第5話:勉強と修行

 あいは生まれて初めて充実した日々を送っていた。

 これまでの人生では、不自由な体を揶揄され役立たずと言われ続けた。


 両親からは憐れみと申し訳なさしか与えられなかった。

 そして最後には、柄杓1つ持たされて家を追い出された。


 だが檜垣屋に来てからは、不十分とは言え仕事ができている。

 宿の奉公人達と比べたら、役に立っているとはとても言えないけれど……


 でも、その宿の奉公人達は温かく見守ってくれている。

 江戸から来られた檀家さんにはみそっかすと呼ばれてしまっていたが……


 まだ心身ともに幼いあいにはみそっかすの正確な意味は分からなかった。

 だが、特別待遇と言われているのは理解できた。


 それは当然だと納得していた。

 はたき掃除と乾拭きしかできないのだ。

 それも、他の奉公人の三倍も四倍も時間をかけて。


 そんなあいに、ご隠居と呼ばれている富徳が帳付けと算盤を教えてくれた。

 だが、その勉強は至難の業だった。


 なんと言ってもあいは耳も聞こえなければ言葉も不自由なのだ。

 最初に、言葉で教える事ができない事実に直面する。

 文字を覚えていないから、眼が見えていても、書いて見せて教える事もできない。


 富徳は試行錯誤を繰り返した。

 結果、碁石や将棋の駒を活用して数を教え、絵を描いて意味を教える事になった。

 それも、意味を二の次にして形を暗記させた。


「この形を覚えなさい。

 そして同じ物を書けるようにしなさい」


「あ、う、あ、あ、う」


 富徳は式神を使う事だけを教えようとしていた。

 あいに陰陽術の式占、 暦占、相地、天文占、易占などは不要だ。

 人並みに生きて行ける程度に式神さえ使えればいいのだ。


 基本の梵字、九字、呪文、真言さえ使えればいい。

 最低限の形代を自分で作れればいい。


 強力な悪業罰示神を式神にする必要などない。

 強力な思業式神を短時間に創りだす必要もない。


 形代を利用して、時間をかけて日常生活の補助ができる式神さえ作れたらいい。

 その形代も、弱く相性がいい付喪神を活用できればいいのだ。


 形代を自分で作るにしても、楮の採取から紙漉きまで全て自分でやり、工程ごとに自分の思いを込めれば、普通に作るよりも強い式神を創り出す事ができる。


 だが、人の半分しか力がなく、細かい作業もできないあいには、出来合いの和紙を切ったり折ったりするだけで重労働だし、そもそも上手く作れない。


 だから、半紙に簡単な呪文や真言を書いて付喪神に張り付けるか、直接付喪神に呪文や真言を書く事で使役する方法を考えていた。


「お伊勢様でもあいの不自由な体を治す事はできないかもしれない。

 だけど、お手伝いをする御使いを貸してくださるかもしれない。

 お伊勢様の御使いにも身分がある。

 身分の低い方が、身分と神通力を上げる為に、下界に降りて修行される事もある。

 その時にあいを助けてくださるかもしれない。

 そう願って字を書き人形を作りなさい」


 富徳があいに言って聞かせるが、聞こえていない事は分かっている。

 伝えたいのは言葉ではなく思いなのだ。

 だから、聞こえていない事が分かっていて何度も繰り返すのだ。


 聞かされるあいにも富徳の想いは伝わっていた。

 具体的な意味も詳細な内容も分からない。

 ただ、ご隠居様が自分の事を思って色々と教えてくださっているのは分かる。


 だから、理解できずに頓珍漢な事をやってしまっても怯まない。

 何度も失敗しても諦めない。

 心の中で傷つき見えない涙を流していても、表面は笑顔で頑張っていた。


 そんな事は老練な富徳にはお見通しだった。

 だから、あいが頑張り過ぎて折れてしまわないように加減した。

 少しでもよくなったら、惜しむことなく褒めていた。


「うん、うん、うん、少しずつよくなっているぞ。

 何日何年かかっても大丈夫だ。

 何時か必ずできるようになる」


 だが、同じように頑張っていても、評価されずもっと高い目標を設定され、超えられなければ召し放ちされるのが丁稚達だ。

 

 そんな彼らがあいを妬むようになるのは自然な事だ。

 最初はあいの事を同情していても、辛く苦しい事が続けば妬んでしまうものだ。


 五体満足に生まれられた事は幸せな事だが、その分過酷な競争に生き残らなければいけないのは不幸ではないのか?


「お前達はよく頑張っているよ。

 このまま真直ぐに頑張れば、必ず手代に成れるからね。

 手代になり、番頭になり、暖簾分けまで行けば新しい御師宿を開けるよ。

 つまらない事に時間や心を使うことなく、これまで通り頑張りなさい。

 わたくしが、これからも見ているからね」


 宿に放ってあった式神から危険な兆候を報告された優子は、直ぐに悪い思念に落ちそうになっていた丁稚達に言葉をかけた。


 まだ十五にもならない丁稚達に妬むなと言っても無理な話だ。

 だから優子は褒めた。

 期待している事を伝えて、正しいやる気を引き出した。


 優子は楽観していなかった。

 まだ十五歳に過ぎない優子だが、老練な悪行罰示神を式神として使役する事で、よくも悪くも老成した考えができるようになっていた。


 両親が理想的な親だったら、ここまで達観していなかっただろう。

 役立たずで気弱な父親と性根の腐った欲深い母親を間近に見て育ったら、早く大人になるしかなかったのだ。


 そんな優子だから、また直ぐに丁稚達が邪念に囚われる事は分かっていた。

 その度に言葉をかけて正道に戻す気で入るが、僅かに間に合わない可能性もある。


 とっさに放たれた言葉一つで、あいの心を打ち砕いてしまうかもしれないのだ。

 だから、あいの修業が少しでも早く終わるように手助けする事にした。


 優子は宿の次期女将として、あいに難しい事を求めているわけではない。

 将来の暖簾分けさせられるだけの能力を求める丁稚と同じでなくていいのだ。

 三方年寄家の小作人として農作業ができる程度の式神さえ使えればいいのだ。


「お嬢さん、お嬢さんが探しておられた、捨てるような古道具ですが、参拝に来られた檀家衆が、もういらないと言われて置いて行かれた物がございます。

 他の御師宿やご近所が出された物は、塵捨て場にあるそうです」


「教えてくれてありがとう、角兵衛さん。

 修行の一環で、お焚き上げをやろうと思っているのだけれど、家は物を大切にしているから、捨てる物がほとんどないのよね」


「ああ、そう言う事でしたか。

 それでしたら、恥ずかしがられる必要はありません。

 立派な心掛けでございます。

 宿の者全員でやりましょう。

 御師宿の手代なら、それくらいの知識や経験が必要です。

 丁稚達にもいい経験になります」


「筆頭番頭の角兵衛さんにそう言ってもられると気が楽になるわ。

 父上やおっかさんには、そんなことしなくていいと言われていたから」


「今はもうやられない人が多くなりましたが、何かあれば、能力のある三方年寄家の者が禰宜家に養子に入る事もあります。

 お嬢様だと養子入りの話が出る事はありませんが、お嬢様の子供の代で養子入りの話が出る可能性はあります。

 胸を張って堂々とお焚き上げをなされてください。

 丁稚達に塵捨て場から古道具を集めさせますから」


 筆頭番頭の角兵衛が賛成してくれてからは話が早かった。

 話しを聞いた隠居の富徳がやりたいと言ったのも大きい。

 宿を上げての行事になった。


 御師宿の次期女将、お嬢さんがお焚き上げをすると言うのは、参拝に来ていた檀家衆の間でも話題になった。


 話題になっただけでなく大いに盛り上がり参加見学したいと言う者まで現われた。

 実際に行ったら、単なる余興に終わらず、荘厳な雰囲気で、間近にお伊勢様を感じられた気になる儀式だった。


 だが、それも当然だった。

 見鬼の才能がないと気配しか分からないが、このお焚き上げには多くの式神が参加しており、参加している檀家の中に優子に危害を加える者がいないか見張っていた。


 このお焚き上げは参加した檀家衆から話しが広がり、同じようにお焚き上げに参加したいと言う檀家衆からの要望で、お焚き上げが定期的に行われるようになった。


 それでなくても檀家衆が多く、宿泊の調整が難しかった檜垣屋だが、鈴が追いだされてからの評判が鰻登りで、少しでも空きがあったら、大枚を支払っても泊まりたいと言う参拝客が殺到していた。


 それどころか、檜垣屋のお焚き上げに参加したいから、御師になって欲しいという者が続出し、事もあろうに他の御師宿が仕切っていた伊勢講を抜けて参加する者まで現れてしまった。 

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