第10話 小悪魔なクラスメイト
翌朝、俺が朝食を取っていると、母親が唐突に話しかけてきた。
「そう言えばあんた。昨日授業中に変な音声聴いてて先生に怒られたらしいじゃない」
「ぶぅっー!」
俺は啜っていた味噌汁が喉の変な所へ入ってしまい、むせてしまう。
「な、何でそれを母さんが知ってるんだよ⁉」
「今朝紫音から聞いたのよ。確か、ASなんたらとかいうやつ? 全く、真昼間から授業中にそんないかがわしいものを聞くんじゃないの!」
「ASMRな。ってか、ASMRは別にいかがわしいものじゃなくて、リラックス効果のある列記としたバイノーラル音声だから。ほら、自然音とか森林浴とか効果があるっていうだろ? あれと同じ感じなんだよ。俺はただ、昼休みに休憩がてらそれを聴いて脳を休ませようとしてただけで――」
「はいはい、分かったから。とにかくそのASなんたらはしばらく学校では自重しなさい」
母親は聞く耳を持たず、俺の言い分を適当に受け流し、言いたいことを言い終えてさっさと話を切り上げてしまう。
くそっ……!
ASMRは変なものじゃなくて、健全なものなのに……!
ってか紫音のやつ、母さんに告げ口しやがったな!
一番知られたくなかったのに……クソッ、卑怯な奴め!
当の妹は既に家を出ていたので、愚痴の一つ言うことも出来なかった。
◇◇◇
いつものように台賀と一緒に学校へ登校して教室に入ると、何やらクラスメイト達からのクスクスとした笑い声が聞こえてくる。
何事かと辺りを見渡せば、クラスメイト達からのバカにするような視線が俺へと向けられていた。
「あーあっ、こりゃまた随分とやってますわー」
「どういうことだ?」
「ほら、前の黒板見てみろよ」
台賀に言われた通り、俺は教室前の黒板へと目を向ける。
そこには――
『もう、ASMRでビクビクしちゃうなんて、雪谷M男君は変態なんだから♡』
と、二次元キャラのイラスト付きで俺を馬鹿にする文字が書かれていた。
なるほど、そう言うことね。
大体の状況は把握した。
クラスの誰かが、ASMRの浅はかな知識を調べ、俺を
俺はスタスタと教壇へと歩いて行き、黒板消しでその板書された絵と文字を消していく。
ったくよ、ASMRのことを何もわかってないにわか風情が、ふざけるんじゃねぇぞ!
書かれていた文字を消し終え、俺は自席へと向かっていき、そのまま周りからの目を避けるように机へ突っ伏した。
「いやぁーやっちまったな礼音」
ドンマイと俺の肩を叩きながら、台賀が労いの言葉をかけて来る。
「ほっといてくれ台賀。朝から俺のライフはゼロなんだ」
だが、台賀は机に突っ伏して
「にしてもまさか、礼音がASMR好きだとは思ってなかったわ」
「悪かったなASMR好きで」
「別に悪いと言ってねぇよ。ただ、俺は肌に合わないだけだ。あの生々しい音を聞くと、ぞっとして鳥肌が立っちまうしな」
「あぁ、そうかい」
どうやら俺と台賀のそりは合わないようだ。
「まあまあ、気にするな。誰だって欲望や願望ってのはあるもんだ。俺だって、最近は
サムズアップして、意気揚々と自分の性癖を暴露する台賀。
その背後へ、一人の影が忍び寄る。
「そう……なら今後一切、その捻じ曲がったフェチズムを感じないよう、全力で痛みと恐怖を味わわせてあげる!!」
ズゴッ、ドスン!
刹那、教室に鈍い音が響き渡り、軽く床が振動する。
俺が慌てて顔を上げると、隣にいたはずの台賀の姿は消え失せ、代わりに立っていたのは、クラスメイトの
「死ね、クズ、変態、ザコ!!」
悠羽は怒涛の勢いで罵倒の言葉を繰り返し、ゴミを見るような目で視線を地べたに向けている。
その視線を追っていくと、ひらひらと揺れるスカートから伸びる悠羽のしなやかな足の先、つまりは上履きの底でぐりぐりと踏みつけられ、顔面がぐにゃりと変形した台賀の残骸が横たわっていた。
悠羽は、肩にかかるかかからないかほどのボブカットの髪を揺らしながら、台賀をグイッ、グイッと力一杯踏み付けている。
「あぁ……やっぱり悠羽ちゃんに踏まれるのは最高だぜ」
踏み付けられている当の本人は、デレっとだらしなく顔を歪ませ、歓喜の涙を流して喜んでいる。
そんな、二人のSMプレイを目の当たりにした俺は、頬を引きつらせ、呆れ交じりに声を掛けた。
「悠羽、それじゃあ台賀にとって、ただのご褒美だぞ?」
「うるさい
悠羽はそう言うと、すっとバランスを取って台賀の顔の上へ両足を乗せると、全体重をかけて押し潰す。
「うっ……今日はいつにも増してハードな仕打ちだぜ悠羽ちゅぁっ……んごっ⁉」
「じゃべるなクズ。お前に感想を述べる権利なんてない」
蔑むような目で台賀を見下しながら、悠羽は無表情のまま器用に上履きで台賀の口元を塞ぎ、声を出せなくする。
「まーたやってるよあの二人」
「石川君、踏んで貰うためにわざと沼部さんを煽ってるんでしょ?」
「あの二人も大概だな」
そんな、二人のSMプレイを遠巻きに見ていたクラスメイトは、くだらないといった様子で、冷ややかな視線を送っている。
「こいつらに比べたら、俺はまだまとも枠で通ってたんだけどなぁー」
今は亡き、平凡人畜無害ポジションを失ってしまった俺は、悲しみのため息を付いてしまう。
「ASMR聞いてるのがバレたぐらいで何落ち込んでんの? 別に大したことじゃなくない?」
「いやっ、俺にとっては一大事だっての」
俺の学校生活の平穏が脅かされているのだから。
「しばらくいじられ対象になるだけなんだし、それで済むなら安いもんでしょ?」
「悪いけど、俺は悠羽と違ってメンタル強者なわけじゃないから。容易く事態を受け入れられる方がレアだと思うぞ?」
「周りがどう思おうと関係ないじゃん。趣味は人それぞれだし、だからこその個性でしょ? それに、私は少なくとも、雪谷がASMR好きだとしても、幻滅したりしてない」
流石は中学時代からの旧知の仲なだけあって、悠羽は寛大な心を持ってくれていた。
「悠羽……」
俺が悠羽へ感動の眼差しを向けていると、悠羽は台賀をステッパー扱いするように足踏みしながら、ポンっと俺の肩へ手を置き、耳元へ顔を近づけてきて、小声で囁いてくる。
「まっ、私からすれば、雪谷をいじるいいネタは見つかったみたいな? こうやって、耳元で囁かれるのが好きなんでしょー? フゥーッ!」
「⁉」
悠羽の唐突な耳フー攻撃に、俺はぶるりと身震いして仰け反ってしまう。
「キャハッ! 本当に弱いんだぁー。ふぅーん……へぇー」
まるで、面白いおもちゃを見つけたように、悪い笑みを浮かべる悠羽。
再び俺の耳元へ口を近づけてきて――
「このザーコッ!」
悠羽は、可愛らしいくも小悪魔的な声で罵ってくる。
虚しくも、俺の身体はビクンと反応してしまう。
「うっわ。マジでビクンビクンしてる。キッモッ!」
ゾクゾクと身体の中から、いけないようなものが沸き上がってきている気がして、俺は一度大きく身震いしてから、悠羽の元から距離を取り、自身の耳を手で押さえた。
ヤバイ…。
一瞬、台賀の言っている悠羽の魅力みたいなのが分かりかけてしまい、俺はぶんぶんと首を振り、煩悩を振り払う。
すると、悠羽が呆れたようなため息をつき、肩をすくめた。
「にしても、ASMRで女の子とイチャイチャ体験して現実逃避するぐらいなら、リアルで彼女の一人でも作ったらいいのに」
火の玉ストレート、悠羽の鋭い言葉の
「う、うるせぇな! 彼女が出来てたら、こんなんになってねぇっての。ってか、悠羽だって彼氏いねぇだろうが!」
「私はいいの、女の子だから。雪谷は駄目、男だから」
「何その謎理論⁉
「でも想像してごらんよ? もし彼女が出来たら、普段音声でしか味わうことのできないうらやまシチュエーションを、リアルで体感することが出来るんだよ?」
「な、なんだって……⁉」
「しかも、配信と違って一人占めできる」
「……ゴクリ」
悠羽の魅惑的な提案に、俺は思わず生唾を飲み込んでしまう。
もしそれを、先ほどのように小悪魔悠羽がしてくれるのであれば……。
「じゃあ、悠羽が俺の彼女になってくれよ」
「へっ……私?」
突然の変化球に、悠羽がぽかんとした顔で自身を指差す。
「だって、悠羽なら俺の事バカにしたりしないし、リアルで体感させてくれるだろ⁉」
俺が前のめりにまくし立てると、悠羽はそっぽを向きながらつぶやいた。
「雪谷みたいなM男、興味ない」
「ガーン……」
開口一秒、俺、瞬殺で振られる。
「バーカッ。そんなナンパみたいにホイホイ告白してきてるようじゃ、彼女なんてできないわよ。誠実さが足りないし」
「うぐっ……た、確かに……」
「まあでも、もし本当に出来なかったときは、仕方がないけど考えてやらないこともないけど」
「えっ、でも悠羽、俺みたいなM男は嫌だって」
「うっさい、アンタもコイツみたいに布雑巾みたいになりたいわけ?」
悠羽の下を見れば、ぺしゃんこになっている
「まっ、後は雪谷の頑張り次第だから、彼女作りガンバ!」
そう言って悠羽は、今まで踏みつけ続けていた台賀をトランポリン代わりにしてピョンと飛び跳ねると、華麗に空中で一回転して着地。
そのまま、言いたいことは言い終えたとばかりに踵を返し、自席へと戻って行ってしまった。
俺は去っていく悠羽の後姿を見送ってから、床で倒れている変態へと声を掛ける。
「生きてるか台賀?」
「あぁ……やっぱり今日も、悠羽ちゃんは最高だぜ」
あれだけ雑巾の様に扱われ、鼻血を出しているにもかかわらず、台賀の表情は非常に満足げだ。
そんな
「彼女を作れば、リアルでヤりたい放題……か」
だが、残念ながら俺は、平凡な男子生徒、恋愛系ラノベで言う、クラスにいるモブキャラに過ぎない。
なんならASMRバレしてしまった今、俺にとっては彼女を作ることなど、ほぼ不可能に近いだろう。
「無理ゲーじゃねーか……」
どうやら、俺に春が訪れることは、まだまだ先のことらしい。
この時はまだ、そう思っていた。
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