第3話 慰めの歌声
ルーリアとの共同生活が始まって一週間、人魚の少女が身の回りの世話をしてくれる事に俺はすっかり慣れきってしまった。ただ、ずっとそういう生活を続けるのは良くないんだろうなと言う罪悪感も同時に襲って来てしまう。
この葛藤に耐えきれなくなった俺は、日が暮れてから黙って家を飛び出した。向かった先は彼女と出会ったあの浜辺。そこでぼうっと暗い海を見つめ続ける。
「何やってんだろうなぁ……」
見上げても空一面を厚い雲が覆っているのか、星がひとつも見えない。でも逆に今の自分の気持ちとシンクロしている気がして、とても安心出来ていた。
ルーリアに黙って家を出た事には少し心が傷む。けれど、10分も眺めたら飽きて戻るだろうから、そこまで大した事でもないだろう。今の俺には1人になる時間が必要なんだ。
世界の全てが真っ黒に塗り潰されて、自分もこの闇の中に沈んでいく。まぶたを閉じても閉じなくても同じ色。潮騒の音以外の音も何もない。黙って聞いていると、心臓の音と重なって何だかとても心地良い。
浜辺に腰を下ろして何も考えずにいると、瞑想をしているような状態になる。自分を構成する全てから開放されていく。
「あ、こんな所にいた!」
完全に意識が落ちようとしていたところで、彼女の声が背中越しに飛んでくる。驚いて振り返ると、ルーリアがまっすぐ歩いてきてそのまま隣に腰を下ろした。
「急にいなくなって。捜したんだよ」
「ごめん」
「私、邪魔だった?」
彼女は視線を海に向けたままポツリとつぶやく。どう答えていいのか分からなかった俺は、すぐに返事を返せない。やがて、気まずい雰囲気がこの静かな浜辺を支配して、俺は逃げ出したくなる。
そんな重い時間がどれだけ流れただろう。この沈黙を一方的に破ったのはルーリアの美しい歌声だった。
「ラーララー……ラルルラー……」
多分、彼女の――人魚の世界の歌なのだろう。俺は歌詞を全く理解出来なかった。なのに、その歌声からとても心地良い力を感じる。洋楽をフィーリングで楽しむあの感覚だ。ルーリアの歌は俺の心を溶かし、心に羽根を生やす。
やさしく静かに歌い始めたそれは徐々にテンポを上げ、段々賑やかになっていった。歌に合わせて俺も体を揺らし始めると、突然彼女が手を握ってきた。
「行くよっ!」
「え?」
ルーリアは歌を口ずさみながら立ち上がる。手を握られていたので当然俺も連動して立ち上がった。次の瞬間、ふわりと体が浮かぶ。そこで歌の勢いが最高潮になって、気がつけば俺達は空を飛んでいた。
「楽しいでしょ?」
「何で飛んで……」
「心を空っぽにして! そうすればもっと高く早く飛べる!」
「えぇ~?!」
彼女は楽しそうに歌い続ける。透き通った歌声がグイグイと引っ張っているようだ。しばらくはこの未知の感覚が怖かったものの、落ちる事はないと確信してからは段々と心も軽くなっていく。
「そう、そんな感じ!」
「すっげぇ……最高だ~!」
「じゃあ、クライマックス行くね~」
彼女はさらに伸びやかに歌声を夜の大気に響かせる。それに合わせて、俺達は様々なアクロバティック飛行をした。急上昇、急下降、急旋回、きりもみ飛行……更に自由に、思いのままに。頭を空っぽにして、感覚だけを研ぎ澄ました。それがとにかく楽しくて、さっきまでの悩みもどこかに吹き飛んでしまう。
ルーリアの歌が終わると同時に俺達はまた元の場所に着地。こうして、楽しい時間はあっさりと終わりを告げた。俺はスッキリした気持ちで彼女の顔を見る。
「有難う、何だか心が軽くなった」
「良かった。これでもう元気だね」
ルールリアも満面の笑みで俺を見つめ返した。そこで何だかおかしくなって、ほぼ同時に笑い始める。しばらくそんな時間が続いた後で、俺の頭にはてなマークが浮かんだ。
「さっきのも魔法?」
「これは人魚の歌。魔法とは別」
彼女いわく、人魚は全員こう言う不思議な歌を歌えるらしい。その効果は様々でさっきみたいに空を飛んだり、人の心を操ったりも出来るらしい。
「そういや、人魚の歌声って船乗りを惑わせるんだっけ?」
「あっ、見て!」
ルーリアが指差した先に視線を向けると、そこには満天の星空があった。いつの間に雲が晴れたのだろう。天上の宝石箱はまるで奇跡のように輝いていて、俺達はしばらくその芸術作品を無言で鑑賞したのだった。
しばらくして彼女は立ち上がると、俺に向かって手を差し出す。
「じゃ、帰ろっか」
「それ、俺の台詞じゃね? 俺の家だよ?」
「私、連れ戻しに来たんだけど?」
その言葉に俺は反論出来なかった。黙って家を出たのだから、悪いのは自分の方だ。気持ちが落ち着いたのもあって、素直に差し出された手を握る。俺のプチ家出はこうして気持ちのいい結末を迎えた。
帰宅した後、俺はルーリアに座ってもらって向かい合う。
「あのさ、俺、今無職だろ」
「会社が倒産したんだよね」
「再就職出来るかどうか不安なんだ。自信がなくて」
俺は今までの経緯を彼女に話し始める。産まれてから学校を卒業するまでの事、就職活動で失敗し続けた事、やっと入った会社でも失敗が続いた事、その会社が倒産してしまった事……。
「結局、自分の無力さを痛感しただけだったんだ。もっと俺が有能だったら会社もまだあったかも知れない。流されるまま何も出来なかった」
「でもいいじゃん。まだ生きてるし。これからだよ」
ルーリアはそう慰めてくれて、その流れでまた歌い始める。今度は終始ゆっくりとしたリズムで美しい歌声。傷ついた心をやさしく抱きしめてくれるような感覚が、俺のトラウマを癒やしてくれた。
気がつくと俺の頬を涙が伝う。悲しい訳でも嬉しい訳でもないのに。その時感じていたのはただ、感謝の想いだけだった。
「有難う。何だか救われたような気がする」
「良かった。これでまた就活頑張れるね」
彼女の笑顔が俺に勇気をくれた。今目の前にこんな奇跡が起こっているんだ。きっとまたいい会社に巡り会えて、再就職だって出来る気がする。人生何が起こるか分からない。悪い事もあるだろうけど、きっと同じくらいいい事だってあるはずだ。
翌朝、俺は気合を入れてハローワークへと向かう。背中越しにルーリアの元気な声援を受けながら。
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