第59話 五十嵐記念病院9


近年稀にみる労力を使い、端的な言葉でしか話さない少女から聞くことができた重要な情報が一つ。


どうやら少女は記憶喪失らしい。


この結論に至るまでにたくさんの質問をしたが、何を聞いても「わからない」としか返ってこなかった時は犬のおまわりさんの気持ちがよくわかった。


しかし、僕の会話術が悪いわけじゃないとわかったのがつい先ほど。

「ここに居る前、どこに居たのかわからない」という話を聞いた段階だ。


少女は騒動が起こる前の記憶を全て失っているらしく、気づいたら1人で病院のベットにいたようだ。

それに気づいた変な言葉使いの女の人(恐らく伊豆子さん)が声をかけてくれたので、唯一覚えていた単語を口にしたところ「ほんなら君はハルエちゃんやな」と即答したらしい。


なんともあの人らしい強引さだ。

しかし、ハルエという名前すら正しいものじゃないのか。


発見時彼女の親らしき人物はおらず、彼女を知る人すらいない状況だったため、ひとまずこの病院で避難生活を送っているようだ。

まだ幼く終始無表情で何を考えているかわからないためか、ビッグマザーの礼拝には参加させられていないらしい。


……この子から病院の詳しい状況を聞くのは不可能だろう。


「話してくれてありがとうハルエちゃん。ところで」

一通り事情は把握したので、肝心のなぜ僕らの部屋にいるのかを聞こうとしたところその声が飛び込んできた。


「おい、新入り。ガキの躾くらいちゃんとしとけや」


声の方を振り返ると、30代くらいの男性が深夜の首根っこを掴んで病室の入り口に立っていた。


ドンっ


という音とともに、深夜の身体が病室内へ押し込まれる。


慌てて抱き留めるとその身体は小刻みに震え、顔が強張っていた。

何かあったのだと確信し男性の方を向き直る。



「なんだ? 文句でもあんのかよ。そのガキが悪りぃんだぞ。トイレの使い方を守らねぇから」


「……どういうことですか?」


「はっ! これだからガキは嫌いなんだ。周りのことがなんにも見えてねぇ」

男は厳しい目つきのままやれやれという様子で病室のドアに寄りかかる。


「いいか? ここじゃトイレは大だろうが小だろうが各場所に置いてあるバケツにして、それを定期的に当番が外に捨ててんだ。水が貴重な今水洗なんてできるわけねぇだろうが。それをこのガキは普通に便器に小便しやがって。誰が掃除すると思ってんだ? あぁ!?」

話している最中にまたイラついてきたのか、男性は怒鳴るような口調で震える深夜を睨みつける。


すっかり萎縮した深夜はうつむいたまま顔をあげることすらできない。



「すみません。掃除は僕がしますから今回は許してもらえませんか。仰る通り、僕らは新入りなものでルールが把握できていませんでした。これからは僕も気を付けますので」

男性の睨む目線に割って入り、頭を下げる。


「……ふん。二階の男子トイレだ。一か所しかないからすぐわかる。一番手前の小便器だぞ。放っておくとすぐに臭いがきつくなるからな。配給された自分の飲み水使って洗っとけ」

さっさと謝ったのが良かったのか、男性は案外すんなりと矛を鎮め去って行った。


「……ぐすっ……谷々兄ちゃ……ごめっ……なさい……」


男が去り、緊張の糸が切れたことで深夜が泣きだした。


「いいんだよ。僕もついて行けばよかったね」

深夜は騒動後もずっと家に居たため、世界が終わってからの日常をよく知らないのだ。

排せつにルールがあるなんてわかるわけがない。

これは深夜を一人で行かせた僕のミスだ。


「う……ぐす……でも、僕が……」


責任を感じているのか、深夜はなかなか泣きやまない。

この性格だと大人から怒られるようなことをしてこなかっただろうから、単純に男性が怖かったというのもあるか。


どう慰めようか思案していると、その頭に小さく白い手が置かれる。

先ほどまでベットに座っていたハルエちゃんがいつのまにか近くに来ていた。


「大丈夫? 痛いの?」


それは淡々としながらもどこか優しい声。


「っ! べ、別に痛いわけじゃない……!」


その声に反応した深夜がパッと顔をあげ、ハルエちゃんの手を払いのける。

泣いたことで少し赤くなった目と、紅潮した頬が長い前髪の隙間から見えた。


深夜はそのままハルエちゃんから顔を反らし、手の甲で顔をぬぐう。


「……もう泣かないの?」

キョトンとした顔のハルエちゃんが深夜の後ろ姿に声をかける。


「泣いてない!」


背を向けたまま、深夜が怒ったような声で応えた。


「そうなの?」

ハルエちゃんが小首をかしげて僕をみる。

なんと答えるべきか迷ったが、ここは男のプライドを尊重してやるべきだろう。


「そうみたいだね」

と答え、少し微笑んでみせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る