青井が傘を持ってきた。朝は晴れていたのに、急に空が曇り雨がぱらついた放課後だった。

 傘なんていらない、と、夕佳は思った。いつも一緒に帰る観音通りの誰かの傘に入れてもらえばいいだけだ。

 そんなこと、観音通りで生まれ育った青井なら知っているはずだ。それでも彼は傘を持ってきた。それを夕佳は、恩着せがましいと思った。

 「いらない。」

 薄いピンク色の傘を押しのけた夕佳に、青井は曖昧な顔をした。悲しそうと言うには弱く、どうでもよさそうとは決して言えない曖昧さ。

 間に入ったのは、夕佳の隣で傘を広げようとしていた渚だった。

 「今日は青井さんと帰りなよ。」

 いつもと変わらない、淡々とした調子で渚が言う。

 「みんなにもそう言っておくから。」

 人の多い放課後の下駄箱前。簀子の床ではどやどやと制服姿の人ごみが靴を履き替えているけれど、観音通り育ちの人間の周囲には数十センチのすきまが開けられる。

 青井さん、と確かに渚はそう言った。

 夕佳は驚いて彼女を見やった。これまで突然家に拾われてきた居候の愚痴を渚に零したことはあったけれど、その名前まで告げたことはなかったはずだ。

 すると、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げて、渚は確かに笑った。それは、彼女にしてはとても珍しい表情だった。

 「お久しぶりです。」

 その笑顔を受けた青井は、一瞬の記憶を辿るような間の後、あの時の子か、と言った。

 はい、と、渚が頷く。

 「あんたとユキのこと、うらやましかったよ。」

 うすピンクの傘を細く広げては閉じながら、青井がほんのりと微笑を返した。

 「だから今、夕佳ちゃんのとこに居候してる。」

 うそ、とさも可笑しそうに渚が笑った。

 「うらやましいって、私とあのひとの間には、なにもなかったのに。」

 「だからうらやましかった。」

 「……そう。」

 「うん。」

 夕佳にはさっぱり意図の分からない会話だった。なんだか苛立って眉を寄せた夕佳の肩を、渚がそっと押した。

 「せっかく迎えに来てくれたんだし、今日は青井さんと帰りなよ。」

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