4
バスケットケースにメロンソーダとホットドッグを詰め込んで、僕たちは旅に出た。誰かが置き去りにした水色の車で。バックシートに血が染み付いていたけど、そんなことで気が滅入るほど僕らは綺麗な心を持っちゃいない。
ヒマワリの咲く丘で、シルベットは小さな本を取り出した。彼女は字が読めなかったから、僕に読んで欲しいと本を寄越す。ページのぐるりは黄色く焼けていた。詩が書かれている。
「きっとこの本には、大事な事が書いてあるの」
僕のたどたどしい朗読に耳を傾けるシルベットは、時々風の中に消えてしまいそうだった。不安になってそっと腕に触れる。滑らかな肌と、確かな温もり。
「ライラックってどんな花?」
「二インチくらいで赤くて、なんか地味で、そんなに人気はないんじゃないかな。でもこの人はこの花が大好きなんだよ」
シルベットが微笑む。僕が適当なことをいっているのはわかっていただろう。花のことなんか良く知らない。だけど確かなことを求めているわけじゃない。詩人が両腕に抱えた真っ赤な花を思い浮かべてる。一緒に。
僕たちは語り合うほどの思い出を持ち合わせてなかった。草の海に沈みこんで、溶けていく雲を眺めていた。晴れ渡ることを知らない、薄曇りの青。
「退屈だね」
僕は睫毛に止まった羽虫を払う。
「次はどこに行く?」
シルベットがその細い指を突き出した。空を刺すように。
「天国」
「まだ死にたくないよ」
「でも、生きてたくもないわ」
彼女の囁くような声が、僕の中の触れちゃいけない部分を鋭く突き刺した。なるべく考えないでいたことが、心を通さずに口からでていく。
「——神様が僕らを受け入れてくれると思う?」
シルベットは首を振った。ゆっくりと。
「悪いことをしなくても汚れている人間はたくさんいるのにね」
世界は歪な天秤でできていて、どちらかがいつも重くなっていないといけない。
優位なものは下を覗きこんで慈悲深い言葉を投げかけ、劣位の人間はそれを睨みあげて唾を吐きかける。どうせ自分の顔に落ちてくるのだけど。そうするとどこかから下品な笑い声が聞こえる。誰が笑ってるのかみんな知ってるくせに、知らない振りしてる。
僕はそのシーソーゲームから降りて、支柱辺りでそれを眺めてた。世の中のどんな決まりも、仕組みも、僕には関係ない。僕のやってきたことがいつかそのルールの中に僕を押し込めようとするかもしれないけど、それはそれでいいだろう。
「ねえ、知ってた?」
モスグリーンの瞳が僕には見えない何かを見つめてた。夜の気配を含んだ水色の風の中に。
「何を」
「心がいつもからっぽだってこと」
そういったシルベットの悲しそうな横顔、今でも忘れてない。
シルベットは人の世に這い上がってきた悪魔なんだ。だって、彼女はとっても綺麗だったけど、醜いものが嫌いな天使ならきっと簡単に絶望して死んでしまう。汚れがないことは、汚されやすいことと同じだから。
アテのない旅がどこまで続くかなんて誰も知らない。どこにたどり着くのかも。いまどこにいるのかだって関係ない。手を伸ばせばお互いの近くにいる、それだけでいいような気がしてた。いつも憶えている違和感を、シルベットと一緒ならどこかにやってしまえる。そんな風にさえ思えた。
でも本当は知り尽くしてしまっている。居場所なんて世界中探したってどこにもないことを。望みもしなかったのに与えられた役割を担い、日々をやり過ごすように生きていかなくてはならないのだ、僕も、彼女も。
ある朝、窓辺の彼女は泣いていた。
「夢って残酷ね。見れば見るほど現実が空しくなるんだもの」
抱きしめたらシーツがするりと抜ける。明けきらない空の薄い光に照らされてる、彼女の猫みたいに柔らかな身体のライン。僕のぎこちない仕草が映画のロマンチックなシーンを真似たように思えたのか、シルベットは少しだけ笑った。滑らかな赤毛が揺れる。甘酸っぱい香りが零れた。
愛してる、といおうとしたけれど、少し躊躇ってから諦めた。僕の心からそんなものが生まれてくるなんて思えなかったから。きっとこの空気に酔ってるだけ。
「泣かないで」
そうだ。この瞬間に触れ合って感じている体温以上に、意味のあるものなんてありはしない。その他はすべて果敢無い偽物。
「ねえ」
シルベットは毒婦みたいに笑う。涙を溜めた目はどこまでも澄んでいて、嘘のない色をしてた。
「私にくれる? あなたのすべて」
「いいよ、別に」
僕のすべて——それって何か、わからなかったけど。
「私を眠らせて。——永遠に」
それがシルベットから聴いた最後の言葉。
僕はひとりでモーテルを抜けた。薄闇の中を水色の車は走る。シルベットと一緒だった、あの丘を目指して。
新しい光の下で、不自然に一輪のヒマワリが倒れてた。そのそばに降り立った茶色の小鳥がミミズをついばむ。掘り起こされた土の柔さの意味など知りもせずに。世界は何も変わらない。何も。哀れな娼婦が一人、いなくなったくらいで。
スコップを放り出し、僕は地面に寝転がる。草いきれと土の香りの中に、微かに残るチェリーパイの匂い。
生ぬるい雫が頬を流れたのは、風がただ、目に染みたから。
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