第7話
その後二日間、深い山中を彷徨ったが、その時のことはよく覚えていない。一度だけ、僕を探しに来たらしい『大人』を見かけたが、長い触手の先で足元の草をガサガサと突っつくばかりで、本気で僕を探しているようには見えなかった。僕は木の上に身を潜めて奴らをやり過ごした。
それから行き倒れているところを山菜取りに来たおばあちゃんに助けられて――保護された僕が最初に知ったのは、外の世界は、あの施設で教えられたものとは全く違っているということだった。
まずは言葉――僕たちは言葉もろくに話せぬ子供の頃からあの施設の中だけで育ったから、自分達はごくあたりまえの言葉を話しているのだと信じていた。だが、僕らが使っていた言語は、世界中の言語すべてをあたっても出てこない特殊なものだった。名前も、
僕はそのことに気づいてから早々に言葉を学び、名前も鈴木一郎というありきたりなものに変えた。バイトを見つけて日銭を稼ぎ、そうして僕はブヨブヨとみっともない水袋みたいな姿になることもなく、ごく当たり前の大人になった。
それから10年の間、僕はこの街で平穏に暮らしてきた。だけど今夜、誰も知らないうちに、僕はこの街を出て行こうと思う。それもできるだけ早く。
理由は、隣に越してきた若い夫婦だ。別に、この夫婦とトラブルがあったというわけじゃない。ただ……僕は、うっかり聞いてしまったのだ。
その夫婦は昼間、安っぽい熨斗をつけたタオルを持って引っ越しの挨拶に来た。ぱっと見だけでは何のおかしなところもない普通の人間の夫婦に見えたし、引っ越しの挨拶もごく普通のものだった。僕は挨拶からの流れで、軽い世間話を夫婦に振った。
「それで、どちらから越していらしたんです?」
ショートカットで小柄な可愛い奥さんが、ニコニコしながら言った。
「クディアルク=ヒルからです」
僕は一瞬、凍りついた。それはもう10年も耳にしていなかった忌まわしい言語だ。
僕はできるだけ不自然にならないように、顎に手を当てて考え込むふりをした。
「聞いたことないな、外国の地名ですか?」
ヒョロヒョロと背の高い旦那さんが笑った。
「ええ、まあ、そんなところです」
白い、白い、真っ白な通路の真ん中に投げ出されたような気分だった。脇の下が滲み出した汗でじんわりと冷たい。
僕は最低限の挨拶だけを、ひどく愛想よく笑いながら交わして、それで夫婦を帰らせた。玄関のドアを閉めた途端、堪えきれなかったかのように、全身からドッと汗が噴き出した。どうやって化けたのか外見は当たり前の人間と何一つ変わらない、それが途方もなく恐ろしかった。
思えば、奴らは『人間の飼育』に長けていた。僕らに与える情報も意図的にコントロールしていたのだし、人間の通俗にも精通していたことは明らかだ。何より、時折施設に連れくる新しい赤ん坊を、どこで調達していたのか――
この街を出たからといって、どこぞいくあてがあるわけじゃない。二度と奴らに会わないという保証もない。いや、むしろ今日のような偶然はこれからもあるだろう。
僕は身の回りの意必要最低限だけを鞄に詰めて家を出た。夜遅いこともあって、駅前通りに向かう細い道には誰もいなかった。道の両脇に聳え立つ壁は白く、街灯の灯りを照り返して明るかった。
僕は、何だかその真ん中を歩くのが怖くて、壁にピッタリと身を寄せた。
クディアルク=ヒル 矢田川怪狸 @masukakinisuto
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