第566話 男の園

 ウィルソンは工房に戻ると、すぐに高弟のふたりを呼び出した。


 高弟とは多くの弟子の中でも特に優れた者という意味だが、このウィルソン工房においては一番マシな奴という扱いであった。世間一般の物差しを当てれば、そこそこの腕でしかないだろう。


「何のご用でしょうか?」


 ひとりが酷く暗い声で聞いた。人生に何の希望もなく、親方の不甲斐なさを責めることにすら飽きたというような声だ。


 ウィルソンは心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚えた。私たちはなんと惨めな集団なのか、と。


 いや、これからだ。これからは違う。先の見えない闇の中から抜け出す為の光は示された。自分たちの足で出口まで歩かねばならない。


 ウィルソンがルッツの提案について語ると、弟子のひとりは信じられないといった顔をしていた。もうひとりは侮蔑の表情を浮かべていた。


「独自技術をわざわざ垂れ流すとは、そのルッツって奴はアホなんですか。とても正気とは思えない」


 言い終わるか終わらないかというタイミングで、室内にバシンと乾いた音が響き渡った。ウィルソンが平手で弟子の頬を殴り付けたのだ。


 殴られた弟子は怯まず、怒りもせず、ただじっとウィルソンを見据えていた。


「確かに我々とは価値観が違う。だが、懐の深いお人である事は確かだ」


 ウィルソンの言葉にも怒りはない。ただ淡々と語るのみであった。


「……惚れましたか」


 頬を腫らせた弟子が言葉を噛み締めるように聞いた。


「ああ、惚れたね」


 ルッツの男気に惚れ込んだと、ウィルソンもハッキリと答えた。


 しばし無言で見合った後で、弟子は深々と頭を下げた。


「先ほどの発言を謝罪し、撤回します。どうか俺もお供させてください」


「おう」


 ウィルソンもこれ以上咎める事はせず、弟子の申し出を受け入れて明日の予定について語った。


 高弟ふたりが親方の私室を出た後でウィルソンは椅子に深く腰を下ろし、ため息を吐いて天井を見上げた。


 弟子たちだけではない、この街の鍛冶職人全てがルッツに対して何となく不信感や不快感を覚える気持ちもわかる。


 技術は秘匿すべきものであり、技を盗んで覚える為に苦労を重ねてきた者たちにとって、ルッツのオープンな姿勢は自分たちの人生を否定されているようにも思えるのだ。だから技術公開をありがたいと思うのと同時にルッツを避けるという、矛盾した行動を取っていたのだ。


 ……馬鹿な話だ。技術を得る為なら何でもやるというのであれば、若造の靴でも尻でも率先して舐めるべきだろう。盗む事は出来ても頼む事は出来ないなど、プライドと呼ぶにはあまりにも中途半端だ。


 きっと誰もがわかっているはずだ。それでも素直に出来ないのが人間であり、年を取るという事なのだろう。自分はギリギリ間に合った。だがそれはルッツが快く受け入れてくれたからである。


「惚れた、か……」


 弟子に言われた言葉を反芻はんすうする。


 当然それは恋愛感情という意味ではない。人が人の人柄に惚れ込んだという事だ。しかしこうして口にすると何だか気恥ずかしいものがある。


 彼を師と呼べなかった事だけは残念だ。


 ウィルソンの口元に微かな笑みが浮かぶ。やはり、惚れたというのが今の自分に一番合った表現なのだろう。




 翌朝、ウィルソンと弟子たちは本当にちょっとした事で悩んでいた。どんな服を着ていくべきだろうかと。


 こちらは礼を尽くさねばならない立場である。貴族に挨拶をしに行く時のような綺麗な服にするべきだろうか。いや、着飾って工房へ行くのは逆に失礼だろうか。


「前回の技術公開の時はどうしました?」


 弟子の質問に、ウィルソンは顎に手を当てて考え込んだ。


 親方衆十五人を集めての技術公開、懐かしさすら覚える随分と前の話だ。自分の服と、皆の服装はどうだっただろうか。


「……そうだ、思い出した。あの時も綺麗な服で行って私だけ浮いていたんだ。他の親方衆は汚れていない作業着だったかな」


「今回は俺たちもそうしましょう。ひょっとすると刀作りを手伝わせてもらえるかもしれませんし……」


 そうだな、とウィルソンは深く頷いた。


 相槌を打たせてもらえるかもしれない、炉の温度などを確かめられるかもしれない。そんな時に服を汚しちゃ悪いから遠慮してくださいね、などと言われては目も当てられない。


「しまった、綺麗な作業着がない……ッ」


 弟子が頭を抱えていた。


「誰かに借りろ、誰かにッ!」


「そもそも小まめに洗濯している奴なんかいるでしょうか……?」


「一番マシなのでいいから!」


 こうして慌ただしく時間が過ぎていき、早起きしたのにギリギリという何とも言えない悲しい結果となった。




 早朝の職人街をウィルソンたちが小走りで進む。ルッツ工房が近付くにつれ、ウィルソンは少しずつ不安になっていた。


 ……彼は本当に私たちを受け入れてくれるだろうか?


 工房に着いた途端に、


『嘘だよバァカ、タダで教える訳がないだろ!』


 などと言って門前払いされたりしないだろうか。


 ルッツはそんな事をしない、そんな男ではない。……はずだ。


 よくよく考えれば自分はルッツの何を知っているのだろうか。会った回数はたったの二回、彼の人柄を語るにはあまりにも少なすぎる。惚れたとは言うが、それはただの片思いだ。


 職人たちが彼を技術の価値もわからぬ愚か者と見下していたように、技術を得る為の行動を起こさぬ職人たちを彼が軽蔑していたとして何ら不思議な事はない。


「ううむ……」


 希望の屋敷へ向かうウィルソンの足は酷く重くなっていた。ルッツに嘲笑され門前払いされてしまえば自分が恥をかくだけでなく、ウィルソン工房そのものの恥となり二度と立ち直れなくなってしまうだろう。


「親方、到着しました」


 弟子の声で顔をあげると、そこには確かに見覚えのある扉があった。つい先日うろうろと探りまわり、そしてルッツに刀を突き付けられた場所だ。ウィルソンは無意識のうちの首筋を撫でていた。


 大丈夫、今日は正面から入るのだ。不審者扱いされることはないだろう。


「失礼、します……」


 ノックをして扉を開けると、むわっとした熱気が溢れ出した。狭い工房内に押し込まれたおとこおとこおとこ。誰も汗をかいていないのに汗臭さだけは漂っていた。


「おう、遅いぞウィルソン!」


 そう声をかけたのは長老だ。親方衆筆頭の老人が自ら進んで弟子たちと一緒に炭切りをしている。


「ちょっとそこ通してくれ」


 背後から言ったのは水桶を抱えたモモスだ。オリヴァーはロバに餌をやっている。


 ……なんだ、この空間は?


 親方と高弟たちが雑用をやらされているというのに不満を覚えるどころか皆の顔は実に明るい。刀作りを見せてもらう対価として渋々下働きをしているという訳ではなさそうだ。皆、この状況を楽しんでいる。そんな顔だ。


 ウィルソンの頭に中年と老人が公園ではしゃぎ回っているような光景が思い浮かんだ。ここはつまりそういう場なのだ。堅苦しい事を抜きにした、職人たちのお祭り会場だ。


「は、ははは……」


 全ては杞憂、今までひとりで悩んでいた事が馬鹿らしくなってきた。


 私も手伝います、そう言ってウィルソンは腕まくりをして工房に足を踏み入れた。

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