第32話

  8


 シド・クラウスは逃げた。

 オスカーとはもともと取引上の関係、つまりビジネスのためだ。最初の数年間はホムンクルスを本格的に製造し、あとは効率化のための『製造機』を作った。その居場所はオスカーと自分だけが知っている。

 シドとしても、〝あれだけ〟は失いたくない。

 オスカーに危機が迫っているとわかったとき、シドは逃走の決意を固めた。そして今日、十村がビル内に入ってくるのを見届けたところで退散した。

 月極の駐車場に停めておいたバンで移動している。もうすぐで高速に乗れる。この街からやっと離れられるのだ。報酬のものは失敬した。

 これで、やり残したことはない。

「……さて、次はどこへ、」

「どこへ行こうというのかな、シド・クラウス」

 驚いて目を見開いた。ハンドルが狂いかけたが、冷静に息を吸う。

「誰だ」

 ルームミラーを覗き見る。すると、薄い闇から見知った顔が浮き出てきた。

「クオン」

「いやいや」

 彼女が笑う。

「今の私は青木葵だ。クオンじゃない」

「名を捨てたのか」

「捨ててはないよ」

 ただ、と彼女が続ける。

「時と場合っていうのがあるだろう?」

 口元にたたえた含み笑いが気に入らなかった。初めて会ったときから、彼女の嫌いなところは変わっていなかった。

「私を殺しにきたのか」

「そのとおり」

「ふん。狩人というのは、やはり汚いな」

「君も狩人だろう」

「私は……違う。錬金術師だ」

 ふーん、と彼女は頷く。

「こっちも言い訳するけど。私はべつに殺したくて殺しにきたわけじゃない。君からあるものを回収しにきたのさ」

「あるもの?」

 嫌な予感がしたが、いちおう尋ねてみる。

「アリスの魂さ」

「……相手が違うんじゃないか」

「違わないさ」

 彼女ははっきりと断言した。

 一切揺らがないその意志も、彼女の嫌いなところだった。

「十村誠一郎君は屍鬼グールだった。でも屍鬼というのはね、本来、明確な意識は持たない。いわばゾンビ状態だ」

「ならば、適合者なんじゃないか。オスカーの血と十村の血が偶然合った。そういうことだろう」

「ダヴィッドの三原則に合わないよ。彼の瞳を日光にあてても紅に染まらない」

「そもそも、私は死霊使いではない」

「ならどうして、十村誠一郎は屍鬼でありながら人間としての意識を保てていたのか。それは、死霊としての彼を肉体の中に再びおさめたから。そう考えるしかない」

 シドは鼻で笑ってやった。

「馬鹿な」

「そうだね。ほんと馬鹿だよ、君。私の姿を使って、十村誠一郎に近づくだなんてさ」

 言葉が出てこなかった。完璧な自動人形を使ったはずだ。

「〝先生〟と呼ばれて嬉しかっただろう。君は目立ちたがりだったからねえ。自分の作った人形をいつも自慢していた」

「……だが、最初に褒めてくれたのは君じゃないか」

 悔しくて、シドはそうつぶやいた。

 彼女の嫌いなところはいっぱいある。だが、ただ一つ好きなところがあった。

 いつも自分の作品を褒めてくれる。ただの人形師だったころは、ただ彼女のために作っていたともいえる。

「ああ、君の人形は素晴らしい。ほんとにね」

 けれど、と彼女は続ける。

「だからこそ間抜けだよ、君は。よく知っている私の姿になんて似せて、十村誠一郎とコンタクトを取った。そうして彼と契約を交わし、力の一部を授けた。

 つまり、オスカー・クレイヴと十村誠一郎とのあいだが〝親子〟であったように。君と十村誠一郎もまた、〝親子〟だったんだろう?」

 シドは、深く息を吸った。心の平穏を保つための癖だった。けれど、動悸は止まらなかった。

 ──これはもう、完敗だな。

 さっぱりそう諦めたとき、嘘みたいに心に平穏が戻った。あきれて笑いも出てこない。

 もう高速に上がる寸前だったが、その軌道から外れて山のふもとに向かった。それから会話はなかった。ただ沈黙して、シドは車を走らせた。彼女は後部座席で大人しくしている。

 やがてトンネルの前まできたとき。

「そこの左側で停めてくれる?」

「ああ」

 ブレーキをかけながら、左側に車を寄せた。

「で、答えはどうなのかな」

 楽しそうに笑って、彼女が訊く。

「正解だ」

 シドもまた笑って答えた。

「オスカーがあの少年を屍鬼にしたとき、私は彼に指示されて力を使った。同じく彼に指示されて、少年と契約を交わした。力を教えるときはあの人形を使ったよ」

「ホムンクルスを作るとき、たしか材料に自分の血を混ぜると、作り主自身の力を授けることができるんだったよね」

 ああ、とシドは頷いた。

「できるだけ私の姿を他者に認知されたくないんでね。それに君の姿を使うと、誰もがひれ伏せるものだからさ。使いやすかったよ」

「ああ、たしかに君はそういうやつだった」

 十村の前に現れたクオン──青木葵は、すべて偽物だ。姿形は本物に等しいが、その内面は違う。神出鬼没な点は同じだが、彼女は傍若無人、命そのものを軽視していて、人間の人生そのものをエンタメに昇華させるのが趣味。

 本当に嫌なやつだ。

「それと、小坂みなみのマンションにあったダンボール。あの中には『割れ物注意』と書かれているにもかかわらず、中身はペットボトルだった。あれは、どういうことだい?」

「人工血液だ。わかるだろう?」

「それだけじゃないね。あのペットボトルの用途は」

 ふん、本当はわかっているくせに。

「──結晶コアじゃないか? 自動人形オートマタにも使われている、アレだよ」

「……まったく、わかっていることを質問するな」

「確認だよ確認」

 と言い、葵は続ける。

「てことは、これからも現れ続けるんだね。蘇生者、黄泉返りが」

 彼女の言うとおりだ。

 これからも死んだはずの者たちが新たな身体を手に入れて蘇っていく。

「そういう『装置』だからな。……あと悪いが、これについては教えられん。私の誇りにかけてな」

「…ふーん、あっそう」

 興味なさげに葵は頷いて、

「さて、降参してくれるかな」

「ああ」

 シドは頷いて、鞄の中から宝石のようなものが出てきた。この、きらめく水色の宝石こそ結晶コアと呼ばれるもの。

 肉眼では認識できないものを視認することのできる『メガネ』の役割を果たしていたが、これにはもう一つの用途がある。

 名のとおり、自動人形の心臓部におさめることで稼働することのできる、核だ。その技術を等身大のホムンクルスに応用させればどうなるか。

 おそらく、百分の一の確率で人類と等しい個体が生まれる。

 それ以外は失敗作として終わるだろうが。

結晶コアの中にアリスの魂──」

 今度は興味深そう眺める葵。

「報酬っていうのがこれかい?」

「……まあな」

「聞いたことがある。フォンテーヌ、アンリ、ダヴィッドの御三家の魂を集めている、と。それだけ集めてなにをするつもりなのかな」

「……そんなの、君ならすぐにわかることだろう?」

 はあ、と葵は深くため息をついた。

「変わらないねえ。むかしから君はそんな感じだ」

「それは」


 ──ありがたいね。


 ◇◇◇


 青木暁が、トンネル前に駆けつけたころには、すでに葵が車から降りていた。

 遅かった。月浜署から葵に電話をかけて応答しなかった。スコフィールド邸に行って、神山の応援に行ってもらおうかと思ったが、そこにもいなかった。

 まさか──そう思って、ビルへ向かった。その途中で青木の携帯に着信がきた。葵からのメールだった。

『やあ、パパ。今、シド・クラウスの家にいるよ☆ 場所はね──』

 青木は舌打ちして、シビックに乗り込んで葵の居所へ向かった。かなり時間はかかった。もしかしたら、シド・クラウスはすでに殺されているのかもしれない。

 到着して、青木は胸の奥に重いものがのしかかった。黒いものが滲んでいく。

 とぼとぼと葵へ近づいた。彼女は青木の姿に気づいて、顔を上げた。

「やあ、遅かったね。パパ」

「……殺したのか」

 バンの車窓に首を伸ばす。顔をしかめた。シドの首がなくなっている。うまく把握できないが、切断面は綺麗だった。人の首とは思えない。

「おまえが殺したことで検挙できなくなるんだぞ」

「私の知ったことではないさ」

「……そうやって、」

「ん?」

「そうやってアオイを殺したのか」

「ああ」

 葵は目を見開き、

「君の愛娘のことか。あのときも、同じ方法でやったね」

 青木は葵の胸ぐらをつかんだ。その不健康な顔に迫った。

「どうする、パパ? あたしを殺しちゃう?」

 片方の唇をつり上げて、葵が煽った。

「貴様……!」

 拳を振り上げた。このまま殴り殺してやりたい。まっすぐな殺人衝動が、自然とそうさせたのだ。

 いや、今じゃない。今、こいつを殺しても……俺が〝殺されてしまう〟。

「やらないんだ」

 彼女から手を離した。

「いつか、おまえをこの手でぶち殺してやる。覚悟しておけ」

 すると葵は無表情に戻って、

「それは、私がクオンだから? それとも、〝本物〟の青木葵の仇だからかい?」

 青木は背を向けて、視線だけを葵に向けた。

「ぜんぶだ」

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