような花もあったりしており種類は豊富だ。

 せっかく見つけたからこの中から選ぼうかと思ったところで、背後から瑞希の声が聞こえた。

 「田宮君、私の方は決まったけど……ってなんだか気になるものがあるわね」

 瑞希も来るときは気づいていなかったのだろう。玲士と同じように棚に並べられた数々の品物を見て回っている。

 「せっかくなのでこの中から一つ選ぼうかなって思っているんですよ。もう少し待ってもらってもいいですか?」

 玲士がそう言うと瑞希は視線を落とし、自分の手元にある写真立てを見た。そして「ちょっと待っててくれる」と言い残してさっきまで玲士や瑞希が選んでいた棚の方に戻って行ってしまった。

 瑞希はすぐに戻ってきたが、さっきとは違っていることがあった。手元にあった写真立ての箱が一つ減っている。

 「田宮君はこの中から一つ選ぶのよね」

 「ええ。まぁそのつもりですけれど、会長もここで買うことにしたんですか?」

 「そうなのだけど、せっかくだから自分で選ばず、お互いの分を選ぶなんてどうかしら?」

 瑞希の提案を聞いた玲士は思わず「ちょっと待ってください⁉」と待ったをかけた。瑞希は特に気にした風には見えないが、玲士は違う。

 (普通、お互いに何かを贈り合うって恋人同士でするものじゃないのか?それとも俺だけ変に意識しているだけで普通のことなのか?)

 物語の中ではプレゼントの贈り合いをするようなシチュエーションはたいてい恋人同士かそれに近しい間柄で行われることが多かった。玲士もそれが一般的だと思っていたし、玲士自身には無縁のようなことだと思っていた。

 しかし、そんな玲士の常識を覆すかのように今、目の前でそのシチュエーションが発生しようとしている。

 玲士の頭の中はなぜこの状況になったのかという疑問と、瑞希のこの提案はどんな意味があるのかという疑問でいっぱいになっている。

 「え~っと、会長はそれでいいんですか?俺ってそんなに物を選ぶセンスに自信が無いので後悔しないように会長自身で選んだ方がいいのでは?」

 とりあえず、遠回しに改めて確認を取ってみる。ストレートに「プレゼントを贈り合いみたいですね」とはなんだか気恥しくて聞けない。

 「誰かに選んでもらうのがいいのよ。私が選ばないようなものがあると気になるし、写真も含めてその時の記念になるし思い出になるわ」

 「そんなもんですか?」

 「そんなものよ」

 そこまで言われると尚更真剣に選ばないといけない。玲士は数ある中から瑞希に合いそうなものを探し始めた。

 しかし、花を誰かに贈ったこともない玲士にとってはこの中から選ぶのは一苦労だ。そもそも、相手にどんな花が似合うかなんて実際瑞希と花を交互に見比べても何が似合っていて何が似合わないのかよくわからない。

 (とりあえず珍しいものでいったん考えてみるか)

 桜やチューリップ、ヒマワリなどのよく見るものはありきたりなような気がするので一旦選択候補から外すことにした。せっかくならあまり目にしないような植物を選んでみたい。

 しばらく棚をゆっくり移動していた玲士は途中でその歩みを止めた。そして視線の先にある写真立てを手に取りじっくりと見る。

 淡い色の木製フレーム右上に赤い花が二つか重なるようにある。大きな赤い花びらが広がっている中心にさらに小さな白い花が二つ三つほど付いていているのが特徴的だ。花は「ブーゲンビリア」と言うらしく玲士は全く知らない。玲士が手にした赤以外にもピンクや紫などブーゲンビリアだけでも色は様々なようだ。

 じっくりと見ていた玲士はふと思った。この花は瑞希に合っているのではないかと。

 ブーゲンビリアの花は単体ではそれほど大きくはない。紹介用として実際の写真が飾られているがどれもブーゲンビリアの花が密集している状態である。

 離れて見ると集まったブーゲンビリアの赤い花びらだけが見える形になり、中央の白い花は見えない。逆に近寄ってみると白い花がよく見える形となり、同じ花なのに見え方が二通りも存在する。

 瑞希のことを深く知らなければ、自分にも周りにも厳しい表情があまり変わらない生徒会長でしかないが、身近に接していると実は甘いものが好きで、表情がころころと変わる意外な一面を知ることができる。

 お互いの距離で相手の印象が変わるブーゲンビリアはまさに瑞希らしい花だと言えるのではないか。

 玲士はそのままサンプルを棚に戻した後、その下にあるブーゲンビリアの箱を手にした。まだ見ていない棚もあるが、瑞希にはこの花が一番似合うと確信めいたものが玲士の中にはあったので他を選ぶようなことはしない。

 レジ前で待っていると瑞希も決まったのだろう。手に一箱持ってやってきた。

 「待たせちゃったわね。誰かとこうして買うものを交換したことないから何がいいのか悩んでしまったわ」

 「俺もですよ。自分の部屋に置くものならそれほど悩まないと思いますけど、誰かに贈るようなことはこれまでしたこともないので、かなり悩みましたよ。でも会長が贈り合いをしたことが無いなんてなんだか意外ですね。てっきり笹苗先輩や宮川先輩達と似たようなことをしていると思っていましたよ」

 玲士は意外そうな表情で返した。真司はともかく梨恵なら似たようなことをしてそうな気がした。「せっかくだからプレゼントの交換会しようよ~」と言っている姿が簡単に想像できるが、実際は違ったようだ。

 どうやら瑞希自身があまり小物を買ってこなかったのもあるが、梨恵もそういったことは言わなかったようだ。


 それぞれレジで支払いを済ませた後、玲士は瑞希に持っていたブーゲンビリアの写真立てを渡し代わりに彼女が選んだ写真立てを受け取った。お互い相手の選んだものが気になっていたので、自然とその場で開けることになった。

 瑞希が選んだ花は箱の表記を見るとペチュニアのようだ。中身を取り出すと鮮やかな色が目に飛び込んできた。赤や白、紫やピンクといった色とりどりのペチュニアがフレームの下部に並べられていて、置いた時にまるで写真がペチュニアの咲き乱れている中にあるような印象を受ける。

 これには玲士も嬉しさで思わず笑みがこぼれた。玲士自身では選ばなかったデザインでもあるし、なによりこれに入れる予定の写真ともよく合いそうだ。

 瑞希も玲士が送ったブーゲンビリアをじっくりと眺めている。

 「見たことのない花ね。ブーゲンビリアって言うのね。初めて見る花ね」

 「そうなんですよ。会長に似合う花は何かなと探していたらそれが目につきまして、これだって思ったので選びました」

 「選んだ理由は何かしら?」

 「それは秘密です」

 玲士はニコニコと笑いながらはぐらかした。さすがに理由を言うのは恥ずかしいので瑞希には教えない。玲士が瑞希に抱いた印象であり、わざわざ教えるようなものでもない。

 「そう。でもとても綺麗な花だわ。ありがとう」

 「俺もですよ。選んでくれてありがとうございます」

 玲士はもらった写真立てを箱の中に戻し、壊さないためにも肩にかけていた鞄を開けた。とりあえず箱が入るだけのスペースを作ろうと中身を動かしていた玲士だったが、背後から声が掛けられた。

 「すみません。後ろを通らせてもらいます」

 「あっ、すみません」

 おそらくは店員だろう。玲士は背後を確認せずに慌てて前へ移動し十分背後に空間を作ると再び箱を入れなおした。

 「これでよし。……ってあれ?」

 箱を入れ終えた玲士が顔を上げると隣にいた瑞希がいなくなっていた。いなくなっていたと言っても少し離れたところにいる。どうやら男性店員が抱えている玲士の身長近くもあるスタンドパネルを凝視していているようだが、ここからだとパネルに何が書かれているのか見えない。

 「会長どうしたんですか?」

 瑞希は玲士の言葉にビクッと反応しこちらを見た。いったいどうしたのだろうかと近寄ろうとしたところで逆に瑞希が慌てたようにこちらに歩いてきた。

 「べ、別に何でもないわ。行きましょう」

 「えっ。でもあのパネル見ていたんじゃ……」

 「ただ見ていただけよ。それより、あまり遅くなってもいけないわ。早く帰りましょう」

 玲士の言葉を遮るように瑞希は言葉を重ねた。そして足早にエレベーターへ向かって歩き始めた瑞希を玲士は「えっ⁉ちょっと待ってください」と慌てて追いかける形になった。いったいどうしたのだろうか。


 玲士と瑞希がエレベーターで降りて行ってしばらく経ったころ、玲士の後ろを通り過ぎた男性店員はレジのカウンター内に戻ってきた。

 「お~い。とりあえずパネルは修理してブースに戻しておいたぞ」

 「あ、ありがとうございます先輩。そういえばさっき女子高生がパネルをじっと見ていましたね」

 「そうそう。あの女子高生何していたんですか?」

 レジで作業していた女性店員二人からもその様子は見えていた。見えていただけに彼女はいったい何を見ていたのか気になっていた。

 「あ~。それがな、俺もよくわかんなかったんだよ。いきなり近寄ってきて『ここに書かれているのって、もしかしてこのブースにある物のことを指しているんですか?』って聞かれたんだよ。一緒にいた男子とブースにある物を買っていたのに何で改めて聞いたんだろうな?」

 男性店員は意味が分からないと言ったように首を傾げた。買った後に買った物のことを聞くなんて順番が逆だ。

 男性店員の言葉に女性店員は「もしかして」と顔を見合わせた。

 「あの二人、もしかしたらブース内容を知らずに買いに来たのかもしれないですね」

 「そうよね。あの慌てようはそうとしか見えないわね」

 なぜか嬉しそうに話す二人の話が理解できずにいた男性店員だったが、ようやく理解した。それでも彼の表情は微妙なままだ。

 「あ~。もしかして二人はそういう意図が無いまま買ったのか。確かにそれだと気まずいし相手に知られたくないな」

 何せ今回のブース内容が「あれ」である。青春真っ盛りな高校生にとっては意図していなくてもそれを買ってしまうのは恥ずかしい。どうやら男子生徒は見ていなかったようで、そのまま女子生徒を追いかけて行ったから女子生徒の内心はともかく気まずいことにはならないだろう。

 女子生徒の気苦労に内心でエールを送っていた男性店員を女性店員はジト目で見ていた。じ~っと二人から見られていることに気づいていない男性店員。

 「先輩はもう少し女心を理解した方がいいですよ」

 「えっ?」

 「そうですね。あの様子を見てそう思うのは先輩だけですよ」

 「えっ。ええっ⁉」

 いきなり二人に非難されてしまった男性店員は意味が分からず、狼狽えるしかできなかった。


 非難されている彼が運んでいたスタンドパネルはブース正面にわかりやすく置かれている。目立つパネルには大きく「大切な相手と贈り合おう!花言葉で選ぶプレゼント特集」と書かれていた。


 自宅に戻ってきた玲士は荷物を降ろした後ベッドに腰かけた。今日はとても長いようで短かったようなどちらとも言えないような一日だったと思う。放課後に瑞希と共にした時間は玲士がこれまで経験したことのないような内容ばかりですべてが新鮮だった。

 放課後に友人と一緒に寄り道をすることは数える程度しかないが、誰かと一緒に行動し楽しかったと心から思えたのは今回が初めてだろう。

 (そういえば会長は最後様子がおかしかったな)

 二人で写真立てを買った時の事である。瑞希は何でもないと言っていたがいったいどうしたのだろうか。パネルに何が書かれてあったのか気になるが、瑞希がすぐにその場を離れてしまったので結局見ることはできなかった。おそらく何か瑞希にとって気になることが書かれていたのだろう。

 (まぁ、いっか)

 必要なことなら瑞希から話してくれるだろう。そう考えた玲士はそれ以上考えることを止め、鞄から必要なものを取り出した。一つは学校で購入した写真、もう一つは瑞希が買ってくれたペチュニアの写真立てだ。

 裏板を外し、写真を中に入れた後再び裏板を取り付けた玲士はそれをパソコンモニターの傍に静かに立てておき、台所へと向かった。今日は何を作ろうか。

 台所へ向かう玲士の背後では、ペチュニアの花の上で執事服を着た玲士とドレス姿の瑞希が二人手を取り合っていた。


 時は少し遡り——帰宅した瑞希は着替えもせずそのままベッドに倒れこんだ。枕に顔を埋めたまま瑞希はじっと動かない。

 (なんで私はあんなに焦ったのかしら)

 思い出すのは自分自身の行動についてだ。それはお互いに写真立てを交換し合った後。男性店員が運んでいたパネルに見覚えのある花が写っていたのがきっかけだった。そういえば何の特集だったのかと興味本位で近寄って確認してから鼓動が早くなったのは感じた。

 どうして鼓動が早くなったのか瑞希自身も分からない。分からなかったが胸の奥から何かが湧き上がってくるような感じがして顔が熱くなっていたのは覚えている。

 もちろんお互いパネルに書かれていたことを意識していたわけではない。

 田宮君がこちらに近寄ってきた時、瑞希は何故かこのパネルから離れてほしくて慌ててエレベーターに歩き始めたけど明らかに不自然だし自分らしくないのは理解している。

 理解していてもそうせずにはいられなかった。彼はあのブースの意味を知らなかったし、純粋に瑞希に合うような写真立てを選んでくれたのだろう。

 それでも瑞希は見てしまった。田宮君から贈られたブーゲンビリアの花言葉、その内容を。

 ブーゲンビリアは花の色で花言葉が変わってくる。今回玲士が選んだブーゲンビリアの花は赤。赤いブーゲンビリアの花言葉は「情熱」、そして「あなたしか見えない」。

 彼にその意図は無いはずだし私だけが変に意識しているだけだ。そう自分に言い聞かせていた瑞希はふとあることを思った。

 (そういえば私が選んだのはなんて花言葉なのかしら)

 瑞希はベッドの上でうつ伏せのまま手を伸ばし、鞄からスマホを取り出す。何か変な花言葉を選んでいないだろうかと少し心配になりながらも操作を続けていき、画面に表示されたペチュニアの花言葉を読んだ瑞希はほっと安堵した。

 ペチュニアの花言葉は特におかしなものではない。逆に違和感がないくらいだ。

 「あ~。変な心配をしてしまったわ」

 そう呟いた瑞希はベッドにスマホを置いたまま起き上がった。このままの姿でずっとはいられない。シワにならないようにと着替えるために脱衣所へ向かっていった。

 ベッドの上に残されたままのスマホは画面が消えておらず明るいままだ。先ほどまで瑞希が調べていた画面のままになっており画面の隅にはペチュニアの写真が少しだけ映っている。

 ペチュニアの花言葉は「心のやすらぎ」、そして「あなたと一緒なら心がやわらぐ」。

 しばらく誰もいないベッドの上で花言葉を表示し続けていたスマホだったが、しばらくすると自動消灯されスマホの画面は真っ暗に切り替わった。



 十二月に入った昼下がり、玲士は食堂で隼とのんびり昼食をとっていた。隼は大盛りのカレーを、玲士はうどんをそれぞれ頼んでいる。やっぱりうどんは何回食べても飽きないものだ。

あれから瑞希と放課後のスイーツ巡りは続いている。藤沢の働いているプレリーにも足を運んではいるが、どこから情報を得ているのかそれ以外の店にも瑞希は詳しく、彼女に付いて行くような形になっている。

 玲士の方から瑞希を誘いたいが、普段から必要以上に寄り道をしていなかった分店選びには苦労している。

 瑞希が毎回選んでくる店はどれもグレードが高くその分玲士の方も店選びのハードルは高くなっている。瑞希の方は玲士のそんな悩みを知らないため仕方のないことではあるが、せめて一回ぐらいは玲士から案内したい。

 「なぁ隼。一つ聞いてもいいか?」

 「うん?どうした」

 隼は口に運びかけていたスプーンを止め、一旦下ろした。

 「この近くで甘いものが食べられるおすすめの店ってお前知っているか?」

 「甘いものぉ?俺がそんなの知っているわけないだろ。そんなのは女子の方が詳しいんじゃないか?玲士お前いきなりどうしたよ」

 玲士の質問に隼は呆れたように返し、そのあと興味を持ったのか話に食いついてきた。

 「いや。ちょっと友達が甘いものを食べたいみたいなんだが、そんな店って俺知らないからさ、誰か知っているかなと思ったんだよ」

 「尚更俺に聞いている時点でチョイスミスだろ。なんで女子に聞かないんだよ」

 「あ~。……それはだな……」

 玲士はどう答えたものか悩んだ。確かに隼の言う通りこの類の質問はクラスの女子に聞いた方が的確な答えが返ってくるだろう。返って来るがその後が問題だ。

 (絶対理由を聞いてくるから聞きづらいんだよなぁ)

 普段関心を持っていなかった玲士がいきなり店を教えてくれと言えば絶対にその理由に興味を持ってくる。玲士一人で行くとは思えないから必ず誰かと一緒に行くのだと気づくだろう。

 別に瑞希と放課後に行動していることは秘密にしているわけではないが、追及されると説明が面倒だし、変に噂が広がって瑞希に迷惑がかかるのは避けたい。

 「まぁ、誰に聞くかは玲士の自由だけど俺ではないのは確かだな。頑張りたまえ」

 口ごもっていた玲士から興味を失ったのか隼は下ろしたままだったスプーンを口に運んだ。

 これは地道に探すしかないかなと仕方ないような表情になりながら食事を再開した。再開した矢先、

 「そういえばさ、俺も聞きたいと思っていたことがあるんだよ」

 「聞きたいこと?なんだよ」

 ちらりと隼の方に目を向けた後、玲士はそう言いながら器を持ち上げ出汁を飲み始めたところで爆弾は投下された。

 「玲士ってさ、あの会長と付き合っているのか?」

 玲士は器に口をつけたままの状態で固まった。この時思わずむせ返らなかった自分を褒めてやりたい気分だ。

 口に含んだままの出汁をゆっくり飲み込む。そのままゆっくりと器を顔から離していく。器が顔から離れていくとその向こう側から隼がこちらを見ている。

 机に器を置いた玲士はようやく口を開いた。できる限り表情には出さないようにしているがどうだろうか。

 「いきなり何を言い出すんだ?」

 「いや、だから玲士は会長と付き合っているのかって聞いてるんだよ」

 「そもそもどうして俺が会長と付き合っているってなっているんだ?そう言うからには何か理由があるんだろ?」

 玲士はすぐには返事を返さずに逆に聞き返した。この質問が出た時点で相手側にはそう判断するだけの何かを聞いたか見たのだろう。

 「先週だったかな。駅前まで買い出しに行った時にお前と会長が仲良く店から出てくるのを見たんだよ。その様子じゃ俺には気づいてなかったようだな」

 隼からの言葉に玲士はとうとう見られてしまったかという思いだ。

 そもそも週に一回放課後とはいえ比較的近い場所で一緒に行動しているのだ。学内の生徒に見られる可能性は十分あったし、これまでその話題が挙がらなかったのが逆に不思議なくらいだ。

 「で、どうなんだ。やっぱり付き合っているのか?」

 隼はニヤニヤとしながらこちらを見ている。完全に面白がっているし、こちらをからかいたいのだという意図が見え見えだ。

 玲士は溜息をついた後短く「付き合っていない」と答えた。しかし、隼は納得していないようだ。

 「嘘つくなよ。あの生徒会長が放課後にわざわざ玲士と一緒にいるなんてどう考えても付き合っているとしか思えないだろ」

 「期待しているところ悪いが、放課後に会長と一緒にいることはこれまでもあったぞ。生徒会の備品の買い出しもしたことあるし、今は受験勉強で大変な会長の気分転換を兼ねて週に一回だけ甘いものを食べに行っているだけだ」

 「甘いものを食べに?」

 「おう」

 「会長と二人でか?」

 訝し気に聞いてくる隼。

 「そうだな」

 玲士は正直に答えた。梨恵もこれまで何度か誘ってはいるが、やはり受験勉強で余裕が無いのだろう。毎回「ごめんね~。ちょっと私は行けないや」と言って断ってしまうので、玲士と瑞希の二人だけで食べに行くことになってしまう。毎回断ることになってしまうのでとりあえず梨恵には行ける日があれば言って欲しいと伝えてはいるが、未だ一度も参加したことは無い。

 そんな玲士の返答になぜか隼は黙り込んでしまった。いったいどうしたのだろうか。

 「玲士」

 「なんだよ」

 「お前分かっているのか?」

 「だから何がだよ?」

 曖昧な表現で隼が何を言いたいのかいまいちわからない。玲士も何を言われているのかわからず首を傾げるばかりだ。隼もどうやら言い悩んでいる様子でしばらく考えた末に、

 「あ~。玲士、それは普通デートって言うんだぞ」

 「デっ!」

 思わず声を上げそうになったのを寸前で堪えた。少し離れた場所で昼食をとっている生徒が振り返ってこちらを見てくるが、一瞥しただけですぐに背中を向けてしまった。

 デート。玲士にとっては全く関わりのない言葉だ。

 「ちょっと待ってくれ!会長とは気分転換のために一緒に食べに行っているだけだぞ⁉」

 玲士は慌てて隼に改めて目的を話した。ただ一緒に食べに行っただけでどうしてデート扱いになってしまうんだ。

 「生徒会の全員で食べに行っているわけじゃないんだろ?」

 「それは笹苗先輩の都合がつかないからだ。宮川先輩は元々甘いものがあまり好きじゃないから行かないだけだぞ」

 「じゃあデートじゃん」

 隼は半ば呆れたように玲士を見ている。こいつは何を言っているんだと言いたげな表情だ。

 「確かに二人では一緒に放課後行動しているが、さっきも言った通り生徒会の備品補充の手伝いでも一緒に行っているぞ。会長だけに全部丸投げするのは流石に申し訳ないからな」

 「じゃあ聞くが、生徒会の用事と玲士の言う気分転換を兼ねた食事。どっちが多いんだ?」

 「そ、それは……」

 隼の指摘に玲士は口ごもった。生徒会の備品補充と言っても、文化祭という一大イベントが終わり、来年に向けての引継ぎや仕事内容を覚えることが多いのであまり備品を消耗することが無い。せいぜい休憩の時にみんなで食べる菓子の補充程度だろう。それも最後にしたのはいつだっただろうか。

 そうなると質問の答えは一つしかない。

 「……食事の方が多いな」

 そう言う玲士に隼は「そらみろ」と自分の言ったことが正しかったのだと分かったようにしている。

 「話を戻すが付き合っていないのか?」

 「しつこいな。会長とはそんな関係じゃない」

 「付き合う予定もないのか?」

 「なんでそんなに付き合うことに拘るんだよ」

 珍しく隼がこの話からなかなか引き下がらない。若干しつこいなと感じ始めてきていた玲士は少しムッとした表情で言い返した。

 「そりゃ、いつも本ばかり読んで色恋沙汰に興味なさそうな玲士にようやく春が来るかもしれないんだぞ?気になるのは当然じゃないか」

 「季節は冬で春からほど遠いけどな」と言って笑う隼。

 「言っておくが会長は俺も甘いものが好きだと知って誘ってくれているんだぞ。そんな感情があるわけないじゃないか。そもそも俺じゃなくても笹苗先輩の都合がついていたら俺じゃなくて笹苗先輩と行っていると思うぞ」

 瑞希が玲士を誘ったのはあくまでも身近な範囲で一緒に食べに行けるのが玲士だったからだ。そこに恋愛感情なんてあるわけもないし、ありもしないことで瑞希の気持ちを決めつけることは失礼だ。

 そういった忠告も兼ねて言ったつもりだったのだが、なぜか隼の反応がおかしい。盛大に溜息をつき、「そうくるか~」と呟いている。

 何かおかしいことを言っただろうか?思い返してみても特に変なことは言っていないはずだ。玲士は何故隼がここまで溜息をつくのかわからない。

 「あのな玲士。なんとも思っていない奴と何度も二人きりで食べに行くわけないだろ。俺だってそんな奴と一緒に飯を食べに行ったりしないぞ。行くなら一緒に行って楽しいと思える奴だろ?玲士もそうだろ」

 呆れたように言う隼に玲士は頷くしかできない。

 「そもそも都合がつかないならお互いの予定を合わせるか、どうしても無理なら一人で行くだろ?一人で行きたくないにしても、なんでそこまで親しくない奴と行こうなんて思えるんだよ」

 流石にこれに玲士は何も言い返せない。隼の言っていることは至極まともで玲士が逆の立場でもそう行動するからだ。

 それでも、と玲士は隼の言葉に納得しながらも思う。瑞希が玲士に対してそういう感情を持っているのかは別問題だ。

 隼が言っているのはあくまでも想像の話でしかなく、瑞希の本心だという確証はない。相手にそんなつもりが無いのに、こちらが変に解釈して「そうなのだ」と決めつけるのは良くない。

 「そもそも、玲士は会長のことどう思っているんだよ」

 「俺?」

 お前以外に誰がいるんだよと頷く隼。突然話を振られた玲士は質問内容に戸惑ってすぐに返答できなかった。

 「少なくとも放課後にわざわざ一緒に食べに行くんだから、少なくとも何かしら思うことはあるだろ?」

 玲士は黙ったまま隼に言われたことを考えていた。

 (俺は会長のことをどう思っているんだろう)

 少なくともこれまで生徒会で一緒にいたので全く気にならないと言えば嘘になる。しかし、そこまで瑞希のことをどう思っているかなんて考えたこともなかった。

 一旦落ち着こうと器に残ったままの出汁を玲士は一気に飲み干した。熱かった出汁はすっかり冷めてしまっていた。


 その日の夜、玲士はベッドの上で仰向けになって物思いに耽っていた。いつからこの状態になっているかはもう覚えていない。玲士の頭の中では昼間隼に言われたことがずっと気になっていた。

 「そもそも、玲士は会長のことどう思っているんだよ」

 隼にデートだと言われるまで一度もそんなことを考えたこともなかった。一緒に出掛けることが当たり前だと思っていたし、そのことに対して何の疑問も持たなかった。

 それでも指摘されて改めて考えてみると確かに隼にそう思われても仕方ないことだと思う。

 (俺が会長をどう思っているか……か)

 正直自分は瑞希のことをどう思っているのだろうか。これまでのことを振り返りながら自問自答してみる。

 生徒会に入ったばかりの頃、放課後に一人で作業をしている瑞希を見つけた時は一人だと大変だと思って毎日参加できない梨恵達の代わりに瑞希の無茶に付き合った。

 結局は日頃の無茶がたたり体調を崩してしまって動けなくなったことで、より心配になって監視の意味合いも含めてできる限りは傍にいるようになった。

 文化祭が終わってこれで終わりだと思っていたが、結局は一人になってしまう瑞希のことが放っておけなくて正式に生徒会に入ることになってしまった。

 それから、それから……

 (……違うな。そうじゃない)

 玲士はこれまでのことを思い出していたが、すぐに自分の考えを否定した。確かにこれまでの行動は瑞希の為ではあるがそれはきっかけであり、今玲士が求めている答えではない。

 そもそも、玲士はあくまでも文化祭が終わるまでの一時的な補助要員として生徒会を手伝うことになったのだ。


何故、必要以上に瑞希と関わり必要以上に手伝おうとしたのだ。

 何故、文化祭が終わった後も生徒会に残り続けようと思ったのだ

 何故、瑞希からの誘いをこうも楽しみにしているのだろう。

 何故、何故、何故……


 いくつもの何故が浮かんできてはそれに答えていくことをしばらく繰り返していた玲士だったが、ある時一つの結論に辿り着いた。それは全ての何故に答えることができるだけの意味がある。言葉にすればとても短いが、それでもとても大切な答えだ。

 あぁ、なんて簡単なことだったのだろう。こんなことに今まで気がつかなかったなんて。玲士は自分自身の気持ちの鈍さに呆れてしまい思わず苦笑した。

 玲士は首だけ動かしテーブルに置いてある写真立てを見た。

 ペチュニアの写真立ての中では少し意地になっていながらも右手を差し出すドレス姿の瑞希と、その手を取る笑顔の自分が映っている。

 「俺は会長のことが好きなんだな」

 小さく呟いた言葉を心の中で反芻する。好き。その言葉に自分の鼓動が早くなっていき顔が少し熱くなるように感じた。それでもその言葉は玲士の心の中で大切な言葉として残っている。

 生徒会での出来事は玲士の中では大切な思い出だ。梨恵が騒ぎ、玲士や真司が抑えようとしているのを瑞希が見ている。それが生徒会での日常。

 そんな中、瑞希と二人きりでいる時に見せる微笑みは普段は滅多に周りに見せない表情だ。文化祭の最中に玲士が淹れた紅茶を嬉しそうに飲んでいる時のあの微笑みは思わず引き込まれそうになるほどに優しげだった。

 梨恵のように騒ぐことは無く取り留めないことしか話さなかったが、穏やかな時間を二人で過ごしたあの空間は玲士にとってはとても心地よかった。

 そうだ。いつの間にか俺は彼女のあの笑顔に惹かれていたんだ。もしかしたら瑞希の家を訪れた時に見せた彼女の笑顔が始まりなのかもしれない。

 玲士が読んでいる小説の中にはもちろん恋愛小説もあった。その中には鈍感な主人公も存在しており、読んでいる時玲士は「どうしてこんな簡単なことに気がつかないんだ」と思わずにはいられなかったが、これでは自分も物語の主人公と変わらないではないか。

 彼女の笑顔を近くで見ていたい。瑞希を追いかけるだけでなく、無茶をしがちな彼女をこれからも支えていきたい。一度意識してしまうと瑞希の笑顔が脳裏から離れない。

 恥ずかしさも相まって玲士はベッドの上を右へ左へとゴロゴロと転がる。それで恥ずかしさが消えるわけではないが、そうせずにはいられなかった。

 (明日から会長の顔をちゃんと見れるのかな)

 そんなことを考えていたが、その答えは明日にならないと分かるはずがない。自分の気持ちが落ち着くまで玲士はベッドの上から起き上がることは無かった。



 「み、見つからないな……」

 帰り道、一人歩いている玲士は内心焦っていた。瑞希のことを好きなのだと意識してからできる限り普段通り接しているつもりだが、距離が近くなるとどうしてもドキドキして落ち着かなくなってしまう。

 今のところ瑞希は気づいていないなのがせめてもの救いだ。それでも別の所で玲士を焦らせている要因がある。

 蒼西高校の終業式は二十四日だ。午前中で終業式が終わった後は帰宅することになるが、週に一回しか瑞希と放課後に行動しないので、あと二回しか瑞希と一緒に食べに行くことができない。

 幸いにも今年の二十四日は金曜日な為、今年最後の一回は終業式とぴったり重なっている。できれば最後の一回は玲士から誘いたいところだがどうしてもいい店が見つからない。

 店が見つからないことから瑞希を誘うこともまだできていない為、あまりぐずぐずしていると瑞希の方が先に店を選んでしまうだろう。

 (思い切って電車で行動範囲を広くしてみるか?それも手だけどいくら午後からは自由だとしても、あまりうろうろするのはどうなんだろうか。いや、近場で限定するとそれこそ見つからないな)

 ああでもない、こうでもないと唸りながらも玲士は手元のスマホを操作して評判の店を探していた。

 スマホをいじりながら歩いていた玲士は不意にその足を止めた。玲士の意識はスマホの画面に表示されている情報に向けられている。玲士の自宅から徒歩で二十分くらいの所に一軒洋菓子店があるようだ。普段学校や駅へ向かう方向とは正反対に位置する場所で玲士自身もあまり足を運んでいない場所だ。

 (今から行っても間に合うか?)

 玲士は画面の隅に表示されている時間を確認しながら移動時間を考える。ただ店の所在地と簡単な説明しか書かれていないので、売られている物や外観や内装などの情報がほとんどわからない。ただ存在しているだけの情報だけだと判断に迷う。

 できれば直接自分の目で直接どんな店なのか確認したい。玲士は目的の洋菓子店へ向けて歩き出した。


 「ここか」

 玲士は店の入り口の前で店を見上げていた。店は大通りから外れた場所にあった。車道に面した場所にあるが店をぐるっと囲むように手入れの行き届いた生垣が続いている。生垣は玲士の目線くらいの高さだ。

 左に目を向ければウッドテラスが設置されており木製のテーブルと椅子が置かれている。見たところ手作りのような印象を受けるが特注なのだろうか。

 玲士は扉を開けて中に入った。店内は小ぢんまりとしており、装飾もほとんどなく玲士以外誰もいないこともあって静かな空間が広がっていた。

 天井から吊り下がっているシーリングファンがゆっくりと回り、どこからかピアノのメロディが聞こえてくるが、静かな店内の雰囲気を壊さない程度のボリュームは抑えられている。

 店内の隅には二組分だけテーブルが置かれているから一応は店内で食べられるのだろう。

 「はい、いらっしゃい。おや、学生が一人で来るなんて珍しいね」

 店内を見回していた玲士だったが背後から声をかけられて振り返った。ショーケースの奥にある部屋から年齢的に五十代くらいだろうか、穏やかな顔をした男性が出てきた。

 「すみません。洋菓子店だということで少しお邪魔させていただいています」

 「そうなんだ。他の店に比べるとあまりパッとしないかもしれないけど、ゆっくり見てもらっていいよ」

 男性は穏やかな表情のままレジ近くにある椅子に座った。そのまま手にした本を開いて続きを読み始めてしまったので、玲士は呆気にとられた。接客をするために出てきたのだろうが、玲士と一言二言言葉を交わした後は完全にこちらを放置だ。

 とりあえず玲士はショーケースの中を覗き込むと、どうやらこの店はフルーツタルトをメインで取り扱っているようだ。種類は多くは無いがタルトにはこれでもかというぐらいにフルーツが盛られている。メインはフルーツタルトだが、ショーケースの一角にはフルーツサンドも置いてある。タルトに使われているフルーツとフルーツサンドで使われているフルーツが同じことから、仕入れたフルーツを両方に使っているのだろう。

 さて、どうしようかと玲士は考える。一度は食べてみたいところだが、できれば一人で先に食べるよりも日を改めて瑞希と一緒に食べに来たい。

 (でも流石に何も買わずに帰るのも冷やかしで来たみたいで気が引けるな)

 「今は買いたくないような顔をしているね」

 「えっ?」

 突然声をかけられた玲士は驚いて顔を上げた。男性は手に持っていた本を片手で開いたまま玲士の方を見ている。相変わらず穏やかな表情のままで不快そうな感じは見受けられない。

 それよりも自分はそんなにも分かりやすい表情をしていたのだろうか。

 図星と言えば図星なのだが、正直に答えるのはあまりにも失礼だ。どう答えたものかと迷っていた玲士だったが助けは意外にも相手の方からやってきた。

 「あぁ。気にしなくてもいいよ。別に無理して買って欲しいとは思っていないし、また来てくれるなら食べたい、買いたいと思ってくれる時に買ってくれる方がおじさんは嬉しいんだよ」

 「あの、どうして俺が買いたくないと思っているのが分かったんですか?」

 「なに、これもおじさんの推測だよ。気を悪くしないで欲しいんだけど、君は店に入ってきた後、そこのケースの中を見るのではなく店内をじっくり見ていただろう?目的が食べる為や買う為ならそこまで周りを気にする必要は無いからね。多分だけど誰かと一緒に来たいんじゃないかなと思ってはいるけど、おじさんに気を使って悩んでいたと思ったんだよ」

 男性の言葉に玲士は思わず目を見開いた。まさか自分の行動からそこまで見られているとは思わなかった。出会ってまだ数分程度だが、男性の観察力には驚かされる。

 「別に気にしてはいません。俺と同じく甘いものが好きな友人がいるんですが、その友人と一緒に来れないかなと思っていたんです」

 「そうかそうか。ならその友達と一緒に食べるのが一番だろうね。気にせず友達とまた来た時に食べてくれたらいいよ」

 「ありがとうございます。失礼ですけれど聞きたいことがあるのですけど」

 「うん?なにかな、答えれることなら答えるつもりだから遠慮なく聞いてくれていいよ」

 男性は特に気にした素振りもなく返事をする。ここに来てから気になっていたことを玲士は口にした。

 「この店って周りに対してあまり宣伝はしていないですよね。ネットにはここに店があることの情報しか載っていないですし、実際看板も無いみたいですけど」

 そう。この店はひっそりと建っていた。チラシがあるわけでもなくネットで大々的に宣伝しているわけでもない。看板も無かったので、訪れた当初は本当にこの場所なのかと疑ってしまった程だ。

 「はっはっはっ!確かに他の店と比べるとここは目立たないだろうね。それでも私はこの静か時間を過ごすのが好きなんだよ」

 「誰も来ないかもしれないのにですか?」

 「それでもだよ。おじさんはもともと洋菓子職人じゃなくて実家の果樹園で働いているのさ。果樹園で働くのに不満は無かったんだけど、自分の育てた果物で何か作りたくてね。趣味の延長みたいな形でここで店を開いているんだよ。果樹園の仕事を優先しているから店も不定期でしか開けていないから逆に人気にならなくて助かっているんだよ」

 男性の話を聞いていた玲士はその内容に驚いていた。これだけ美味しそうなタルトを作っているのにも関わらずまさか本職ではないとは。果樹園での仕事に関しては詳しくないが、採れた果物をすべて出荷しているわけではないのだろう。洋菓子作りの技術もそうだが、なんと外にあるウッドテラスも男性が地道に作っていた作品だそうだ。……どれだけ多才なんだこの人は。

 そんな中、玲士には気がかりなことがあった。

 「すみません。クリスマスはこの店開いているでしょうか」

 「クリスマスかい?ちょっと待ってね」

 玲士の言葉に男性は立ち上がってレジの前にあるカレンダーを確認し始めた。

 この店に瑞希を連れて来たいが、肝心の店が閉まっていては紹介したくても紹介できない。

 心配げな玲士が見守る中、男性が戻ってきた。

 「特に予定を入れているわけではないから心配しなくても開けているよ。特に予約も必要ないから来たい時に来てくれたらいいよ」

 どうやらこの短いやり取りだけでこちらの意図を察してくれたようだ。今はそれが嬉しく感じる。

 「いえ。俺の方からお願いするところでした。それじゃあ二十四日のクリスマスに友達を連れて来ますね」

 「ありがとうございます」と小さく礼をした後店から出ようとした玲士だったが、背後から「ちょっと待って」と呼び止められて背後を振り返った。

 男性は相変わらず本を片手に持ったまま玲士の方に笑いかけている。

 「そういえば、少し前に駅前で面白いことがあるのをチラシか何かで見たんだよ。当日は賑やかになるだろうね」

 「?……はぁ。ありがとうございます」

 なんだか含みのある口ぶりだが、男性はそれ以上何も言おうとはしなかった。戸惑いが隠せないまま玲士は店を出た。

 店から出た玲士はすぐさま瑞希にメールを打ち始めた。玲士の方から瑞希を誘えるチャンスが巡ってきたのだ。このチャンスは逃せない。

 (これでよし。あとは返事を待つだけだな)

 歩道に出た玲士はそのまま自宅に向かおうと大通りに向かって歩き始めた。

 大通りに出る直前で玲士は気になるものを見つけた。付近の住人に対する連絡を兼ねた掲示板だ。掲示板には予防接種の募集やアルバイトの募集をしている店のチラシなどが貼られている。その中の一枚、最近貼られたと思われるチラシに玲士は釘付けになった。

 じっくりと読んだ玲士はポケットからスマホを取り出した。スマホには先ほど瑞希に送ったメールの返事が届いていた。

 「田宮君から誘ってくれるなんて嬉しいわ。せっかくだから終業式が終わったら一度家に帰って準備するわね。クリスマスが楽しみだわ」

 どうやら当日は瑞希の予定も問題ないようだ。内心ほっとした玲士は改めて目の前のチラシに視線を戻した。

 「……よし!」

 玲士はそう言うと自宅に向かって歩き始めた。当日の予定を考えなければと決意を抱えて。



 あっという間に日は過ぎ、クリスマス当日の昼下がり。雲に覆われた空の下、玲士は近くの商店街の入り口で瑞希を待っていた。玲士はダウンシャツにジーパン、さらにロングコートを着込んだ格好だ。

 (別におかしい所は無いよな?なんだか緊張するな)

 自宅で何度もチェックしていたがどうしても気になってしまう。玲士はそわそわしながら瑞希を待つ。これまで放課後に歩き回っていた為いつもは制服姿だったが今日は違う。私服姿の瑞希と初めて歩き回るから楽しみだという思いでいっぱいだ。

 「田宮君お待たせ。思っていたより準備に時間がかかってしまったわ」

 突然右から瑞希に声をかけられた玲士は驚いて声がした方を見た。人が行き交う中、瑞希を探しながら待っていたはずなのに全く気がつかなかった。

 「いえ。俺も来たばかりですしそんなに待っていません……よ」

 玲士の言葉は尻窄みになり最後まで言えたかどうかわからない。それよりも目の前の光景に目を奪われていた。

 瑞希はブラウスにジャケット・ロングスカートといった姿でその場にいた。落ち着いた色合いで合わせている私服姿の瑞希は大人っぽさが強調されており、まるでモデルのようだ。

 黙ってしまっている玲士が気になったのか瑞希が首を傾げた。

 「田宮君?」

 「っと、すみませんなんでもないです。私服姿の会長を見るのは初めてでしたし大人っぽくて綺麗だなと思っちゃいました」

 怪訝そうにしている瑞希に声をかけられた玲士はハッとして慌てて理由を話した。話した後になって玲士は自分が何を言ったのか理解した。

 (何を言っているんだ俺は!いきなりそんなことを言ったら会長のことをじろじろと見ていたと思われるじゃないか)

 現に瑞希は「そ、そうなの」と言いながらくるりと玲士に背を向けてしまった。いきなりやってしまった。玲士は先ほどの自分を叱りつけてしまいたいし頭を抱えたくなる。せっかく楽しみにしていた瑞希の気持ちを悪くさせてどうする。

 「あ~、とりあえず行きましょうか」

 「え、ええ。いつまでもここにいても仕方ないわね。行きましょうか」

 嫌な雰囲気を振り払うように瑞希に声をかける玲士。こちらに背を向けたまま毛先をいじっていた瑞希だったが、振り返って視線を彷徨わせながらも玲士の提案に乗ってくれた。見たところ機嫌が悪くなっていないようなのでひとまずほっとした。

 少しぎこちなさがあったが二人は一緒に歩きだした。

 「そういえば会長。行きたい所があると言ってましたけど、どこに行くつもりなんですか?」

 「ふふっ。そういえば言ってなかったわね。そんなに遠くないからすぐにわかるわよ」

  二人が向かっているのは玲士が行こうとしている洋菓子店ではない。その前に行きたい場所があるということでまず先に瑞希の行きたい場所に行くことになっているが、行先は瑞希から教えられてもらっていない。その為玲士は瑞希に付いて行く形となっている。

 「今から行くお店で買いたいものがあるのよ。私一人でも買えるのだけど、できれば田宮君の意見も聞きたいから今日一緒に行こうと思っていたのよ」

 「俺にですか?まぁ、意見を言うぐらいなら俺は構いませんけど、いったい何を買うつもりなんですか?」

 「着いたらわかるわ。貴重な意見だから期待しているわよ」

 「何を期待されているのか気になるし、不安なんですけど……」

 玲士の反応を見ながらおかしそうに笑う瑞希に玲士は変にプレッシャーを感じた。瑞希は何を買うつもりなのだろうか。そしてどんな意見を求められるのだろう。

 (まぁ、会長一人でも買えるものらしいから大したものじゃないだろうな。以前のような写真立てみたいな小物だといいな)

 そう思いながら瑞希の隣を歩き続けた。


 ——大したものではない。その言葉を真に受けてしまった玲士は今店の前で大きく後悔していた。そもそも大したものでないなら瑞希がわざわざ買うものを隠す必要性などない。言わないということは何か隠す理由があるということ。

 瑞希に限って——と思っていた玲士だったから完全に油断した。油断していたから今目の前にある店の前で立ち尽くしていた。

 「いつまでそうしているつもりなの?着いたのだから早く入りましょうよ」

 「会長。買いたいものがある店って本当にここなんですか?」

 「そうよ。だから言ったでしょ?そんなに遠くないって」

 入口の前で瑞希が早く来いというように手招きしている。しかし、玲士は動けない。まさかこの店に入るとは完全に予想外だ。

 玲士は少し震える声で瑞希に声をかけた。

 「これって絶対俺は必要ないですよね?」

 「何を言っているの。さっきも言った通り田宮君の意見も聞かないとここに来た意味が無いでしょう」

 「そうですね。確かに会長はそう言っていました。ですが!だからって、どうして会長の服選びに俺の意見が必要なんですか!」

 そう。瑞希が行きたがっていたのはなんと女性服の専門店だった。店内には何人か客はいるが店員を含めて全員が女性であり、入ろうと促されている玲士以外に男性は誰もいない。

 そんな店内に入る?絶対に周りから見られるしその視線が辛い。できることなら回避したいところだ。

 「そもそも女性の服なんて男の俺が分かるわけないじゃないですか。俺に聞くより会長が欲しいと思った服を選ぶ方がいいですよ」

 「そんなことは無いわよ。田宮君が選んでくれることが大切なのよ」

 「えっ?」

 俺が選ぶことが大切とはどういう意味だろう。瑞希に詳しく聞こうと思って聞き返そうとして気がついた。瑞希の様子がなんだかおかしい。

 「あの……ええっと……これは」

 瑞希は何故かそわそわしており、何か言おうとしているが言葉にならず先が続かない。自分から言ったのに何をそわそわしているのだろう。

 「ほ、ほら、私が選ぶと選ぶ服のデザインも偏っちゃうじゃない。男性の田宮君から見て私に似合う服を選んでもらいたいのよ。私が今まで選んでいなかった服に出会えるかもしれないでしょ」

 「ま、まぁ、言いたいことはわかりますけど……」

 顔を赤くしながら捲し立てるように言う瑞希に若干戸惑いながらも玲士は瑞希の言いたいことは分かった。玲士自身も持っている服のデザインはかなり似通っている。似たデザインで色違いな服も数着は持っているし、あまり違うデザインを選んだりはしていない。

 玲士が選ぶことが大切だと言ったのはそういう意味だろう。瑞希がそわそわし始めたのは、いきなりそんなことを言って相手が変に解釈してしまうと思ったからだろう。

 (ちょっと期待したんだけどな……)

 もしかしたら玲士に気があるんじゃないかと少し期待したがどうやら違うようだ。このまま店の前でごねているわけにもいかないので、半ば諦めたように玲士は瑞希と一緒に店の中に入った。


 「田宮君、これとこっちの服だったらどっちがいいかしら?」

 「……そうですね。俺だったら右手に持っている服の方が似合っていると思いますよ。ただ、色が少し明るすぎるような気がしますね。違う色は無いんですか?」

 「ちょっと待ってね。見てみるわ」

 両手に持っていた服をラックに戻し色違いを探している間、玲士は近くにある柱に寄りかかっていた。周りから玲士たち二人に視線を向けているのが嫌でもわかってしまってなんだか落ち着かない。

 瑞希に合う服を選べと言われた玲士だったが、流石にわからないままいきなり選べというのは酷だったので、今は瑞希が選んだ服の感想を言う程度になっている。しかし、最終的には選ばなくてはいけないので、楽観視はできない。

 (選べって言われてもなぁ。種類があり過ぎて全然わからないんだよな)

 玲士からすれば当然だが女性服の専門店に入るのはこれが初めて。誰かの服をこれまで選んだことも無ければそんな機会も無かった。瑞希が選んでいる傍ら服の種類を見ていたが何が何やらさっぱりだ。細かな違いが判らない。

 「田宮君、この中ならどの色がいいかしら?」 

 瑞希は先程玲士が選んだ服―たしかカットソーと書いてあったはず—の色違いをいくつか抱えてきた。緑や黒、ベージュなど種類が多く、すべてハンガーに掛けられている為瑞希の両手がふさがってしまっている。玲士は瑞希の持っていた服の一部を受け取り瑞希の前で交互に入れ替えながら合いそうな色を探していく。

 瑞希も自分の持っている服を交互に服を体に当てて玲士に見せている。

 「う~ん。俺ならこの淡い青がいいかなと思いますね。会長は気になっている色はありますか?」

 「そうね。私はそっちの青もいいけど、ベージュも気になっていたわ。田宮君はベージュは選ばなかったの?」

 玲士は瑞希の持っている青を選び、瑞希は玲士の持っているベージュを選ぶというお互いの持っている服を選ぶ形になってしまったが、玲士自身特に気にしなかった。たまたま気になった色がお互い持っていたからなので、偶然だろう。

 「ベージュもいいと思うんですけど、俺はこっちの青の方が爽やかさがあっていいなと思ったんですよ」

 「そうなの。ならちょっと田宮君の選んだ方を試着してみようかしら」

 「いや。会長が選んだ方でも構わないんですよ。わざわざ俺が選んだ方に合わせなくても……」

 「何を言ってるの?田宮君の意見を参考にしたいから今日この店に来たんじゃない。せっかく選んでくれたのだから田宮君の意見を優先するわ」

 「それなら他の服は俺にください。流石に全部持って行くわけにはいかないので俺が戻しておきますよ」

 試着室に行こうとする瑞希を引き留め玲士は残りの服を受け取った。瑞希は「ありがとう」と言った後ウキウキしながら試着室の部屋の中に入っていった。

 玲士はハンガーラックに服を戻しながら先ほどのやり取りを振り返っていた。玲士はあくまでも正直な感想を言っただけだ。それでも瑞希は嬉しそうに玲士が選んだ服を抱えていた。ただ服を選んだだけだったが、瑞希の姿に玲士は嬉しく感じたし心地好かった。小さなことでもこれほど喜んでもらえるとは玲士にとって初めてだ。

 そんなことを考えているとカーテンが開く音がした。試着室の方を見ると瑞希が玲士の選んだカットソーを着て立っていた。

 「どうかしら。私が選んだわけじゃないから似合っているか少し心配だわ」

 瑞希は試着室の中に備え付けられている鏡の前で体を動かしていろんな角度から自分の姿を確認している。

 「心配しなくても大丈夫ですよ。誰かの服を選んだことはこれまで無いですけど、その色は会長によく似合っていますよ」

 玲士は思ったことを素直に伝えた。服自体を選んだのは瑞希だが、似合っていることに変わりはない。

 「そ、そうなの。嬉しいけどこんな風に褒めてもらうなんてこれまでなかったから、少し照れるわね」

 そう言いながら瑞希は頬を染めながら目を伏せた。その姿に玲士はどう声をかけていいか分からなかったが、照れている瑞希を見ているとこっちまで落ち着かなってくる。玲士だって誰かの服を褒めることに慣れていないから気恥しい。

 そのあとすぐにカーテンを閉めて元の服に着替え終わった瑞希が出てきた。

 「こほん。それじゃあ今度は田宮君が私の服を選んでくれるかしら。私は後ろから見ているから何かわからないことがあったら聞いてちょうだい」

 とうとうこの時が来てしまった。玲士は改めて気を引き締めた。選ぶからには中途半端な気持ちで選ぶわけにはいかない。瑞希にぴったりな服を選ばなくては。そう考えながら玲士はゆっくりと店内を歩き始めた。これまで瑞希の後ろをついて行きながら周りを見ていたからある程度何があるのかはわかる。

 しばらくの間、玲士は唸りながらいくつか服を手にしてまた戻すこと繰り返している。

 (会長にはあまりパーカーみたいなダボっとした服は似合わないな。選ぶなら全身がすっきりと見えるような服がいいな。それでいて暖かい服にしたいな)

 まだ雪は降ってはいないが十二月だ。暖かい服を選んだ方が使ってくれそうな気がする。せっかく選ぶなら何度も着てくれた方が玲士としても嬉しい。

 一着ぐらいはそんな服があってもいいのではと考えはしたが、瑞希には合わないと玲士自身が納得しきれなかったので却下されている。

 「うん?これはセーターか?」

 玲士は仕切りがされて、サイズごとに置かれている棚の中にあった服を手に取った。

 見たところセーターのように見えるが棚に貼られているプレートには「リブタートルニット」と書かれているが、違うのだろうか。

 手に取った服を広げた玲士はそのまま後ろで眺めている瑞希と見比べてみた。

 (この服ならあまりゴワゴワしていなさそうだし、すっきりした印象に見えそうだな)

 文化祭で来たドレスの時も思ったが、瑞希は上半身をキュッと引き締めて逆にスカートで緩めるようなコーディネートが似合う気がする。

 今の瑞希はロングスカートだから合うと思う。

 「俺はこの服がいいと思うんですけど、会長この服だったらどの色がいいですか?」

 「田宮君が選んでくれて構わないわ。色選びも含めて田宮君の意見を尊重するわ」

 (完全に丸投げされているのは気のせいだろうか……)

 選ぶのは玲士なのだからその辺りも含まれているのはわかってはいるが、それでいいのだろうか。玲士は瑞希から信頼されていることに戸惑いはあるが悪い気はしない。むしろそれほどまで玲士を信頼してくれて任せてもらっていることに対して嬉しさが込み上げてくる。

 玲士は数ある色の中から二つの色を選んだ。一つは白でもう一つはベージュだ。白は玲士が一番似合いそうだと思っていた色で、ベージュは瑞希が先程の服選びで気になっていた色だ。

 玲士はそれぞれを両手に持ってどちらがいいか悩んだ。個人的には白の方が良いと思うがベージュも悪いわけではない。あまり濃い色ではなく少し薄めの色なので、他の服とも合わせやすいだろう。

 (ここは俺が選んだ方を選ぶべきなのだろうか。でも会長はベージュも気にしていたしなぁ)

 玲士だけの意見を通すならこの場合は白一択だろう。しかし、先ほどのカットソーで瑞希は自分が気になっていたベージュを選ばず玲士の選んだ青を選んだ。ならば、立場が逆転している今はベージュを選んだ方が瑞希も喜ぶのではないだろうか。でもそれだと純粋に玲士が選んだものとは言えなくなってしまう。

 どうするべきかと眉を寄せて考えていた玲士だったが、隣から瑞希が顔をのぞかせた。

 そして玲士が持っている二つの色を見て瑞希は納得した表情をした後くすりと笑った。

 「田宮君もしかしたら私に気を使っているのかしら。さっきはこの色を選ばなかったから今回はこの色の方が良いんじゃないかって」

 「ええっと……まぁ、そうですね」

 玲士は狼狽えながらも頷いた。やっぱりこの色を持っていると分かってしまったか。

 「さっきも言ったけどあくまで私は田宮君の選択が気になるの。勿論明らかに合わないと思った時は素直に納得はしないけれど、この色でも私は構わないと思っているわ。だから田宮君は私に変な気を遣わずに選んでくれた方が嬉しいわ。それがこの店で田宮君が必死に悩んで選んでくれた結果なんだから」

 瑞希にそう言われれば玲士の選ぶ方は決まっている。玲士は白を選んで瑞希に向き直り「これにします」と言った。瑞希に似合う服を玲士なりに真剣に考えた結果だ。ここは自分自身の判断を信じよう。


 「いや~緊張したなぁ」

 店を出た玲士はその場で伸びをした。ようやく瑞希からのお願いを叶えることができて肩の荷が下りた感じだ。あとは周りの視線からようやく解放されたのも大きい。

 「ふふ。私のお願いに付き合ってくれてありがとう。……でも、いいのかしら?」

 そう言いながら瑞希は玲士が持っている紙袋に視線を移した。その中には先ほど玲士が選んだ服がラッピングされた状態で入っている。

 あれから玲士と瑞希は会計に向かったのだが、その時にお互いの意見が衝突した。玲士としては瑞希に贈るつもりで選んでいたので代金は玲士が払うと考えていたが、瑞希はどうやら自分で買うつもりだったようで玲士から服を受け取ろうとした。

 お互いに自分が払うと譲らなかったが、ここは玲士が自分の意見を押し通すような形でそそくさと会計に移動したために瑞希は受け取ることができなくなってしまった。

 会計を済ませた後も服は玲士が持ったままだ。

 「いいんですよ。せっかく俺が選んだんですからプレゼントさせてください。ちょうど今日はクリスマスですしタイミングもぴったりじゃないですか」

 「田宮君には選んでもらうだけのつもりだったのだけど、なんだか買わせたみたいになってしまって申し訳ないわね。でも、そう言ってくれるなら嬉しいわ。ありがとう」

 瑞希は少し落ち込んだような表情をしたが、すぐに嬉しそうに笑みを浮かべた。玲士もその笑顔を見て自然と笑みがこぼれる。

 「どういたしまして。プレゼントは最後に渡しますので、それまで俺が持っていますね。……それじゃあ、行きましょうか」

 腕時計に目をやれば時間は三時を過ぎた頃だ。ここから店まではそれほど遠くはないため、着いて休憩するにはちょうどいい時間になるだろう。

 さっきとは違い今度は玲士が瑞希を案内するように店に向かって歩き始めた。


 目的の洋菓子店の前、玲士が一人で来た時と同じ場所で二人は店を眺めていた。

 「……田宮君、本当にこの場所で合っているのかしら?看板も何もないように見えるのだけど……」

 「会長もやっぱりそう思いますよね。俺も以前来た時は同じ感想でしたよ」

 半信半疑な瑞希の反応には玲士も内心「ですよね~」と思わずにはいられなかったし、同意するしかない。確かに何も知らなければここが洋菓子店とは思わないだろう。まるで初めてこの店に訪れた自分自身を見ているようだ。

 この店を見つけたのは本当に偶然で、たまたまスマホでこの店の存在を知ったのでそれが無ければ今も知らないままだったはずだ。

 「ここからだと想像できないと思いますけど、中はちゃんと洋菓子店ですよ。あまり店っぽくないのは副業でこの店を開けているからなのと、店長があまり騒がしくなりたくないからだそうです」

 「副業で?だったらいつも開いているわけじゃないのかしら?」

 「そうですね。店長の話だと不定期に開けているそうですよ。店長に確認したら今日は開けているみたいなので、会長を誘おうと思ったんですよ。——さぁ。とにかく入りましょう」

 「え、ええ」

 服を買いに行った時と立場が逆だ。困惑したままの瑞希を促しながら玲士は店の扉を開けて中に入った。店内は以前来た時と同じで玲士達以外には客の姿は無く、静かな空間の中にピアノの演奏がわずかに聞こえてくるだけだ。

 「……驚いたわ。外とは違って中は物凄く拘っているのね。こんな素敵な店が不定期でしか開けていないなんて勿体ないぐらいね」

 「そう言ってもらえるとおじさんは嬉しいよ。内装を整えるのに色々と苦労したからね」

 瑞希が店内を見回していると男性の声が奥から聞こえてきた。玲士が声のする方を覗き込むと、入り口から死角になっている場所でこれまた出会った時と同じように本を片手に男性が椅子に座って本を読んでいた。

 (傍から見るとただの一般客にしか見えないなこの人)

 男性は椅子に深く腰掛けテーブルにカップとポットを用意しているあたりずっとこの場所で本を読んでいたのだろう。店長としての雰囲気が全く感じられない。それでいいのか?

 「こんにちは。お久しぶりって程ではないかもしれませんが、言っていたように友人と一緒に来ました」

 玲士は軽く挨拶を済ませるとそのやり取りを見ていた瑞希も軽く会釈した。

 「はじめまして。今回田宮君に誘われて来ました」

 「やぁ。よく来てくれたね。お嬢さんとは初対面だね。一応おじさんがこの店の店長をしているけどよろしくね。さぁ、こちらにどうぞ」

 男性は奥にある窓際のテーブルに二人を案内してくれた。テーブルの上には「予約席」と書かれたプレートが置いてある。しかし、玲士は席を予約した覚えはない。

 「もしかして、わざわざ席を確保してくれたんですか?ありがとうございます」

 「なに。大したことじゃないよ。せっかく友達を連れて来てくれるんだからこれぐらいは当然さ」

 プレートを手にしながら男性は礼を言う玲士に笑って応えた。

 それでも男性の気遣いは玲士にとってありがたいものだ。本当なら以前訪れた際に席の確保も頼むべきだったが、瑞希を誘うことばかり気にして他のことに気が回らなかった。

 この店が最後ではなくこの後もまだ行く所があるので、万が一持ち帰りになってしまうと中身を気にして予定を変えざるをえなかったかもしれない。

 自分の不甲斐なさを恥じながらも二人は勧められた席に腰を下ろした。

 「そういえば、このお店で何が食べられるのかしら?周りばかり見ていたからすっかり肝心なところを見逃してしまったわ」

 「なんでもこのお店は本業の果樹園で採れた果物を使ったタルトがあるみたいでよ。タルトだけでなくてフルーツサンドもあるみたいですけど、俺は是非会長にタルトを食べてもらいたいですね。見た目も綺麗ですし絶対に美味しいと思いますよ」

 玲士は少し興奮したように早口で瑞希に説明した。玲士もまだ食べたことは無いが、美味しいことは間違いないと思っている。

 「いやぁそんな風に言われるとおじさん照れるなぁ。ハードルが上がっちゃうとその期待に応えられるか心配になってきちゃうよ」

 傍で聞いていた男性は気恥しそうに頬をかいた。

 「そんなことはありませんよ!副業にもかかわらずあれだけ美味しそうなタルトを作れるなんてすごいと思います」

 「ははは。なら二人に食べてもらって感想をもらわないといけないね。メニューと言えるかわからないけど、とりあえずこの中に書かれている物なら大丈夫だよ」

 男性はテーブルの隅に立てかけられているリストを二人にそれぞれ渡した。リストには品名と一緒に写真が添えられている。種類は多くないがどれも美味しそうでどれにしようか悩んでしまう。

 メニューを見ていた玲士はふとある場所に目を止めた。他の店のメニュー表で見たことはあるが、おおよそこの類の店で見ることが無いと思っていた記載があった。

 「すみません。この店長お任せメニューって何ですか?」

 玲士が指さしたのはリストの一番下、他とは少し離れた位置に「店長お任せセット」と書かれている。レストランでは目にすることはあるだろうが、洋菓子店でお任せとは少なくとも玲士の知る限りでは聞いたことが無い。

 「あぁ。それはね、初めて食べに来た人が選ぶことが多いんだけど、どれを食べるか選べない人におじさんが是非食べてもらいたいものを選んで提供することだね。収穫量次第で提供できる数に限りはあるけどね」

 「それは素敵ね。すみませんがこのセットはまだ残っているのですか?」

 瑞希は興味深そうに男性に聞き、男性も笑顔で頷き返した。男性の反応に瑞希は目を輝かせている。玲士もそのセットは気になる。

 「俺もそのセットが気になりますね。せっかくだからこのセットを二つお願いしてもいいですか?」

 「わかりました。ちょっとお待ちくださいね」

 そう言って男性は奥の作業スペースの中に入ってしまった。しばらく瑞希と雑談をしていると男性が戻ってきてそれぞれの前に注文していたタルトセットの皿を静かに置いた。瑞希がぽつりと「美味しそう」と言ったのが小さく聞こえた。

 これで終わりと思っていた玲士だったが、男性はタルトとは別にもう一皿、二人の前にそれぞれ置いた。皿の上には小さめのケーキが載せられている。このケーキは何だろうか。注文した覚えはないし瑞希も困惑した表情で目の前のケーキと男性を交互に見ている。

 「あの、このケーキはいったい……」

 玲士はとりあえず男性に尋ねた。このケーキは以前この店に来た際にも無かったと思うし、そもそもこの店はタルトとフルーツサンドの店だ。ケーキは取り扱っていなかった筈。

 「せっかく来てくれたお礼におじさんからのサービスだよ。タルト作りの延長で作ってみたから是非食べて欲しいな。もちろん本職の人と比べると見劣りすると思うけどね」

 (いやいや。そこは誇ってもいいんじゃないか⁉)

 玲士は男性の言葉に驚きを隠せなかった。果樹園をしながらタルト作りを学び、今度はケーキを作ってしまう。どれだけスキルを増やすつもりなのか。

 それでもせっかくの厚意なのでありがたく頂こう。二人は男性にお礼を言うと「ごゆっくり」と言ってその場から離れて行った。

 「それじゃあ。せっかくなので食べましょうか」

 玲士がそう言うと瑞希も「そうね」と言ってフォークを手に取った。お互い初めて食べるタルトを味わいながら穏やかな時間が過ぎていった。


 「ごちそうさまでした。タルトも美味しかったですし、ケーキも同じくらい美味しかったですよ」

 玲士は正直な感想を男性に伝えた。タルトを食べながら二人で感想を言い合ったり雑談を交わした楽しい時間はあっという間に過ぎていき、玲士達はレジ前で男性と向かい合っていた。

 「そうかい?君達の期待に応えられて嬉しいよ。まぁ、ケーキは今回特別に作ったから商品として並べる予定はないんだけどね」

 「それは残念ですね。私も田宮君の感想と同じでどちらもとても美味しかったです。十分商品として置いていても不思議じゃないくらいでしたよ」

 玲士も同意するように頷いた。ケーキも十分満足できるほどの美味しさだったし問題は無いと思う。ただ、あくまでもこちらは副業なので男性の負担を考えるとそこまで手が回らないのかもしれない。

 今日みたいなクリスマスなどの限定的な期間に作っていたら人気はあると思う。

 「そうだね。まぁ、余裕ができたら考えてみるよ。御覧の通りおじさん一人だから時間はかかるかもしれないね。内装に拘ってこの店を開くのも時間がかかったからね」

 「もしかして店長がすべて作られたのですか⁉」

 瑞希は驚きのあまり目を見開いた。

 「いやいや。流石に全部一人で作ったわけじゃないよ⁉あくまでも内装の一部と外にあるテラスを作ったぐらいだよ。知り合いにだいぶ助けてもらったけどね。暖かい季節はやっぱり外で食べた方が気持ちいいかなって思ったからそこだけは譲れなかったんだよ」

 「あ~。いいですね。春や秋ぐらいは外で食べるのもいいかもしれないですね」

 玲士は男性の拘り具合に舌を巻いた。内装だけでなく外まで手を加えるのはなかなかに苦労しただろう。

 「今の時期は寒過ぎるからね。今は開放していないけど、暖かくなったら利用できるようになっているよ。また来てくれるなら暖かい時期がおすすめだね」

 「そうですね。せっかくなので暖かくなったら田宮君とまた来たいと思います」

 「えっ⁉」

 玲士はぎょっとした表情で瑞希を見るが当の本人はどこ吹く風とまったく気にしていない。……会長、約束覚えていますか?

 その後瑞希は店の外に出てしまい玲士も慌てて追いかけるように店の外に出た。去り際に「頑張ってね」と男性の声が聞こえてきたので、どうやら彼にはもうすべてお見通しらしい。

 「ありがとう田宮君。こんな素敵なお店があるなんて今まで知らなかったわ」

 微笑みを浮かべる瑞希から改めてお礼を言われるとなんだか照れくさい。

 「この店を見つけることができたのは本当に偶然ですよ。それでも喜んでもらえてよかったです。……それよりも来年も来るみたいなこと言ってましたけど、初耳ですよ?」

 「あら、別に受験期間中に行くわけじゃないわ。受験が終われば別に行っても構わないのだからその時に行くつもりよ」

 「もしかして初めから受験が終わったらまた行くつもりだったんですか?」

 「もちろんよ!田宮君は嫌かしら?」

 ジト目になっていた玲士だったが、そこで溜息をついた。可愛らしく首を傾げながらその言い方はズルい。

 「嫌じゃありませんよ。会長が良ければ俺も一緒に行きますよ」

 「ありがとう。田宮君なら来てくれると思っていたわ。来年も楽しみだわ」

 「言っておきますけど受験が終わってからですからね。流石に終わっていないのに行くのは俺も気になって楽しめませんから」

 「わかっているわ。安心して受験が終わるまで待っていてくれて問題無いわ」

 一応瑞希に釘は刺しておいたから大丈夫だと玲士は思っているが、少し不安だ。ここは瑞希の言葉を信じて待つとしよう。

 さて、ここからの予定は瑞希にも詳しくは教えていない。もともとの予定では先程の洋菓子店で食べたら終わりになっていた。瑞希が既に知っているかはわからないが行くだけ行っておこう。

 「ここから駅前まで歩くことになるんですが会長はこの後大丈夫ですか?」

 「ええ、私は大丈夫よ。駅前に何かあるのかしら?」

 「実は駅前に大きなクリスマスツリーが設置されているみたいなのでそれを見に行くのはどうかなと思うんですけど」

 玲士はそう言いながら鞄の中から一枚のチラシを取り出した。チラシにはクリスマスイベント企画としてクリスマスツリーが設置されることが大きく書かれている。

 これが以前男性が玲士に言っていた「面白いこと」だ。店を出た後にたまたま目についた掲示板に張り出されていたのが玲士の持つチラシだった。瑞希の予定に付き合った後にタルトを食べながら休憩し、最後に駅前のクリスマスツリーを見に行く。ここまでが玲士の考えた今日の予定だ。

 「いいわね。さっそく行きましょう」

 「ちょっと⁉待ってくださいよ」

 案内するはずの玲士よりも先に歩き出した瑞希を追いかけるように玲士も歩き出した。


 一旦大通りに出るために歩き出した二人だったが、歩き始めてすぐに瑞希が立ち止まった。瑞希の視線の先を目で追うと先程の洋菓子店のウッドテラスに向けられている。

 生垣を挟んだ先のテラスを見ながら瑞希はぽつりと呟いた。

 「いいお店だったわね」

 先程の様子とは打って変わり瑞希の言葉は少し寂しそうだ。また来ると言っておきながら、今の瑞希を見るともう来られないといったような雰囲気を感じた。

 「また来れますよ。その時はあのテラスで一緒に食べましょう」

 「田宮君……」

 玲士の言葉に瑞希はハッとしたようにこちらを見た。もしかしたらさっきの言葉は独り言だったのかもしれない。それでも玲士は声をかける以外思いつかなかった。あんな寂しそうな表情は彼女には似合わない。

 「そうね、また一緒に来れるものね。ごめんなさい。変に気を使わせてしまったわね。さぁ!行きましょう。早く行かないと人でいっぱいになってしまうわ」

 玲士の言葉で吹っ切れたのだろうか、さっきまでの寂しげな表情は無くなり瑞希に笑顔が戻った。

 「……ええ」

 一方で玲士の方は逆に緊張で表情を強張らせていた。この後に自分がしようとすることでどうしても頭がいっぱいになってしまう。どんどんその時が近づいてきているとどうしても実感してしまう。

 玲士の少し前を瑞希が歩いている。クリスマスツリーを見に行くことが楽しみなのか今この時が楽しいのかわからないが後ろ手に組みながら歩く瑞希の体はリズム良く跳ねている。

 「どうしたの田宮君?」

 歩みが遅くなっている玲士に気がついたのだろう。瑞希がこちらに振り返りきょとんとした顔になっている。

 「ほら、早く」

 当たり前のように瑞希が笑顔でこちらに手を伸ばしている。手を繋いでということなのだろう。今の彼女の姿を見ると、出会ったころと比べると驚くほど変わったし互いの距離もかなり近くなったと思う。

 笑顔を見せることが多くなった瑞希もそうだが、玲士自身も同じくらい変わったと思う。最低限の関りで終わるはずが今は目の前の瑞希を意識するようになり、こうしてクリスマスに二人で買い物をしたり食事をしたりと一緒に過ごしている。

 もしかしたら瑞希は友人として接しているのかもしれない。もしかしたらこの気持ちは玲士しか抱いていないのかもしれない。それでも玲士は今よりもさらに距離を縮めたい。

 あとはその勇気を出すだけだ。玲士達の側を走っていた車も今は途切れており、静かになっている。見れば瑞希の背後でこちらに向かってくる車が右折するために停車して、反対車線を走っている車の流れが途切れるのを待っている。

 歩みが遅くなっていた玲士はその場に立ち止まり大きく深呼吸した。瑞希の笑顔で決心がついた。もしかしたら駅前のクリスマスツリーを見るまで待っていた方が良いのかもしれない。その方がきっとシチュエーションとしてはいいだろう。それでも瑞希の笑顔を見るとこの想いが抑えきれなくなった。

 心の中で気合を入れ直し、真っすぐ瑞希を見つめる

 「会長」

 「うん?」

 緊張で声が震えそうになるが必死に抑える。握った両手の中は汗がにじんでいるが気にしない。

 これから何を言われるのか分からないのだろう。瑞希は不思議そうに首を傾げる。

 あとは言うだけだ。

 「会長に伝えたいことがあります」

 この気持ちを

 「俺は、」

 想いを込めて

 「会長のことが」

 瑞希に

 「す、……っ⁉」

 言おうとしていた言葉はそれ以上続けることができなかった。逆に玲士は目を見開き表情が凍り付いた。

 玲士の視線の先にいる瑞希——の後ろ。先程右折のために一旦停車していた車の後ろからやって来た後続のワゴン車が突如車道から外れ、玲士達が歩いている歩道にスピードを緩めることなく突っ込んできた。

 縁石にタイヤが乗り上げバウンドしながらこちらに突っ込んで来る車。背後の異変を感じたのだろう。瑞希が振り返ろうとするが間に合わない!

 「会長‼」

 咄嗟に玲士は手に持っていた紙袋を手放し、こちらに差し出されたままだった瑞希の腕を掴んでこちらに引き寄せた。突然腕を引かれた瑞希は抵抗できずにそのままこちら側に向かってよろけてきた。

 玲士はそのまま瑞希と自分の立ち位置を入れ替えたあと車に背を向け庇うように瑞希を抱きしめた。

 「がっ‼」

 抱きしめた瞬間、背中にこれまで感じたことのない衝撃を感じそのまま玲士は跳ね飛ばされた。

 蹴り飛ばされた石のように撥ねられた玲士は近くの生け垣まで飛ばされ、生垣を突き破り先程まで玲士達が食事を楽しんでいた店のウッドテラスに突っ込んだ。玲士は近くにあったテーブルや椅子をいくつかなぎ倒したところでようやく止まった。


 ……すべての音がいつもより遠く感じる。

 うっすら目を開けた玲士が最初に感じたのはそれだった。

 倒れた玲士の視界には椅子や壊れたテーブルの一部が見えている。体を動かそうとするが何故だろう上手く力が入らない。

 そんな中、玲士の腕の中でシタバタと何かが動くのを感じた。玲士の体が大きく動き、視界に映るのが残骸から灰色の空に切り替わった。視界いっぱいに広がる灰色の空から小さな白い粒がゆっくりと降り始めいくつかが玲士の頬に当たり小さな水滴に変わった。

 そんな玲士の視界に瑞希の顔が横から入り込んだ。


 ……良かった。会長は無事だ。


 「―――っ‼―――っ‼」

 瑞希が必死の形相でこちらに何か叫んでいるが、彼女が何を言っているのかよく聞き取れない。

 瑞希の言葉を聞き取ろうとしていた玲士だったが次第に彼女の顔の輪郭がぼやけてきた。視界の右半分が赤く染まってきたのは何故だろう。

 (大丈夫ですよ会長)

 瑞希を安心させるために必死に伝えようとするがうまく声が出てこない。色が滲んでいくかのようにどんどん見えるものがぼやけてくる。

 せめて瑞希を安心させたい。それが今の自分がするべきことだ。

 もう何が見えているのかもわからないような視界の中、瑞希がいる辺りに視線を向け、

 (……俺……は)

 今できる精一杯の笑顔を作り、

 (大……丈夫……で……)

 玲士は意識を手放した。



 広い室内は静けさに包まれていた。誰もいないというわけでは無く、室内には二人の学生が黙々とそれぞれの作業に没頭していた。室内に響くのは紙をめくる音とペンを走らせる音のみ。お互いに会話は一切無い。

 そんな中一人の学生が座ったまま大きく伸びをした。

 「後輩く~ん。何か甘いもの頂戴」

 しかし、その言葉に返事は無かった。少し間が空いたところでようやく返事が返ってきた。

 「生憎だが俺は甘いものは苦手だ。欲しかったらいつもの棚にあるんじゃないか」

 淡々とした言葉にようやく伸びをしていた学生——梨恵はこの生徒会室に声をかけた人物がいないことに気がついた。梨恵は今しがた自分の言った言葉を思い出して、しまったといったように悲しげな表情になる。

 「……ごめん」

 「どうして謝る必要があるんだ?」

 「いや、だって……」

 しどろもどろになっている梨恵に真司は小さく溜息をついた。あの日から目の前の友人はずっとこうだ。笑顔が少なくなりこうして落ち込むことが多くなった。仕方ないことだと分かってはいるがどうも調子が狂う。

 「やっぱり二人だけだと静かだね」

 そう言いながら梨恵は隣を見た。普段は視線の先にある椅子に座りながら黙々と作業する彼女とそれを支える彼がいるはず。それが今この部屋の中にはいない。今日は不在の二人の代わりに仕事を処理するために集まったのだ。

静かな日はこれまで何度かあったが今日はいつもと違う。まるでぽっかりと何かが欠けてしまった、そんな気がしてしまうのだ。

 「……甘いものが欲しいなら買ってきて欲しいものがある」

 「えっ?」

 唐突に真司から声をかけられて梨恵は思わず聞き返した。真司は相変わらず手元の書類に目を落としたままだ。

 「教員棟の一階にある自販機まで買い出しだ」

 「一階に?何が売ってるのよ?」

 「しるこだな」

 「しるこ?そんなの教員棟で売っていたんだ」

 真司の言葉に梨恵は少し驚いた。あまり自販機を利用する頻度は多くない梨恵だが、これまで何度か利用していたが見たことが無い。そもそも需要があるのかも疑わしい。

 「冬の時期限定での販売だ。開始時期は忘れたが一部の者から入れて欲しいと要望があったから教員棟だけで販売しているらしい」

 それは梨恵も初耳だ。要望が受け入れられたということは一定数希望者がいたのだろう。意外にも甘党の学生が多いのかもしれない。

 「ちょっと待ってよ。教員棟って一旦外に出ないといけないじゃない。なんでそんな遠くまで行かないといけないのよ」

 教員等に行くとなると一旦外に出なければならない。せっかく生徒会室で温かくしていたのに寒い外に出なければならないなんて嫌すぎる。梨恵の抗議に真司は取り合わず「さっさと行ってこい」としか返さない。

 反論を許さない真司の態度にため息をつきながら梨恵は鞄から財布だけ取り出して生徒会室を出た。


 学生棟を出て教員棟を目指していた梨恵はちらりと背後の学生棟を振り返った。

 「気を使われたかな」

わざわざ学生棟から遠い教員棟の自販機を指定し、あの真司が好きでもない甘い物を買ってきて欲しいと頼んだのだ。どう考えても気を使われたとしか思えない。とりあえず真司の気遣いに感謝しながら教員棟へ再び歩き始めた。

 学生棟と教員棟の間、中庭に入ったところで梨恵は近くのベンチに腰掛けた。十二月下旬の外は風が冷たいが今はこの冷たさが欲しかった。

 暗く沈みかけている今の気分をすっきりさせるのに丁度いい。冷たい風に当たりながら梨恵はあの日のことを思い出していた。


 クリスマス当日、梨恵は自室で受験勉強をしていたが、一旦休憩ということでベッドに横になりながらお気に入りの漫画を読みながらごろごろしていたのを覚えている。そんな中、梨恵のスマホに突然電話がかかってきたのだ。

 電話の相手は梨恵のクラスメイトで何の用かと尋ねてみれば電話の向こうから衝撃的なことを聞かされたのだった。——瑞希が救急車で運ばれて行ったのだと。

 初めは何かの冗談だと思った。あの瑞希が救急車で運ばれるなんて想像できない。冗談だと笑い飛ばしていた梨恵だったが友人の真剣な口調でようやくそれが事実なのだと理解してしまった。

 顔から血の気が引くとはまさにこの事なのだろう。電話越しに何があったのか問い詰めるが友人も詳しいことは知らないようで何があったのか知ることができなかった。

 友人に協力してもらい瑞希が運ばれた病院が分かった瞬間慌てて家を飛び出した。

 病院に到着し受付で瑞希の居場所を確認した梨恵は走りたい気持ちを必死で抑えながら急いで目的の部屋に向かった。部屋に到着し扉を開け放った梨恵が見たのは備え付けられたベッドに寝かされた大切な友人の姿だった。

 「瑞希‼」

 慌てて駆け寄って瑞希の体を揺するが一向に起きる気配が無かった時はぞっとした。見れば瑞希の服はあちこちが汚れ、肌にも傷があった。いったいどうしてこんなことになってしまったのだ。

 そんな時、背後から声をかけられ振り返ると一人の女性看護師が立っていた。彼女から話を聞きようやく事故の詳細が分かった。一台の車が瑞希のいる歩道に突っ込んできて近くにいた瑞希が巻き込まれたのだと。原因は運転中のスマホ操作。前の車が右折するために停車しているのに気がつくのが遅れてしまい、咄嗟にハンドルを切って衝突を避けることはできたが、代わりに歩行者を撥ねることになってしまった。

 後輩くんは瑞希を庇って意識不明だと聞かされた時は「どうして‼」と叫びそうになった。どうして、どうして後輩くんや瑞希がこんな目に合わなければならない!

 瑞希は病院に到着した時意識はあったらしい。しかし後輩くんにしがみつきパニック状態だったらしく周りが引き離そうとしたが、信じられないほどの力で頑なに拒んでいたらしい。

 後輩くんの治療に支障が出る為やむをえず何人ものスタッフが瑞希を押さえて鎮静剤を打つことでその場は落ち着いたらしい。眠っているのは鎮静剤の影響だと聞かされて梨恵はひとまずは安心した。

 しばらくすると瑞希は目を覚ました。また暴れるのでは危惧していた病院のスタッフと梨恵だったが、瑞希は暴れることはせず糸の切れた人形のように呆然とした状態で動こうとはしなかった。

 梨恵が声をかけても心ここにあらずといった感じでまともな会話ができなかった。


 事故からすでに二日。まだ後輩くんは目覚めない。そして瑞希もあの日から学校に顔を出していない。

 初めて彼に会った時長続きしないと思っていた。多数決で選ばれた結果仕方なく生徒会に来たのだと事前に聞かされていたし、生徒会の仕事は膨大だ。毎日紙の山と目の前のパソコンモニターとにらめっこしながら作業を進めていると気が滅入ってくる。

 梨恵はもう慣れたが新人にはなかなかに辛い仕事だと思う。これまで生徒会に入ってきて辞めていった学生の大半はこの辛さに耐えられなかった。だから今回もこれまでと同じように、しばらくしたら辞めてしまうと梨恵だけでなく瑞希や真司も思っていた。

 そんな梨恵達の考えに反して彼はいつまでも辞めることは無かった。

 「後輩く~ん。そろそろ甘いものが欲しいよ~」

 「わかりました。それじゃあ用意しますけど、笹苗先輩は今日何を飲みたいか希望はありますか?」

 逆に彼はお菓子や紅茶を用意してくれて、生徒会内にリラックスできる時間を作ってくれた。休憩時間中は他愛もない雑談で盛り上がり、必要以外のことは話さないピリピリとした生徒会を和ませてくれた彼には感謝している。

 そして一番彼に感謝しているのは心に蓋をしていた瑞希の心を救ってくれたことだった。

 あの子は誰かに頼ることはしない。すべてを一人で背負ってしまって自分一人で解決しようとしてしまう。

 付き合いの長い真司も何とかしようと努力したが結果的に瑞希の負担をわずかに軽くすることしかできなかった。それ以上を梨恵達が望んでも瑞希がそれを拒んでしまった。

 いつかは背負っているものに押し潰されてしまう。分かってはいてもどうすればいいのか梨恵達は分からなかった。そんな状態のまま問題を先延ばししていた時に彼がやって来た。

 彼は瑞希が背負っているものを率先して肩代わりするのではなく、瑞希が立ち止まりそうになったらその手を引き彼女を支えてくれた。さり気ない行動の積み重ねが瑞希の心を動かしたのだと思う。

 瑞希が後輩くんの為に料理を作ってきたと聞いた時は本当に驚いた。瑞希が誰かのために料理を作るなんて今まで無かったのだから。

 その時から二人の関係が少しずつ変わり始めていたのには気がついていた。ふとしたことで瑞希が後輩くんを頼り、彼はそれを引き受ける。

 頼り頼られる関係の中、瑞希が時折笑顔を見せる頻度が多くなっていることが何より嬉しかった。梨恵や真司はあまり瑞希の笑顔を見ているわけではないが、後輩くんは瑞希の笑顔を見慣れているのか特に気にした様子でもない。

 お互いに相手を意識し始め、生徒会長とその補佐だけの関係でなくなり始めているのにも梨恵は気づいていた。瑞希は自分の気持ちが一体何なのか理解できていないみたいだったけれど梨恵は何も言わなかった。

 彼女達は彼女達なりのペースでお互い近づいていけばいい。いずれ瑞希も後輩くんへの気持ちがはっきりと自覚する日が来るだろうと思っていたから。


 ——確かにその日はやって来た。それは梨恵の想像を裏切る最悪の形で。


 瑞希の側に彼がいるのは当たり前。そんな風に思っているのは梨恵達も同じだ。

 ベンチで俯いていた梨恵は顔を上げて空を見上げた。今の梨恵の気持ちを表すような曇り空が広がっている。

 「早く起きなさいよ後輩くん。あなたが見たいのはあの子の笑顔でしょう」

 そう呟きながら梨恵は立ち上がった。あまり真司を待たせるのも悪い。せめてもの感謝としてしるこ以外を買って帰ろう。そう思いながら自販機に向かって歩き始めた。



 ——周りで悲鳴が上がっている。

 近くにある物は倒れているか一部が壊れて同じように周辺に転がっている。おおよそこれまで経験したことも無いことが目の前で起こっており、その中心に私はいた。ウッドテラスの上で服が汚れるのも構わずその場に座り込んでいる。

 いや。既に着ている服はあちこち汚れていたり破れていたりしていて、腕や足にはいくつもの傷があり血が滲んでいる。

 一体どうしてこんなことになっているのだろう。呼吸が浅くなって息が苦しい。

 理由はある。だけど私はそれを知りたくないのか頭の中でそれを拒否している。恐怖でガタガタと体が震えているがその震えている理由も知りたくはない。

 私はその場で座り込んではいるが誰かを抱きかかえていて、腕にはしっかりとした重みがあるのが分かる。

 そんな中私の目は固まったように前だけを見ていた。下を見れば一体何を抱きかかえているのかわかるにもかかわらずだ。

 それでも私は下を見ない。いや、見たくなかった。見れば、知ればもう受け止めるしかできないから。認めなければならないから。

 だから私は決して下を見ない。見なければそうじゃないと信じ続けられるのだから。

 それでも、と心の隅では思わずにいられないことがある。


 ——もしかしたら私の勘違いなのではないか?


 この重みは「誰か」ではなくて別の「何か」なのではないかと。

 ゆっくりと顔が下がりそれと同時に視線も下を向いていく。そう。これはただの確認。勘違いだったと自分自身を笑う為に必要なことだ。

 意を決して腕に抱えていたものを見た私の表情は———絶望に染まった。

 視線の先には見知った人物がいた。何度も一緒に出掛け一緒に美味しいものを食べたりして、ついさっきまで私のすぐ傍を歩いていたはず。

 そのはずなのに今は私の腕の中でぐったりとしている。

 (嘘よ。嘘よ嘘よ‼そんなはずない‼何かの間違いよ‼)

 頭の中で必死に否定しようとしても、目の前の光景は私に現実を突き付けてくる。

 必死に否定しようとしていた私はあることに気がついた。私の手、正確には彼の肌に触れている部分が徐々に冷たくなってきている。このままだと……。

 「い、嫌っ‼」

 頭に浮かんだ考えが理解できた私はまるで冷水を浴びたかのように一気に血の気が引いていく。私は抱きかかえていた彼の体をより強く抱きしめる。こんなにも強く抱きしめているのに彼はピクリとも動く気配が無い。

 それでも私は彼の体を抱きしめ続けた。体を離せば本当に「終わり」になってしまいそうだから。

 (彼は私の!私にとって……私にとって彼は?)

 ふとある疑問が浮かんだ。私にとって彼の存在はいったい……。

 「……っ!」

 そんな時変化が起きた。今彼の体が動いた!私の願いが届いたんだ。さっき何か考えようとしていた気がするけど、今はそんなことどうでもいい。

 彼の顔がよく見えるように抱きしめていた力を緩め、体を少し離すと彼がゆっくり瞼を開いて私を見返してきた。私と目が合うといつものように優しげな表情でニコリと笑いかけてくれる。

 (良かった。本当に良かった)

 全身から力が抜け私は安堵して目を閉じながら大きく息を吐いた。息を吐きながら私は自分自身を内心笑った。

 ほら、彼は無事だ。私はいったい何を心配していたんだろう。彼が少し眠っていただけでこんなにも取り乱すなんて私らしくない。

 それにしても今回はイタズラが過ぎる。これはみっちり説教をしなければならない。

 慌てた表情ですぐに謝ってくる彼の顔が目に浮かぶ。どれだけ誤っても今日の私は許さないんだから。


 クスリと笑いそうになった時、腕の中の彼が少し重くなった気がした。


 「えっ?」

 小さな違和感に気がつき目を開けると彼は目を閉じていた。さっきまでの笑顔が幻だと思ってしまいそうなぐらい元のぐったりとした状態に戻っていた。

 ……嘘よ。

 さっきまでとは違い、頭から血が流れ落ちていき彼の右目を伝っていく。

 嘘よ。

 鼓動が自然と早くなり呼吸も荒くなっていく。全身の血が冷やされたかのように徐々に冷たいものが全身を駆け巡っていく。

 彼の肌は氷のように冷たくなっているのが私の手のひらから伝わってくる。

 嫌よ。

 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ‼

 頭の中がぐちゃぐちゃで目の前のことが理解できない。いえ。理解したくない。だってそれは、それはつまり……。

 ずるりと私の腕の中から彼の体が離れていく。知らない内に彼を抱きかかえていた力を手放してしまったようだ。それでも私は動くことができなかった。徐々に離れていく彼を私は目を見開いて見ていることしかできない。

 どさりと床に投げ出された彼は今度こそ動かなくなった。頭から血を流し、床に投げ出されている彼の目はいくら待ち続けても開かれることは無い。

 これ以上見たくないと私は両手で顔を覆った。それでも指の隙間からとめどなく雫が零れていく。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ‼

 目の前の現実が受け止めきれず、心に限界が来た私はその場で言葉にならない悲鳴を上げた。



 「いやあぁぁぁぁぁ‼」

 自分の悲鳴が部屋に響き渡り瑞希は目覚めた。目を開けると見慣れた景色———自分のの部屋の天井がそこにはある。ウッドテラスも壊れたテーブルや椅子もすべて消え去っている。

 それでも気分は最悪だ。下着やパジャマは汗でぐっしょりと濡れて肌に張り付いているし、吐き気もある。

 (またこの夢だわ)

 荒くなった息を整えながら瑞希は前髪をかきあげた。夢とわかっていても辛いことには変わりはない。見たくないと思っていても瑞希には夢を選ぶことはできないのだから。

 ベッドサイドにある時計を見て体を起こした。そろそろ起きないと遅れてしまう。

 まずはこの汗びっしょりの体を何とかしなくてはいけない。このままの姿ではとても会いには行けないのだから。


 浴室内で頭からシャワーを浴びている瑞希は、顔を上げて目の前にある鏡に映った自分自身を見た。改めて見ると酷い顔だ。目の下には隈がうっすらと出始め、無気力そうな顔が目の前にある。化粧で多少は誤魔化せるがそれでも限界があるだろう。

 (彼以外に会うつもりはないから別にいいわよね)

 いつもの瑞希なら信じられないことだし放置することは絶対にしないだろう。それでも今は別だ。今は気にすることでもないし、そんなことを気にする資格は今の瑞希にはない。

 頭から流れ落ちる温水は体を伝い、足を伝って床に流れていく。温水は汗だけでなく僅かに残っていた眠気も洗い流していく。

 頭の中がクリアになると自然と考えたくもないことも考えられるようになってしまう。

 (今日で三日)

 あの日からすでに三日も経ってしまっている。その間の瑞希はまさに生き地獄だった。

事故当日の夜は恐怖で一睡もできなかった。翌日からは眠る度に先程まで見ていた悪夢を繰り返して見てしまい、悲鳴を上げながら起きるを繰り返す。

眠るのが怖くて起き続けようとするが、ふと気が緩んだ際に意識を失うように眠ってしまって悪夢でまた起きる。多少の睡眠不足はこれまでも何度か経験しているが、これまでと大きく違うのは精神的な負担が影響していた。同じ睡眠不足でも今回はいつも以上に疲れやすくなっている。

 一体いつまでこれは続くのだろうか。明日には終わるのだろうか。それとも一週間?もしかしたらこれから先ずっと……。

 そこまで考えたところで瑞希はハッとなって頭を振り、先程までの考えを振り払った。濡れた黒髪が左右に振られて水滴が周りに飛び散る。

 (私はなんてことを考えているの)

 その考えが出てくるなどあってはならない。いや。一番考えてはいけないことだ。

 それなのに考えてしまった自分自身に嫌気がさしてしまう。もし、体がもう一つあったなら今の情けない自分の頬を全力で引っ叩くのに。

 そんな瑞希の頭に今もシャワーヘッドから出る温水が当たり続けている。せっかくだから今の嫌な気持ちも洗い流してしまおう。

 「……田宮君」

 震えた声で呟いた情けない自分自身の声も、それと同時に瞼から溢れ出てきた雫もすべて。

 浴室内はしばらくシャワーの音のみが響き続けていた


 「すみません。面会の希望をしたいのですが」

 「……わかりました。それではこちらに必要事項を記入してください」

 病院の受付。抑揚が無い瑞希の声に受付の女性は痛ましそうな表情をするが、すぐに引っ込め何事もなかったかのように手続きを始めてくれた。

 慣れてしまった申請用紙を書き終え、覚えてしまった道を進みながら彼の元へ向かう。俯きながら歩く瑞希の足取りは重い。近づくにつれて自分の背中に何かが圧し掛かってくるみたいだ。

 それでも歩みを止めない。彼の元へ行かないといけないのだから。

 目的の部屋の扉の前で瑞希は立ち止った。壁に掛けられたプレートには「303 田宮 玲士」と書かれている。

 扉の前で深呼吸した瑞希は意を決して扉に手をかけ部屋に入った。部屋は個室で彼以外はいない。狭い通路を抜けた先にある空間に彼はいた。

 「おはよう田宮君」

 彼に声をかけながら窓際に近づいていく。締め切ったままのカーテンを開けて薄暗かった部屋の中が明るくなる。

 「今日は良く晴れているけれど、少し風が冷たいからいつもより少し寒く感じるわ。今日は部屋の中で暖かくしているのが一番かもしれないわね」

 瑞希は真っ直ぐベッドまで行き備え付けられている椅子に腰かけた。できる限りいつも通りの私を心がけて彼に話しかける。

 そんな瑞希の視線の先には頭に包帯を巻き、ベッドで今も眠り続ける玲士がいた。眠り続けている彼の右手をそっと持ち上げ、両手で包み込むように握った。瑞希がこの部屋に来た時は欠かさずにしていることだ。

 彼は全身に打撲や擦過傷があるが、幸いにも骨は折れていないそうだ。それでも車に撥ねられたのだ。そのダメージは決して小さくは無い。

頭部に大きなダメージを負ったことによる昏睡状態だと彼の担当をしていた医師が言っていたような気がする。こちらも幸いなことに脳へ致命的なダメージを負っているわけではない。突き破ってはいるがテラスの周りを囲んでいた生垣がクッションとなり、ある程度勢いを殺したことで最悪の事態は免れたらしい。

 本来なら自己防衛のために身体が自然を自分の身を守ろうとするはずだったが、彼はしなかった。……いや。出来なかった。理由なんて分かりきっている。

 (私のせいだ)

 そうだ。玲士は迫ってくる車から守るために瑞希を抱きしめていた。離れないように力いっぱい抱きしめられたときの感触は今でもしっかり覚えている。そのおかげで瑞希は軽傷で済んだが、代わりに彼は昏睡という大きな怪我を負ってしまった。


 あの日、何人ものスタッフによって彼から無理やり引き剥がされ薬剤を打ち込まれたところで瑞希の記憶は一旦途切れている。

 無理矢理意識を落とされ、再び目覚めると何も考えられなくなった。まるで自分の中にある何かがぽっかりとなくなってしまったような気分だった。

そんな状態でも周りのスタッフに玲士の居場所を聞き、真っ直ぐ彼の病室に向かって誰よりも先に彼が目覚めるのを待ち始めた。

 そしてその日出会ってしまったのだ。彼の両親に……



 事故当日病院内———

 個室に移されて眠り続ける玲士の側で瑞希は彼の手を両手で握りしめながら必死に祈っていた。

(私はどんな罰でも受けます、どんなことでも嫌とは言いません。……だから早く目を覚ましてください)

 一体いつまで祈り続けたのかわからない。梨恵がいたと思うが「一人にさせて欲しい」と言ってから姿が見えない。窓から差し込む光が少し赤くなり始めたころ外の様子が騒がしくなってきた。次第に音が近づいてきてとうとう部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 開け放たれた扉を抜け早足で近寄ってきた足音は瑞希の背後まで来たところで唐突に止まった。背後の存在が気になった瑞希はようやくこの時後ろを振り返った。振り返った視線の先にいたのは医師でも看護師でもなく、一組の男女だった。

 入ってきた二人に自分の姿はどう映っていたのだろうか。事故に遭いボロボロな姿で玲士の手を握りしめている瑞希は二人を困惑させるには十分だったと思う。

 ここに来るまで走ってきたのか二人とも息が上がっている。それでも瑞希はそんなことよりも二人の顔を見ていた。二人の顔に今自分が握りしめている彼の顔が重なる。もしかして二人は。

 「失礼ですが息子——玲士のお知り合いでしょうか?」

 男性は優しげな声で尋ねてきた。彼のことを息子と言うことはやっぱり。

 「はい。玲士さんと同じ学校に通っています白峰です。もしかするとお二人は玲士さんの……」

 もう確証に近い状態だったが聞かずにはいられなかった。いや、聞かなければならない。

 「はい。玲士の父親の祐司です」

 「母親の静恵です」

 二人とも瑞希に向かって軽くお辞儀をして挨拶をしてきた。

 「っ!」

 二人が彼の両親だと分かった瞬間、瑞希は椅子から立ち上がりその場で土下座した。額を床に擦り付けるほど頭を下げ、今の私にできる最大限の謝罪をする。

 突然土下座をした瑞希に二人は大いに慌て、「突然どうされたのです⁉」「そんなことはなさらず頭を上げてください!」と言いながら駆け寄ってきて瑞希を起こそうとした。

 それでも瑞希は決して動こうとはしなかった。二人はまだ事故の詳細を知らないのだろう。本来なら自分はこの場にいることも、二人の前に顔を出すことすら許されない存在なのだ。

 「玲士さんの怪我は私が、私のせいなんです‼」

 血を吐くように瑞希は事実を伝える。

 「私が原因なんです‼私が、私が余計なことをしなければ玲士さんはこんなことにはならなかったんです‼」

 そうだ。私がすべての原因だ。私が毎週甘いものを食べに行こうと言い出さなければこんなことにはならなかった。言い出さなければ終業式が終わった後真っ直ぐ家に帰っていたはず。

 肩を震わせながらすべてを言いきると病室内には静寂が訪れた。しばらくすると祐司の落ち着いた声が聞こえてきた。

 「今回の事故のことですが詳しく話してもらえないでしょうか?なぜあなたが原因なのか私達はどうやら聞かなければならないようなので」

 名乗った時と同じく優しげな声で聞いてくるが、今の瑞希はその落ち着きようが恐ろしかった。

 優しげな声に聞こえていても、実は頭を上げた先には怒りに染まった二人の顔があるのではないだろうか。今の瑞希は二人と目が合った時どんな顔をすればいいのか分からない。


 それでも瑞希は起こった事をありのまま二人に話した。


 たまたま玲士がスイーツに夢中になっていることを知ったこと。そんな彼に影響され私自身もスーツに興味を持ち、週末の放課後に二人で食べ回っていたこと。

 今日も彼に誘われる形で買い物を楽しんだり、玲士が見つけた店で美味しいタルトを食べたりもした。そして玲士の紹介で駅前へ向かおうとした矢先の事故だった。事故の瞬間彼が身を挺して私を庇い、その結果今の状態になってしまった。

 きっかけからすべてが変わってしまったその瞬間までの事を瑞希は正直に話した。普段生徒会の関係で人前では話すことに慣れている瑞希だったが、今回は話す順序がめちゃくちゃになったり言葉に詰まったりしてしまう。それでも最後まで言いたいことを話した。

 「私が週末に食べに行こうと言い出さなければこんなことにはなりませんでした。本来なら私がこの場にいることも、お二人に直接会うことすら許されない立場なのは理解しております。それでも直接お会いして謝りたかったんです。本当にすみませんでした!」

 言い切った。これ以上言えることもできることも無い。病室内は再び静寂が満たしている。


 頭を下げ続ける瑞希の正面で祐司が大きく息を吐き出したのが分かった。これから二人の怒りを受け止めることになるだろう。

 「あなたのせいで!」「なぜ息子が!」言われるであろう内容は考えだしたらきりがない。二人にとって大切な存在を傷つけることになってしまったんだ。もしかしたら頬を張られるかもしれないが覚悟の上だ。

 宣告を待つ罪人のように震えながら頭を下げ続ける瑞希に「事情は分かりました」と祐司から声が掛けられた。

 「白峰さんのおかげで息子の玲士が何故こんなことになったのか知ることができました。そのうえで言わせてもらいますが、何故白峰さんが謝るのか私達にはわからないのですけれど……」

 「……えっ?」

 祐司の言葉を頭で理解するのに少し時間がかかってしまった。責められたわけでもなく、手を出されたわけでもない。言われたことが予想外過ぎて瑞希は間抜けな声を出し思わず顔を上げてしまった。見上げた先では二人が困ったように顔を見合わせていた。

 「な、なん……で。だって私は」

 「いや。話していただいたことはちゃんと私達は理解していますよ?でも聞いた限りだと白峰さんが責任を感じる必要は無いと思うのですよ」

 祐司は隣にいる静恵に「どう思う?」と意見を求めた。静恵は右手を頬に当てながら、

 「そうね。私もそう思うわ。別に白峰さんが玲士を傷つけたわけでもないですしね~」

 「やっぱりそう思うよな?」

 「ええ。それよりも玲士ったらいつの間にそんな積極的になったのかしら~。言ってくれたら色々とアドバイスしてあげたのに~」

 「ま、待ってください!」

 「「はい?」」

 互いに頷き合い、二人で勝手に盛り上がろうとしていたところを瑞希は慌てて待ったをかけた。不思議そうにこちらを見ている二人が瑞希には理解できなかった。どうして、どうしてそうしてそんな反応になるの⁉

 二人の会話を遮りはしたが、何を言えばいいのか考えていた瑞希にそれまで祐司の隣で成り行きを見守っていた静恵がおもむろに口を開いた。

 「白峰さん。私から貴女にいくつか質問をしますので答えてもらってもいいですか?」

 「えっ?は、はい」

 考えがまとまっていなかった瑞希は素直に静恵に返事をした。いったい何を聞かれるのだろう。

 「白峰さんは週末に玲士と美味しいものを食べに行っていたのですよね?」

 「はい」

 「今日は玲士に誘われる形で出かけていたんですよね?」

 「はい」

 「そしてたまたま歩いていたらお二人は事故に巻き込まれたのですね?」

 「……はい」

 事故の瞬間のことを聞かれた時、ずきりと胸が痛んだが瑞希は構わず答えた。

 質問に答えながらも瑞希は疑問しか残らない。静恵の意図が何なのかが全く分からない。彼女の質問はこれまで瑞希が話した内容を再確認するようなものばかりだ。

 「私からも一つだけいいでしょうか」

 意図を掴みかねている瑞希に今度は祐司からも声が上がった。

 祐司と目を合わせた瞬間彼の表情が一変した。これまでの優しげな表情は消え去り、鋭い視線が容赦なく突き刺さった。

 「貴女は意図的に玲士を傷つけようとしたのですか?」

 祐司の言葉を最初は理解できなかった。理解できた瞬間湧き上がってきたのは怒りだ。私が田宮君を傷つける?冗談ではない。いくら彼の両親であってもそれだけは聞き流せるものではない。

 「そんなことはしません‼……あっ」

 気がつけば大声で叫んでしまった。叫んだ後になってようやく瑞希は我に返った。いったい何を大声で叫んでいるのだ。相手は質問をしてきただけだというのに。

 慌てて謝ろうとした瑞希を祐司が手で待ったをかけた。先程までの鋭い視線は嘘のように消え去り元の優しげな表情に戻っている。

 「最後に失礼な質問をしてすみませんでした。やはり白峰さんは責任を感じる必要はありません」

 「どうして。だって私のせいで」

 いくら二人の言葉でもこれには納得できない。どう考えても瑞希に責任があるのは当然のはずだ。

 「貴女は玲士と共に過ごしてたまたま歩いていたら事故に遭っただけ。それなら貴女はただ巻き込まれただけに過ぎない被害者じゃないですか。そこを私達は間違えたりしません」

 凛とした表情で祐司は真っ直ぐ瑞希を見ている。そして祐司は「それでも」と言葉を続ける。

 「もちろん何も感じていないわけではありません。こうしている今も心の奥底から怒りが湧き上がってきます」

 怒り。その言葉に瑞希はビクッと体が震えた。気を緩めてしまっていた心に再び恐怖が襲ってくる。怯えた表情の瑞希を見ながら祐司は静かに首を横に振る。

 「私が怒りを向けているのは貴女や玲士を辛い目に遭わせ、感じなくてもいい罪の意識で白峰さんを苦しめている車の運転手です。貴女じゃない」

 「あっ……」

 その言葉に瑞希は俯いて耐える。心の奥底からこみ上げてくるものがあり目頭が熱くなって視界がぼやけてきた。

 そんな瑞希に静恵が近づいてきて震える肩にそっと手を置いた。

 「辛かったでしょう?でもあなたが一人で抱える必要なんて無いんです。だからもう少し自分自身に優しくなってください。玲士もきっとそう言うでしょう」


 ——会長は一人じゃないです。そんな風に抱え込まないでください


 いつの日か彼に言われた言葉が近くで聞こえたような気がした。

 「うぅ。ふ、うううううぅ」

 もう限界だった。目から大粒の涙が溢れ、零れ落ちたものが床を濡らしていく。食いしばった口からはまるで獣のような声が漏れてくる。

 泣きたいのは私じゃなくて二人のはずなのに、恨み言の一つでも言いたいはずなのに私のことを気遣ってくれる。その言葉の一つ一つが優しくてとても温かい。その温かさが私の心に染み渡っていく。

 それは心の奥底に追いやり蓋をしていた感情を呼び起こすには十分過ぎた。瑞希は心の奥に溜め込んでいたものをすべて吐き出すように声をあげて泣いた。



 「落ち着きましたか?」

 「はい。情けない姿を見せてしまいました」

 目元を赤くしながら瑞希は椅子に座り二人と向き合っていた。泣いている間二人は何も言わなかった。何も言わずにただ傍に居続けていた。

 子供のように大声で泣いたのは一体いつぶりだろう。まだ心の奥底には自責の念が残っているが、泣いたことで少し気持ちの余裕ができたのは事実だ。

 「事故のことは一旦置いておきましょう。それよりも私はどうしても白峰さんに聞きたいことがあるんですよ。勿論答えたくないことなら答えてくれなくても構いません」

 「は、はい。私に答えられることなら答えますが、何をお聞きになりたいんですか?」

 祐司の顔には興味津々だという感情が見え隠れしており、隣の静恵も同様だ。いったい何を聞かれるのだろうと不安が残る。

 「私達が聞きたいのは、先程白峰さんは玲士に誘われて今日二人で出掛けていたということでしたが、本当に玲士が自分から貴女を誘ったのですか?」

 一体何を聞かれるのだろうと身構えていた瑞希は呆気にとられた。予想外な質問に瑞希はどう答えるのが適切なのか一瞬判断に迷った。この質問にはこちらが気づいていない隠れた意図があるのだろうか。

 質問をそのままの意味で受け取るなら「はい」と答えるだけで済む話だけど、それでいいのだろうか。

 「あ~。やっぱりプライベートな質問でしたね。すみません、さっきの質問は忘れてください」

 「い、いいえ!そんなことありません!確かに私は玲士さんから今日一緒に出掛けようと誘われました」

 申し訳なさそうに祐司が撤回しようとしたので瑞希は慌てて質問に答えた。どうやら隠れた意図は無かったらしい。その程度なら隠すようなことでもない。

 瑞希の言葉に二人は顔を見合わせ「本当だったんだな」「やっぱり改めて聞いても信じられないわね」と思い思いの感想を言っているが、瑞希はその二人の感想に違和感を覚えた。

 二人の言葉はまるで玲士がこれまで誰も誘ったことが無いように聞こえる。いくらなんでもあの玲士がこれまで誰も誘ったことが無いなんて信じられない。

 「あの、それってどういう意味ですか?お二人の話だとまるで田宮君が誰も誘ったことが無いように聞こえますが……」

二人は瑞希の言葉でハッとしたような表情になり、慌てたように謝ってきた。

 「すみませんこちらだけで話を進めてしまって。そうですね。白峰さんの仰る通り、私達が知る限り玲士が自分から誰かを誘うなんてことはこれまで一度もありませんでした」

 瑞希は驚きのあまり何も言えなかった。記憶の中の彼は誰に対しても優しく接し、周りを引っ張っていくような印象を持っている。

そんな玲士が今まで誰も誘ったことが無い……?

 「そのことを話すには私達のことも一緒に話す必要がありますね。少し長くなってしまうかもしれませんが聞いてもらえますか?」

 祐司の言葉に瑞希はしっかりと頷いた。瑞希の知らない一面の玲士が知れるいい機会だ。頷いたのを確認した後、祐司はゆっくりと私に語り始めた。



 小説家である祐司と彼の専属担当であった静恵は玲士が生まれた際に自然に囲まれた静かな土地に引っ越した。都会の喧騒から離れた場所で静かに執筆活動と子育てを両立したいというのが引っ越した理由だった。

 玲士は二人の愛情をたっぷりと受け、優しい性格のまますくすくと成長していった。幼稚園児まで成長した玲士が最初に興味を示したのが、自宅にあった膨大な数の書籍だった。

 小説家という職業柄、多くの資料を持つ必要がある部分とは別に二人とも読書家な為に多くの小説が自宅の棚にぎっしりと並べられていた。自宅の壁一面に並べられた書籍を常日頃から見ていた玲士が興味を持つのは自然なことだった。

 二人はお互いに時間が空いたら玲士に絵本を読み聞かせ、玲士も喜んで二人の話に耳を傾けていた。成長するにつれて二人が読み聞かせるだけでなく玲士が自分で絵本を選んで読むことが多くなってきた。

 小学生になった後も玲士の読書熱は冷めることは無く、小学校の図書室に通い詰め読んだ本の感想を夕食の時に話す姿を見るのが二人にとって幸せな時間だった。

 時折家族で書店へ足を運び、玲士が興味を持ちそうな本を進めたり玲士が望んだ本を買い与えたりして本を読む楽しさを伝え続けていた。

 しかし、二人は気がついていなかった。玲士の中に小さな歪みが生まれていたことを。それが後に大きな後悔を生んでしまう結果に繋がってしまうことを。


 瑞希は祐司からそこまで聞いたところで内心首を傾げていた。

 ここまで聞いた内容からは特におかしなところは見受けられない。玲士の読書好きは両親の影響が大きかったのだという感想しか出てこない。そこから玲士が誰も誘わないという結果に繋がるのかが分からなかった。

 「今までの話を聞く限り何も心配することはありませんでしたよね。玲士さんが変わらず本を読むことを楽しんでいることは嬉しいことだと思いますけど……」

 子供の興味は変わりやすい。新しいものに満ち溢れた外の世界は子供にとって興味を引くものばかりだと思う。その中で飽きることなく本を読む玲士の姿は喜ばしいことだ。押し付けの価値観は時に反感を生んでしまい本そのものを嫌いになってしまう可能性があるからだ。

 「ええ、そうですね。少なくとも当時の私達も白峰さんと同じ感想を持っていました。もし玲士が本に対して苦手意識を持ってしまったら、本に囲まれた家は玲士にとって苦痛にしかなりませんでしたから」

 瑞希の言葉に祐司は自虐めいた笑みを浮かべた。いったい何がまずかったのだろう。

 「玲士が中学に進学してしばらく経った時にあることに気がついてしまったんですよ。別に会話が少なくなったとか喧嘩をしたわけではありません。むしろ夕食の時に話が盛り上がって騒がしくなったぐらいですよ」

 「……いったい何があったんですか?」

 瑞希は真剣な面持ちで尋ねた。ここからが瑞希の知らない玲士の一面を知るきっかけがあるのだろう。祐司は一拍間を空け後悔を滲ませるように言った、

 「気づいたのは本当にたまたまでした。そういえば玲士から友達のことや学校での出来事など物語以外で楽しいことを最後に聞いたのはいつだったのか、と」

 「っ⁉」

 祐司の言葉を聞いた瞬間、瑞希は寒気のようなものが体を駆け巡った。確かに中学生まで成長していながらその話題が口にされないのはあまりにも不自然過ぎる。

 祐司と静恵もようやくその時になって彼の不自然さに気がついたらしい。もしかしたら自分達の知らないところで息子がいじめを受けているのではないか。逸る気持ちを抑えながらその日の夕食時、いつもと同じように読んだ本の感想を楽しそうに話す玲士に意を決して聞いてみた。——何か我慢していることは無いか、と。

 「幸いにも玲士はいじめを受けているわけではないと聞いて。二人して安堵したのは覚えています。学校にもそれとなく探りを入れてもらったのですがいじめも無ければ交友関係にも特に変わったところは無かったそうです」

 瑞希は黙って祐司の言葉を聞いていた。ここまで聞かされると続きが気になってしまう。玲士の一体何が変わってしまったのかと。


 玲士の不自然さに気がついてから二人は本人に気がつかれないように探りを入れていた。しかし、いくら玲士の周りに聞いても本人にそれとなく聞いてもおかしなところはどこにもない。そうなると疑問が残る。何故玲士の口から友達の話が出ないのかと。

 玲士の周辺におかしなところは何もない。ならば原因は本人の中にあるのかもしれない。

 そしてとうとう二人は本人に直接聞くことにした。真剣な面持ちの二人とは対照的に当の本人は何を言われるのかわからずきょとんとしていた。

 祐司は言葉を慎重に選びながら玲士に気になったことを聞いた。

 

——何故友達のことを話さないのか

 ——何故楽しかった出来事が本の物語ばかりなのか


 玲士は「う~ん」と唸りながらこれまでのことを思い出すかのように天井を見上げた。二人にとっては長く感じた時間が過ぎていき、考えがまとまったのか玲士はようやく口を開いた。


 「だってみんなのことを見ていて何が楽しいのさ?そんなことより本を読む方がよっぽど楽しいよ」


 その言葉を聞いた二人は愕然とするしかなかった。友達と一緒に他愛もない話をしたり一緒に遊んだりすることは息子の中ではどうでもいいことに成り下がり、楽しい事とは物語の中に存在していて楽しいことを求めて本を読むようになっていたのだ。

 二人は必死になって友人の素晴らしさや一緒に遊ぶことの楽しさを伝えたが、物語の内容には劣ると言って聞くことは無かった。


 「結局私達はどうすることもできずにずるずると時間だけが過ぎてしまいました。高校進学の際に一人暮らしさせるようにしたのは多少改善していましたが、そんな現状に変化を付けさせる意図もあります。それでも気づいたのが遅かった為に玲士は他人との関わり方が分からず、上辺だけの関係止まりになってしまいました。まさか良かれと思って気にも留めずに読ませていた本が原因でこんなことになってしまうとは……」

 祐司の懺悔ともとれる内容を聞かされていた瑞希は何も言えなかった。まさか彼の過去にそんなことがあったなんて信じられなかったし、衝撃的過ぎた。

 本を読むこと自体には何の罪もない。むしろ本を読むことは良い効果がある。若者の活字離れが増えてきている中、本を読むことで日常生活では知りえなかった知識を得られることができ、読み慣れていない漢字も前後の文章から推測して読むことが可能となってくる。しかしあくまでもこれは物語。普通なら物語と現実の区別がはっきりと出来て日常への悪影響は発生しない。


 ——あくまでも普通ならば、の話だ。


 玲士の場合は現実と物語の天秤が物語側に傾き過ぎてしまって、現実の中で様々なことを学んでいくことの重要性が理解できていなかった。

 楽しいことは全て本の中にあり、物語のように日々の生活で大きく変化が出ない友人との交流は彼にとって価値が無いのだ。

 だから価値の低い友人の話が自宅で話題に上がらなかったのだろう。

 他人との交流が疎遠になるとそれはそれで問題もある。幼い頃から他人と関わることによって社交性を学び今後の人付き合いに役立つことになる。それが無いならどう相手と接していいのかもわからないし距離の縮め方も分からなくなる。だから最低限の関りしか持たないと悪循環に陥ってしまう。

 玲士の場合は興味のない現実と言う要因も重なって上辺だけでの付き合いに拍車がかかったのだろう。

 「ある程度改善はしましたが、玲士が他人に深く興味を示すことは無かったので私達も半ば諦めていました。そんな中、玲士が生徒会に入ったと知った時は驚きました。今まで興味を示さなかった玲士が何かの部活に入るなんてこれまで無かったですから」

 嬉しそうに話す祐司と同じように笑顔な静恵を見ると本当に嬉しかったのだと分かる。

 そんな二人を見ると、玲士が生贄のように生徒会に入れさせられたとはとても言えない。内心気まずくなって思わず視線を逸らしてしまった。

 「そしてまさか玲士が誰かを誘うなんてこれまでの玲士を知っていると余計に信じられなかったのですよ」

 「そ、そうだったんですか」

 そう言いながらも瑞希は別のことを考えていた。

 (田宮君の初めては私だったんだ)

 口にするといろいろと誤解が生まれそうだが今は気にしない。誘う最初の相手が自分だったことで嬉しさがこみ上げて来そうになるが、真面目な話なので表情には出さないようにする。


 それからも彼との関わりを聞こうとした二人だったが、部屋に看護師が入って来て玲士の詳しい容態を説明するということで部屋から出て行ってしまった。再び二人きりとなった病室で瑞希は玲士の顔を覗き込んだ。頭に包帯を巻き眠り続けている彼は目覚める気配はない。それでも彼の両親と話をした後では彼の見え方が少し変わった。

 拒絶するという気持ちは無い。ただ一つ気になることがある。それは瑞希自身も分からないし、彼の両親に聞いても答えはわからないから彼自身に聞くしかない。瑞希は改めて彼の右手を両手で包み込んだ。

 「ねぇ田宮君教えてちょうだい。どうしてあなたは私に興味を持ったのかしら。ただの気まぐれ?それとも何か理由があるのかしら」

 彼に語り掛けても返事は無い。返事は無いけどいつか返事が聞きたい。そう思うには十分な内容だった。


 「私達は一旦帰ります」

 二人が病室に戻ってきて最初に言った言葉がそれだった。あれだけ急いで病院に駆け付けたのにもう帰るとは解せない。どうしてそんなすぐに帰ろうとするのだろう。

 「もう帰られるのですか⁉」

 「ええ。担当医の話を聞いたら脳に後遺症が残るようなダメージがあるわけでもないようですし、目覚めるのを待つだけのようです。確かに心配ではありますけど私達は玲士が目覚めると信じているんですよ」

 「玲士の着替えも取りに行かないといけないですしね~。それに白峰さんのような美人さんに見守ってもらえるならきっと玲士もすぐに起きますよ」

 「ええ⁉」

 静恵の言葉に瑞希は面食らってどう返していいのかわからない。そんな瑞希をよそに二人は荷物をまとめている。

 上着を羽織った二人はそのまま扉に向かって歩き始めた。扉まで歩いた静恵だったが一旦立ち止まって踵返して「白峰さん」と言ってこちらに戻ってきた。

 「な、何でしょうか」

 静恵は目の前まで歩み寄ってきて真剣な顔で瑞希の顔を見た。

 「もう一度言いますが、貴女が責任を感じる必要は無いんです。だから絶対に自分を傷付けるようなことはしないでくださいね」

 びくりと瑞希の体が震えた。その姿に静恵は何も言わずにしばらく見つめ続けた後、不意に表情を和らげ「玲士のこと、よろしくお願いしますね」と言い残し今度こそ病室から出て行き、瑞希は何も返事ができず病室に取り残された。



 そして現在、瑞希は毎日病室を訪れている。二人は気にするなと言っていたが、それでも瑞希自身が納得していない。だから面会時間が始まってから終わるまでの時間ギリギリまで玲士の側に居続けている。目が覚めたら誰よりも最初に彼と話をしたい。そして謝りたいのだ。ごめんなさいと。

 そして謝りたいから目覚めて欲しいと願う一方で別の事でも瑞希は彼が目覚めるのを待っている。ベッドサイドの小さなテーブルの上に紙袋が置かれている。所々に汚れが付いていているが中身は無事だ。

それはあの日、玲士が瑞希のために選んでくれた服が入っている。最後に渡すと言ってそのまま彼が持ち続けていたものだ。まだ彼から手渡されていない。せっかく選んでくれたのだから渡すまでが彼の仕事だ。

 だから今日も待ち続ける。彼のぬくもりを両手に感じながら今日こそ目覚めると信じながら。



 吸い込まれそうなほどの暗闇が見渡す限りどこまでも広がっている。そんな中一人ぽつんと突っ立っていた。足元が僅かに見えるだけでどちらに進むべきなのかもわからない。

 そもそも何故この場所にいるのかも思考に靄がかかったようにうまく纏まらない。そもそも私は誰なのだろう。名前も思い出せない。

 だから歩き続ける。今歩いている方向が正しいのかも、どこまで歩けばいいのかもわからない。ただ立ち止まることだけはしたくなかった。


 一体どれだけ歩き続けただろうか。相変わらず周りは暗闇が広がっているばかりで変化が無い。ただ、心なしか手足の感覚が無くなってきたように感じる。

歩く方向を変えようかと考え始めたところでようやく周りの変化に気がついた。見えるものに変化はない。ただし何処からか音が聞こえてくる。音を頼りに聞こえてくる方向に向かって歩き出した。

 方向は合っているのだろう。徐々に音がはっきり聞こえてくるようになり音の正体がわかってきた。

 泣き声だ。女性の泣き声がこの先から聞こえてくる。自然と歩みが早くなり、最後は前に何があるのかもわからないにも関わらず駆けだした。

 しばらく走っているとようやく音の発生源に辿り着いた。少し離れた所に一人の女性がいる。ぼんやりと見える程度だが、こちらに背を向けて座り込んでいるのがわかる。

 女性はこちらのことを気にも留めていないのか、それとも気がついていないのか振り向こうとはしない。ただその場でずっと泣き続けている。そんな彼女の後ろ姿を見ていると何故か胸が苦しくなる。彼女のことは知らないはずなのにどうしても放っておけない気持ちになる。

 だから彼女に近づく。彼女に泣き止んで欲しいから。彼女には涙よりも笑顔の方が似合うのだから。


 ——あぁ。思い出した。俺は彼女を知っている。他人に興味を持たなかった俺が初めて関わりたいと思った最初の人物。彼女の笑顔を見るのが嬉しくそばに居たいと思った相手。

 だから俺は近付きながら手を差し出す。「大丈夫」「笑って欲しい」と言う為に。

 彼女の肩に触れる直前で俺の目の前は真っ白に染まった。



 ゆっくりと目を開けた玲士が最初に見たのは見覚えのない天井だった。いったいここはどこだろうか。少なくとも玲士がこの部屋に入った記憶は無い。

 記憶を掘り起こしていた玲士はようやく思い出した。勇気を振り絞って彼女に思いを伝えようとしたこと。そんな彼女の背後から迫ってくる車。灰色の空の片隅に映る必死な表情の彼女。

 (あれからどうなった!会長は?無事なのか?)

 慌てて起き上がろうとした玲士だったが、体を起こそうとしたところで頭部に鋭い痛みが走った。

 思わず顔をしかめ一旦起き上がるのを諦めベッドに沈みこんだ。どうやら頭に怪我をしているらしい。さっきは慌てて起き上がろうとしたから気がつかなかったが、体も少し重く感じる。

 それでも気を失った後どうなったか玲士は知りたかった。最後に見た瑞希は無事なように見えたが、見えたのは顔だけで怪我の具合は見えなかった。

 見た所ここは病院のようなので医師や看護師なら彼女の怪我も知っているだろう。改めてゆっくり起き上がろうとした玲士はふとその動きを止めた。右手に違和感がある。違和感があると言っても感覚が無いというわけではなく、いつもより右手が温かく感じる。何かがベッドの上にあるのか重みもある。

 ゆっくりと頭を動かし右手のある辺りに目を向けると違和感の正体が分かった。瑞希が眠っている。それも玲士の右手を握りしめたまま玲士に掛けられた布団の上で突っ伏すように眠っていた。深い眠りに入っているのかさっきまで玲士が体を動かしたことにも気がつかずに眠り続けている。

 それでも瑞希は大きな怪我をしていないと分かっただけでも十分だ。良かった。本当に良かった。

 天井を見ながら安堵していると眠っていた瑞希に変化があった。突然跳ね起きた瑞希はベッドから体を起こしたが様子がおかしい。呼吸は荒くその顔は恐怖で表情が引き攣っている。余程恐ろしい夢だったのだろう。

 周りに意識が向かないのか目覚めている玲士には気がついていない。声をかけようにも恐怖に染まった瑞希に声をかけるのはなんだか躊躇われる。

 どうしたものかと悩んでいた玲士だったが不意にこちらに視線を向けた瑞希とばっちり目が合った。

 「……田宮、君?」

 「はい。おはようございます会長」

 信じられないといった風に目を見開いてこちらを見つめている瑞希に、玲士はできる限り普段通りに笑いかけた。

 「田宮君!大丈夫なの⁉怪我は⁉どこか違和感のある場所はあるかしら⁉」

 「ちょっ⁉会長ちょっと落ち着いてください!」

 瑞希は弾かれた様に玲士に近寄り必死の形相でこちらの容態を聞いてくるが、あまりの必死さに玲士は驚くばかりだ。

 「車に撥ねられたのよ⁉落ち着いてなんかいられるわけないじゃない!どうなの、大丈夫なの⁉」

 「はい。俺は大丈夫ですよ。だから会長も落ち着いてください」

 瑞希を落ち着かせるようにできるだけゆっくりと話す。迫るように身を乗り出していた瑞希はその言葉を聞くと玲士から体を離し、力が抜けたように椅子に座り込んだ。

 そしてそんな瑞希の目から大粒の涙が溢れ出して玲士は焦った。

 「か、会長⁉」

 「よ、良かった。田宮君が無事で。わ、わた……し田宮君がめ、目覚めないかもと思って……し、心配で……」

 右手で涙を拭いながら話す瑞希の姿に玲士は心が痛んだ。笑って欲しいと思っていたのに泣かせてしまうことになり随分と心配をかけてしまった。

 「心配かけてすみません。俺はこの通り大丈夫ですから泣かないでください。会長には泣いてほしくないです」

 「それならあんなことは二度としないで!私が泣かないように努力しなさい」

 「また無茶な要望ですね」

 瑞希は怒ったように玲士に文句を言う。瑞希はああ言っているが玲士はこれについては約束できかねた。きっと同じような状況になったらきっと今回と同じ行動をするだろう。目の前で瑞希が傷つくのは見たくない。

 「あの時、私を安全な方に突き飛ばすだけでよかったでしょう。どうして庇うようなことをしたのよ」

 「あの時はそれしか選択肢が無かったんですよ。車がどっちに向かうかわからなかったので」

 瑞希の背後から迫って来ていた車はかなりの速度が出ており、縁石に乗り上げてバウンドしていた影響からなのかどっちに向かうかが判断できなかった。下手に突き飛ばした先に車が向かってきたら目も当てられない結果になってしまう。

 それでも何もしないわけにはいかないので最終的に玲士がとった方法は自分の身で庇うことだった。


 ずっと寝たままの状態で話すわけにもいかないので瑞希に支えられながら玲士は体を起こした。背後の壁を背もたれにしてようやく瑞希と同じ目線で話せる。

 体を起こした玲士だったが瑞希が何か言いたそうにしている。しかし言い出せないのか目の前でそわそわと落ち着かない。

 「あ、あの田宮君。私は貴方に謝らないといけないわ」

 「謝る、ですか?会長が俺に?」

 頷く瑞希に玲士は首を傾げた。瑞希から謝ってもらうことなど玲士には思いつかない。

 「私が毎週放課後に一緒に食べに行こうと言い出さなければ田宮君が怪我をすることは無かったわ。全部私が……」

 「ちょっと待ってください会長。それは違います」

 瑞希が何を謝ろうとしているのか分かった玲士は、瑞希の言葉を遮った。それに関しては瑞希が謝る必要は無いはずだ。

 それでも瑞希もそう簡単には引き下がらない。

 「違わないわ。私が毎週行こうと言い出さなければ田宮君は事故に遭わなかったはずだもの。それなら言い出した私に責任はあるわ」

 しかし、玲士も引き下がるつもりはない。

 「あの事故は偶然巻き込まれたものだったでしょう。それに今回はこれまでと違って放課後の時間帯じゃないですし、気にするものではありません」

 それでも瑞希は「でも」と言い募ろうとしている。これは相当責任を感じている。おそらく玲士が意識を失うほどの怪我を負ってしまったのも大きく影響しているのだろう。

 しかし、今回の事故は本当に偶然巻き込まれたようなもので瑞希が責任を感じる必要などどこにも無い。

 だから玲士は事故以外のことに焦点を当てた。

 「会長は俺と一緒に服を選びに行ったのを後悔しているのですか?俺と一緒にタルトを食べたのも無かった方が良いと?」

 「そんなことは無いわ!一緒に行けたのは良かったと思っているし後悔も無いわ!」

 「……ならいいじゃないですか。後悔が無いならあの日の行動は無駄じゃないと言えます」

 鋭い目つきでこちらを睨んでくる瑞希に若干圧されそうになった玲士だったが、ここで負けてはいけない。

 負けてしまえば瑞希はこれから先、誰とも関わらなくなってしまう。誰かを傷付けてしまうからと怯えてしまいこれまで以上に孤独になってしまう。そんなことを玲士は望んでいない。

 二人で一緒に過ごした時間に関して後悔が無いと言っているのだから瑞希自身は一人になりたいわけではないのだろう。一緒に過ごしてよかったと思っていることは玲士にとっても嬉しく思う。

 玲士の説得に瑞希はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は何も言いださなかった。言ってしまうと先程の「後悔は無い」という言葉を否定することに繋がってしまう。だから瑞希は何も言えない。


 それからは事故で気を失った後のことを瑞希から順に聞かされていた。まさか事故からすでに三日も経過しているとは思わなかったため玲士は驚きを隠せなかった。一方で目覚めた時の体の重さにも納得した。三日も眠っていたら体が重くなるのは当たり前だ。

 そして玲士の両親とも会っていたことに関しても驚いた。どんな内容を話したのか詳しくは教えてくれなかったが、まさか昏睡状態の息子を瑞希に任せて二人とも帰ってしまうとは思わなかった。なんと自由過ぎる二人なんだ。

 今日までの出来事を聞き終えた玲士は瑞希の様子を観察した。瑞希は玲士が目覚めた時のような焦りは既に無く、いつも通りのリラックスした状態になっている。

 (今言うべきか?でもこの場で言うのは仕方ないとはいえ思っていたのと違うしなぁ)

 しかし、怪我の程度はわかっていない為いつ退院するかわからない。ならば言うのは早めの方が良い。瑞希にとってはあれから三日経過しているが、玲士からすると事故からまだ一時間も経過していないことになる。

 だからあの時の気持ちもその決意も色褪せていない。

 だからその決意を改めて口にしようと思ったところで、玲士より先に瑞希が先に口を開いた。

 「ねぇ、田宮君に聞きたいことがあるのだけどいいかしら?」

 「聞きたいことですか?」

 「ええ、田宮君のご両親から聞いたわ。田宮君があまり他人と関わろうとしていないって」

 「ちょっ⁉そんなことを話したんですか⁉」

 瑞希の言葉に玲士は流石に慌てた。これはあくまでも玲士個人の問題であり、他人に話すようなことではないし、両親の行動は許されるものではない。それを知られることで変に同情されたり距離を開けられることを玲士は望んでいない。

 しかも今回の相手は瑞希だ。

 「ごめんなさい。田宮君からすると知られたくないことだというのは理解しているわ。それでも私は田宮君にどうしても聞きたいことがあったの」

 瑞希が申し訳なさそうに謝っているのを見て玲士は一旦両親に対する怒りをひっこめた。正直、知られてほしくないことだったがそんな玲士の過去を知ってでも瑞希が玲士に聞きたいことの方が気になった。

 「田宮君はどうして私と関わろうとするの?こんな私にわざわざ関わろうとするのは何か理由があるのかしら」

 「理由、ですか……」

 弱弱しく聞いてくる瑞希に玲士は瑞希の言葉にどう答えたものかと考えた。当時の玲士は自覚していなかったが、今は瑞希に対しての気持ちははっきりしている。だからこそ玲士は瑞希からの問いに答えるために口を開いた。

 「会長。あの日、事故が起きる前に俺が何か言いかけていたのは覚えていますか?」

 「田宮君が?そういえば何か言おうとしていたわね。何を言おうとしていたのかしら?」

 あの日と同じで瑞希は玲士が何を言おうとしているのかわからないようだ。けれどそれでいい。あの日言うつもりだったことを今言うのだから。

 「会長。俺は会長のことが好きです」

 「…………えっ?」

 返事までに随分と間があった。言われたことが予想外過ぎたのか呆気に取られている。

 「俺に見せてくれる笑顔やケーキを食べる時の幸せそうな表情、責任感のある姿もひっくるめて会長のことが好きです。勿論生徒会長としてではなく、一人の女性として俺は会長のことが好きです。

 好きだから少しでも会長と長く一緒にいたいんですよ」

 言い終えた玲士を瑞希は先程と同じ表情で見続けていた。しかし、次の瞬間玲士にもわかるほどに一気に顔が赤くなった。その姿は普段の瑞希からは想像できないため何だか可愛らしく見える。

 瑞希は「ちょ、ちょっと待って」と言って玲士から顔を背けた。顔を背けた瑞希はブツブツと何か呟いており、「どうしよう、どうすればいいの」と辛うじては聞こえたがそれ以外は何を言っているのか聞き取れない。

 瑞希は玲士の顔をまともに見ることができないのか右手を玲士の方に突き出し、

 「だ、駄目よ!私なんかが田宮君の、その……か、彼女にふさわしいとは思えないわ!田宮君にはもっとお似合いの人がいるはずよ」

 瑞希から拒絶されたのはショックだったが、玲士は表情には出さずできるだけ平静を装った。今はまだ決めつけるのは早計過ぎる。

 「ちなみにどうして会長がふさわしくないと思うのですか?」

 「だってほら、私は不愛想だし……」

 「会長は俺と一緒の時よく笑っているじゃないですか」

 「ええっと、彼女らしいことなんて私知らないし、できるとは思えないから……」

 「俺だって誰かと付き合ったことが無いのでどうすればいいのかわからないですよ。だから会長と一緒です」

 「うっ。……そうだわ。私は料理が得意だから!」

 「そこはむしろアピールできるポイントですよね?」

 目の前であたふたとしている瑞希は理由の内容をしっかり理解していないのだろう。最初はしっかりとした理由があったが、次第に内容に統一性が無くなってきて拒絶とは正反対のことを言い出すまでになっている。

 それでも玲士は瑞希の言葉をそのままの意味で受け取らない。瑞希の言葉には彼女の気持ちが入っていない。言葉だけのハリボテだ。

 それに、と玲士は思う。彼女はずっと自分の気持ちを表現し続けている。本人は気づいていないのかそれとも無自覚なのかわからないが、行動で今も示している。

 瑞希は必死に考えを巡らせているのかこちらが呼び掛けても反応しない。だったら——

 「白峰さん」

 効果ははっきりとあった。ずっと考えに没頭していた瑞希だったが、こちらが優しく名前を呼ぶと、すぐさま反応してこちらに振り向いた。その顔には信じられないといった感情が出ている。実際玲士自身も名前を呼ぶことは初めてなので、違和感があったし恥ずかしさでなんだかむず痒い。

 それでも変に考えを巡らせている彼女に言っておかないといけない。

 「俺にふさわしいとかふさわしくないなんて関係ないんです。俺はただ単に会長が俺のことをどう思っているか聞きたいんです。だから自分の気持ちに正直になってみてください。——この左手のように」

 「っ⁉」

 玲士の視線の先と言っていることが理解できたようだ。瑞希が行動を起こす前に玲士は自分の右手をぎゅっと握りしめた。当然玲士の右手に握っているものは離れることができなくなる。

 「……田宮君、放してくれないかしら」

 「これまで放さなかったのは会長でしょ?俺はずっと握っていたわけじゃなかったので抜け出したいなら抜け出せたはずです」

 「そ、それはそうだけど……」

 瑞希は視線をさまよわせ、どう言い訳をしたものか考えている。

 そう。瑞希の左手はずっと玲士の右手を握りしめたままだった。目覚めてから指摘するまでの間、涙を拭ったり玲士の告白を聞いてしどろもどろになった時も左手はずっと玲士の右手をしっかりと握りしめたまま離さなかった。

 それこそが彼女の偽りのない本心ではないだろうか。

 「……初めは何とも思っていなかったわ」

 しばらく見守っていた玲士だったが、不意に瑞希が口を開いた。

 「嫌々で生徒会に来たのはわかっていたから、これまで入ってきた人達と同じように途中で嫌気がさして出て行くと思っていたの。……でも田宮君は残ってくれた」

 「はい」

 「これまでずっと一人が当たり前だったのに、いつの日からか田宮君に頼るのが当たり前にだと思うようになって、一緒にいるのが楽しく感じられるようになったの」

 「はい」

 瑞希は思ったことを口にしている間、玲士は相槌を返すだけだ。今は瑞希の言いたいことを言わせよう。

 「正直に言うと文化祭が終わった後も残ってくれると言ってくれた時は本当に嬉しかったわ。それまでの時間がとても楽しかったのにまた何もない日の戻っちゃうなんて私には考えられなかった。出来れば残って欲しいと言いたかったけど、田宮君に無理は言えないと思っていたから結局は言い出せなかった。

 週末の事もそう。田宮君と一緒にいたら何かを見つけられると思ったの。私がこれまで見向きもしなかった何かに。……でも、」

 瑞希はそこで一旦声を詰まらせた。肩が震え握っている左手にも自然と力がこもっている。

 「あの日、田宮君が眠り続けてしまってから私は怖くなったの。もう二度と田宮君と一緒にいられないかもしれないって。もう二度と田宮君の声を聞けなくなるかもしれないって。そんなこと考えたくもなかったし、胸が苦しくなったわ」

 それに関しては玲士も同じ気持ちだ。逆の立場になってもし、いきなり瑞希のそばにいられなくなったり、話をすることができなくなるなんて今は考えられない。これからもずっと心地よい時間を作っていきたいと考えてしまう。

 実際瑞希はその可能性を捨てきれなかったのだろう。そう考えると瑞希にはとても申し訳ないことをしてしまった。

 「だから今日田宮君が起きてくれたのは本当に嬉しかった。また声が聞ける、話ができるのだと今も実感できるから。

 そして、さっきの……えっと、わ、私を好きだって言ってくれたことは本当に驚いたわ。田宮君が私のことをそんな風に思っていてくれたなんて。そ、その嬉しいわ。言われてからなんだか胸の辺りがぽかぽかと温かいような気がするの」

 右手を胸に当て瑞希がそわそわしている。先程まで悲しそうに肩を震わせ落ち込んでいたが、今は「好き」の単語が出てきた辺りから顔が真っ赤になっている。

 玲士も同様でなんだか体が熱く感じてしまう。改めて自分は瑞希に告白したのだと実感させられる。

 「だから私も田宮君のことが好き——なんだと思う。この気持ちが単なる好きなのか恋愛としての好きなのか私自身がまだうまく確証が持てないの。……そんな中途半端な私でも田宮君はいいのかしら?」

 「そちろんですよ。今は自信が無くても、これから理解していけばいいんです。そして俺も会長が自分の気持ちに自信が持てるように努力します」

 これは玲士自身の努力も必要だ。ただ相手を待つのではなくこちらも相手から好きになってもらえるようにならなくてはならない。お互いの歩み寄りが本当の恋愛に繋がるのだから。

 「さっきも言ったけれど私は恋愛について何もわからないわ。彼女らしくどう振舞っていいのかもわからないし、これまでと何も変わらないかもしれない」

 「無理に変わる必要なんて無いんです。俺は会長の今の姿を見て好きになったんですから」

 「もしかしたら嫉妬深いかもしれないわよ?文化祭で田宮君が他の女子と仲良く話しているのを見た時、どうしようもなく不愉快な気持ちになったの。もしかしたら私のわがままで田宮君が嫌な気持ちになるかもしれないわよ」

 「会長からヤキモチを焼かれるなんて嬉しいです。そんな一面を見られることに嫌なんて言いませんよ。むしろヤキモチ焼いている会長を見てみたいです」

 ヤキモチを焼いて少し膨れっ面になっている瑞希は想像するととても可愛らしく思える。いったいなそれのどこに不満があるのだろう。それだけ瑞希が玲士のことを気にかけている証拠だ。

 だから玲士は改めて言おう。自分の気持ちを、そしてこれからのために。

 「白峰さん。俺は貴女のことが好きです。俺の彼女になってくれませんか」

 「……はい。私も田宮君のことが好きです。田宮君の彼女にしてください」

 幸せそうな瑞希の目からは一筋の涙が零れた。しかし、その涙は悲しみではなく嬉しさの涙だ。

 恋人同士となった今、二人はどちらからともなく笑い合った。ようやく自分の気持ちを素直に伝い合うことができた。これほどに嬉しいことは無い。


そんな二人の病室の扉をノックする音が聞こえた。

 「失礼しま~す。白峰さん、田宮さんの具合はどんな感じ……です……か」

 「うん?」

 入ってきたのはどうやら看護師の女性だった。ただ、女性は玲士の顔を見るなりその場で立ち止まり玲士の顔を凝視している。そして徐々にだが、後ろに下がり始めているのは何故だろう。

 「す、すぐに戻ってきます!だからどうかそのままでいてください。いいですね⁉」

 そう言って看護師の女性は入って来た時以上の速さで慌ただしく部屋から飛び出して行った。廊下の方から「安西先生!安西先生はどこですかー‼」と女性の声が聞こえてくる。……病院では静かにしなさい。

 「そういえば、田宮君が起きたらすぐに知らせるようにって言われていたのを忘れていたわ」

 「えっ⁉」

 たった今思い出したといったような瑞希の言葉に玲士は硬直した。それは一番忘れてはいけないような気がするのは気のせいだろうか。

 看護師が驚くのも無理はない。部屋に入ると眠っていると思っていた人物が目覚めた上に会話をしているのだから。

 「でも構わないわ。田宮君とたくさん話ができる時間が作れたから、それに比べたら些細なことよ。おかげで田宮君の彼女になれたのだから」

 特に気にした様子もない瑞希はよっぽど彼女になれたことが嬉しいのだろう。嬉しそうな瑞希の笑顔を見ると看護師の女性には申し訳ないが、玲士も後回しでも良かったと思えてしまう。

 「それじゃあ、一緒に先生を待ちましょうか会長」

 「……嫌」

 「え?」

 突然瑞希はプイっと玲士から顔を逸らしてしまった。なんだか機嫌が悪くなっている気がする。

 「どうしたんですか会長?」

 「呼び方」

 「呼び方ですか?」

 「こ、恋人同士になったのだから会長なんて呼び方は嫌よ。私のことは名前で呼んでちょうだい」

 顔を赤くし、顔を背けたまま名前を読んで欲しいと瑞希に言われた玲士は反省した。いつまでも会長と呼んでいたらこれまでと何も変わらない。二人の関係に変化があったのだから呼び方も変えていくべきだろう。

 「すみません。これからよろしくお願いします。——瑞希」

 瑞希のことを名前で呼ぶのはどうも気恥ずかしいがこれは慣れていくしかない。

 玲士の呼び方に満足したのか、瑞希は背けていた顔を戻し満面の笑みを浮かべた。

 「ええ。私もよろしくね。玲士!」


 部屋の外で複数の足音がこちらに向かって近づいてくるのが聞こえる。走っているのか音が近づいてくるのが早い。探していた安西先生なのかもしれないがもう少し静かに来たらいいのに……。

 「どうやら騒がしくなりそうですね」

 「ふふっ。みんなどんな反応をするのかしらね」

 二人は繋いだ手をお互いきゅっと握った。大切な人と一緒なんだ。一緒にいればどんなことも乗り越えられるだろう。そう思いながら二人が待ち続ける病室のドアが勢いよく開かれた。



 月日はあっという間に過ぎ去っていき、蒼西高校の敷地のあちこちには人が集まり賑わっていた。

 「会長卒業おめでとうございます」

 「ありがとう。あれから長かったようで短かったような感じだわ」

 玲士から花束を受け取った瑞希は照れくさそうにこちらを見ている。

 今日は蒼西高校の卒業式で瑞希は卒業する。梨恵や真司も瑞希の近くでクラスメイトと写真を撮ったり話したりして楽しんでいる。

 そういう玲士や瑞希の周りにも何人もの生徒が集まっていた。冷たい印象を持たれていた瑞希だったが、どうやら秘かに人気があったらしく祝いの言葉を伝えるためにこうして集まったわけだ。

 ちなみに玲士は瑞希のことを学内では変わらず「会長」と呼んでいる。これまでの呼び方に慣れ過ぎてなかなか抜けきれないこともあるが、瑞希も学内では生徒会長としての一面が出るので玲士のことを「田宮君」と呼んでいるが、二人きりの時や学外では名前で呼び合っている。その為未だに周りは二人が付き合っていることを知らない。

 「それよりも田宮君は体の方はもう大丈夫なのかしら」

 「ええ。もうすっかり元気ですよ」

 玲士はアピールするように腕を回したり体を捻ったりした。



 病院で二人が恋人同士になった日から今日までかなり慌ただしい日々が続いた。

 あれから玲士は駆け付けた医師や看護師によって様々な検査を受けさせられた。玲士が目覚めたことをすぐに伝えなかった瑞希が怒られるのではないかと心配していたが杞憂だったようで、医師は玲士が目覚めたことを喜んでくれた。

 目覚めたことで隼やクラスメイト達が続々と見舞いに訪れ毎日病室が騒がしくなった。見舞いにはあの洋菓子店の男性もタルトを片手に来てくれて、「無事でよかった」と玲士の無事を喜んでくれた。

 入院生活の中で一番騒がしくなったのは両親が来た時だった。瑞希と一緒に病室で話している姿を見た静恵は開口一番、

「あらあら~。とうとう結ばれたのね!おめでとう~」

 と、まだ何も言っていないのに勝手に納得されてしまった。それからは二人から「きっかけはやっぱり生徒会に入った事なのか」とか「玲士のどこが好きなのか」など玲士の容態は後回しで勝手に盛り上がり、祐司に関しては「参考に二人はどんな風に恋人になったのか教えてくれ」と言い出し、瑞希も律義に答えようとするから恥ずかしさのあまり必死に止めようと苦労した。

 車に撥ねられ三日も意識を失っていたこともあり、退院は年明けになると瑞希に伝えた時は「玲士の面倒は私が見る」と言い出したが玲士はその提案ははっきりと拒否した。入院と言っても怪我はそれほど大したことは無い。受験もラストスパートになる中でこちらに時間を割くのは嬉しいが、疎かにしないで欲しいと時間をかけて説得し、瑞希は渋々ながらも納得してくれた。

 それでも頻繁に会いに来てくれる分には瑞希の望むままにしておいた。特に病室で何かをするわけでもないが、時間の許す限り玲士の隣に座ってぴったりと寄り添うのが彼女の日常になるほどだ。

 無事に退院し瑞希の受験も見事合格した際には合格祝いであの洋菓子店に行ったりもした。事故を思い出すことを心配していたが、既に瑞希の中で折り合いをつけて納得していたから内心ほっとした。



 「なら、安心して任せることができそうね。頑張ってよね、新しい生徒会長」

 「正直不安なところはありますけどね。それでも会長と学園長が負担を軽くなるように動いてくれたのはありがたいですよ」

 瑞希という存在がいたことでこれまでの生徒会は維持できていたが、その瑞希がいなくなると後を任される玲士の負担は相当なものになるのは目に見えていた。そんな中最初に動いたのは瑞希だった。

 学園長の部屋に赴き、どうにか生徒会の負担を減らせないかと直接相談しに行ったそうだ。元々瑞希の方から生徒会の仕事を増やしたことなので何を今更と言われると思っていたが、以外にも学園長は瑞希の提案を快く承諾してくれた。

 学園長はどうやら瑞希が生徒会長になった時からすでに卒業後のことを見据えていたようで、職員の仕事に余裕が生まれた分、これまで抱えていた問題を秘かに解決していき生徒会の仕事の一部を引き受ける土台作りを進めていたらしい。

瑞希の卒業後は再び職員に仕事の一部を割り振らせると職員会議で発言した際は当然反発があったようだ。「彼女が自分から私達の仕事を奪っていったのだろう」「卒業したら私達にお願いするなんて自分勝手すぎる」「私達にもやるべきことはあるのだからそんな余裕はない」などが主な理由だったらしい。

 様々な反発の意見を静かに聞いていた学園長は途中で口を挟まず最後まで聞く姿勢のままだったらしい。意見が出尽くしたところで学園長は静かに、しかし明らかに怒りを滲ませながら口を開いたらしい。——何を偉そうに言っているんだ?と。

 「あなたたちの意見は理解しています。理解していますが、そもそも彼女が私達の仕事を引き受けたのは古い慣習や間違った認識のせいで本来の運用ができていなかったことが原因でしょう。私達がするべきことを彼女がすべて解決してくれたことに感謝するべきであり、責める資格なんてどこにあるというのですか?皆さんはやるべきことがあると言いますが、私が知る限りでは皆さんいつもよりだいぶ早く帰宅されているのにそれでも余裕が無いと?職員全員で割り振れば一人の負担は相当軽いと思うのですが、それでも余裕が無いのなら私にその仕事を回しなさい。私も彼女に面倒ごとを押し付けてしまった責任があるので喜んで仕事を引き受けましょう」

 学園長のこの発言にはさすがに誰も反論できなかったようで、そのまま瑞希が引き受けていた作業の一部が職員に移行されることになった。勿論以前のように一部の者が優遇されることが無いように管理体制も見直されたらしい。

知らないところで助けられていた瑞希と玲士はただただ感謝するしかなかった。

 負担が減ったことで生徒会には何人かメンバーが入って来ている。今は玲士が新メンバーに仕事内容を教えているような状態だ。


 長かった卒業式も終わりが近づき正門前には多くの学生が集まっている。正門を出たところに卒業生が、内側には玲士達在校生が見送るような形が自然と出来ていた。

 そして卒業生の最後の一人として瑞希が最後まで残っていた。代表として玲士がみんなより少し前に出て見送る形になる。

 「私がとうとう最後になるのね」

 瑞希は玲士の背後にある校舎を見上げてしみじみと呟いた。彼女にとってこれまでの高校生活はどんなものだったのだろう。

 「寂しいですか?」

 「確かに寂しいわね。それでも楽しかったと思っているわ。私にとってそれだけ思い出のある場所に違いは無いんだから」

 「それなら笑って卒業できますね」

 瑞希にとっては生徒会の仕事がすべてなのではと思っていた。でも今の言葉を聞くと生徒会以外でもきっと素晴らしい思い出が瑞希の心の中に大切に残っているのだろう。それを聞くと玲士も自分の事のように嬉しい。

 「ほら、向こうで笹苗先輩や宮川先輩たちが待っていますよ。会長は早く皆さんの所に行ってください」

 玲士に促されてようやく瑞希は正門に向かって歩き出した。玲士の後ろからは「ありがとうございました~」と卒業を祝う言葉が聞こえてくる。

 「会長が卒業してしまう……」

 「俺達の女神がいなくなったら残りの高校生活をどう過ごしていけばいいんだ」

 「俺、絶対会長と同じ大学を目指してやるんだ!」

 「止めとけ。お前の成績じゃどう頑張っても行けないぞ」

 何やら背後から聞き捨てならない言葉が聞こえる。聞く限り瑞希の隠れファンは案外多いのかもしれない。出来ることなら後ろの男子達に言ってやりたい気持ちになってしまう。


 ——瑞希と俺は付き合っていているのだと。


 別に隠しているわけではないのだが、瑞希が付き合っていると公言していないため玲士が勝手に言うのは憚られる。ここは大人しくしているしかない。


 瑞希が正門を抜け、あと少しで卒業生達の輪の中に入ろうとしていたところで不意に歩みが止まった。卒業生達も玲士達もどうしたのかと不思議そうに瑞希を見ている。

 その場の全員の視線が集まっている瑞希は花束などが入った紙袋を足元に置いて、玲士の方を振り返り大声を出した。

 「田宮君ちょっと来てくれないかしらー」

 「どうしたんです?」

 「いいから。ちょっと来てちょうだい」

 その場から動く気が無いのか瑞希は手招きしたままだ。とりあえず玲士は小走りに瑞希の所まで駆け寄った。

 「どうしたんですか?」

 「これから一年私がいない中、玲士が他の子に気持ちが移らないか心配になってしまったの。どうしたらいいかしら」

 「そんなことあるわけないじゃないですか!信じてくださいよ」

 玲士だけに聞こえるように声を落として話す瑞希に、玲士も同じように声を抑えて言い返した。二人だけの会話なのでお互い相手の呼び方が名前に変わっている。いったい何事かと思えばまさかの内容に玲士は力が抜けそうになった。今ここで言うことでもないだろうに。

 「わからないじゃない。玲士って意外にも人気あるみたいだし、優しくされたらコロッと気が変わっちゃうかもしれないじゃない。一年後には私と同じ大学に来るつもりだけど私は心配だわ」

 瑞希の大学には一年後玲士も受験することになっている。これはただ瑞希の傍に居たいというだけで決めたわけではなく、玲士の将来も考えたうえでの判断だ。

 瑞希は経営を学ぶ為だが玲士は文系の道を選び、将来はそれに関係する仕事を選びたいと思っているが詳しい職種までは決まっていない。仕事に関しては大学でゆっくり考えていけばいいだろう。ただ、トップクラスの名門校ではなくてもそこそこの成績は必要になるので、この一年は受験勉強に集中しないといけないだろう。

 もちろん瑞希と学内で会えない分、休日は一緒に過ごすつもりだ。

 「どうしたら信じてもらえるんですか?」

 言葉だけでは信じてもらえないとなるとどうするべきか玲士には思いつかない。

 「あら簡単よ。みんなにわかりやすいように示せばいいのよ」

 「みんなに宣言でもするんですか?」

 瑞希なら生徒全員に指をさしながら「玲士は私の彼氏なんだから手を出さないでね」と言い出す姿が容易に想像できる。玲士は特に気にしないが瑞希の隠れファンから恨まれそうなのが少し怖い。だからと言って瑞希と別れるつもりは毛頭無いが。

 「そういえば、玲士には生徒会長になってもらったのにお礼をしていなかったわね」

 「?。確かにそうですけど別にお礼目当てで生徒会長になったわけじゃないですよ」

 「わかっているわ。でもせっかくだから受け取ってもらうわ」

 唐突に話題が変わったことに玲士は戸惑ったが瑞希は何をするつもりだろう。

 お礼を受け取ろうとしたが何を受け取るのかわからなくて玲士は周りをきょろきょろと見渡した。何を話しているのか気になるようで全員が聞き耳を立てているが、内容が聞き取れず興味津々だ。

 「お礼って一体何ですか?」

 そう言った玲士は気になって瑞希に尋ねた。言い出した瑞希は微笑んだままじっと玲士を見ているが何かを取り出したりする気配が無い。

 「これがお礼よ」

 そう言って瑞希がふわりと近寄って来たのに玲士は反応しきれなかった。玲士の首に瑞希の両手が回され彼女の顔が近づいてくる。

 「⁉」

 気がつけば瑞希が行動した後だった。玲士はその行動に何も言えない。——言うことができなかった。

 玲士の視界いっぱいに瑞希の顔があり、唇には柔らかいものが触れているのが分かる。その様子に辺りからは様々な声が上がったが玲士は目の前のことで頭がいっぱいだ。思考が停止し、幸せ過ぎて脳が溶けていきそうだ。

 どれだけの時間そうしていたのかわからない。それでも決して短いとは言えない時間が過ぎた後ようやく瑞希が顔を離した。ただ唇を合わせていただけ。それでも玲士にとってはファーストキスであったし、まだ唇には柔らかな感触が残っているみたいだ。

 「み、瑞希。これって」

 「ふふっ。お礼にしては十分過ぎたかしら?もちろんこれから頑張ってもらうのだからその励ましもあるわ」

 思わず口を開いたがうまく言葉が出てこない。瑞希はイタズラが成功したように嬉しそうだが、今の瑞希はいつも以上に色っぽく見えて思わず見惚れてしまう。

それでも瑞希の行動は予想外過ぎた。てっきり宣言程度だろうと思ったがまさかみんなが見守る中で堂々とキスをするなんて誰が予想できるだろう。

 そして瑞希は「それに」と言葉を続け、

 「玲士が誰かに取られちゃうかもって思ったら我慢ができなくなっちゃったわ。心配しなくてもここは学外よ。なら私達がどうしようと恋人同士のスキンシップなんだから問題ないわ」

 まさかそのためにわざわざ学外である正門の外にまで呼び出したのか。瑞希の開き直りともとれる発言に玲士は何も言えない。

 近くでは梨恵が「デレた⁉あのツンな瑞希がとうとうデレたわよ宮っち‼」と言いながら隣にいる真司の肩を容赦なくバンバンと叩いている。

 いつも瑞希には驚かされてばかりだ。だから、と玲士は思った。今回はこちらも瑞希を驚かせてあげようと。

 そう思った玲士は瑞希を抱きしめた。抱きしめるのはあの事故の日以来だ。瑞希は小さく「ひゃっ⁉」と聞いたこともないような声を上げて固まってしまった。抱きしめた瞬間周りが一段と騒がしくなったような気がする。

 「来年必ず瑞希と同じ大学に行くと約束します。だから信じて待っていてください」

 瑞希の耳元に囁きかけるように玲士が言うと固まっていた瑞希から力が抜け、玲士の首に回されていた両腕に力が入った気がする。

 「待っているわ。玲士が私を追いかけてくるのを待っているから」

 抱き合っていた二人はどちらからともなく離れた。いつまでもこうしているわけにもいかない。お互いこれからすべきことがあるのだから。

 「それじゃあね」と言って瑞希は梨恵や真司の待つ卒業生の輪の中に歩いて行った。瑞希はあっという間に卒業生達に囲まれて瑞希に質問が浴びせられている。

 玲士も学内に向けて歩き出した。これから卒業式の後片付けがあるから指示を出さないといけないし、みんなに説明しないといけない。戻って来る玲士には様々な視線が投げかけられている。説明しろという反応は共通だが、男子勢の中にはそれに加えて血涙を流しそうなぐらい恨めしそうに見ている者もいる。

 (これは説明が大変そうだな)

 そう思いながら玲士は学生達の輪の中に入っていった。




 時間は瞬く間に過ぎ去り何度も季節が移り変わっていった。そんな中、玲士は建物の中でふとこれまでの自分を振り返っていた。

 準備が終わるまでの間、特にすることもないので玲士は扉の近くで待ち続ける。

 (思えば今日までいろいろと大変なことがあったな)

 苦しいこともあれば心が折れそうになったことも何度もあった。それでも玲士が今日まで頑張ってこられたのはひとえに大きな目標があったからだ。

 「どうしたの玲士?」

 隣から自分を呼ぶ声が聞こえてきて玲士は現実に引き戻された。そして声をかけた人物に笑いかけた。

 「なんでもないよ瑞希。今日までいろんなことがあったなって思ったのと、ようやく今日を迎えられて良かったと思っていたところだよ」

 「そうね。私もこの日が迎えられて本当に嬉しいわ」

 大人になった瑞希はさらに美しい女性へと成長し、さらに魅力的になった。瑞希の幸せそうな笑顔に思わず目を細めてしまう。——そして彼女の着ている衣装にも。

 「改めて今日の瑞希は綺麗だよ。ドレスもよく似合っている」

 「ありがとう。そう言ってもらえると私もこのドレスを選んでよかったって思うわ」

 そう言いながら瑞希は自分のドレス——純白のウエディングドレスを見て微笑んだ。


 今日は瑞希との結婚式。結婚するにあたって玲士は実現に向けて必死に努力した。

 大学受験は見事瑞希のいる大学に合格し同じ大学に通うことができた。大学へ足を踏み入れると瑞希はやはり大学内でも人気になっており、男子からのアプローチが絶えなかった。

 瑞希はこれまではっきりと拒否し続けていたが、諦めきれない一部の男子はその後もアプローチを続けていた。そんな彼らの状況が変化したのは当然玲士が入学してからだ。

 休日に会ってはいるが、学内でも玲士と一緒にいられるようになってから瑞希はそれまで我慢していた反動からなのかべったりと玲士に甘えるようになり、それを見た男子は次々と現実に打ちのめされて再起するのに時間がかかるといった事態になったのは見ものだった。


 大学卒業後は玲士と瑞希はそれぞれ就職に成功し、玲士の就職が決まってから瑞希と同棲するようになった。同棲してからすぐに結婚すると決めたわけではなく、生活がしっかりと安定するまでは待とうと玲士は決めていたのである。

 数年が経ち瑞希に結婚を申し込もうと先に帰宅した玲士がリビングで決意した矢先、瑞希が勢いよく扉を開け放って帰宅してきた。玲士は手に持っていた湯飲みを落としかけたが、本当に驚いたのはその後に言い放った瑞希の言葉だった。


 「玲士!私、玲士と結婚したいわ‼」


 雰囲気も場所もあったものではない。完全に玲士の決意を吹き飛ばすには十分な内容だった。落ち込んでしまってしばらく何も言えなかった玲士だったが、出会った時から彼女は変わっていない。決めたことは行動に移す。そんな瑞希を好きになったのだから。だからこそ玲士の口から出てきたのはプロポーズの機会を失ってしまったことに対する不満ではなく、「結婚指輪を見に行こうか」だった。


 それからは二人で結婚の準備を進めていたのだが、瑞希の結婚に対する熱意は凄まじいものがあった。玲士も瑞希との結婚は楽しみだったし素晴らしいものにしたいと意気込んでいたが、瑞希の熱意には正直負けてしまったと思う。

 式場の外観から結婚式でのプログラム内容など細かに瑞希は注文を出し、決めるのには大分苦労した。ウエディングドレスは何着も試着を繰り返し、二人が納得するまで妥協はしなかった。

 そんな努力の甲斐あって今二人は幸せな日を迎えることができた。そんな二人にスタッフが外の準備が終わったと伝えてくれた。

 「それじゃあ行こうか」

 「ええ」

 手を繋ぎながら二人は同時に目の前の扉を開け放った。扉を開けると教会の外で二人が出てくるのを待ちわびていた参列者達がいた。


 「「結婚おめでとう~‼」」


 次々に祝福の言葉が贈られ二人は囲まれながらも一人一人にお礼を言っていく。

 参列者の中には隼や梨恵・真司などの高校時代の知り合いも混ざっている。梨恵に関しては目元に涙を浮かべて、まるで自分の事のように嬉しがっている。

 梨恵と瑞希は高校卒業後別々の大学に進んでしまったがそれからも頻繁に会っているようで、玲士もよく会っている。


 「玲士」

 不意に瑞希から呼ばれた玲士は振り向いた。瑞希は玲士の方は見ておらず、二人の周りに集まっている友人達を眩しそうに目を細めて見ている。

 「私、今本当に幸せだわ。ずっと一人なのだと思っていた私がこんなにも多くの人から祝福されて、玲士と結婚できるなんてまるで夢みたいだわ」

 出会った時の瑞希は誰かに頼ることを知らないままだった。他者とは最低限の関りしか持たず、すべて自分で解決しようとしていた不器用な彼女。そんな彼女がこれほどの人に祝福されるようになったのは確かに信じられないだろう。

 それでもそれはあくまでも瑞希が関わろうとしなかっただけだ。瑞希の人柄はわざわざ言わなくても周りは理解してくれる。きっかけがあれば瑞希が困った時には力を貸してくれ、嬉しいことがあればこうして祝福してくれるのだ。

 玲士も今この光景が夢のようだと感じている。楽しいことは全て物語の中にしかないと信じ、他者との関わりを避けていた自分がまさか愛する人と出会い結婚するなんて瑞希と出会うまでは思いもしなかった。

 そして瑞希は一つ勘違いをしている。

 「瑞希。幸せなのは今日だけじゃないよ。これからもずっと続いていくんだよ。二人でたくさん幸せな思い出を作っていこう」

 「っ。そうね。これから玲士と一緒に作っていけるものね。私、もっと知りたいわ!これからどんな幸せが待っているのか」

 瑞希の言葉に玲士は黙って繋いでいた手に少し力を込めた。瑞希は玲士の方を見て嬉し涙を浮かべた。

 「これからもよろしくね。玲士!」

 「俺の方こそよろしく。瑞希」


 玲士が言い終えたタイミングで背後の教会から鐘が鳴り響いた。その鐘の音は二人を祝福するではなく瑞希の今の気持ちを表しているように感じる。

 ——今の私はとても幸せなのだと。

 しかし、幸せは今日で終わるわけではない。これからも二人で一緒に幸せな時間を作っていくのだ。そしてその度に幸せの鐘の音が鳴り響くことになるだろう。

 だから俺は心の中で決意する。



 僕は君のココロに幸せの鐘を鳴らそう——いつまでもずっと。

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僕は君のココロに幸せの鐘を鳴らそう 蒼月梨琴 @EndlessRefrain

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