第686話 笑顔の理由

 グエンは約二ヶ月ぶりに連合国へと戻ってきた。一晩家族とゆっくり過ごし、翌朝早くに家を出て皮なめし職人の工房へと向かった。


 皮なめし工房は村から少し離れた場所にある。何故かと言えば臭いがキツイからだ。まだ工房まで距離があるというのに腐敗臭と刺激臭が漂ってきて、グエンは顔をしかめながら歩いていた。


 蠅が耳元を飛び回り、ブゥン、ブゥンと羽音を鳴らす。蠅の羽音というのはどうしてこうもうるさいだけでなく、神経を苛立たせるのだろうか。


 忙しく走り回る職人たちを捕まえて、親方は何処だと何度も尋ねてようやくたどり着いた。


 この世の全てに悪態をついているような顔で、ピンと張った皮から余計な肉や脂を削ぎ落としている初老の男がいた。彼がこの皮なめし工房の親方である。


「おいゴードン、土産を持って来てやったぞ」


 グエンが声をかけるも、ゴードンと呼ばれた親方はチラと眼を向けただけでまた黙って作業に戻ってしまった。


 国王付きの騎士、族長の夫に対してあまりにも無礼な態度であるが、グエンも慣れたものでいちいち注意しようとは思わなかった。この男に礼儀を教えようなどと時間の無駄である。


「例の鍛冶屋からの返礼品だ。いらねえってんなら俺がもらっておくが」


 グエンがそこまで言うとようやくゴードンは手を止め、差し出された短刀を引ったくるように受け取った。


「何だ、本気だったのか」


「口約束を全力で守るのが男の美学と信じているタイプの人間だ」


「くだらねえ」


 鞘から引き抜くと、ゴードンの片眉がピクリと動いた。


 武具の芸術的価値などわからぬゴードンだが、これが素晴らしいものだという事だけは一目で理解した。ただの社交辞令などではない、片手間で作ったのでもない。これを打った刀鍛冶は、本気で自分に礼を言うために贈ってきたのだ。


 ゴードンは柄を握る、離すというのを何度も繰り返した。これは自分がなめした革だとハッキリわかった。自分の作品が刀の価値を更に上げているのだ。


 じっと刀に見入っていた。ゴードンは刀の作者であるルッツと会った事などない、顔も知らない。それでも濃密な会話をして、お互いに認め合えたような気がした。


 刀を握ったま動かぬゴードン。表情は全く変わらないが、喜んでもらえたのだろうなとグエンは判断した。


「もし良かったら、奴が次に交易所へ現れた時に会えるよう手配してやろうか?」


「何故だ?」


「いや、何故って言われてもな……」


 職人同士で話し合いたい事もあるのではと、グエンとしては親切のつもりで言ったのだが、ゴードンには本気で意味がわからないといった顔をされてしまった。


「俺は革を贈った。ルッツとかいう若造は革の価値を理解して認め、革を使った短刀を贈ってきた。俺たちは認め合った。それだけでいい、顔を合わせる必要などない」


 話を終わらせたくて区切るようなゴードンの口調に、グエンは少し疲れてきた。頑固、意固地、人間嫌い。職人にはそういうタイプも多いのだろうが、付き合わされる方はたまったものではない。


「俺は明日にでも王都へ向かい、国王陛下に刀を献上するつもりだ。その刀の柄にもお前の革が使われている。王がその価値を認めれば、皮なめし職人の地位も上がるだろうさ」


「王が認めれば?」


 ゴードンは軽蔑したように片頬を歪めてフンと鼻を鳴らした。


「奴に出来るのは革がどれくらいの値段で売れるかという金勘定だけだ。芸術性という意味で革の価値がわかる訳じゃない」


「職人ではない王にそこまで求めるのは酷というものだ。価値のわかる奴が側についていればいい」


「いるのか、そんな奴が?」


 ゴードンの質問にグエンは何も応えられなかった。国王アルサメスの側近に職人の世界に詳しい人間などいないはずだ。


 この国では職人が軽視されているという証しでもある。辛うじて気に掛けられているのは武具作製に関わる職人だけであった。


 特に皮なめし職人たちの地位は低い。工房はどこの村でも離れた所に追いやられ、村への出入りも制限されている。婚姻は皮なめし職人の一族や猟師、食肉解体職人などの関連業者同士でしか出来なかった。


 ルッツあたりに言わせれば、世に絶対必要な職業を軽視する社会は不健全であるといったところだろう。


「戦争ではなく産業で国を豊かにしようと願うなら、差別や偏見はなくしていかなきゃならん」


「偏見とは言うが、俺たちが臭いのは事実だからな」


 ゴードンはつまらなさそうな顔で言い、離れた所に並べられた樽を指差した。そこから強烈な異臭が漂っている。


「あれが何だかわかるか?」


「いや、さっぱりだ」


「剥がした皮をなめし液に漬けているところだ」


「そのなめし液ってのは何だ?」


「皮を柔らかくしたり、毛を処理しやすくする為に漬ける液体で内容は様々だ。石灰水、灰汁、あるいは樽一杯の小便だったりな」


「ションベン!?」


 グエンは驚き眼を見開いた。やたらと蠅が集まっている樽があると思えば、そういう事であったらしい。


 その反応が面白かったのか、ゴードンはクックと不気味な笑いを漏らした。


「一晩漬け込んだ後なんか凄いぞ。水面が真っ黒になるほど大量の蠅が溺れ死んでいやがる」


「お、おう……」


「他にも、皮を柔らかくする為に犬の糞を刷り込んだりもしているな。そうした作業はどれも外の連中には理解出来ん事だろう。偏見をなくそうと下手に作業内容を広めれば、余計に見る眼が厳しくなるだけだ。あまり余計な事はしてくれるな。この前のように、革の買取価格を少し上げてくれるだけでいい」


 他人には何も期待していない、自分たちは閉じた世界で生きていくしかない、そんな絶望が伝わってくる。


 だが、本当に彼は何もかも諦めきっているのだろうか?


「……嘘だな」


 と、グエンは呟くように言った。


「何だと?」


「お前は仲間たちの生活が少しでも良くなる事を誰よりも願っている。革の価値が上がった時は感動すら覚えていただろう。だから感謝の気持ちを込めてわざわざルッツたちに自信作の革を贈ったりしたんだ、違うか?」


「知ったふうな口を……」


「偏見を今すぐなくすのは無理だろう。だが生活水準を上げる事は出来る。大量に皮をなめし、大量に革を納めろ。その度に俺はお前らの家を新しく建て替えたり、食い物や酒をたっぷり用意してやる」


「他の連中から苦情が出るぞ、あいつらだけ優遇されすぎているとな」


「それこそ良い機会だ。連合国にとって皮なめし職人がいかに重要であるかを力説してやるさ」


「……ご苦労なこった」


 ゴードンは薄く笑ってまた作業に戻った。今までとは少し違う、皮肉や自嘲の消えた素直な笑みであった。

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