保育所の前まで、ほんとうにユキは渚を送ってくれた。普通の大人の人がするように、渚の服についた土埃なんかを払ったり、寒いかどうかなんて聞いてもこなくて、それはなんとなく渚にとっては心安かった。

 その分二人に会話はなかった。二人とも粛々と足を進めた。観音通りの終わりに立つ保育所に近寄るにつれ、夜が軽くなる。上手く言葉にはできないが、空気に含まれている湿って重い夜の成分が少なくなっていくような。

 保育所の前で、ユキは立ち止まった。

 渚はマフラーを外してユキの手に押し付けると、そのまま黒い蔓草模様の柵を開け、保育所に入ろうとした。

 その腕を、ユキが掴んだ。

 躊躇いを含んだ動作だった。一歩でも渚が足を踏み出せば、容易く解けてしまうような拘束だった。

 それでも渚は、立ち止まった。多分もう少し強く掴まれていたら、腹を立てて腕を振り払っていた。

 「……また、保育所を出たくなったら、電話して。」

 ぽつん、と、ユキが言った。やはり躊躇いのふくまれた声だった、その躊躇いごと、思春期の少年みたいな響きの声をしていた。

 ユキの手からぶら下がったマフラーが、地面につかないぎりぎりの高さで頼りなく揺れていた。

 「……。」

 腕をふりはらいもせず、だからと言ってユキを振り返るでもない渚が突っ立っている内に、ユキは肩にかけていた白い小ぶりのバッグから口紅を取り出した。そしてそれを長くくり出し、掴んだままの渚の手の甲に、11桁の数字をさらさらと書いた。口紅のピンクにはパールが入っていて、手の角度を変えると貝の裏側みたいに艶々と光った。

 「それ、俺の携帯。外出るときはかけて、後藤先生には俺から言っておくから。」

 渚は頷かなかった。ただ数字の羅列を目の端で確認し、柵を開けて保育所の庭に入る。そして狭い庭を突っ切って、インターフォンを鳴らす。その間、ユキはずっと柵の向こう側に立ってぼんやりと、見るでもなく渚を見ていた。

 保育所のドアはすぐに開いた。ドアチェーンをつけたまま顔を出したのは後藤先生で、珍しい時間に来たね、と少し驚いたように渚に言った。

 渚はなにも答えず、ちらりと背後に視線を流した。つられた後藤先生もチェーンを外して身を乗りだし、柵の向こうに白く目立つ姿に目を止める。

 「ユキ?」

 「うん。」

 「なんで、渚ちゃんと?」

 「さあ。さっきその辺で見つけて。」

 「……そう。ありがとう。」

 なにか言いたげだったけれど、結局後藤先生はなにも言わなかった。なにも言わないまま、渚の肩を抱くようにして室内に招き入れ、静かに扉を閉じた。

 後藤先生とユキの間には、なにかよくない思い出でもあるのだろうと、渚に悟らせるには充分の、ぎこちない仕草だった。

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