第3話:名前

「お嬢さん、本当にあれでよかったのですか?」


「分家の檜垣屋が禰宜を務めておられる本家のご当主に逆らえる訳がないでしょう?

 父上とおっかさんを離縁させる事はできませんでしたが、檜垣屋から追い出す事はできたのです。

 十分ではありませんが、何かあっても檜垣屋の問題ではなく宮後屋の問題だと決まりました」


「そうでございますね。

 宮後一族にも配慮しなければいけませんから、しかたありませんね」


「父上がお爺様から順当に三方年寄を相続するには、禰宜の方々の同意が必要になってきます。

 普通なら何の問題もないのですが、逆恨みで邪魔されては困ります」


「そうですね、宮後の方々は、あの女将さんを育てた一族ですから、逆恨みして無理無体な事を言ってこられるかもしれません」


「私達家族だけの事ではありませんよ。

 角兵衛さんもあと数年で暖簾分けではありませんか。

 檀廻手代だった頃に広げた檀家は、これからも角兵衛さんがお世話をするのです。

 御師として宿を営むにも、禰宜家の方々に目をつけられるわけにはいきませんよ」


「はい、ありがとうございます。

 これからも本家の檜垣屋様のお世話になる事になります」


「宿で働いてくれている人達は、皆家族同然です。

 その中でも暖簾分けまで立派に務めてくれる角兵衛さんのような方々は、叔父も同然ではありませんか。

 本家の娘として、頼りにもすればお世話もしますよ」


「ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」


「そう何度もお礼を言わなくてもいいですよ。

 話は変わりますが、あの子の名前を決めなければいけません。

 どれくらい働けるかは分かりませんが、家の前で倒れたのもお伊勢様の御意志。

 何とか身の立つようにしてやらなければなりません」


「そうでございますね。

 お伊勢様の御意志なら、何とかしなければいけません。

 ですが、あの子を受け入れると、これからも同様な事が起こると思われます」


「各地の片端が檜垣屋を目指してやってくるという事ですか?」


「はい、彼らの親も親戚縁者も、むざむざ死なせたいわけではありません。

 それでも、どうしても育てられないから、お伊勢様に委ねてきたのです。

 それが、厳しい御師宿の奉公とはいえ、生きていける道ができるのです。

 参拝に行く人々に託して送り出すのは明白です」


「全てを受け入れる事ができないなら、表沙汰にはできませんね」


「はい、目立たない裏方の奉公になります。

 それに、元々耳も聞こえず話もできない子です。

 参拝に来られた方々のお世話を任せる事などできません」


「しっかりと考えてからでないと、何もやらせられませんね。

 器用ならば、職人に預ける事も考えた方がいいかもしれません」


「もしくは、小作人として働いてもらうかです。

 ただ田畑を耕すだけなら、耳が聞こえなくても話せなくてもできます」


「そうですね、それも考えておきましょう。

 あの子の事はおいおい考えるとして、明日の神楽の手配はだいじょぶですか?

 明日到着予定の檀家衆の中には、趣味人の方がおられるのでしょう?」


「はい、江戸で大きな商売をなされていた方で、今は楽隠居をして趣味の俳諧や歌舞音曲に興じておられるそうでございます」


「今更だけど、神楽は大丈夫かしら?」


「檀廻手代からの報告では、下世話な方ではなく、本当の趣味人との事でございますから、大丈夫だと思われます」


「そう、それはよかった。

 だったら、本格的な茶会を開いて差し上げた方がいいかしら?

 それとも、少し砕けた感じにお茶を楽しんでもらった方がいいかしら?」


「お伊勢様を参られた後で、京大阪にまで足を延ばされるそうですから、下世話な遊びはそちらの方でなさると思われます。

 ここでは、お伊勢様の御膝元に相応しく、格調の高いお世話をさせていただいた方がいいかと思われます」


「分かりました。

 全て角兵衛さんにまかせます。

 私はそれを見て勉強させていただきましょう」


「怖い事を言われないでください、お嬢さん」


「あら、別に怖い事を言っているわけではないわ。

 角兵衛さんがいてくれるうちに勉強しておかないと、暖簾分けした後では直ぐに聞きに行けないからよ」


「他の番頭さんや手代達にしっかりと教えておきますので、そんなに心配されなくても大丈夫でございますよ」


「父上とおっかさんがあんな人でなかったら、もっと気楽にお嬢さんしていられたのだけれど、困ったものだわ」


「……」


 ★★★★★★


 優子の母親で檜垣屋の女将だった鈴は、本家との約束通り実家に引き取られた。

 表向きは気鬱の病で女将を続けられなくなった事にしてある。


 だが実際には、宿の使用人と不義密通した事が原因だと、伊勢山田十二郷中に知れ渡っており、宮後一族は大恥をかいてしまった。


 世襲で禰宜家を務める宮後本家の面目は丸潰れだった。

 表向き病気療養と言う事にして離縁しないでくれた、檜垣本家への借りは余りにも大きなものになってしまっていた。


 表向きの女将はいなくなってしまったが、元々ろくに参拝に来られた檀家衆のお世話をしていなかったので、むしろ邪魔されない分楽になっていた。


 弱冠15歳の優子が頑張っていたし、ふじをはじめとした古株の女中達が八面六臂の大活躍をしてくれていた。


 何より元々檀家衆のお世話をしていた手代達が、誠心誠意おもてなしをしてくれていたので、十分満足して地元に帰ってもらえていた。


 趣味人の方々には、伊勢神宮のお膝元に相応しい格式と威厳に満ちた、格調高い芸能の数々を披露した。


 そのために、御師宿には本格的な神楽舞台や茶室が常設されている。

 各部屋には中庭があり、裏には池のある大きな庭まである。

 その格調の高さは京の寺社に負けないと御師宿の人々は思っていた。


 多くの檀家を持つ御師宿ほどひっきりなしに参拝客がやってくる。

 檜垣屋は世襲禰宜家の分家の中でも筆頭の家柄だ。

 当然檀家も多く、その忙しさは御師宿の中でも一二を争う。


 そんな忙しさの合間を縫って、檜垣屋の人達は行き倒れの世話をしていた。

 お伊勢様にお仕えする御師宿だからこそ、片輪に生まれた参拝者を見殺しにしてはいけないと、誠心誠意お世話した。


「だいぶ元気になったようね。

 これからは少しずつ仕事をしてもらおうと思っているの。

 今直ぐ他の者達と同じように働いてもらおうとは思っていないわ。

 体力を回復させながら、仕事を覚えてもらいたいのよ」


「あ、う、あ、あ、う」


 追い出されることなく、宿に置いてもらえる。

 仕事を与えてもらえる事がよほどうれしかったのだろう。

 

 涙を浮かべながらお礼を言ってくれているのは優子にも分かった。

 だが、気持ちは分かっても具体的に何を言っているのかは分からない。

 こんな事では宿で参拝に来られた檀家衆のお世話をしてもらう事などできない。


「それでね、耳が聞こえない事も話せない事も分かってはいるのだけれど、名前が分からないと不便なの。

 だから、あなたの名前を教えて欲しのよ」


「あ、う、あ、あ、う」


 必死に何か伝えようとしているのは分かる。

 だが何を伝えたいのか全く分からない。

 いや、優子が名前の事を聞いているのを理解しているのかどうかもわからない。


「私は、優子」


 優子は自分の事を指さして、自分の名前を言った。


「私は、優子。

 貴女は、誰」


 次に行き倒れの子を指さして、名前を聞いた。

 優子は何度も同じ事をくり返した。


「あ、う、あ、あ、う」


 相変わらず行き倒れの子が何を言っているのか分からない。

 だが、優子が自分の名前を言い、行き倒れの子の名前を聞いている事は理解していると思えた。


「じゃあ、私が貴女の名前を付けるわ。

 本当の名前が分かったら、その名前を使ってもいいのよ。

 でも、どうせ宿に奉公するのなら、宿が奉公人に名前を付けるの。

 今日から貴女の名前はあいよ。

 あい、分かった?

 貴女の名前はあいよ」


 それから優子は何度も何度も同じ事をくり返した。

 自分を指さしては優子と言い、行き倒れの子を指さしてはあいと言う。


 それもただ言うのではなく、大きく口を開いて発音した。

 耳が聞こえないのなら、口の形で知らせればいいと考えたのだ。


 会話などできないのは百も承知していた。

 せめて自分の名前だけでも覚えさせてやりたかったのだ。

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