第162話 わがまま

 十一月末の夜は冷え込む。

 真っ暗な世界の中、俺達は凍てつく風に吹きつけられた。


 カオスな状況だ。

 泣き崩れる先輩、それを冷めた目で見降ろす母親、そして傍観する俺。

 異常である。


 唯葉先輩のことは三ヶ月前からずっと見てきた。

 毎日一生懸命汗を流す先輩、楽しそうに笑う先輩、揶揄われてジタバタする先輩。

 その反面、試合になったらキリッと表情が締まり、何か困っていたら自然に頼りたくなるような、そんな唯葉先輩。

 だけど、こうして泣いている姿は初めて見た。


 高校二年生がこんなになるのはあり得ないことだと思う。

 テスト前の思い詰め方は尋常じゃなかったが、精神的にかなり追い詰められていたことがわかる。

 俺達の知らないところで重圧に耐えていたのだ。


「ただいm——唯葉っ!?」


 玄関前で俺達が立ち尽くしていると、背後から声が聞こえた。

 彩華さんである。

 彼女は見渡した後、状況を理解して口を閉ざした。


「ほら唯葉、早く帰るわよ」


 唯葉先輩を家に連れ帰ろうとする母親に、彩華さんは言う。


「部活辞めさせる気?」

「そういう約束だったから」

「テストの成績悪かったの?」


 彩華さんの質問に唯葉先輩は首を振るだけ。

 代わりに俺が答えた。


「良かったですよ。前回のテストよりもずっと」

「お母さん、じゃあなんで」

「ふん、前回のを超えてもダメなのよ。大学受験の事を考えたら以前と同じか、それ以上の成績をとってもらわないと。流石に私立大は行かせられない」

「……別に大学に行くのが全てじゃないよ。唯葉がやりたいことをさせてあげたい」

「あなたは黙ってなさい」


 実際学費を出すのは親か、本人。

 その事実が分かっているからこそ、彩華さんはそれ以上何も言えなかった。


「部活は辞めさせる。塾に通わせる」


 あまり他人の家の問題に口を挟むのは好きじゃない。

 非常識な事だから。

 だがしかし、唯葉先輩に部活を辞められるのは困る。

 俺は、もっとこの人と一緒に頑張りたい。

 それに、こんなに苦しそうな先輩を放っておくわけにはいかない。

 この母親はいくつかやっちゃダメな事をしている。


 お開きムードが漂い始める中、俺はおもむろにバッグからノートとプリントを取り出した。


「見てください。俺、数学の点数が90点だったんです」

「……は?」


 唐突に自慢をし始めた俺に母親は変な声を上げる。


「高校生活で初めてですよ。こんなに成績がよかったのは」

「急になんなの」

「一生懸命勉強したから結果に繋がりました」

「……帰るわよ」


 背中を向けようとする唯葉先輩の母親。

 だが、俺はそこでノートを開く。

 そしてとりあえず唯葉先輩に見せた。


「これ……」

「そう、全部唯葉ちゃんが教えてくれた問題です」

「……よかった、ですね」

「はい。唯葉ちゃんが居なかったらこんな点数取れてなかったでしょう。感謝してもしきれません」


 ノートに書かれていたのは唯葉先輩が残したアドバイスのメモだ。

 二人で勉強していた時から、教えてもらったことを逐一メモしていた。

 そしてそれが、今回のテストでことごとく刺さった。

 姫希や凛子先輩にも世話になったが、俺の点数の半分以上は唯葉先輩のおかげだ。

 これがなかったら赤点でもおかしくなかった。


「考え直してはくれないでしょうか。唯葉ちゃんがいなくなると俺達は路頭に迷います。それに、こんなに去年の範囲を覚えて、俺に教えられる唯葉ちゃんなら受験勉強も乗り越えられるはずです」

「知った事じゃないわね」

「唯葉ちゃん、努力してましたよ。一緒に勉強してた俺が一番知ってます」

「でも今回成績は取れてないの! 他人の家に勝手に口を出さないで頂戴! 大体、成績が取れてないのに努力も何も意味ないじゃない!」

「そんな事はありませんよ。そもそも唯葉ちゃんの努力は勉強だけじゃないですし」

「……え?」


 声を漏らしたのは唯葉先輩だった。

 俺は彼女の手をじっと見る。


「ずっと自主練してましたね?」

「……なんで」

「突き指してるじゃないですか。そんな真紫の人差し指見たら気付きますって」

「……」


 唯葉先輩は、テスト休みで部活がなくなった分、自主練をしてバスケの勘を鈍らせないようにしていたのだ。

 たまに怪我をしているのを見て苦笑していた。

 気付いてないわけがない。

 それは勿論、俺以外の他の部員も同様だ。


「唯葉先輩は努力してました。ただ人に頼るのが苦手だっただけです」

「だから何ですか?」

「部活を辞めさせないでください。お願いします。これからは全力で俺達がフォローするので。特に今回俺は助けてもらいました。次は俺の番です」


 無茶な事を言っている。

 論理もめちゃくちゃだし、絶対納得はしてくれないだろう。

 でもこうするしかない。


 と、そこに彩華さんも口を開く。


「お母さんお願い。唯葉にはバスケさせてあげて」

「何よ、彩華まで」

「部活の道具を揃えたりするのにお金がかかるのもわかる。だからそれは私のバイト代で賄ってもいい。成績だって別に悪くないじゃん。これなら引退後からでも受験に間に合う。私もサポートするし」

「お姉ちゃん……」

「なんでそこまでするのよ」

「唯葉が頑張ってるから。努力してるから」


 彩華さんは膝を落として唯葉先輩の頭を撫でる。


「私こんなに努力したことない。いつも私と唯葉を比べてるけど、私こんなにすごくないよ?」

「でもあなたの方が成績よかったじゃない。部活もしながら」

「選手とマネージャーじゃ全然違うに決まってるじゃん。それに、通ってる高校も違うし」

「高校受験に唯葉が失敗したせいじゃない。あなたは失敗しなかった」

「当たり前だよ。私中学の時は部活してなかったし。そもそも受験勉強しかしてなかったし」

「……」

「全然楽しくない受験勉強を強要されて、中学時代はあんまり記憶にも残ってないの。それに比べて唯葉は部活をして、友達と思い出を作って。羨ましいくらい」

「あ、彩華?」

「少しは唯葉の努力を見てあげて」


 俺も唯葉先輩から話を聞いてずっと思っていた。

 姉妹で比べられ続けるのは嫌だろうと。

 比べるべきは他人ではなく、自分なんだから。


 彩華さんの告白に母親は目を丸くして言葉を失っていた。

 涙が落ち着いた唯葉先輩はぼーっと俺を見る。

 だから俺は一言聞いた。


「唯葉ちゃんは、どうしたいんですか?」

「……」


 この場に至ってから、唯葉先輩は一言も発していない。

 どうしたいのかわからないのだ。

 彼女が辞めたいというのならば、俺は止めない。

 逆に続けたいというのなら、どうにかしてこの場を打開してみせる。


「辞めたくないです……! お母さん、わたしまだバスケしたい! 勉強はこれからも続けるので許してください!」

「俺からもお願いします。先輩と話をして、バスケの練習を減らしてその時間を勉強に当てられるように話してたんです」

「……それじゃ試合に勝てないんじゃないの?」

「そんなことはありません。これからは俺がマンツーマンで教えますので。俺が教えれば勝てます」

「男のそういう話、本当に嫌い」


 あからさまに顔を顰められた。

 流石に発言が臭すぎたかもしれない。

 だけど、俺が強気にいかなければ唯葉先輩が安心できない。

 別にビッグマウスだというわけでもない。

 俺は有言実行マンだ。

 できないことは宣言しない。


 母親はずっと握りしめていた成績表に、改めて視線を落とす。

 そしてしばらく眺めた後、俺を見る。


「今日のところは帰ってもらえるかしら」

「え?」

「唯葉も家に帰りなさい。もう九時よ」


 言われてスマホを見ると、かなり時間が下がっていた。

 流石に引き際かもしれない。


「千沙山君」

「はい」

「明日からも唯葉をお願い。今日はごめんなさいね」

「……任されました」


 明日からも。

 その言葉に俺はほっと胸を撫で下ろした。

 充血した目を見開いて自身の母親を見る唯葉先輩。


「お、お母さん!?」

「……夕飯できてるから、早く」


 そう言って唯葉先輩の母親は家に入っていった。

 三人が残される。


「良かったね唯葉」

「……はい。わがまま言っちゃいました」

「いいんだよ。成績戻せって言われて戻したのは事実だし、今回はお母さんが悪い。わがままじゃないよ」


 どういう話が行われていたのかは知らないが、一応前回の中間テストより成績を上げたのは事実だ。

 あの小テストの絶望的状況からな。

 流石という他ない。


 唯葉先輩は立ち上がり、俺のほうに歩いてきた。


「えっと……本当にありがとうございます!」

「何もしてないですけど」

「ふふ、助けてくれたじゃないですか」


 俺は自分都合で勝手に口を挟んだだけだ。

 褒められるようなことはしていない。


「あとごめんなさい。泣いちゃいました」

「誰にも言わないので安心してください」

「そうしてくれると助かります」


 家に入る直前、唯葉先輩はもう一度振り返った。

 そして若干恥ずかしそうに俯いた後、いつも通りの眩しい笑みを向けて一言残した。


「千沙山くん、ありがと!」

「こちらこそです」


 彩華さんと一緒に帰った唯葉先輩を見ながら、俺は大きくため息を吐く。

 正直めちゃくちゃ緊張した。

 緊張しすぎて訳のわからないことばかり言ってしまった気がする。

 上手くフォローできた気もしない。


 しかし、俺は最後の唯葉先輩の表情を見てふと笑みをこぼした。

 やはり唯葉先輩は笑顔の方が似合っている。

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