第5話 包容

頭をつんざくような第九の旋律が、僕の中を駆け巡る。

その女は、光悦の色を持った瞳で、じっとりと僕を凝視した。

手には何も持っていない。ただ脱力した腕をだらんとぶら下げ、地縛霊のような浮遊感と共に立っていた。

気味が悪いなんてものではない。今から自分が何をされてしまうのか、想像できてしまうのが耐え難いほど恐ろしい。

ぐらりと、唐突にそれは動き出した。

ひゅっと、言語化できない高音が口から漏れ出てしまった。

頼む、来ないでくれ。お願いだから。

奥歯がガチガチと情けなく震え、脳から血の気が引いていくのが分かる。

のっそりと、ゆっくりと、……それは僕の上に乗りかかってきた。

嫌だ!!逃げなければ!!!

しかし、ベッドに繋がれた足枷が、それを不可能なものにした。

僕はただ何もできず、ついにその女にマウントポジションを取られてしまった。

下原 玲華は無表情のまま、ぐっと顔を近づけてくる。

僕はやっとこさ喉をこじ開け、微かな抵抗の声を上げた。

「や、やめろ、……何を、何をする気だ。」

「…そんなに怖がらなくてもいいよ。大丈夫、優しくするから…。」

「や、やさし……い、って……。」

駄目だ。狂っている。こんなことをしておいて、優しいもくそもあったものか。

するとこの狂った女は突然に、僕の背中に手を廻し、力強く抱きしめた。

「ぐ、あっ……痛い!!」

なんて力だ。欲望に溺れた人間というのは、ここまで力強くなるものなのか。

とても華奢な女の力だとは思えない。

それでいて、……冷たい。この女、本当は死体なんじゃないのか。

はぁ、と、この女の汚れた感情から漏れ出た濃い吐息が、首筋にかかる。

あまりの不快感と嫌悪感から、背筋にゾクゾクとしたものが走る。

ろくに手入れされていないのだろう、ボサボサの白い髪が顔に触れるのが、たまらなく不愉快だった。

………僕を抱いたまま、この女は耳元でこう囁いた。

「あぁ……ずーっと、こうしたかった……。空琉くん……。」


あぁそうかい。そりゃよかった。僕はすぐにでも、蒼空を翔けたい気分だよ。

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ルナティック肺炎 sid @haru201953

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