第690話 この木 なんの木
この日、クラウディアは自分が商人である事を忘れた。忘れて言ってしまった。
「ルッツくん、これは売らないで工房に置いてもいいんじゃないかな……?」
彼女の手元には槍がある。正確には槍の尖端、穂先が握られている。武具の芸術的価値や商品価値は認めても、性能の良し悪しまではわからぬクラウディアが珍しく目を輝かせていた。
穂先から力強さを感じる。これならばどんな相手でも貫けるだろう、それこそフルプレートを纏った騎士だろうが、強化魔獣であろうともだ。いっその事、自分が突いてみたいという危険な誘惑すら覚えていた。
「ダメだよクラウ」
と、テーブルの向かい側に座るルッツが優しげな顔をして首を横に振った。
「これはカロリーネさんの為に作った槍だ。出来が良いので他のにします、では鍛冶屋の義理に反するよ」
「そうだねえ、うん。今のは私が悪かった、忘れてくれるとありがたいねえ」
「いいさ、欲しいというのは最高の褒め言葉だ」
これはルッツの鍛冶屋としての名誉と倫理観の問題であり、同時に侯爵家絡みの仕事でネコババをするのはまずいという大問題である。ルッツはただの冗談として処理をしてくれたが、自分の口から不用意な言葉が漏れてしまった事を強く反省するクラウディアであった。これが自宅の居間であったからいいものの、公の場であればタダでは済まなかっただろう。
あるいは、才女クラウディアに危機感を忘れさせるほどの魅力を持った名槍こそ恐るべしと言ったところだろうか。
「ところでルッツくん、槍の柄はどうするんだい?」
「え?」
「そう、槍というのは長い棒の尖端に刃が付いてこそ槍だろう。穂先だけ渡して、後はそっちで何とかしてくださいと言うだけでも最低限の義理は果たせると思うけど……。いや、やっぱり向こうは三職人の手による完成品を求めているんじゃないかな」
「そうなんだよなぁ……」
ルッツは唸りながら天井を見上げた。天井の形は同じなのに、鍛冶場のある一階と違って煤で汚れていないのがなんとも不思議な感覚であった。
「まず前提としてカロリーネさんはエルデンバーガー侯爵家ご令嬢でありながら最前線で戦う暴れん坊レディだが、決して
「あまり重くない方がいい、という事だね?」
そういう事だと頷き、ルッツは話を進めた。
「柄は鉄製ではなく木製がいいだろう。だがこの穂先に見合うだけの木材、軽さと硬さを両立した素材となると、そこら辺で適当に切って来ようという訳にはいかないよな。クラウ、どこかいい木材の仕入れ先とかないだろうか?」
「あるよ」
「……え、あるの?」
ルッツとしてはダメで元々、さすがのクラウディアも材木商に知り合いなどいないだろうと考えていたのだが意外にあっさり言われてしまったので、自分で聞いておきながら驚いてしまった。
「すごいなクラウ、材木商にまで伝手があるとは驚いたよ」
「いや、これはどちらかと言えばルッツくんの知り合いと言うか、お手柄みたいなものなんだよねえ……」
「んん?」
何のことやらサッパリわからないといった顔をするルッツに、クラウディアは呆れたようにため息を吐いた。与えた恩は忘れ、受けた恩は身に刻むというのは美徳なのだろうが、彼の場合は少々無頓着に過ぎるのではないか、と。
「材木商じゃない、木こりの皆さんだよ。ルッツくんは以前、炎の魔人を倒して村を救った事があっただろう」
「あったなあ、そんな事。そうだ、あったあった。最近、彼らと疎遠になっちまって忘れていたよ。斧の研ぎを頼みに来なくなっちまったからなあ」
「斧を大量に持ち込んで『ちょっとこれ切れるようにしておいてくれや、後はよろしく』とは言いづらくなってしまったんだろうねえ。彼らにとってルッツくんはもう、気の良い鍛冶屋の兄ちゃんではなく、恩人という崇め奉る存在となってしまったんだ」
「別に気にしなくていいのに……」
と、ルッツは唇を尖らせて呟いた。
ルッツにとって何よりも苦手な事が堅苦しい人間関係である、それは自分が上位者になるパターンでも嫌であった。感謝の気持ちを綺麗さっぱり忘れられても困るが、基本的には昔と同じような付き合いを続けていきたかった。
クラウディアは肩をすくめ、ルッツを慰めるように言った。
「他人の人生に手を突っ込めば、関係は大きく変わるものだよ。良くも悪くもね。彼らは見捨てられたから離れたんじゃない、救われたからこそ遠慮してしまうんだ。どうかルッツくんにも、彼らの心中を察してあげて欲しい」
「そうか。まあ、救われたというのであれば……」
少し寂しいと思うくらいどうという事はないはずだ、ルッツは渋々と頷いた。
「話を戻そう。木こりの皆さんは木材の専門家だ、彼らに相談すればいい感じの木材を譲ってもらえるかも知れない。そうでなくとも良い木材を入手するにはどうすればいいか、良い木材の見分け方はどうかなど教えてもらえるだろうね」
「まずは行ってみろ、という事か」
ルッツが聞き、クラウディアは無言で深く頷いた。
柄の素材を探す事まで鍛冶屋の仕事なのだろうかと疑問が浮かんできたが、ルッツはすぐにそれを打ち消した。素材の重要性はつい最近学んだばかりだ、良い木材を使う事で槍がより素晴らしい物になるというのであれば動く価値はある。それはきっと、刀鍛冶としても良い経験になるだろう。
「よしわかった、行って来る」
「え、今から?」
クラウディアが止める間もなくルッツは立ち上がり、一階に降りてロバちゃんを連れて飛び出して行ってしまった。
「忙しない男だね、まったく。徹夜明けで寝てないだろうに……」
居間にひとり残されたクラウディアは長い髪を人差し指に巻き付けながら、呆れと楽しさが半々といった表情で呟いた。
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