第3話 日暮れ

ガチャリとドアノブを捻ると、安っぽいドアの音が響いた。

ただいまは言わない。中に母親はいるだろうが、別に返事が返って来る訳ではないので無言でキッチンへ向かう。まだ水滴が滴っている牛乳瓶を冷蔵庫に入れ、足早に自分の部屋に向かう。

映画やロックバンドのポスターが貼ってある部屋には、大した勉強道具はない。狭くも広くもない部屋は、自分をよく表しているように思えた。

CDラックから無造作に一枚選び、本日の午後をよりよいものにするための音楽を選ぶ。今日は我が生涯の友、ビートルズの”マジカルミステリーツアー”だ。CDプレイヤーにセットし、プレイボタンをポチリと押す。

楽しげなトランペットの音色が、僕に素晴らしい夕方をプレゼントしてくれる。ベッドにごろりと寝っ転がり、今日の”夜散歩”の予定を立てるのだった。



――――最近、夜の町を散歩するのがちょっとした楽しみになっていた。

すっかり見慣れた桜木町が、昼間では見られない顔を見せてくれるのが面白くて、意味もなくぶらぶら歩き回るのだ。

淡い光を灯す街路灯が、薄暗く焦げ付いたアスファルトを怪しく照らしている。

夜の桜木町の空は、今日も薄曇りだった。ただその中に一人、ぽつんと佇む月が、妙に綺麗に見えて……。歩道橋の上で、僕は空を仰いでいた。

……この町が好きだな。周りには車はおろか人っ子一人いない。この静かな町が、いつまでもここに居させてくれるような安心感をもたらしてくれる。

…突然、ふっと月が雲に隠れてしまった。

それを見計らって、僕は地面に視線を落とし、もうそろそろ帰ろうかと、階段に足を下ろした。


「月、綺麗ですね。」


……いつまでも、この平穏で素敵な日々が、続くと思っていた。

この声が聞こえるまでは。

それはとても聞き覚えのある声だった。か細く、聞こえるか聞こえないかの瀬戸際のような声。けれど、しっかりと意志を持った、そんな声だ。

……下原 玲華。なぜ、…ここに。


「……あれ、偶然だね、こんな時間に、…しかもこんな場所で。」

「……うん、……空琉くん、最近この時間によくここに来るから。」

胸の奥に、なにか奇妙で、不快な重みが来た。なんだこの女。

「……よく知ってるね。」

「えぇ、いつも見てるもの。」

ふいに僕の顔を見たその瞳は、今まで見てきたどの人間の眼にも該当しない、狂気を孕んでいた。背中に、嫌な冷たさにも似た感覚が走る。

「……いつも?……え、それ、どういう…。」

「東 空琉18歳。趣味は音楽と映画鑑賞。友人、恋人関係なし。親は片親、母のみ。」

唐突に早口で何か話始めた。…え、これ、全部僕、の。

「所在は桜木町の外れ、一軒家。身長推定175cm。」

「おい、ちょっと、やめてくれ!」

まずい、この女はまずい。どうやってそこまで知ったんだ。"ぞっとした”とはこういうことか。

「…まだまだ、知ってるよ。空琉くんのこと…。だって……。」

ふっと、雲が消え去り、モノクロの世界に僕らは包まれた。この女の、くぐもった表情が、月光に照らされる。

……僕は見てしまった。欲望に溺れた人間の、罪なる表情を。

決して美人とは思わなかった。が、…何か、惹きつけられる引力のような、そんなこの女の顔を……。

そう、見てしまったのだ!すぐにでも逃げればいいものを、あろうことか凝視してしまったのだ!!ここが運命の分かれ道だったのだ。あぁ、自分という存在のなんと罪深きことか。

この気を奪われた数秒間の間に、この女は機械仕掛けのリモコンじみた物体を颯爽と僕の腹部に押し当て………。


「………大好きだもん。」



頭に強い衝撃が走り、僕の意識はそこで途絶えてしまった。


…………とさ。

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