第三本 バーナード・エヴスリン著「ギリシア神話小事典」

 また小説の方が煮詰まったので、こっちに涼を求めてやって来ました。


 今回は私が小説を空想する上で、大変お世話になった本をご紹介。

 バーナード・エヴスリン著、小林稔訳の『ギリシア神話小事典』でございます。

 わりと有名な本じゃなかろうかと思ったりします。というのも、かのジブリでお馴染み宮崎駿監督が『風の谷のナウシカ』のナウシカという名前の由来になった本なんですよね。

 この本の中に出てくるんです。ナウシカ、っていう少女が。正直、神話の中でもだいぶ一般的に知られているギリシア神話ですが、その中にナウシカという少女の話があるのを知っている人間は少なかろうと思います。(知ってる貴方、博識ッ)

 このナウシカという少女を、著者のエヴスリンがいたく気に入っていたのかして、とんでもねぇ量のページ数割いて紹介しているんですよ。この事については宮崎監督もどっかのインタビューか何かで言ってたような気がします。(詳しいことは忘れた)

 だって、3ページ近く割いてるんですよ、ナウシカに。

 たった3ページって思った貴方。この小事典、とんでもねぇ量のギリシア神話の登場人物(神含む)とか、出来事とか、物(例えば月桂樹の説明まである)が、けっこう網羅されて出てくるんです。だから有名どころの神様(ゼウスとかアテナとか)、英雄(ヘラクレスとかアキレウスとか)とかめっちゃいる中での3ページは、よっぽど著者の思い入れがあったのだろうと…思います。(アテナなんか1ページにも満たないんじゃないのか)


 一応、この小辞典の形式をざっと言いますと。

 あいうえお順に人物、神、物、その他氏族とか戦いとかキーワード的な名前が列記されてます。まさしく事典です。巻末には神々の系図とか、ギリシア神話に出てくる王族の家系図みたいなのもあります。

 文庫本で見開き四段組なんですが、わりと読みやすいです。


 この文庫本を買うまでに書店を何度も訪れては、店員の厳しい目をかいくぐって、何度も立ち読みを繰り返し、最終最後に漫画を売っ払った金で買ったのも懐かしい思い出です。その後、一度ざっと読んでからは、いつも近くに置いてはチマチマ読んでました。小説じゃないので、気になったところから読めばいいんです。読んでる間に「これについてはここ読んで」みたいな指示もあるんで、けっこう読み始めたら止まらない。

 

 ちなみに私はこの本からの着想で色々と物語を書いたりしましたが、中でも一番読み返して想像力を膨らませて、何度となく書いたのが『エリュシクトン』という人物の話でした。

 簡単に説明します。


 エリュシクトンはテッサリアの戦い好きの王様でした。なにせ普段から好戦的な性格なのと体力が有り余っていたのでしょう。持て余した腕力で斧を振り回していたんですが、ある時、女神デメテル聖木を伐ってしまいます。収穫の神であるデメテルは激怒して、彼に召使いの<飢餓>を取り憑かせます。(すごいね。収穫の女神の召使いが<飢餓>て。)

 そうしてエリュシクトンにはどうにもならない猛烈な飢えに苛まれることになります。彼は城中の食糧を食べ尽くし、それでも足りず、国中の食べ物を集めてそれも貪り尽くしました。こうしてテッサリアの全土は荒廃します。エリュシクトン王は娘を伴って国を出て、他国で食べつくします。しかしとうとう他国で食べるための金貨も底をつくと、王は娘を商人に売ってしまいます。その後、(おそらく奴隷のように)しつけられた娘王女はまた新たな買主に連れ去られますが、旅の途中に、海の神・ポセイドンに祈って、自分の姿を変えてくれるように頼みます。

 ポセイドンは彼女の祈りを聞き入れ、彼女に自ら変身する力を与えました。そうして新たな買主に触れられる前に、娘王女はかもめに姿を変えて飛び去りました。

 彼女は父王であるエリュシクトンの元に戻ったのですが、エリュシクトンは再び彼女を売りました。王女はまた姿を変えて逃れて、また父の元に帰り……こうしてエリュシクトンは娘を何度も売っては、食料を買って、王女は何度も姿を変えて逃れる…という生活が続きました。

 ある日のこと、彼女は一風変わった若い男にぶつかってしまいます。彼は彼女が猫に変身すると、雄猫になって追いかけ、牝鹿になれば牡鹿になって後を追ってきます。とうとう彼の求愛に負けた王女は人間の姿に戻り、彼と暮らすようになって、父親のことはすっかり忘れてしまいました。

 さて。その頃エリュシクトンは戻らぬ娘を待つ中で既に金はつき、食べる物も得られず、娘を探して海辺をさすらいました。(おそらく娘がかもめになって帰ってくることが多かったのでしょう)

 彼は自らの運命を呪い、無情な空に向かって拳を突き上げました。その時です。彼の目に、肉付きのよい自分の手が映りました。彼は指の関節を齧りました。それから指をしゃぶり食べていきます。彼は自分のやっている事に慄然としながらも、止められませんでした。

 指を食べ、手を食べ、腕を食べ…足も、腹も……そうやって……

 以下抜粋。

『くちびるだけをのぞいて彼は全部食べてしまい、最後にそのくちびるも呑み込むと、完全に消えてしまった。復讐が完全なものとなったとき、デメテルの生来の優しさが表に現れた。女神はエリュシクトンの娘とその賢い若い夫に恵みを与え、彼ら二人の穀物がよく実り、牛たちの毛並がつややかでよく肥えるように計らってやったのだった。』


 ―――――で。


 どうなんよ、これ。いや、色々とツッコミようはあると思いますよ。エリュシクトンひどくね? 娘何度も売るとか。デメテル、ヤバくね? ここまで復讐せなあきまへんか? とか。


 ただまぁ…私が考えたのは、やっぱり古代の人にとって神様(=自然)っていうのは、慈悲深い存在ではなかったんだなぁ、ということです。

 彼らは現代の私達みたいな知識も、それによって得られた道具もありませんからね。

 今であれば雷を回避するには車に入っておくのが一番安全(とはいえ直撃くらったら無理だろうけど)というのはわかってますが、古代においてはそんな知識もなけりゃ、車もない。彼らは雨降る中を、必死で逃げるしかなかったわけです。ほんのすこし前までは、雷が鳴ったら大木の下に隠れろ、なんてのが常識だった時代もあったわけですから。(熊に会ったら死んだふりレベル)


 彼ら古代人は神様に期待なんかしていなかったんだと思います。だから、彼らは神に願うのではなく、祈るのでしょう。祈りに確かな見返りを求めてはいけないのです。ただただ、エリュシクトンの娘のように祈るのみです。それで気まぐれ神様が助けてくれれば運がよく、助けてくれなくとも、それは神様だから当然で仕方ないのです。不条理でもなんでも無い。それが自然の摂理でした。


 神話って、こういう話が多いので、色々と刺激されますよねー。

 他にも原初の混沌から生まれた宇宙の蛇オピオンとか、有名どころのエディプスコンプレックスの語源にもなったオイディプスの話なんかも、もー、見どころ満載ですわ。

 

 ギリシア神話といえば阿刀田高さんのが有名なんですが、私はどうしてもギリシア神話はこの本です。今、読み返してもまた時間が経つのを忘れてしまいます。


 私が書いたエリュシクトンの話は、おそらく学生時代に授業そっちのけで書いていたキャンパスノートのどこかにあるはずですが……どれだけ掘ればいいのかわからんので、もう探しません。

 ちなみに私、この話をいくつか書いてますが、現在で思い浮かんだ彼の話の最後はこんな感じです。


******


 そうしてエリュシクトンから離れた<飢餓>は、久しぶりに女神デメテルの元に戻った。

「ただいま、戻りました」

と<飢餓>が帰参を告げると、女神は「あぁ、そう」と返事して、軽く欠伸した。


*******


 ではまた~。



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