第554話 錬禁呪師 第五幕

 舌が痺れたように動かなかった。


 この女の為に公爵家次男という立場を投げ捨てた。気に入られたいから錬禁呪術を必死に学んだ。彼女との出会いで人生が大きく変化した。


 後悔した事は一度もない。


 そんな最愛の女性から殺してくれと頼まれて、即答出来るはずもなかった。


 ならばどうする、生きろと言うべきか。母と幼子たちを惨殺した罪を忘れて、共に逃げるべきか。


 ミィナは両眼を強く閉じて大きく首を振った。


「こうして話していられる時間は少ないわ。私はまたすぐに正気を失って、誰かを傷付けてしまう。だからお願い、私を愛してくれているなら……ッ!」


 叫ぶように言ってからミィナはいきなりグラウコスの腰に下げられていたナイフを引き抜き、グラウコスの身体を突き飛ばした。


「ミィナ、何を……ッ!」


 ミィナは立ち上がり、己の首に躊躇なくナイフを突き立てた。鮮血が勢いよく吹き出し、遺跡の壁が朱に染まる。


「ミィナぁ!」


 グラウコスは自害したミィナに駆け寄ろうとした。だが、何か様子がおかしい。


 死んでいない、ミィナは立ったままこちらをじっと見ている。いつの間にか出血も止まっていた。カランと音を立てて落ちたナイフの先端が、高熱の炉に突っ込んだかのようにドロドロに溶けていた。


「死ねない、死ねないのよ……」


 グラウコスは膝から崩れ落ちるミィナを受け止め、強く抱き締めた。


 血なまぐさい小部屋にミィナの嗚咽だけが響く。


 やがて意を決したグラウコスがミィナの耳元で囁いた。


「わかった。これから研究を進めて必ず君を殺す方法を見付けてみせる」


「ごめんねグラさん、酷い事を頼んじゃって……」


「君は何も悪くない。これは俺たちの罪だ」


 彼女を殺したらその後で自分も死のう、グラウコスはそう決意していた。


 愛と呼ぶにはあまりにもグロテスク。身勝手でもあるだろう。


 しかし、投げ出す事だけは絶対に出来なかった。




 ミィナは牢に監禁しておく事となった。


 正気でいられるのは一日に三十分程度。それも日を追うごとに段々と短くなっていった。


 精神だけでなく、ミィナの身体にも変化が起きた。脚が大きく膨れ上がり、触手へと変わったのだ。それは毎日成長し続け、触手の数も増えていった。


 ミィナの身体が大きくなるほどに牢も変えねばならず、最終的に遺跡の最奥、古代神殿のような大きな場所を牢に改造して使う事となった。


 その頃になるともう完全にミィナの理性は失われていた。数日に一度のペースで触手が切り離され魔物が生み出されるので、その対処もしなければならない。


 グラウコスは自ら志願してミィナと一緒に牢の中で生活するようになった。ミィナもグラウコスが側にいる時は暴れ出さないのでこれは適任であり、必然でもあった。


 ある日、レヒト・シュトラーヘ公爵が視察にやって来た。いつまでも研究中、調査中といった報告では誤魔化しきれなくなったのだ。


 凶悪な魔物に変化した娘を晒し者にするようで気が進まなかったが、オリアスは仕方なくレヒトたちを特殊牢の前へと案内した。


 上半身が美しい女性、下半身がおぞましい触手の化け物を見上げ、レヒトは感心したように言った。


「何だ、大成功ではないか」


 錬禁呪師たちは耳を疑った。悲劇と悪意の積み重ねによって堕ちた姿の、何が成功なのかと。


 理解出来ないのかと、レヒトはフンとつまらなさそうに鼻を鳴らして言った。


「こいつを王国か連合国にでも放り込めばそのまま壊滅させてやれるだろう。実際にやるかやらぬかはともかく、抑止力としては十分だ」


 政治、どこまでいっても政治の話だ。レヒトにとってオリアスの妻子や浮浪児たちの事など、どうでもよかった。要は使えるかどうかだ。大貴族としてはむしろ当然の考え方である。


 恐れながら、とオリアスは震える声で言った。


「まだ制御する方法も、いざという時に殺す方法も見付かってはおりませぬ。下手に解き放てば帝国が焦土となりかねませぬ」


「フン、そうか。急げよ、いつ必要になるかわからんからな」


 それだけ言うとレヒトと護衛たちはいつまでも汚らわしい場所にはいられぬと早足で去っていった。


 オリアスは倒れそうになる身体を、太い鉄格子を掴んでなんとか支えた。


「教授……」


 グラウコスが不安げに声をかけると、オリアスは哀しげな眼で愛娘を見上げた。


「一日でも早く死なせてやらねばならんな。奴らに利用される前に」


 はい、とグラウコスも悲壮な覚悟を持って頷いた。




「少し外の空気でも吸ってきたらどうですか?」


 公爵の来訪から数日後、イヴァンが見かねたようにオリアスへ提案した。


「……休んでいる暇などない」


「最近、鏡とか見てます? 顔色が青いのを通り越して土気色ですよ」


「むぅ……」


「研究者が休む事を罪悪だと思ってはいけない。そう教えてくださったのは教授ではないですか」


 イヴァンは錬禁呪師以外の者を見下す悪癖のある男だが、一方でオリアスを心から尊敬し、仲間たちには優しいところがあった。


 恩師に少し休んで欲しいというのも、本心からの言葉である。


「しかしな、皆が働いているというのに私だけ休む訳にも……」


「逆ですよ逆。一番偉い人に休んでもらわなきゃ、下の者も遠慮して休めないんです。教授が戻って来たら僕が休みますんで、どうか僕の為だと思ってお願いしますッ!」


 おどけたように言うイヴァンに、オリアスは何ヵ月ぶりかもわからぬ微笑みを浮かべた。


 そこへ大柄な女性が現れた、ミザリィだ。交代で休みを取ろうかという話を聞くと、彼女も快く賛同してくれた。


「いっその事、街に出て一週間くらいのんびりしてきてはいかがでしょうか?」


「おっ、いいなそれ。そうしましょうよ教授」


 などと言って、ミザリィとイヴァンが半ば強引に話を進めた。


 その後、ディアドラとフォリーに休暇の事を話すと彼らもそれは良いと頷いてくれた。


 グラウコスからは無責任だと責められるかもしれないなと、少し心配しながら話してみると以外な事に一番喜んでくれたのは彼であった。


「濁った頭で研究を進めたっていい事なんか何もありませんからね。リフレッシュしてきてください」


「……すまない、グラウコス」


「教授がいなけりゃ何も出来ないってほど、やわな鍛えられ方をしていた訳じゃありません。こっちは任せてくださいよ」


 と、伸びたヒゲ面に明るい笑みを浮かべて送り出してくれた。


 皆には本当に心配をかけてしまったようだ。そして、数多くの過ちを犯した自分をまだ慕ってくれている。


 オリアスは感動し、皆の想いに応える為にも休暇を取る事にした。


 小さな鞄を持ち、遺跡の入り口を隠した小屋を出ると、数か月ぶりの日射しが青白い顔に突き刺さった。


 森の空気が美味い。靴を通して伝わる土の感触が新鮮だ。辛い事すべてを忘れるなど出来ないが、それでも少し心が軽くなった。


 爽やかな気分でいられたのは半日だけだった。森を抜けて街へと向かう途中で、彼は野盗に囲まれた。

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