エピローグ
最終話
エピローグ
『神山瞳也さんへ。
挨拶はしません。適当な語り口で、私の思いを綴らせていただきます。まず、私は口下手です。学校での友達はたったひとりだけ。しかもそれは小学校のことです。以来、私には友達も、ましてや恋人なんてものもいませんでした。
だから誰かと話すのは、私にとってはかなりハードルの高いもので、どうしようもなく緊張するものでした。会話を終えて反省会をするとき、こういう返しはいけないよな、とか、これはよかったかも、なんてぶつぶつつぶやく痛い女ですから。
それは、あなたとの会話でさえ例外ではありませんでした。
正直最初は、あなたのことを魔族だと割り切っていました。だからこそ心からの言葉を口にできたし、ひどいことも言えました。
けれど、だんだんと私のその認識は変わっていきました。あなたは魔族です。あの首輪がそれを判断していました。それはたしかです。でも、私の目に映る瞳也さんは、ただの人間のようでした。まあたぶん、これを読んで「俺は人間だっつうの」なんて言うのかもしれませんが。
これでべつに告白をするわけじゃありません。ただ、感謝をしたいのです。
あのとき、私のそばにいてくれてありがとう、と。短いあいだでしたが、ありがとうございました。そして、すみませんでした。
そのお詫びとして、あなたの首輪をふつうのチョーカーとすり替えておきました。これはもともと、仕事を終えたときに告げようかと思っていましたが、もし私になにかあった場合を考えて手紙にしました。
なので、おそらく仕事は途中かと思われます。
その場合、私が請け負っていた仕事は葵さんに引き継がれます。私が彼女の居候を許したのは、私が死んだ場合、途中の仕事を引き継ぐという条件を呑んだからです。そういうわけなので、瞳也さんは晴れてこれで自由の身です。
これであなたへの償いができるとは思えませんが、どうかこれでご容赦願います。
では、さようなら。二度と会いませんように。
──アリス・E・スコフィールド』
手紙を読んで、神山は首輪に触れた。
たしかに外れる。あまりにあっさりだったもので、当時は驚いた。
「また読んでいるのかい、それ」
後ろから青木葵が覗き込んでくる。
「ええ」
神山は頷いた。
事件後、葵に手渡されたこの手紙が、あのときに〝決断〟させたのだ。
周囲を見回す。ここは双木市にある
「私にとって大切なものですから」
ふーん、と葵が興味なさげに頷いた。
「神山さん」
左の廊下から現れた医師に声をかけられた。院長の鬼龍黎一だ。白い髭を顎に蓄えており、撫でつけられた白髪。白衣を着ているので、全体的に薄い色の印象が強かった。
神山は立ち上がり、頭を下げる。
「ご無沙汰しております、鬼龍院長」
顔を上げて、
「あの。もう面会しても構わないというのは、本当ですか」
と訊いた。
鬼龍院長は、〝こちら側〟の事情に精通している。魔族や異能力の研究を中心に、狩人組織〈シャサール〉に貢献してくれている。
「ええ」
鬼龍院長は頷いた。
「ただ、問題があります」
「問題、ですか」
院長は気まずそうに目をそらす。
「立ち話もなんですから、歩きながら話しましょう」
鬼龍院長は言って、神山は頷いた。
「そちらのお嬢さんは?」
院長が後ろの葵のほうに首を伸ばす。
「いえいえ、あたしはそろそろ仕事をしなくちゃいけないんで」
と、彼女は断った。
葵とはそこで別れて、鬼龍院長の横に並んで詳しく話を聞くことにした。
「半年前、スコフィールドさんが覚醒したとき。私が言ったこと、憶えていますか」
「ええ。肉体に影響があるかもしれない、と」
「はい」
申し訳なさそうに院長は唇を引き結んだ。嫌な予感がしたが、神山は「言ってください」と促した。
「……脳に問題が起きまして。診断したところ、『逆行性健忘症』に陥ったことがわかったんです」
「記憶喪失、ってことですか?」
「はい」
神山は歯軋りした。望んだとおりの結果にならない。むかしからこういう不運なところは、まったく変わらない。
「記憶が戻るかどうかは、正直私たちにはわかりかねます」
「記憶操作の能力者では、どうにかなりませんか」
そう言うと、院長はさらに難しい顔をした。
「……可能性はないわけではありません」
「でしたら」
静かに院長は首を振る。
「実行しました」
「え?」
「つい二か月前。なんとか記憶を取り戻そうと本部から能力者を呼びましたが……」
「無理だった、と?」
自然と神山の声が低くなった。それに怯えたように、院長がこくこくと頷く。
「あくまで奥底に沈んだだけで、消去されたわけではないんです。それをつまみ上げるには、相当の使い手が必要になるんですよ。それこそ、オスカー・クレイヴのような……」
院長がはっとなって、慌て始めた。
「いえ、その」
「構いません」
と、神山は前を向いたまま言った。
あれからクレイヴは昏睡状態に陥った。身体自体はフランスの本部に預けられている。目覚める可能性があるとのことだが、神山からすれば、もう目覚めないとわかっている。
あの日、クレイヴから魂を引きずり込んだ。それが今、自分の中でどうなっているのか。それはわからない。明確なのは、この
「私にとってはもう古い記憶です。それより今は、これからのことを考えねばなりません」
「……失礼しました」
院長が謝ったところで、彼が足を止める。
場所は病院内の東棟三階にある病室であった。ついこないだ、集中治療室から病室に移されたばかりらしい。
「ある程度、会話できるようにはなれましたが……」
「はい?」
振り返った。
院長が眉根を寄せている。
「〝家族〟の話題は避けてください。パニックになるかもしれませんので」
神山は察して、
「わかりました」
と頷いた。
院長は一歩か二歩下がって、神山を見守ってくれていた。落ち着かせるために深呼吸を何回か繰り返して、神山はノックをした。
扉を開ける。風が舞い込んできた。〝あのとき〟のような春風だ。
一歩目を踏み込んだ。廊下と部屋のあいだをまたぎ、病室の中を歩いていく。個室となっていて、中には少女一人しかいない。
少女は、開け放たれた窓の向こうに目をやっている。空は曇り一つなく、澄み切った青をしていた。再び吹き込む春風が、外の桜の花弁を躍らせた。
その一枚が、部屋の中へ入ってくる。そして少女を覆う毛布の上に落ち着いた。
空気がおいしい。春の風に晒されているだけで、ここまで心が安らぐのだ。深呼吸など必要なかったかもしれない。
「あの」
声をかけられる。
神山は少女のほうへ顔を向けた。白い肌、少し痩せた身体つき、鋭い切り目……間違いなく、アリス・スコフィールドの姿だった。
「あなたは、誰ですか?」
じっと見つめる。その碧い瞳の奥を覗き込むように、ただじっと──
「なんで、泣いているんですか?」
そこではっと我に返った。
何度か首を振って、再び少女に視線を据えた。近くの椅子を引っ張って、彼女の隣に座った。少女もまた、視線を神山に固定している。
「……私は、神山瞳也」
言葉の一つ一つを丁寧に言う。
「K県警刑事部捜査六課所属。階級は警部補だ。今は新月浜署に務めている。……そして、」
襟のボタンを外して、首輪を見せつけた。少女の眠そうな目が見開かれる。さすがに驚いたか。
「君の犬だ」
「え?」
「二年前……聖命学会事件というのがあったんだが、その際に君につけられたものだ」
眉をひそめたり、瞼を広げたり、かぶりを振ったり。少女は戸惑った。
「その事件の影響は多い」
あれから二年が経ち、数々の特務案件が六課に届いてきた。聖命学会事件にて、クレイヴが放った兵器──通称、黄泉返りが新たな魔族として登録された。
つまり、秘匿対象として処理することになった。
「……その、どういうことですか?」
「詳しい説明はのちほど。すまない、今のは挨拶代わりと思ってくれ」
「はあ」
「君は、自分の名前は憶えているのか」
「ええ、まあ」
「……なんという?」
一瞬怪訝そうな顔をして、
「アリス。アリス・E・スコフィールド。たぶん、それが私なんだと思います」
「そうか」
彼女は、帰ってきた。
あの事件で数少ない、俺によって失われていない人。今度こそは守ろう。
今度は、彼女のいちばん近くで。
Fin.
夜光【Crimson Saga/II】 静沢清司 @horikiri2
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