それから何回か、渚はユキと会った。

 母親の働く姿が見たかったわけではない。保育所が気にいらなかったわけでもない。ただ、どうしても観音通りの側溝にただ座っていたくなる日があったのだ。

 それは精々数カ月に一度、渚が保育所を出て小学校に通うようになる一年間で三回だけだったけれど、その度にユキは律儀に保育所まで渚を迎えに来た。

 後藤先生は、渚が頼めば必ずユキに電話をかけてくれたけれど、最低限の言葉しか発しなかったし、ユキと顔を合わせることさえ避けているようだった。いつもごく細く、なにかに警戒するようにドアを開けて、ユキと去って行く渚の後姿を見送っていた。

 観音通りの街頭下の側溝で、渚とユキは別段話しさえしなかった。ただ、人1人分くらいの隙間を開けて並んで座り、渚が満足するまで道行く男と女を眺めていただけだ。

 渚が側溝から立ち上がるとユキもそれに従い、また渚を保育所まで送って行った。

 じゃあまた、と、保育所の前でいつもユキは言った。

 渚はそれに小さな会釈だけを返した。

 インターフォンを鳴らすと、やはり後藤先生はごく細くドアを開けた。

 それを三回繰り返した。ただ、それだけのことだ。

 渚が小学校に上がると、残酷な噂がいくらでも耳に入って来るようになった。

 観音通りの子どもはみんな貧乏人で頭が悪い。性的なことにしか関心がなくて、病気持ち。

 大体の内容はそんなところだ。

 それでも渚にとって学校生活はさほど辛くはなかった。クラスには夕佳がいたし、他にも何人かいる観音通りの子どもたちは、学校の行き帰りや休み時間を、いつも集団で過ごすことで身を守っていた。虐げられる集団の結束は固い。古今東西決まりきった話だろう。

 夏休みも間近に迫った金曜日、渚がユキの悲しい話を耳にしたのは、本当にたまたまだった。

 その晩、渚は家の電話機からユキに電話をかけた。保育所を出る時に、後藤先生はきれいな便箋にユキの電話番号を書いて、渚にそっと手渡してくれていたのだ。渚はそれを、狭いアパートの中で唯一渚だけの場所といえる、居間の隅っこのチョコレートの缶の中に入れていた。金で縁取りされた白い便箋を取り出したのは、その日が最初だった。

名前も名乗らないまま、来て、とだけ言うと、ユキはやはり律儀に保育所の前まで渚を迎えに来た。

彼は白いノンスリーブのブラウスに、花柄のフレアスカートを着ていた。

 「久しぶり。」

 と彼が言い、渚は顎先だけで頷いた。身体に夜風がまとわりつくような熱帯夜だった。

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