第二本 陳舜臣作「小説・十八史略」

 小説のノリが悪い。書き始めたら、眠ってしまう。

 よし!

 そうだ、別のやつ書こう!

 ………ということで、文字書きを文字書きで穴埋めするという、よくわからん代償行為をしております。


 今回の本はちん舜臣しゅんしんさんの『小説・十八史略じゅうはちしりゃく』です。

 さて、私が自他共に認める三国志好きなのは今更言うことでもないですが(はいここツッコミどころです)、なんだって三国志好きになったかの原点となった本が、この『小説・十八史略』です。


 この本を読み始めたきっかけを話すとねぇ…おそらく皆さん引くと思うのですが、まぁお話しします。

 当時、私は小学五年生という、まだまだケツに殻つけたままの青二才のヒヨッコだったのですが、すこぶる生意気で、すこぶる褒められたがりだったのです。頭でっかちの、脳みそが未成熟なガキが大人に褒められるためにすることちゅうたら、たいがい大人の真似事なんですよ。で、私はある日、爺さんの本棚にある中でも「あ、これ読んだら褒められそう」というものをチョイスしたのです。実際、「こんな本に興味持つなんて、○○は頭えーなー」というお褒めの言葉も頂きましたから。

 それが、この陳舜臣著『小説・十八史略』でした。

 それでただただ子供の背伸びの延長で読み始めたこの本が、読んでみたら面白いのなんのって……やめられない、止まらない!


 とは、ならず。


 そりゃ、無理だよ。字が細かいもん。見開き四段組みだよ。しかも、今どきの本みたいに空白行なんかない。ほぼ0だよ。当時、私は確かに漢字好きやったけど、中国の人の名前って、それまで習ってきた日本語の中の漢字やないねんもん。読めないですぅ。無理ですぅ…。

 で、爺さんの本棚から借りパク状態で二年経過。中学生になった頃に、たまたま爺さんとこの本の話題が出て、

「結局、読めてないねーん。途中で止まってもうてー」

と、その頃になるとようやく頭でっかちなのがちょいとばかり矯正されて、素直に白旗あげるまでには成長していました。

「あれなー。まぁ、ボチボチ読んだらえぇわ。三国志のところまできたらなぁ、面白いやろけどなぁ」

と、爺さんが言うので、私は借りパクしたままのその本に久しぶりに手を伸ばして、また最初から読み始めました。

 これが私が歴史小説を読み始めるきっかけでもありました。

 

『小説・十八史略』の始まりは中国の神話に出てくる弓の神様の話から始まります。中国の正史を編纂して作られた元々の『十八史略』には、神話の話はないけれども、この『小説・十八史略』では冒頭にあえて、中国らしい人間くさい神様の話を持ってくる…という作者の意図は、この小説全編を通じた作者の開会宣言的なものを感じます。



『人間。ただ人間。ひたすら人間を追究する。これが古くから中国人の史観であった。……』



という書き出しで『小説・十八史略』は始まります。図太い冒頭文です。

 その後に神話の話があり、いわゆるよく知られた殷の時代、最後の王である紂王ちゅうおうのエピソードから始まります。まぁ、『封神演義』読んだらわかりますよね。あの辺の話です。

 私的には酒池肉林やらで有名な妲己だっきという娘は、実はのちの周王朝を作ることになる武王の弟、周公によって赤ん坊の時から紂王を誑し込むように育成されていた…というエピソードが好きです。

 勿論、史実にそんなことは載ってませんから、これは陳舜臣さんの『小説』ならではのオリジナルストーリーでしょう。ただ、中坊の私はしばらく信じてましたけどね。その後に他の中国の歴史の本とか読んで、「あ、これ史実やないんや…」と気付いたのです。


 その後、話は周、春秋戦国時代、秦、前漢、後漢……と続いていきます。

 三国志に行く前に、春秋戦国時代で私の歴史小説好きはすっかり開花しておりました。爺さんともこの春秋戦国時代の話で盛り上がったものです。

 この辺は『キングダム』とかで有名ですよねー。私、なにげに始皇帝の幼き頃の話とか、中学時代に書いたりしてました。もう、読むに耐えないものですが。


 三国志まで来た時には、ずっぷりハマりまくっていた私。爺さん曰く、

「十八史略はざっと歴史をさらってるだけやから、細かいところの話がないからな。三国志だけで読んだら、そらおもろいで~」

というので、辛抱たまらんようになって、途中で三国志ブレイク。


 しばしの間、吉川英治氏の『三国志』にこれまたずっぽりハマって、これがなかなかのなかなかなハマり具合でして……読み終わった時には、私、しばらく本が読めなくなるぐらいにハマってました。(この時の話はまた今度。)


 さて、三国志ショック(私にとってはそれくらい人生の一大事だった、当時)がようやく落ち着いてから、再び『小説・十八史略』に戻ってきました。


 しかし作者の陳舜臣さんもやっぱり途中で萎えちゃったんでしょうか?


 十八史略というのは中国の史書(史記、漢書、後漢書、三国志…その他もろもろ。詳しくはwikiでどうぞ)のダイジェスト版みたいな歴史読本なんですが、陳さんは隋の統一あたりで一度、筆を置いてます。ハードカバー版では四巻で一応最終巻となってるんです。



『……だが、あまり長くなるので、隋が長いあいだ分裂した中国を統一するところで筆をくことにする』



 カッコいいよね! 筆を擱く。擱く。初めて読みました、この時に。

 でも、これ元は新聞連載だったか何かだったので、もしかしたら熱心な読者からの要望が多かったのかもしれません。再び、隋が滅びて唐が興隆するあたりから五巻が始まります。


 三国志の後、少々お目当て人物もいなくなって、熱量の失せていた私ですが、五巻で後の唐の太宗となる李世民が出てきて、ちょいと持ち直します。私の大好物でした。頭のいい、悪巧みができるお坊ちゃん。次男坊なんですが、あえて長兄の前ではちょっと頭が悪いフリとかしやがるんですよ、この人。



『(兄をできるだけ長く、おれを警戒しない状態におくこと。……)

 世民の努力目標はそこにあった。鋭い爪や牙はかくしておかねばならない。』



 どストライクに好みです。

 この李世民が皇帝となる過程の、いわゆる世継ぎ争いの中で、兄をおびき寄せて殺すのですが、この一連のくだりで私の中でずっと忘れられない描写があるのです。

 それは李世民が兄に向けて放った矢が、兄に見事に命中して兄が馬から落ちた時。



『李世民は呼吸を止めて矢を放った。皇太子は馬から落ちた。

「やった!」

 李世民は思わず声をあげた。

 その瞬間、幼年時代のある場面が、あざやかに――いや、あざやかすぎるほどに、彼の脳裡にうかびあがった。

 あまりにも花がきれいなので、それを摘もうとして手をのばしたとき、彼は足をすべらせて、川のなかにおちてしまった。記憶がまだぼんやりしている四つか五つのころであろうか。声も出ずに、手足をばたつかせていたところを、兄が手をさしのべて引きあげてくれたのだ。九つも年上だから、頼もしい兄であった。……

 いま彼はその兄を射殺した。』



 この描写、唐突なんです。ちょっと読んでてびっくりしました。いきなりそんな感傷めいた挿話が入ってきたので。でもここは私の中で『小説・十八史略』における名場面です。


 冒頭の文からしても、作者は史実を書きたかったのではなく、人間というもの、人間というものが作り出したものを描きたかったのだなぁ…と思ったりします。勝手な解釈ですよ。私、文庫版の方は読んでませんから。文庫版の巻末とかで、陳舜臣さん御本人がこの小説について語っていたりしたのかもしれませんが、なにせハードカバー版しか持ってないから、勘弁して下さい。


 その後、唐の則天武后だとか玄宗皇帝とかの時代を経て、モンゴル帝国の成立あたりで物語は終了します。正直言います。六巻、ほぼ覚えてません。読んだような気もするけど…テムジン…チンギス・ハンが出てくるまでの記憶がおぼろ…。なんでチンギス・ハンのあたりになると覚えているかというと、耶律やりつ楚材そざいが出てくるから。諸葛孔明からこの方、軍師に目がない私としては押さえておきたい人物ですので。


 中国人ではない、異民族による統治という幕切れで『小説・十八史略』は終了。元々の『十八史略』が書かれたのが、この元の時代であったので、そりゃそうなりますよね。


 人生の中でも、読み始めてから読み終わるまでに一番時間のかかった小説でした。小学五年に読み始めて、挫折し、その後に読み始めたものの、途中三国志ブレイクを挟んだり、他の歴史小説やファンタジー小説に夢中になったりしたもんだから、最終的に読み終えたのは大学時代であったと思います。足掛け十年弱…くらい?


 その後に再読することもないまま、まだこの本は本棚にあります。

 借りパクしたまま、この本は爺さんからの遺品になってしまいましたので、今後も本棚に鎮座していることでしょう。

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