第54話 五十嵐記念病院4


「それはいつもの救急連絡からはじまったんや」


グレーのテカテカとした材質の手すり。

それを左手でなぞりながら4階への階段を昇る。

伊豆子さんは先頭を歩いているためその表情はわからないが、さきほどまでの明るい調子はなりを潜めていた。


「患者は道で暴行を受けた成人男性って話やった。そんときはこんな真っ昼間からそんなん珍しいなぁって話しとってん」

その口調は淡々としている。


「まぁ昼から駅前で飲んどった連中が喧嘩でもしたんやろうってことで、何があってもいいように手術室は即手配してん。先生にも搬送口まできてもらってな。ウチも手が空いてたからその場につめとった。ここまでは病院の日常や」

小さな踊り場をすぎ、更に階段を昇る。


「異常がわかったんは救急車が到着してすぐやった。こっちは受け入れ体制で待っとんのに中から誰も降りてこんねん。そのくせ車体は飛び跳ねるように激しく揺れとった。中で患者が錯乱してんのかおもたけど、ウチはなんや嫌な予感がしてん」


「……その搬送されてきた患者というのが最初のゾンビだったと」


「そういうことや。まぁウチらはゾンビやのうてって呼んでたけどな。急に中から飛び出してきたそいつらは手当たり次第に近くの人間に噛みついて、噛まれた人間もおんなじようにおかしなってもうた。医療関係者としては狂犬病なんかの感染症を連想せざるをえん」


「…そうでしょうね」

現実を生きる人間にとって、ゾンビなどという突拍子もない発想はまずでてこない。

自らの知識に由来するもので考えればなんらかのウィルスに感染したと推察するしかないだろう。


「そこからはあっちゅうまやった。搬送口からなだれ込んだ感染者がロビーにいた人らを次々に襲っていったんや。急激に増えていく感染者のせいで現場は収拾がつかんくなってな。外からも次々人が駆け込んできとったし、もはや救護なんかできる状況ちゃうかった。自分が喰われんようにするだけで精一杯やで……ここで死ぬんやと一時は覚悟を決めたわ」


……学校で経験した状況とよく似ている。

異世界での経験が無かったら僕だって生き残れた保証はない。


「でもな。その時ある人が混乱する現場をまとめあげ、感染者を病院の外に追い出すことに成功してん。出入り口を封鎖し、ここは巨大な生存者隔離施設になった。……犠牲者もたくさんでてもうたけどなんとか生き残ったわけや」

4階へとたどり着き、廊下を右に曲がる。


「……すごい人がいたんですね。お話を聞く限りだとこの病院は早々に閉鎖されたってことですよね。後から避難民は受け入れていなかったのでしょうか?」


「いや、外部からの受け入れはしとったし今もしとるよ。1階の出入り口は塞いでもうたけど、正面玄関の屋根までは歩いて行けるからな。入り口にたどり着いた人たちは隙を見てそこから引き上げとる」


「なるほど。じゃぁその人たちの受け入れ用に玄関周辺を監視する人も居るわけですね?」


「おるで。でも騒動から時間が経つにつれてたどり着く人は激減してな。最近は見張り自体不定期になってもうた。谷々たちは運悪く誰も見てない時にきてしもたんよ。すまんかったな」

意図せず責めるような話になってしまい、伊豆子さんが気を回してくれる。


「すみません。責めるつもりじゃなかったんです。結果的には伊豆子さんが居てくれたおかげで助かりましたから」


「ははっ、ほんまにタマタマやったけどな。下ネタちゃうで?」

伊豆子さんは照れくさそうに下ネタを差し込んだ。

どうしようもないなこの人。


「それに、最初にも言ったけどそもそもここに避難して良かったんかはわからんで?」

伊豆子さんはそう言いながら廊下の突き当たりにある部屋の前で止まった。

ドア横には『多目的ホール』と書かれたプレートが掲げられている。


「……仰ってましたね。改めて聞きますがそれはどういうことなんですか?」

聞くタイミングを逸していたが、伊豆子さんから言われて以来ずっと気になっていたことだ。


「見てもらった方が早いやろな」

そう言うと、伊豆子さんは多目的ホールのドアを開く。



中は窓に暗幕が引かれ昼間だというのにかなり暗い。

床には沢山の蝋燭がおかれ、ゆらゆらとした炎が室内をおぼろげに照らし出している。


その灯の間に蠢く影。

まるでダンゴムシのように体を丸めた生き物が部屋中を埋め尽くしている。


よく見ると……それは床に這いつくばり一心不乱に祈る人間だった。


「な、なにこの人たち……!?」

後ろにいた深夜が異様な光景に声をあげる。


「静粛に! の御前ですよ!」


部屋の奥、祈りを捧げる人々の前に2つの人影がある。

1つは今怒鳴り声をあげた痩せぎすの男のもので、神経質に右手で前髪を撫でつけている。


そしてもう1つ。

男よりも奥で革張りの椅子に座り、人々の祈りを一身に受けている人物がいた。


枚方ひらかた、良いのです。彼らもまた迷える子羊なのだから」

そう言うと、人影は椅子から立ち上がりゆったりとした動作で近づいてくる。


蝋燭のてらてらとした灯りに照らされ、その姿が次第にはっきりと見えてきた。


女性、それも50代くらいだろうか。

胡散臭い笑顔には深いしわが刻まれ、ヒキガエルのようにでっぷりとした体格をしている。


その人物が近くを通ると這いつくばっていた人々が次々に顔を上げ、恍惚の表情で「!」と声をあげていた。


……いまのところヒキガエルにしか見えないが、どうやらこの『ビッグマザー』と呼ばれる人物こそが祈りの対象らしい。



ビッグマザーはゆったりとした足取りで目の前まで迫り、告げる。



「さぁ、迷える子羊よ。たちにも救いを与えましょう」

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