6
彼女の頬に落ちた雪が溶けていく。涙みたいに張り付いてた。雫になってするりと落ちる。こんな風に人だって気持ちだって、いつの日か全部どこかへ流れていってしまうんだ。自分じゃない誰かの元へ。
「アンタって、とっても純粋な人ね」
彼女がふっ、と笑った。諦めたみたいに。
「それってすこぶるダメってことじゃん」
「でも、そういう人嫌いじゃないわ」
「好きでもないけど?」
「ねえ。あの時アンタ、アタシに訊いたよわね。どうして殺したんだって」
深く沈んだヘーゼルアイが、僕の眼を覗き込んだ。静かに。
「あの人のこと好きだったから」
彼女の両目が澄んでいるのは迷いがないからだ。知ってるんだ、もう逃げ続ける理由なんかないことを。
「それ以上の理由なんて、どこにもないの。きっとね」
彼女は僕に背を向けた。華奢な背中に掛かった髪が束になってユラリと揺れる。
女の人なんて放っておいたって、どこかで巧い具合に何かに寄りかかって生きていくんだろう。塀から飛び降りた猫が予定調和で着地するみたいに。壊れそうなくせにしなやかだから。
太陽を見つめて眩暈を起こしそうだったのは僕だ。どんな眼をしているんだろう、あの日の幻から逃げ続けていてる僕は。
集団墓地の静けさ、草の匂い、エンジンの鼓動、カラスの羽ばたき、外れてるヘッドライトの枠、折れそうな足首、ヒマワリの黄色、紫の花、香水草、チェリーの砂糖漬け、駆けていくのは藍色のシャツを着た僕、いたいけな少女——シルベット。君はいまも醒めない夢をみてるの?
悲しみが嫌いだからグレたふりをしてきたけど、僕は少し変だったのかもしれない。いま僕の右手が触れているのは、あの娘の手じゃないってことがこんなに心許ないから。
懐に隠したピストルに手を掛けた。命ってやつも案外、こんな風に掌に収まる重さなんだろう。こんなチンケな道具でいつだって簡単に死ねるのに、人間はいつも“必死”で生きてる。
そっとこめかみに宛ててみる。不気味に硬い感触。
神様は僕たちを愛しちゃくれないけど、やっとその意味がわかった気がする。でもそのことについて考えたくなんかない。これっぽっちも。
僕の気持ちが変わることなんてもうありえない。たとえいますぐ奇跡がおきて、世界中が幸せに満ち溢れても。どうせ僕は生きてはいけない。そんな世界、退屈すぎるから。
「ケリーっていうの、アタシ。アンタは?」
振り向いた彼女の唇が小さく震えた。僕は少し笑って、ピストルをこめかみから外す。
「冗談だよ」
掌の中でピストルをくるりと回してみた。口元の微笑がゆっくりと苦笑いに変わるのを感じてる。
絶対、なんてそんな決意すら数秒後に揺らいでる。臆病風に吹かれて。誇り高く生きてなんていけない、いつだって無様にぬくもりを求めてる。それが僕なんだ。
シルベットを指差して笑ってたあいつらの気持ちがいまならよくわかる。嫌われるのが怖いからあらかじめ全てを嫌っておくんだ。そうすれば怖いものは寄って来ないから。中途半端なアルコールは酩酊させてくれない。絶望だってそうだ。何もない、そう思うことで心を満たしてる。
だってそうしなくちゃ、生きてられない。
何が怖いって、自分がひとりぼっちだってことに気付くことだ。生まれてから、死ぬまで、ずうっと。それが怖くて僕は走り続けてた、きっと。
「ロメオっていうんだ」
僕はピストルから弾を抜いた。投げ捨てる。できるだけ遠くへ。パラパラと乾いた音が石畳に散った。こいつが恋しくなったらそこが僕の終わりだ。
「ねえ、ケリー。君の事、愛してるよ」
僕はジョークになるくらいマジな顔を作った。自分でも冗談なのか本気なのか、よくわからなかったけれど。彼女はこらえきれないで噴き出した。
「アンタって、ほんとにただのナンパ師だったのね」
「もしかして、天使だと思ってた?」
「まさか」
僕らは声をあげて笑った。手を差し出したのはどっちだったろう、そんなことはもうどうでもいい。僕は彼女の手を握り締める。ぎゅっと。
僕たちに明日なんかないってこと、逃げ出したあの時からわかってた。だけどいまは笑い続けていられるような気がしてる。迫りくるサイレンの音に、この声が掻き消されても。
人の肌を憶えてしまったら、手放すことなんてもうできやしないんだ。求め合うことに難しいことなんて何も要らない。僕がいて、彼女がいる、それだけでいい。
心はいつも、からっぽだから。
ヘリオトロープ 三次空地 @geniuswaltz
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