第5話

 道は途中で一度、右に折れた。先は広く開けているらしく、通路の終わりが穴蔵の入り口みたいに見えた。穴蔵の中も真っ白に塗られているらしく、距離感というものが一切わからなかった。

 ふと、ネミュアが今までとは打って変わった気弱な声を出した。

「あのさあ、ごめんな」

 僕は足を止めた。

「なんだよ、いきなり」

「ビビってるとか言ったことさ、本当は、ビビってたのはボクの方だったんだ」

 僕はここで初めて、ネミュアが小さく身を震わせていることに気づいた。彼の声は涙でうるんで揺れていた。

「本当はさ、わかってるんだ、ちゃんと言葉にできないけど、なんか、怖いんだ、怖くて怖くて、本当はこのまま、帰ってしまいたいんだ、君がさっきから何度も、そういうことを言いたがってるってこと、わかってたんだ」

「もういいよ、ここまで来ちゃったんだから」

 僕は怒っていないことをわからせようと、ネミュアの肩に優しく手を置いた。彼は本格的にベソをかきはじめた。

「よくないよ、わかんないんだけど、怖いんだ、怖くて怖くて仕方ないけど、それは怒られるのが怖いわけじゃなくて、何か怖い原因があるわけじゃなくて、だからうまく言えないんだ」

 仕方ないことだと思う。施設にある書物は限られていたし、テレビもなかったし、何よりも施設の中は安全で、僕たちは恐怖に対する語彙と疑似体験をあまり持ち合わせていなかった。

 だけど、今の僕ならば、その時に感じた恐怖を的確に言い表すことができる。僕たちはその時、今まで聞いたこともない音を聞いていた。それは水をたっぷり詰めた薄い袋同士がぶつかり合って、中の液体がトプ、トプンと揺れる音だった。

 つまり穴蔵の向こうに『大人』がいる気配、その息遣い、そして僕らでは想像もつかないような何かをしている、それらが怖かったのだ。

 だけど不思議なもので、ネミュアが怖がり出したことによって僕の恐怖はすっかり消え失せてしまった。むしろ僕の気持ちは研ぎ澄まされたみたいに冷静になって、ここに来た本来の目的を強く思い出した。

「怖いのを我慢してでも、ヨッツェムに会いたかったんだろ?」

 ネミュアがこくこくとうなずく。

「だって、挨拶もなしにいきなりいなくなるなんてさ」

 人前では明るく振る舞うネミュアは、周りから誤解されがちではあるが、実はひどく気をつかう性質だ。手前勝手に振る舞うのも、彼の外見の可愛らしさから弟扱いする周囲に合わせてのことであり、本質は癇癪持ちで内向的。彼がそうした本来の自分を見せる相手は僕とヨッツェムしかいなくて、だからこそヨッツェムに対する執着が強かったのだろう。

「わかるよ、ヨッツェムが僕らになんのメッセージも残さずいなくなるわけがない」

「もし、なんのメッセージもなかったら……」

 言い淀んだネミュアの脳裏に浮かんだのは、自分が見捨てられる恐怖だろうか、それとも――

「せっかくここまで来たんだ、確かめてみよう、大丈夫、きっとヨッツェムは僕たちだけにわかる何か、メモとか、暗号を残してくれているはずだからさ」

 僕はネミュアの背中を押した。トプ、トプン、タプ、タプンと水の揺れる音は続いていたけれど、僕たちは白い通路を奥へと進んだ。水音の合間に、小さく囁き合う声が混じった。

「ネシュレム、ケスト」

「レア、レアクス、ル、ラ」

 それは僕たちが聞いたこともない単語の羅列だった。

 僕とネミュアは、穴蔵の入り口に身を隠して中を――怪しい囁きの発せられるその部屋を覗き込んだ。そこはやはり天井も壁も真っ白に塗られた、だだっ広いだけの四角い部屋だった。

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