第49話 男の子



深夜はお母さんとの二人暮らしだった。

いわゆる母子家庭という奴だ。


お父さんとは小さいころに別れたきり一度も会っていないらしい。


なぜそうなったのか、離婚当時まだ小さかった深夜にはわからないが「顔を合わせるたびにお互い喧嘩ばかりしていた」そうだ。

それゆえ深夜には家族3人で笑い合って過ごした記憶がなく、お父さんと離れて暮らすことになった日も「これで喧嘩を見なくても済む」と安心したらしい。


「でもね。お父さんがいない分、お母さんがすごく頑張っちゃってさ。……お仕事もそれまで以上に頑張ったからたくさん偉くなったみたい。お家で食べるご飯もお母さんじゃなくて家政婦さんが作るようになったんだけどさ。……僕はお母さんの作る下手な卵焼きの方が好きだったな」

乾いた表情で語る深夜。

きっと、この話で流すべき涙はすでに枯れてしまったのだろう。


「……辛かったね」

ありきたりな共感や同情なんて何の慰めにもならないと知っていたが、それでも他になんと言ってやればいいのかわからない。


「……ううん。僕よりもお母さんの方がずっと辛かったと思う。そこまで頑張って寝る間も惜しんで働いてさ。お父さんがいないことで馬鹿にされないようにって必死で育ててくれて……」

深夜の言葉は徐々に歯切れが悪くなっていた。


「なのに……それなのに……。僕は学校にも行かずずっと部屋から出なかった……。たまに廊下ですれ違いそうになれば逃げるように部屋に戻って……。最後にちゃんとお母さんの顔を見たのがいつだったのかも忘れちゃったよ……」

うつむく深夜の顔には深い後悔の色が刻まれており、重い沈黙が流れる。


「……これ以上お母さんに迷惑をかけたくない。死にたいっていつも思ってた。……きっとお母さんも死ねって思ってたんだろうね。……だからいつまで待っても帰ってこないのさ」

辛辣な言葉とは裏腹に深夜の目には大粒の涙が溜まっていた。


「……部外者の僕が言うのもなんだけど、帰らないじゃなくて帰れないのかもしれないよ。外は今ひどい状況だからね。きっと状況が落ち着いたら迎えに来ようと思ってるんじゃないかな」

言っていて白々しくなるほど心にもない言葉しか出てこない。


「もういい……! もういいんだよ……。どうせ死にたいと思ってたんだもん。もう……僕のことは放っておいて……」


母親との軋轢。

それを解消しないままこの騒動が始まった。

状況だけ見れば確かに深夜の言う通り見捨てられた形だ。自暴自棄な気持ちになるのも理解できる。


しかし、そんな大人のエゴに振り回されて死ぬなんて理不尽すぎる。

そう思うと、深夜のことがひどく不憫ふびんに思えた。


同情ではない。

この感情は怒りだ


「……お母さんを探しに行こう」


「えっ……?」


「帰ってこないんだよね? お母さん。だったら探しに行こう」


「……そんなの無理だよ。第一お母さんは僕が来たって迷惑なだけだよ」


「そうかもしれない。でもそうじゃないかもしれない。深夜はここ数ヶ月お母さんと話してないんだろ? だったら本当にどう思ってるかなんてわからないじゃないか」


「それは……でも……」

深夜の表情が複雑に入れ替わる。

母親と直接向き合わなかったからこそ『もしかしたらお母さんは僕を嫌いじゃないかもしれない』という希望を捨てずに来れた。

しかし、向き合ってしまえばその希望が打ち砕かれるかもしれない。

愛する母親に捨てられる恐怖がどれほどのものか、僕なんかには想像もつかないが……。


「……やっぱりできるわけないよそんなこと! もし……もしそれで本当にもう僕の事は嫌いだって言われたら……? もういらないって言われたら!? 僕はどうしたらいいの!?」

深夜は両手で頭を抱え込み顔を伏せた。

これ以上考えたくないという意思表示だろうが、ここで逃げれば二度と立ち上がれなくなる。


深夜へ近寄り頭を抱えていた両手をそっと離した。


「いいかい深夜。怖いことも嫌なことも、逃げればその恐ろしさは倍になって追いかけてくる。それはいつまでも追いかけてきて逃げ切れやしない」

長く伸びた前髪を少しかき分けて茶色の瞳を見つめると、潤んだ瞳から幾筋も涙がこぼれていく。


「でもね。深夜が立ち向かう勇気を見せれば、それだけで恐ろしさは半分になるんだ。そんな勇気を……深夜の大好きなヒーローはいつだって見せてくれてたじゃないか」

これはずるい言い方かもしれない。

しかし、殻にとじ込もろうとする深夜を引きずりだす手段が他に浮かばない。



「お母さん…ぐずっ…待ってるかな? 僕のこと……嫌いじゃないかな……?」

嗚咽おえつ交じりの声に火種のような勇気を感じる。


「……気休めは言わないよ。全部自分で確かめるんだ」

厳しいかもしれないけれど、深夜が自分で決着をつけなければいけない。


「僕、僕……お母さんに会いたい……会って、ちゃんと謝りたい……!」

ぼろぼろと零れる涙を拭こうともせず、まっすぐな目線を送る深夜。

それは少年から青年へと変わっていく狭間の顔だった。


決意した深夜はその後わんわんと僕の腕の中で泣いた。


今日だけは、気がすむまで泣くといい。

その後、深夜が泣き疲れて眠りにつくまでの間ずっと彼を抱きしめた。

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