第552話 錬禁呪師 第三幕
「ちょっ、ちょっと待ってくれミィナ!」
「なぁにグラさん?」
「なぁに、じゃないだろう! 何故そうなる、何故君が犠牲になる必要がある!? どうしてもと言うのであれば俺が実験台になる!」
婚約者が必死に止めてくれる、それ自体は嬉しい。だが、とミィナは寂しげな笑みを浮かべてゆっくりと首を横に振った。
「ダメよ、グラさんだけは絶対にダメ」
「何故だ!?」
「貴方はシュトラーヘ公爵家のひとだから……」
しかし、と反論しようとするグラウコスの肩にポンと手が乗せられる。振り返るとオリアスが苦渋の表情と、慈愛に満ちた眼を向けていた。
グラウコスはシュトラーヘ公爵家の次男である。グラウコスに負けず劣らず兄も屈強で病気知らずの男であった。グラウコスに『次期当主のスペア』という価値はあまりない。
グラウコスにはふたりの弟がいる、つまりは四人兄弟であり次男が錬禁呪師に惚れ込んで家を飛び出したところで無理に引き戻されるような事もなかった。こんな奴は家に閉じ込めていても面倒なだけだと思われていたところも大きい。
厄介者である、大した価値もない。それはそれとしてシュトラーヘ公爵家の血筋なのである。一介の研究者風情が公爵家次男を実験動物として扱ったなら、それはシュトラーヘ公爵家の面子を潰したという事になるのだ。怒らないはずがない。いや、そこで激怒して厳罰を下さねば大貴族としての権威は保てない。
少々直情的で情熱的に過ぎるが、グラウコスは決して馬鹿ではない。ミィナの意見は理解出来る、そして婚約者の言葉を感情にまかせて否定するほど傲慢ではないつもりだ。
それでも、正面から『貴方とは身分が違う』と言われているようで悲しかった。
そんな事を考えてしまうのは自分の精神がまだ子供っぽいからなのか。いや、ここで大人ぶって、知ったような顔で頷くような真似はしたくなかった。
いつの間に立ち直ったのか、ディアドラがやって来て子供たちを安心させようとぎこちない笑顔を振りまきながら別室に案内していった。
そんな行動もミィナが犠牲になる事を肯定しているようで腹が立った、心の中で難癖を付けてしまう事に自己嫌悪が湧いてきた。
口にするべき言葉が見付からない、そんなグラウコスにミィナは微笑みながら言った。
「別に犠牲になるって決まった訳じゃないよ。グラさんたちが儀式を成功させてくれればいいだけ。今まで色んな実験をして、データも集めた。皆で頑張ればきっと成功するよ」
「成功するとかしないとか、そんな問題じゃない!」
そう叫んでからグラウコスはがくりと膝を突いた。頬が熱い、涙が流れている。それを恥ずかしいとか、大の男がみっともないと思う余裕もなかった。
「君に死んで欲しくないとか、婚約者を辛い目に遭わせたくないとか、そう思うのがそんなにワガママかよ……ッ」
泣きじゃくるグラウコスの前にミィナが膝を突き、目線を合わせた。
「ありがとう。貴方がそう思ってくれるだけで嬉しいよ」
ミィナはグラウコスの頬に手を添えて引き寄せる。薄闇の中で唇が重なる。涙の味がした。
永遠にも一瞬にも思える刻が過ぎ去り、ミィナはもう一度グラウコスに微笑みかけてスッと立ち上がった。
「お父様、これは私たち錬禁呪師にとっても利のある話です」
「……聞かせてくれ」
「公爵は私たちを切り捨てたがっています」
「ああ、それは薄々感じていた。自分に従順な者たちだけの錬禁呪術チームを作りたいのだろうな、私たちから提供された資料を使って」
温厚なオリアスには珍しく、軽蔑したような表情でフンと鼻を鳴らした。権力者とはいつもこうだ、そんな唾棄すべき人間だと知っていながら彼らに頼らねば生きていけない。ああ、人の世とはなんと残酷で滑稽な事だろうか。
気持ちはわかるが、とミィナは小さく頷いてから話を進めた。
「究極の生物兵器とやらが出来上がったところで、それが私たちにしか制御出来ないものであれば切り捨てる事など出来ません。むしろこれからは向こうが私たちの扱いに気を遣う事になるのです」
「教授の娘が生物兵器となれば、こちら側に属しているのだと素人にも理解出来るか」
「はい」
ミィナはオリアスを真っ直ぐに見据え、力強く頷いた。
オリアスは愛娘の覚悟に応えるためにはどうすればいいか、それは必ず実験を成功させる事だと考えていた。
グラウコスは涙を拭って立ち上がった。そしてミィナの手を引き、強く抱きしめる。
「俺に任せろ、必ず実験を成功させてみせる」
「うん、期待しているよ。グラさん」
「全部終わったら、改めて結婚しよう」
「うん……」
「何があっても、君だけを愛し続ける」
ふたりの世界に入ってしまった。親としては何とも居心地が悪く、頭を掻きながら私室へと戻った。研究は明日からだ。
こうして錬禁呪師たちは再び研究に没頭した。
魔術付与を施された生物は二種類に分けられる。身体が完全に変化した者と、任意で元の姿に戻れる者だ。ミィナに施すべき魔術付与は当然、後者である。
しかし変身能力を残すと今度は肉体強化がしづらくなる。この矛盾をいかにクリアするかがオリアスと弟子たちの課題であった。
娘の為、婚約者の為、友の為。彼らは必死に研究を続けた。データを集め続けた。やり直しのきかない一発勝負である。
特にグラウコスなどは鬼気迫る勢いで研究を続け、数日も経つと頬がごっそりと削れていたほどだ。本当に大丈夫なのかと実験体となるミィナに心配されては立場が逆だ。
実験に絶対はない、だがやるべき事は全てやった。皆の顔から不安が薄れ、少しずつ自信が湧いていた。
「ミィナが強くなったらお前は尻に敷かれるな」
イヴァンがグラウコスに冗談を言い、皆が笑い出した。軽口を叩くだけの余裕が生まれたのだ。
大丈夫、出来る、必ず成功する。
世界最高の錬禁呪師たちが揃い、力を合わせた。巨大で精密な魔法陣を描き、出来る限り最高の宝石を用意した。出来ない事など何もないはずだ。
こうしてミィナへの、最大規模の魔術付与を施す日がやってきた。
儀式は失敗した。
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