10
いつものように無言で、渚とユキは観音通りの側溝に座りこんだ。
それから数時間が経ったところでユキが、ちょっとトイレ、と言って立ち上がり、すぐ側の公園の公衆トイレに入って行った。
渚は黙ったまま側溝に座っていた。
するとすぐ側に立っていたあまり美しくはな い街娼が、まだここの子たちって集団登校しているの? と唐突に訊いてきた。
だらりと裾が長く、痩せた胸元を大きく露出するワンピースを着た、髪の長い女だった。
だらしがないほど馴れ馴れしい口調だったので、虚をつかれていささか怯えさえしたが、渚は辛うじて小さく頷いた。
そっかー、とやはりだらしなく、街娼は笑った。
「ユキとユウイチが輪姦されて以来でしょ。」
リンカン。
渚はその普段耳にもしなければ口にもしない言葉を飲み込めず、ただじっと固まって街娼を見上げていた。
街娼はそれ以上なにも言わず、男の袖を引きに街灯から離れて行った。
後藤ユウイチ。
それが後藤先生の名前だということと、リンカンというのがなにか残酷な事象を指すことだけは理解できて、渚はどうしていいのか分からなくなった。だから、逃げたのだ。
「渚?」
トイレから戻ってきたユキの驚いたような声が、背中を追い掛けてきた。
その声は渚を引き留めるどころか、足を速めさせる効果しか持たなかった。
渚は訳の分からないまま必死で走ったが、六歳子どもが二十代半ば男性に、足の速さで敵うわけもない。
「なに、どうしたの?」
息も切らさず渚の腕を捕まえたユキは、ただ驚いているようで、大丈夫?誰かになにかされた?、と慌てたように言った。
「……されてない。」
渚はひどく息が切れていた。それだけ喋るのに精一杯だったし、たまらなく脇腹が痛んでその場に座り込んだ。
数秒の躊躇いの間の後、ユキも渚の隣にしゃがみ込んだ。白いブラウスからは、微かに男の汗の匂いがした。
リンカンってなに、と、訊けるわけもなかった。
訊いてはいけないことだと本能で知っていた。
だから渚は黙り込んだ。いつもの通りに。
またしばらくの間の後、ユキはしゃがんだまま渚に背中を向けた。
更にしばらくの間の後、渚はユキの長い首に腕を回し、その背におぶさった。お互いの汗ばんだ肌がぴったりと張りついて、もう刃物でも持ち出さなくては剥がれないのではないかと思われるほどだった。
けれど保育所はそこから歩いて精々5分で、ユキはそこまで来ると静かに膝を折って渚を降ろした。
「1人で帰れる?」
「……うん。」
「じゃあ。」
また、と、ユキは言わなかった。
渚ははっとしてユキの顔を見た。
ユキは笑っていた。渚が生まれて初めて見る、それはとても悲しい微笑だった。
分かっているのだ、と思った。
渚がユキに纏わる残酷な話を聞いてしまったことを。
なにか言わなくてはいけない気がして、渚はその場にしばらく立っていた。
ユキも当たり前のようにそれに従った。
そして、随分長い沈黙の後、渚はユキに背中を向けた。
リンカンの意味も分からないまま、なにをどう言っていいのか、言いたいのか、分かるはずもなかった。
それから数日して、ユキは観音通りから消えた。
渚は風の噂で、彼がどこかの金持の愛人になったと聞いた。
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