呪われた遺産

第549話 薄闇の楽園

 薄暗く、そしてあまりにも巨大な牢獄。


 中に閉じこめられているのは下半身が十二本の触手で、上半身は天使が降臨したかと見紛うばかりの美しい女性という化物であった。


 そして牢の隅には刀を抱いてうずくまり、眼を閉じて身動きをしない男がいた。


 ひとめで強者とわかる筋肉質の身体をした武人である。汗と垢と魔物の返り血で全身がドロドロ、不潔不衛生極まりない姿であるが、どこか隠しきれない気品のようなものも漂っていた。


 彼の名はグラウコス。錬禁呪師『教授』オリアスの弟子のひとりである。


 美しき水精は数日に一度、触手を切り離して強大な魔物を産み出す。その魔物を外に出さずこの場で倒す為に彼はここでずっと待機しているのだ。


 数日に一度というのはあくまで平均的な話であり、三日続けて出て来た事もあれば、一週間くらい音沙汰なしという場合もあった。油断できないので絶えず見張っておく必要がある。


 グラウコスが牢獄を離れるのは食事と排泄の時だけであって、あとはずっとこうしてうずくまっていた。


 不満はなかった。『彼女』の面倒を見るとは自分で言い出した事だ。ここには愛がある、戦いがある。つまりはグラウコスにとっての全てがあった。


 グラウコスはそっと顔を上げて、『彼女』の美しい、それでいて感情が抜け落ちたような表情を眺めた。


「今日も、綺麗だよ」


 ぎこちなく呟くと、無骨な武人は照れ臭そうに顔を伏せてまた眼を閉じた。


 ずっと薄闇の中にいるので時間の感覚はよくわからない。どうでもよかった、彼女と共にいられるのならば。


 コツコツと遠くから石畳を叩く足音が聞こえグラウコスは気だるげに顔をあげた。


 錬禁呪師の仲間であるディアドラかミザリィだろうか。いや、とすぐに思い直した。足音は複数聞こえた。恐らくは五人ほどであろう。足音の主が誰かは予想がついた、しかし迎えに行こうなどという気は起こらなかった。


 やがて立派な身形をした初老の男と、ローブを目深に被った怪しげな者たちが牢の前に現れた。


 グラウコスはゆっくりと立ち上がり、鉄格子を挟んで語りかけた。


「お久しぶりです、父上」

「相変わらずだな、貴様は」


 息子の発する悪臭に顔をしかめながら、初老の男は忌々しげに答えた。


 アルタール帝国、シュトラーヘ公爵家当主、レヒト・シュトラーヘ。それが男の名と肩書きであった。


 本来ならば僅かな護衛を連れて怪しげな地下遺跡に足を運ぶような身分ではない。もっとも、来てくれたからといってグラウコスにとっては別にありがたくもなんともないのだが。


 レヒトは息子に向けたものと同じ、嫌悪感のこもった視線を上に向けた。


「まだこの化物の制御方は見付からんのか」


「はあ、そのようで」


「オリアスはどうした、まだ戻って来ないのか」


「音沙汰なしといった有り様で」


 のらりくらりとかわすような息子の口調に苛立ったか、レヒトはガンと強く鉄格子を叩いた。公爵家当主が怒りを露にしたのである。市井の者ならばそれだけで震え上がってしまうだろうが、やはりグラウコスの表情には何の変化もなかった。


「本当にやる気があるのか、貴様らはッ!?」


「俺はここから動けませんし、『教授』に言ってもらわないと」


「そのオリアスが行方をくらませているのだ!」


「困りましたねえ」


 どこまでも他人事のようなグラウコスであった。


 この不良息子に付き合っていては頭が痛くなるだけだと、レヒトは少し距離を取るように下がった。


「次男のお前に家を継がせる事は出来んが、それなりの家に婿養子として捩じ込む事くらいは容易いはずだった。何故、錬禁呪師の弟子になどなりおったのだ……」


「さぁて……」


 言えるはずがなかった、恋をしたからなどと。


 一目惚れをした。『彼女』に近づく為に『教授』に弟子入りし、気に入られる為に研究と武芸に励んだ。本気で取り組んでいるうちに錬禁呪術が面白くなり、そして弟子たちの中で一番の実力者となっていた。


 グラウコスは『彼女』を愛し、『彼女』もグラウコスの想いに応えてくれた。父である『教授』公認のもと、婚約までしたというのに。


 何故、こうなってしまったのか。


 グラウコスの鉄格子を掴む手に力が入り、分厚い鉄棒がぐにゃりと曲がってしまった。レヒトの表情に微かな怯えの色が浮かんだ。息子はもう、自分の知っている息子ではないのだと。


「とにかく早く結果を出せ! そうでなければ私にも考えがあるぞ!」


 苛立ち叫ぶレヒトを無視してグラウコスは護衛の者たちに眼をやった。


 その雰囲気からして恐らくは彼らも錬禁呪師だ。しかし『教授』の直弟子ではない。実力は二枚も三枚も劣るだろう。


 父の言う考えとは、彼らを使って『彼女』を無理矢理制御しようという事なのか。出来るはずがない。グラウコスは無知で短気な人間の愚かさに危惧と不快感を覚えていた。


「何故、そうまで焦っているのですか?」


「……皇帝がそろそろくたばりそうだ。後継者は恐らく私を好いてはおらぬ。地位を追われる前に圧倒的な力と存在感を見せ付けておく必要があるのだ」


 グラウコスは心がスッと冷えていくのを感じていた。この人にとっては偉大な錬禁呪術も『彼女』の存在も、政争の道具に過ぎないのだと。鋼鉄の檻よりも、もっと強固な何かがふたりを隔てているような気がした。


「他の錬禁呪師どもにオリアスの探索を急がせろ。金を垂れ流すだけでなくたまには役に立て、いいな!」


 そう言い残してレヒトは牢獄を後にし、護衛の者たちは影のように音もなく付き従った。彼らの背を見送るグラウコスの瞳に肉親として親愛の情はまるでなく、ただ軽蔑の色だけが浮かんでいた。


「好き勝手言ってくれるものだ……」


 確かに錬禁呪術研究所はレヒトから多額の資金を受け取っている。しかし研究費に見合った成果を渡しているはずだ。


 一方的に恩着せがましい事を言われる筋合いはない。


 そもそも『彼女』がこんな姿になったのも、仲間たちがバラバラになったのも、全ては権力者レヒトのゴリ押しから始まった事だ。


 グラウコスは今すぐ彼らを追いかけて皆殺しにしてやりたい衝動に駆られた。当然、公爵殺しなどすればグラウコスたちは反逆者となり、この研究所は潰され帝国に居場所はなくなってしまう。


 ……まだだ、まだ早い。


 研究所と『彼女』を守るのが自分の役目であると、グラウコスは刀の鞘を握り締めて憎悪を抑え込んだ。

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