第4話:お仕事

 優子が母親の鈴を追い出してひと月が経っていた。

 最初の数日は、何時女将の座を取り戻しに檜垣屋に乗り込んで来るのかと、奉公人一同冷や冷やしていた。


 特に気の弱い当主で夫の得壱などは、悪夢にうなされるほどであった。

 平気な顔をしていたのは、母親を追い出した優子と、当主の座を得壱に譲った先代の富徳だけだった。


 この2人に度胸があるのは確かだが、それ以上に正確な情報を得ていたのだ。

 2人は陰陽術の使い手で、鈴に式神の見張りを付けていたのだ。


 だから、鈴が復讐よりも獣欲に走っている事を知っていた。

 優子が檜垣屋を追い出した手代の巳之助を呼び出し、俗に出会い茶屋と呼ばれる場所で愛欲の日々を送っているのだ。


 今までは亭主の得壱や檜垣屋の奉公人、隣近所の目があって、そうそう愛欲に走る事などできなかったが、今は2人とも檜垣屋から追い出された身だ。

 誰に遠慮する事なく獣欲を満たす事ができる。


 義父である富徳は鼻で笑って済ませられるが、実の娘である優子は違う。

 半分とは言え、鈴の血が流れている身としては、色々と思う所がある。


「いっそ殺してしまおうかしら?」


「……」


 優子は調伏した式神に言ってしまった

 冗談のような言い方はしているが、半ば本気である。


 言った式神は過去に悪行を重ねた札付きの悪行罰示神である。

 優子が許せば人間など情け容赦なく殺せる存在なのだ。


 だが、突出した陰陽師の才能があり、鬼神や妖怪変化から異様に好かれる質の優子が後で後悔するような事を式神は勧めなかった。


「分かっているわ、言ってみただけよ。

 これまで通り、おっかさんと巳之助をよく見張らせておいて。

 檜垣屋に近づこうとしたら、邪魔をしてちょうだい。

 無理にでも来ようとしたら、死なない程度に怪我させてもいいわ」


「……」


「嫌な話しはこれくらいにしておいて、あいの事よ。

 あいに陰陽師の才能があると言うのは本当なの?」


「……」


「そうなの、見鬼の才能があるのね。

 驚いたり怖がったりはしないの?」


「……」


「だったら、あいを手助けする式神がいれば、耳が聞こえなくても口がきけなくても、十分に生活できるかもしれないわね?」


「……」


「そうね、性根の悪い鬼神や妖怪変化に襲われる可能性もあるわね。

 ある程度の修業をさせて、自分の意志で式神を操れる方がいいわね」


 優子が気にしているあいも、このひと月でだいぶ体力が回復していた。

 だが、それでも、同じ年頃の子供の半分程度の力しかなかった。


 耳と言葉が不自由なだけでなく、力まで弱いのだ。

 座った姿勢から立ち上がるのが非常に困難だった。

 それだけでなく、真直ぐに歩く事すら難しい。


 立ち上がる時は誰かの手を借りるか、何かを持って両手両足の力が必要だ。

 歩く時も何かを持つか、左右に大きくぶれながら前に進むしかない。


 そのような体でよく伊勢まで旅してこれたものだ。

 普通なら確実に途中で野垂れ死にしている。

 全てお伊勢様の導きだったのだろう。


 だが、これほど力がないと普通の仕事は全部できない。

 優子は職人に預ける事も百姓仕事を覚えさせることも断念した。


 そうれなければ、諸刃の剣である式神をあいに使わせようとは優子も思わない。

 下手に式神に頼れば、単に殺されるだけでは済まず魂を喰われる事すらあるのだ。


「あいに陰陽師の修業をさせたいけれど、これ以上の依怙贔屓は難しいわね」


 お伊勢様に仕える御師宿の奉公人として、宿の前で倒れた体の非自由なあいを世話すること自体は、奉公人全員が納得してくれていた。


 だが、何の役にも立たないあいに特別な技を教えるとなると、妬み嫉みが生まれてしまうのは仕方がない事だ。


 あいに陰陽師の才があるから教えると言えれば簡単なのだが、そもそも優子が陰陽師であることが、奉公人や両親には内緒なのだ。


「……」


「そうね、お爺様の世話をさせる事にすればいいのね。

 御爺様は寂しい状態だから、可愛がる相手が必要とすればいいのね?」


「……」


「そうね、言葉も耳も不自由で、力仕事もできないから、帳付けと算盤を覚えさせる事にすればいいのね」


 不幸中の幸いと言うには不幸な部分が大き過ぎるが、あいの知能は普通だった。

 優子の言葉や情を十分理解できていた。

 だからそこ、優子も肩入れしてしまうのだ。


「……」


 ★★★★★★


「お爺様、この子には陰陽師としての才能があるようなのです。

 ですが私が直接教えてしまうと、色々と問題が起きてしまいます。

 お爺様の寂しさを紛らわす話し相手とは言えませんが、雑用係という体裁で、側に置いていろいろと教えてやっていただけないでしょうか?」


「その程度の事は別にかまわないが、それよりは、儂の愛妾と言う事にした方が、奉公人達には分かり易いのではないか?」


「お爺様!

 冗談でもそのような事は口にされないでください!

 あいはまだ年端もいかない子供ではありませんか。

 お爺様の評判が地に落ちてしまいます!

 それに、お爺様にはふじを考えているのですから」


「それでは幾ら何でもふじが可哀想ではないか。

 ふじならまだひと花もふた花も咲かせられるぞ。

 もう何時死んでもおかしくない儂の後添えにするくらいなら、得壱の後添えにして女将にした方がいいぞ」


「どれほど若かろうと、父上の後添えにするなんて、ふじが可哀想すぎます。

 歳は取られていても、お爺様の後添えに入る方が幸せになれます」


「実の娘がそこまで言うか?

 あれでも得壱はお前の実の父親だぞ?」


「実の父親だからこそ、腹がたって仕方がないのです。

 男なら、妻を間男されたのなら、おっかさんと巳之助を重ねて叩き斬って欲しいのに、未だに愚図愚図と言っている女の腐ったような出来損ないですから!」


「……すまん、儂の育て方が悪かったのだ」


「あれは持って生まれたものでしょう。

 お爺様、私はどうしようもない人間の事を言いたいわけではありません。

 体に不自由を持って生まれながら、一生懸命生きているあいを、これからどうやって生きて行けるようにするかを話しているのです。

 父上の育て方が悪かったと反省されるくらいなら、これからあいが生きて行けるように育ててやってください!」


「……分かった。

 得壱を育て損ねた分、あいを立派に育ててみせよう」


「お願いいたします」


 優子と富徳はあいの教育方針を話し合っていたが、当のあいはそんな事など知らず、精一杯宿の手助けをしようと頑張っていた。


 体の大きさだけを見れば、十歳に満たないように見えるが、もしかしたら障害で体が育っていないだけかもしれない。


 とは言っても、実際の歳などたいして関係がない。

 奉公年数に応じた仕事ができるかできないかだ。

 それで言うと、同じ大きさの丁稚の半分くらいしか力がないのは致命的だった。


 だから、雑巾がけをしようとしても十分に絞れず、べたべたにしてしまう。

 何をやろうとしても力が足りず、真直ぐに前に進む事すらできない。


 最初は何か手伝おうとして、逆に邪魔になる事も多かった。

 その度に叱られ、やれることがどんどんなくなっていった。


 それでも、助けてくれた宿の役に立ちたいと、やれることを探して、ようやく見つかったのが、はたき掃除と雑巾の乾拭きだった。


 他の奉公人達の邪魔にならない仕事を見つけたいあいは、それに一生懸命だ。

 弱い力で一日中はたき掃除と乾拭きをしている。


 それを檜垣屋の奉公人達は暖かい目で見ていた。

 他の者がやれば、もっと早くきれいにできる。

 だが、必死でできる事を探し一生懸命やろうとするあいの仕事を取ったりしない。


 そんなあいに、先代が帳付けと算盤を教えると優子が言ったのだ。

 特別待遇ではあるが、奉公人の誰も反対しなかった。

 当のあい本人以外は。


「あ、う、あ、あ、う」


 あいが何を言っているのか、優子も奉公人達も分からなかった。

 でも、言いたい事の意味は痛いほど理解できた。


 少しでも宿の役に立ちたい!

 お世話になった方々に恩返しがしたい!


 涙を一杯に貯めた瞳で、言葉にならない想いをぶつけられたら、その想いを無碍にできる無情な人間は、もう檜垣屋にはいなかった。


「わかりました、あいにはこれまで通りはたき掃除と乾拭きを続けてもらいます。

 ですが、お爺様の無聊をお慰めするのも大切な仕事です。

 お爺様が教えると言った時には、しっかりと学んでもらいますよ」


「あ、う、あ、あ、う」

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