薄ピンク色の傘を、夕佳はしぶしぶ開く。

 「いらなかったのに。渚に入れてもらえばよかっただけだし。」

 言葉は刺々しかった。しかし青井は気にした様子も見せなかった。

 「知ってるよ。でもね、持ってきたかったから。」

 もう夕佳はなにも言わなかった。言うだけ無駄な気がしたからだ。

 学校から家までの道のりはせいぜい15分。それでも黙って並んで歩くには長すぎる。

 「学校、どうだった。」

 ぽつりと、青井が言った。道のりも半ばを過ぎたところだった。ちょうど信号で立ち止まっていた夕佳は、うんざりして青井を見やった。

 「どうもしないよ。普通。」

 「そっか。よかった。」

 よかった。

 普通、なんていう感想にかける言葉としてはいささか不適な気がした。夕佳は傘で顔を隠すように前に向き直った。

 多分、この男の学校生活は普通ではなかったのだ。グラウンドになにかを置き忘れてきたような目を、今日もこの男は確かにしていた。

 「なにか、あったの。グラウンドで。」

 訊くつもりはなかった。それでも口に出してしまったのは、辺りがあまりにも静かすぎたせいだ。下校中の学生は遠くに一人見えるだけだし、通り過ぎていく車の水音も低い。おまけに夕佳と青井もだんまりときた。それはちょっと、あまりに静かすぎる。

 「グラウンドで?」

 虚をつかれたようにちょっと声を高くして、青井がその言葉を繰り返した。

 グラウンドで、と、夕佳は心の中だけで断定のトーンでまたその言葉を繰り返す。

 信号が青に変わり、夕佳は青井の一歩前に立って歩き出す。

 それからまた数分、あともう少しで家につくと言うときに、ぽつんと青井が言葉を零した。

 「長距離、好きだったんだけどね、アキレス腱、切られたんだ。それで、全国大会に出られなかった。」

 でもそれはどうでもよくて、と、傘を畳んだ青井が空を見上げる。

 まだ家まではあと数分かかる。傘を畳むには早すぎる。上向いた青井の白い顔には、灰色の雨粒が降り注いだ。

 「歩けなくて、助けに行けなかった。ユキのことも、祐一のことも。」

 夕佳には、意味の分からない台詞だった。それでもなにか、青井の核に決定的に突き刺さっている記憶を今ここで明かされてるのだと、それだけは理解できた。

 夕佳は青井に倣って傘を畳んだ。足を止めないまま、曇天を仰ぐ。

 涙は隠せても、喉が鳴るのは隠せない。

 青井が驚いたように夕佳を見た。

 「夕佳ちゃん?」

 「……あんたのことで泣いてるんじゃないから。」

 ただ、この曇った空を見上げていると、たまらなく腹の底が空っぽに感じられて、それが不安で悲しいだけだ。

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