第7話 天の川

 夜、アレックスはこっそりとソファを抜け出した。

 レーダはジークを抱きしめてすやすやと寝息を立てている。マンドラゴラはぬいぐるみのようにやわらかくはないはずだが、彼女の安眠には役に立っているようだ。

 一緒に寝てくれる相手がいて、少しうらやましい。アレックスとて両親と一緒でなければ寝られないほど幼くはないつもりだ。それでも親元を離れて以来、ふと寂しさと心配事とがぐるぐる頭を巡って、眠りを妨げる夜がある。

 アレックスはレーダを起こさないように、静かに外へ出た。

 枯草ばかりの地面に腰を下ろした。涼しい夜である。見上げた夜空は満天の星、それを切り裂くような白い天の川。見事な景色のはずだが、不安を抱えたアレックスには不吉に思えてならなかった。

(エンペリアはいま、どうなってるんだろう。お父様とお母様は無事だろうか)

 七月一日の変事を、姉弟はまだ知らない。両親がエンペリア城内に囚われていることも。

 両親に会いたいと思いはするものの、実行に移すことはできそうもない。アレックスはこの家から逃げ出したいとは思わなかった。

 この常灰の森が、地図上のどこにあるのかすら知らないのだ。藁売りの馬車に乗り込んで、いつの間にか連れて来られただけである。

 お金もなければ、勇気もない。ひとりではエンペリアに帰ることすらできない。

 ここから動けないのは、ゾルマの呪いとは関係がなかった。ただアレックスが臆病なだけだ。

「やあ、こんなところにいたのかい」

 背後から声がした。ジークだ。

「ごめん、起こしちゃった?」

「いや。そもそも私は植物だから、人間のような睡眠は取らないんだ。レーダが眠れるまで、添い寝してあげているだけだよ。……よいしょっと」

 ジークもアレックスの隣にちょこんと座った。短い足を折りたたみ、短い腕で抱え込んでいる姿は、確かに愛らしい。レーダの言う「かわいい」が、アレックスにも少し分かった気がした。

「なあアレックス、もし嫌でなければ聞かせてくれないか? 君たちがこの森に来た理由を」

 アレックスは頷いた。

 元はエンペリアの貴族の子どもだったこと。レーダが家出しようと言い出したこと。宰相閣下が国王陛下を裏切るらしいこと。もし本当にそうなったら、国王陛下に近しいお父様にも、自分たちにも累が及ぶだろうこと。

 でも、エンペリアから離れてしまって、いまあの街がどうなっているのか知る手立てがないこと。

「なんと、レーダの言うことが本当なら、この国はまたもフォン・グローバー家のために危機に陥っているというわけだ」

「また……って、どういう意味?」

「おや、大人に教わったことはないのかい?」

 アレックスは再び頷いた。

 この国の歴史は、貴族として当然知っておくべき教養だ。きっとレーダなら知っているのだろう。しかしアレックスはレーダほど聡明ではないし、まだ幼い。家庭教師からあまり多くを学べていないまま、この森へ来てしまった。

「私の知っていることは少ない。何せ百年前のことだからね」

 ジークが語り始めた。

 いまから百年前、フォン・グローバー家は王家と激しく対立していた。野心溢れる若き当主ルドルフ・フォン・グローバーは、現宰相ヴァルターの曾祖伯父そうそはくふにあたる。「つまり、ひいおじいちゃんのお兄さんだ」と、ジークが親切に付け足す。

 フォン・グローバー家の騎士団は、当時フリーゼ王国軍に匹敵するほどの軍事力を有していた。もし彼らが本当に叛旗を翻していれば、国を二分する大戦争になったかもしれない。

 だが、いよいよ蜂起かというそのときに、突然ルドルフが死んでしまったのだ。

「どうして?」

「夜中眠っているときに、心臓が止まってしまったのだそうだよ。まだ二十歳をいくらか過ぎたばかりの健康な青年だったはずだがね。王の命令で暗殺されたのだという噂もあったようだが、王家は否定しているらしい。結局真相は闇の中だ」

 フォン・グローバー家は当主の急死で混乱したうえ、跡を継いだルドルフの弟オットーは凡庸でおとなしい性格だった。結局反乱は実行されることがないままうやむやになってしまったのだそうだ。

(オットーは、きっと僕みたいな人だったんだろうな)

 アレックスは内心考えた。

 それから百年、フリーゼ王国に目立った動乱はなく、少なくとも表向きは平和が保たれていた。

「アレックス、もし本当に宰相閣下が反乱を起こしていたとしたら、君はどうする? エンペリアに戻りたいかい?」

 ジークの問いに、アレックスは迷うことなく首を振った。

「お父様とお母様には会いたいけど、……でも、捕まるのは怖いし、どうせ僕には何もできないし、戻りたくない。弱虫で自分勝手だよね」

「それは違うな」

 ちょん。

 ジークの細い腕が、うつむくアレックスの背をつついた。おそらくジークは叩いたつもりなのだろうが。

「君は賢明な判断をしているだけだ。何も恥じる必要はあるまい。ゾルマにこき使われるのは不本意だろうが、少なくともここにいれば安全だ」

「うん」

 ジークは「両親は大丈夫さ」などと、気休めの慰めを言いはしない。それがアレックスには心地よかった。

「さあ、そろそろ寝ないと、明日の仕事に差し支えるぞ」

「うん。あのさ、ジーク、……よかったら、今夜は僕と一緒に寝てくれる?」

「お安い御用だ」

 アレックスはジークを抱きかかえてソファに戻った。硬そうだ、と思っていたが、表面は意外としっとりすべすべで手触りがいい。頭に咲いた星形の花から、かすかに甘い香りがする。

 おやすみアレックス、よい夢を。

 ジークのささやきにいざなわれて、アレックスは眠りに落ちた。

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