第3話
鍵はかかっていなかった。ネミュアが扉を引くと、重たい金属が擦れてゴゴッと低い音がした。電気などはひとつもなくて、中はうす暗かった。
ただ、入口から差し込む光がかろうじて届く深さに、もう一枚、扉があった。そちらも金属でできているようだが、一枚目の扉に比べると随分とチャチで油断しきっているような風情があった。
「うわ、ひっでえ匂い」
自分の服の袖で鼻を押さえたネミュアの、その仕草を今でも思い出す。確かにその小さな空間は不快な匂いで満たされていて、僕も思わず嘔吐きあげた。
「あれだ、こないだ、たぬきの死体を見つけたじゃん、あの匂いに似てる」
日向に置きっぱなしにした生ゴミの匂い――それも、肉の切れ端やら魚の内臓なんかをたっぷりと詰め込んだ時の。不快この上ない匂いだ。
それでもネミュアは鼻先を袖で覆ったまま、二枚目のドアに向かって歩き出そうとしていた。僕は彼が片足を上げたところに声をかけた。
「おい、本当にいくのか?」
「え、あれ、いかないの?」
「いや、その、なんていうかさ……」
僕がその時感じていたものは、多分、本能的な恐怖だったのだと思う。例えばじっとりと湿気を吸い込んだ不快感とか、部屋の隅に蟠った闇の中にありもしない『何か』の気配を感じたりとか、ただの金属製のドアが陽の光を返して妙に明るく光っているように感じるとか、言葉で言い表しにくいそういう本質的な恐怖。
「嫌な予感がするんだよ」
僕はネミュアを引き戻そうと手を伸ばしたけれど、彼はぴょいと軽くはねて僕の手をかわした。
「だいじょうぶ、大丈夫だって」
彼にあったものは薄っぺらな理屈と、そして『大人』への信頼感だった。
「ここがこんなに臭いのはさ、掃除が行き届いていないせいだよ、だって、僕らは立ち入り禁止なんだから、誰もここを掃除してないってことだろ」
「それは、まあ、そうなのかもしれないけど……」
「それに、鍵、かかってなかったじゃん、本当に入っちゃいけない場所だったら、鍵がかかってるもんだろ」
今ならば理由も分かる。人間は虫かごに鍵をかけたりはしない、それと同じだ。
だけど僕は子供で、しかも煽りに弱かった。
「なんだよ、もしかして、暗いからビビってる?」
ネミュアがニヤリと笑うから、僕は慌てて暗がりの中に一歩だけ踏み込んだ。
「ビビってないよ、ただ、嫌な予感がするってだけでさ」
「それをビビってるって言うんじゃん?」
「だからビビってないってば!」
それを証明するために、僕は薄闇の中を踏み進んで、ネミュアより早く二枚目のドアに手をかけた。ドアの表面はぬるついていて、僕は思わず手を止めた。
そう、それはまったく奇妙な感覚だった。ドアは大気中にしっかりと立っているにもかかわらず、まるで水の底に沈んだ苔むした岩のようなぬるりとしたものに覆われていた。ドア自体もなんだか、金属にしては生暖かいような気がした。
本当はいっときも早くドアから手を離したかったのだけれど、背後からネミュアに煽られた。
「どうしたんだよ、やっぱりビビってんじゃん」
「ビビってなんかいないったら!」
僕は両手でドアノブを掴み、少し爪を立てながらそれを回した。鍵はやっぱりかかっていなくて、ドアは簡単に開いた。と、同時に、眩しい白が僕の視界を焼いた。
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