明日へ

 並木通りの自然を全身で受けるツーリング。気兼ねすることはたくさんあってもこの坂道を下る瞬間だけはすべてを忘れる。すぐに小高い丘が見えてきた。その脇を進み、河川敷沿いの道へと出ていく。ハイウェイに隣接したところが目的地のショッピングセンターだ。

 ここへ初めてやって来たときにも彩葉が隣にいた。中学の同級生に「いじめられっこ同士お似合いだね」と何度も冷やかされたけど、彩葉も僕もずっと笑顔だった。そんなことどうでもいいと思えるほど二人の時間が楽しかった。

 彩葉とは開店時刻に待ち合わせしている。別人格が顔を出しているときは少し様子見してほしいとは言われていた。


「及第点ではあるかな」


 開店前の自動ドアの前で身なりを一応整えた。ベージュのニットに丈の合わないジーパン。おしゃれ下級者の限界だった。


 スマホに視線を落とす。もしいつもの彩葉なら時間にはぴったりで来るだろう。


「おーい」

 駐輪場から張った声がした。

 軽快にスポーツバイクのスタンドを地面につけると勢いよく駆け出す。


「やったー私でした!」

「おお、よかった」


 にひひと頬を釣り上げながら近づく彩葉。その乖離した会話に他の客から奇異の視線を感じるがどうでもよかった。スポーティーなストライプのズボンに黒のジャンパー、頭には紺のキャップがはめられている。ストリート系女子の風格はどちらかといえばもうひとりのアヤハ色が強かった。


「穂波さんと遊ぶってメモしたら来てくれたみたい」

 朝はもうひとりのアヤハだったようだ。

 開店時刻を過ぎた館内は賑わい始めていた。

 雑貨店でおかしな変装グッズで盛り上がったり、似合う服を選びあったりして至極の時間を謳歌した。買い物の疲れからアーバンな喫茶店に立ち寄り、彩葉はホットチョコレート、僕はブラックコーヒーを注文する。


「紘っていつも苦いの好きだよね」

「彩葉はおこちゃまだな」

「はぁー? 甘さしか勝たんし。苦みは恋の味だけで十分……」


 尻すぼみしていって最後の方はほとんど聞こえなかった。


「紘の好きはやっぱり違う好きだよね」

「なんのこと?」

「なんでもない」


 何故かへそを曲げてしまった。

 窓の外のテラス席は人がガラガラだ。寒空の下にわざわざ出向くのもありえないか。気分がどこかふわふわしている。彩葉とのお出かけに浮かれているのはそうだが、いつ入れ替わりが起きるのかわからない。緊張していないと……。

 彩葉が呆れたように鼻を鳴らす。すると僕の手元からブラックコーヒーを奪い取ると勢いよく飲み干した。


「ちょっ何して」

「げー苦い。……でも深みがある」


 苦虫を噛み締めたような顔だがどこか嬉しそうだった。


「私だって大人になったの」


 顔が赤らんでいた。


「少しくらい意識してくれたって良いのに」


 彩葉は弱々しく呟いた。

 色っぽい彩葉は顔を引き付けてくる。余計に沸騰してたじろいでしまう。


「今日は頑張ってね。これからもずっと紘の隣に立っていたいから」


 言い終わると彩葉は力が抜けてだらんとテーブルにへばりつく。どうやら入れ替わったようだ。

 頭を掻きながら首を上げたアヤハとじっと目があった。


「……」


 すぐに何か噛みしめるような表情で佇む。ここが喫茶店で大勢の人を鑑みてか糾弾して離れていこうとはしない。まるで蛇が蛙を捕らえようとするように張り詰めている。

 ゆっくりと息を整えてから口を動かした。


「あの、アヤハさん」

「気安く呼ぶな、汚らわしい」


 アヤハは両手で全身を押さえながら見下す。

 取り繕う隙もなさそうだ。

 でも後には引けない。ギュッと拳に力を入れた。


「お前らはどこまでも不愉快だ」


 ら、には彩葉が含まれているのだろうか。

 状況をすべて悟ったような顔つきになる。そして諦めたようにため息をこぼした。


「僕が何をしたか、聞かせてほしい」


 何が、には検討がついている。だけど改めてアヤハの口から聞きたかった。

 アヤハは両手で頭を抱え、そのまま髪をバサバサと払う。しばらく考え込んでいる。


「あれ、あの陰キャじゃん」

 忽然としたノイズが耳に入った。

 静かに視線を入り口にやると、二人の女子を連れた穂波の姿があった。

 嘘だろ? 別に彩葉は穂波のことを呼んだわけじゃないはずだ。だとしたら偶然?


「え、あれアヤハじゃね。こんなやつと付き合ってるの?」

「まじ? スクープなんですけど」


 ニヤリと二人の女子はいたずらな笑みを浮かべる。


「……あやっちやっぱり本気なの?」

 

 背後のアヤハの存在に気づいた穂波は困惑していた。

「付き合うなんてないだろ……」


 アヤハは絞り出すように否定した。僕を睨みながらガックリと肩を落としている。

 その視線から逃れようと僕は必死に身を捩ることしかできなかった。


「ビンタまでしといて? 本当は大好きなんでしょその陰キャのこと」


「……ワタシって実は二重人格なんだ。別人格が申し訳ないことしたのかもしれない」


「知ってたよ、二重人格ってこと。その上で友達だと思ってた」


 強い語気だった。

 しかしそんな穂波の瞳は潤んでいた。


「だから冷静になれたの。あやっちは少し特殊な事情もあるからって」 

「……穂波」

「なんでさぁ、相談してくれなかったの?」

「……嫌がられるかなって思ってたから」

「やっぱりそんな勘違いしてたんだ。一方的だったんだね私って。あやっちのことを知ろうとして仲良くしてた。あやっちは私のこと全然分かろうともしてくれてない」


 深く腰を曲げる。哀愁が漂っていた。


「あやっちと友達ではいられないかも」


 非情な言葉が打ち付けられた。

 重たい釘はグッサリと心をえぐられる。

 僕は、また壊した。

 大切な交友関係を第三者の僕が断ち切ってしまったのだ。

 アヤハはキャップを深くかぶり直したまま微動だにしない。


「もう二度と関わらないで」


 初めて、本物の絶交に遭遇したのだと思う。

 喧嘩とは全く似て非なるもので果てしなく打ちのめされる痛み、虚無感があった。

 立ち去る際の穂波のからっぽな表情がずっしりとのしかかってくる。

 お互いずっと無言のままだった。

 どうせなら罵ってほしかった。

 死ね、殺してやる。そんな暴言を浴びせられるのはどんなに軽かったか。


「ごめん」

 こんな紙粘土みたいな謝罪はとても相応しくないのに、口から勝手にこぼれ落ちていた。


「あんなに嫌いだって愚痴ってた奴と一緒に居るなんてイカれてるよな」


 アヤハは会計を自分持ちで済ませてしまうと足早に店外に出た。舌打ちされるがそれについていく。

 そのままショッピングセンターを抜けて路地に出る。だいぶ人気はなくなった。

 一月の猛烈な寒波でも、蒸し暑い湿気に侵されていた身体が生き返ってくる。


「この辺でいいか」


 ぱったりと足を止めた。

 また、殴られるかもしれない。でもその方がまだ気が楽になる。

 目をつむった。


「今日でさぁ、お前らのこともっと嫌いになれたよ」


 いつまでも拳の圧力は感じない。目を開けると清々したアヤハの横顔があった。


「もうひとりのワタシってのはな、雨の日だって外に駆け出す子供みたいなことするし、日記にはびっしりこれから何が起きるのかとか、分かんねぇこと書き込んでやがる。めちゃくちゃ馬鹿だけどめちゃくちゃ楽しそうに生きてる」


 無表情のままアヤハは曇り空に顔を上げた。


「だからこそあいつが大嫌いだ」


 アヤハが正面に向き直る。右手が僕の頭の横ギリギリをかすめ、ブロック塀に押し付けられた。 

 息が荒い。相当苦しんだ後のような渋い顔つきだ。 

 なんとなく、わかってしまった気がする。

 アヤハという二重人格は性格だけの乖離ではないんだ。

 感情さえも分離し、そのうちもうひとりのアヤハは負の感情だけをまとって生きている。それはものすごい苦痛のはずだ。

 じりじりとアヤハの顔が近づいてきた。

 覚悟は決まっていたが足はガタガタと震えていた。


「そしてお前は何度も私を痛めつけてくれるな」


 押し黙ってしまった。

 静かに首を縦に振る。きっとあの中学時代のいじめの日々に言及される。今日のことだって激しく非難するだろう。


「ワタシが生まれたときの話をしてやろう」


 アヤハは嘲るように笑った。同時に瞳からハイライトが消えた。


「目が覚めたときワタシは真っ暗な部屋にいた。そして段々暗闇から『恨むなら宇和田紘を恨め』って声が聞こえてきた」


 アヤハの声音から完全に抑揚が消えた。


「あまりの恐怖に虫酸が走った。ワタシは限界まで叫んだ。声が枯れるまで叫んだ。だけどいくらもがいても男の『宇和田紘』への憎しみが耳を貫いてきた」


 アヤハの話に希望はなかった。

 ただ絶望に打ちひしがれながら絶望を語った。


「そこにカッターを片手にした女が入ってきた。『私の教え子をよくも』ってな。……だがカッターを最後に握りしめていたのはクズ男の方だった」

 

 幼少期にトラウマが植え付けられると、一生の傷になるというのは有名だ。 

 突然生んで起こされた人格はとんでもない負担を強いられるだろう。この話の限り、生まれた瞬間に経験する恐怖のレベルは次元を超越している。その感情に寄り添うことはとても容易ではなかった。


「『宇和田紘ってやつが俺の気を損ねるのがわりぃんだよ。それにさ女の方が俺を刺し殺そうとしてきたんだ。全部の点で正当防衛じゃねぇか?』そうあいつは供述した。流石に警察も馬鹿じゃなかったけどな」


 あやははひとりで行動を起こしていた。そしてその最悪の結末をここにいるアヤハが経験した。僕のせいで。

 アヤハはおどけて、額に手を乗っけた。


「あのクズ男に直接復讐できないのなら、せめて『宇和田紘』を殺せばいい。これがワタシがお前に対する感情だ」


「……よくわかった」


 痙攣するようにアヤハは笑った。

 するとアヤハの力が抜けて身体がもたれかかってきた。


「あれ、ここどこ」


 彩葉が目を擦り、パチパチとする。


「話はできたよ。きっと未来は変わる」


 もう、決めてしまったことがあった。

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