第545話 生存への意思
流れ出す血が足元を濡らす。慣れたくもないが慣れてしまった臓物の臭い。
そんな凄惨な現場に似つかわしくない拍手の音が聞こえた。
「素晴らしい、いやあ実に素晴らしい!」
錬禁呪師オリアスが立ち上がり、満面に笑みを浮かべて手を叩いていた。その様子からして馬鹿にしている訳ではなく、見下している訳でもなく、本気で感心しているらしい。
ルッツとリカルドは油断なく刀を構えた。強大な鬼を目の前で三体始末してやったというのに、何故この男はこうまで余裕たっぷりなのだろうか。とにかく底の知れない相手だ。
「その剣、……いや、刀か? それは何処で手に入れたんだい?」
「俺が打った。魔術付与と装飾は信頼する一流の職人に頼んだ」
と、ルッツは短く答えた。
あまり情報を与えたくはなかったが、こちらも向こうを知らなすぎる。会話の中から何かを引き出せればと考えたのだ。ある程度の情報は必要経費と割り切るしかないだろう。
「なんとなんと、自作とは! こいつは驚いた。君はさぞかし名のある鍛冶師なのだろうな!」
「まあな」
油断はしていない、オリアスから眼を離してもいない。そのはずだった。
オリアスはルッツを正面から抱き締めていた。意味がわからない。
ルッツは刀を両手で持っていたのだ、それが今は両腕を挙げるバンザイスタイルを取っている。無論、自分の意思ではない。いつの間にかこうなっていたのだ。
刀の柄は両手で絞るように持つものだ。つまり安定感が高く無理矢理引き剥がすのは困難である。
しかし現実はどうだ、ルッツは愛刀『夢幻泡影』を片手で持ちオリアスの意外に逞しい身体を内に受け入れているではないか。
わからない、意味がわからない。あまりの得体の知れなさにルッツの全身から冷たい汗が流れる。震えて泣き出さなかった自分を誉めてやりたいくらいだ。
振り払えなかった、身動きが取れなかった。オリアスがその気になれば一瞬で背骨を折られるだろうと伝わってくる。リカルドもそれを理解してか、刀を構えはするものの斬りかかる事は出来なかった。
「ルッツくんといったね、私の弟子になりたまえ」
オリアスがルッツの耳元で囁く。脳髄まで蕩けそうな甘く渋い声だ。アルドル・エスターライヒ男爵がオリアスを信用してしまった気持ちも今ならばわかる。
思わず『はい』と答えてしまいそうになった。しかし声を発する直前にクラウディアの顔が思い浮かび、そしてゲルハルトやパトリック、多くの仲間たちの顔が次々と浮かんでルッツは正気を取り戻した。
「断る、俺は鍛冶屋だ……」
殺されるかもしれないという恐怖はあった。一方である程度の勝算もあった。オリアスは興味のないものに対してはとことん無関心だというだけで、誘いを断られて気に食わないから殺そうというタイプではないと考えたのだ。
彼は紳士だ。ただ、倫理観が大きく欠如しているが。
ルッツの予想は当たった。オリアスは、
「ふぅむ……」
と、残念そうに呟きながら身を放したのだ。
「仕方がないな。その気がない者を無理に誘うのはマナー違反だ」
迷宮を叩き起こして冒険者を鬼に改造するのはマナー違反ではないのだろうかと疑問に思ったが、そんな事を指摘している余裕はないのでルッツは黙っていた。
「良いものを見せてもらったお礼がしたいのだが……」
などと言ってオリアスは顎を撫でながら考え込んだ。迷宮生活、放浪生活も長いだろうに、髭はきちんと剃られている。身だしなみには気を遣っているらしい。
「ところで君たちは何をしにここへ来たのだっけな?」
「……エスターライヒ領を荒らされると困るから、あんたをとっ捕まえに来たんだよ」
「ふむ、ならばこうしよう。私はこの迷宮を明け渡してまた旅に出る、それでいいだろう?」
「む……」
良い訳がない。目の前にいるのはエスターライヒ領を荒らした犯人であり、錬禁呪師たちの中でもかなり重要そうな人物だ。
ならば捕まえられるのか、戦って勝てるのか。答えはノーだ。今は生き延びる事こそ最優先、たとえそれが敵の情けにすがる形であってもだ。無謀な使命感などくそくらえである。
ルッツは恐怖と屈辱に震える声で言った。
「そうしてもらえると、助かる……」
「そうかそうか、うん、喜んでもらえて何よりだ。この迷宮は失敗作だからな、棄てて惜しくもない。良いものを見れたので全くの無駄という訳でもなかったしなあ。あっははは」
オリアスは机に戻って書類をまとめ、鞄に詰めてから散歩にでも行くようなのんびりとした足取りで部屋から出ようとした。
「待て!」
と、ルッツはオリアスの背に声をかけた。
せっかく見逃してもらえるというのに何をやっているのか、自分でも馬鹿な事をしていると思う。しかし、これだけは聞いておかねばならない。
「お前たち錬禁呪師の目的は何なんだ!?」
「研究者に向かって、何故研究するのかと問われてもな」
ふむ、と軽く首を捻ってからオリアスは答えた。
「真理の探求と人類の進化、それだけだよ。……ぐっ!」
オリアスは急に顔をしかめ、額を強く押さえた。
「そうだ、私は世界を知って……、成すべき事があったはずだが……。それが、思い出せない……」
唸るように言い、しばし痛みに耐えた後でオリアスは余裕が少し剥がれた顔をあげた。
「すまないね、見苦しい真似をして。私も歳かな、ときどき妙な頭痛に悩まされるのだ。では、機会があればまた会おう」
冗談じゃねえぞと中指でも立てたい気分であったがルッツたちは自重し、今度こそオリアスの背を見送った。
五分か十分か、しばし沈黙が続いた後で、
「ぶはぁ!」
と、リカルドが大きく息を吐き出してその場に座り込んだ。ルッツは黙って部屋の隅に向かい、主なき椅子を使わせてもらう事にした。
リカルドはきっちりと閉められたドアをぼんやりと見ながら言った。
「逃げられちまったなぁ……」
「逃がしてもらったんだよ」
「人生最悪の日だ」
「まだ生きているという点を除けばな」
「世界は広いな、まだまだとんでもない奴がいる」
「ああ、そうだな」
鬼たちの死骸がサラサラと音を立てて崩れ落ちる。砂の中からいくつもの美しい宝石が顔を覗かせた。
ルッツはその宝石を眼で追って、山分けしたらいくらになるだろうかと考えて自嘲した。人生最大の危機であったかもしれないのにもう金の算段か。浅ましい事だ。
それでいい、生きていくとはそういう事だ。
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