第30話

  7


 震災で両親を亡くし、行くあてといえば施設だった。そこでの暮らしは最悪だった。

 多くの孤児が集まって、泣き叫んでは必死に親を呼ぶ。お母さん、お父さん、ママ、パパ──さまざまな泣き声が飛び交っていた。

 なんでみんな、親がいなくなったことで泣くのだろう。そう思った。

 食べ物は独占されて食べられないし、水さえも丸三日ぐらい飲ませてくれない。料理や洗濯にしたって両親ともに放棄していた。

 涙を流したら必ずといっていいほど拳で頬や腹を殴ってくる。拳だけじゃ飽き足らず、ハンガーを持って頬や背中を叩く。

 そんな人たちを、どうして恋しいと泣くのだろう。不思議でたまらなかった。

 せっかく解放された。そう思っていたところで、施設で働く職員も十村の実親とたいして変わりなかった。気分屋で、すぐに機嫌が悪くなれば手を上げる。

 ──最悪だ。

 そんなとき、時を同じくして出会ったのが神山という少年だった。自分より年下で、可愛い顔をしていた。女の子みたいだった。

 気になって話しかけてみると、どうやら震災とはべつでここの施設に入ったらしい。

「……きみのナマエは?」

 神山少年に訊かれ、サカシタ、と答えた。坂下誠一郎。それが自分の名だ。

「坂下くんは、ジシンでここにきたの?」

「そう」

 と、頷く。

「そうなんだ……おかーさんとおとーさんは」

「もういない。しんだ」

「……ごめんね」

 なぜか、神山が申し訳なさそうに顔を伏せた。坂下は眉をひそめて言う。

「なんであやまるの?」

 ぽかんとした顔で「え、だって」と続けて、

「かなしいでしょう?」

 などと言っていた。

 親がいなくなると悲しい。それを教えてくれたのは、彼だった。でもたしかに寂しい気持ちはあった。

 ここに坂下を知る者はいないし、同じ空間で過ごすことはあっても話すことはない。

 そういえば、ときどき両親はどこかへ連れて行ってくれた。

機嫌がいいときに限っていたが。

 楽しいよ、ありがとう、大好き。そんな言葉を機械みたいに言うと、たいてい喜んでくれた。じゃあこれを買ってやる。そう言っておもちゃ屋で恐竜のぬいぐるみを買ってくれた。親から贈りものは初めてだった。

 だから大切にする。そう言ったけれど、結局それは数日後に没収されてしまった。

 ──このぬいぐるみがお気に入りなのか? えぇ?

 おそるおそる頷く。

 だって、おとーさんが買ってくれたから。

 ──チッ。さっきからうるっせえんだよ。にたにた笑って叫んで。はしゃぐなっつってんだろうが!

 腹を蹴り上げられ、後ろへ転ぶ。そのとき母親が通りがかる。おかーさん。数日前はにっこり笑って抱き上げてくれた。優しい顔をしていた。けれど、冷たい眼差しを向けながら通り過ぎていく。

 ……寂しい、のだろうか。

「神山くんはどうなの」

 親とか。そんなふうに尋ねると、

「しらないんだ」

「しらない?」

 うん。少年はこっくりと頷いた。

「ママとパパのこと、ぼくはしらないの」

「生まれたときからいないってことかな」

「わかんない」

 首を振って、そう言った。揺れる白い髪がきれいで、思わず指先で触れていた。

「きれいだね」

「きたないよ」

「そんなことない」

「……だって、みんなぼくのことバケモノだっていう。きっと、この髪のせいなんだ」

「でも、雪みたいでいいと思う」

「……ゆき?」

「見たことない?」

 彼は当然のように「うん」と頷いた。

「雲から白いものが降ってくるやつ。ほんとに知らない?」

「うん」

 やはりこくりと頷くだけ。

 うーん、と唸っていると、少年がぽつぽつと言った。

「そのゆきは、ぼくといっしょなの?」

「そう。みんなね、雪が好きなんだよ。きれいだって言う。だから、きみのもきれいなんだよ」

「──ふふ」

 少年が口元に手をそえて、笑みをこぼす。少し恥ずかしくなって坂下は「なんだよ」と小突いた。

 神山少年は「ううん」とかぶりを振って、

「うれしかったの。そういってくれたの、サカシタ君だけだから」

 と言った。にっこり笑って、太陽みたいに明るい笑顔で。

「おれだけ?」

「そう」

 少年は目を細める。

「きみだけ」

 だから、と言って彼は囁くようにつぶやいた。

 ──ありがと。

 とたん、ひどく鼓動が激しくなったのを憶えている。急に気恥ずかしくなって顔をそむける。なのに少年は顔を近づけて、不思議そうな丸い瞳で「だいじょうぶ?」なんて言う。

 なんだか居心地が悪い。けど、悪くはない。

 自分でも意味がわからないな、と思ってしまった。

 それから二か月もしないうち、いつもどおりの朝を迎えた日のことだった。季節はすでに春を迎えようとしていて、施設内の子供たちの様子も変わりつつあった。

 里親を見つけて彼らのもとへ送り出されたり、あるいは諦めたような顔になって職員たちの言いなりになる者が増えたり。

 里親といっても、これまた最悪で、下卑た笑みを浮かべる中年男性が大半だった。職員も気にせず、彼らに子供たちを引き渡していた。

 つい最近までは母親や父親を呼んで泣いていたところ、職員たちに「うるさい」と一喝され、殴られる。それが一週間も続けば逃げ出そうとする。

 が、最初に逃げ出そうとした者が簡単に捕まり、ついでに〝見せしめ〟としてみんなの前で殴られ蹴られる。

 それだけでは飽き足らず、隣の〈秘密の部屋〉へ連行される。そこへ連れられる子供たちが次に姿を見せるのは、早ければ数時間後、遅ければ一晩明けたころだ。

 そこでいったいなにをしているのか。──されているのか。坂下たちはもちろん、知ろうとはしない。

 二人目の脱走者が現れ、職員に捕まったときにはもう、子供たちに逃走する意志はなかった。もし捕まったら──そう思うたび、脱走者であった当人を見やる。あまりにむごい姿に、身がすくむ。逃げようだなんて思うわけがなかった。

 そんなとき、神山少年が言い出した。

「にげよう」

 坂下はすっと立ち上がって、神山の口を強引に手でおさえた。唇の前で人差し指を立てる。少年はこくこくとうなずく。

 ため息をついて手を離してやる。その際、隅まで移動した。

「無茶だ」

「ムチャって?」

「できやしないってことだよっ」

 言葉は強いが声はかなりひそめていた。

「きみも見ただろ? 逃げようとしたヤツは、あいつらにひどいことをされる」

「でも、だしてくれるっていってくれたんだ」

「……え?」

 誰が、出してくれるって?

「せんせー。ほら、あそこにいるひと」

 少年は隅に立っている、人好きしそうな笑みを口元に張りつけた青年を指さしていた。あんな人間、今までに見たことがあっただろうか。

「あの人が、なんて?」

「こっそりここからぼくらを逃がそうとしてくれているんだって。すごいよね」

「ぼくらって、おれとおまえ?」

「うん。でも、まずはぼくたちだけだって。少しずつ逃がしていくんだってさ」

「待てよ。そもそもあいつ、どういうヤツなの」

「シマ先生っていうんだって。シマウマみたい」

 と言いながら、きゃっきゃと笑う。かわいいよね、なんて呑気なことをこぼしながら。

 十村が警戒して、シマ先生とやらを見つめていると、やがて目が合った。まずい。すっと目をそらしたところで手遅れだった。

「君が、神山くんの言ってた坂下くんかい?」

 しゃがみ込んで、目線を合わせた。隣の神山はうれしそうに笑ったが、坂下はやはり怪しいと思ってしまう。

「そうだよ。シマ先生にすっごくにているんだよ」

 む、となって神山を睨んだ。けれど彼はぽかんとした顔で、小首をかしげていた。どうしたの。そう言いたげに。

 シマ先生に似ている、という言葉で少し嫌な気分になってしまった。

「シマ先生」

「ん?」

「本当にここから逃がして──」と、言いかける。

 言葉を切ったのはシマ先生が、しー、と人差し指を立てていたからだ。ほら、にてるでしょ。横で神山がそんなことを囁いてきた。さっきの坂下くんみたい、と。

「あんまりそのことはここで言わないほうがいい」

 シマ先生が言った。

「……おれには、あなたが信用できません」

 こんなことを言えば殴られるのは自分だ。なのに、正面から大人に対して言えたのは、たぶん後ろに神山がいたからだろう。

「──そうだね。たしかに、坂下くんからしてみれば僕も怪しいんだと思う」

 悲しそうに目を細めて、彼は言った。

「僕は、つい一か月前にここで働くようになったんだ。最初はボランティア活動で施設で働くことになっていたんだけど、職もないから仕方なく、ね。

 そしたらこのありさまだ。大人たちが平気で子供たちを傷つける。僕は、そんな奴らの一員になっている。それがそろそろ我慢ならなくてね」

「我慢?」

 声を尖らせた。

「なぜ我慢する必要があったんですか。我慢なんて、おれらだっていっぱいしてきてる」

 あ、とシマ先生が声を洩らす。そんなつもりはなかったんだ。そんな言葉を付け足して。

「頼む。罪滅ぼしさせてほしい。君たちを、助けたいんだ」

 なにを今さら──!

 そう言おうとして、肩に感触があった。それは止めるような強い力だった。見れば、神山少年だった。彼はうつむきながら、「だめだよ」とつぶやいていた。

「なんで」

「ぼくは、シマ先生を信じてみようとおもう。もし心配なら、坂下くんはここにのこってていい」

 神山は、幼少の時分からこういうところがあった。変なタイミングで頑固な顔を見せる。

「……わかった。でも、シマ先生は信じないぞ、おれは」

 そう言って、その週は計画を立てた。

 簡単に言うなら、夜明けのタイミングで抜け出すということだった。深夜のあいだは不寝番がいるので動けない。それに、連中も夜に抜け出すと見て、夜間の警備は万全だ。であれば、いちばん警備が薄い時間はいつなのか。

 それは、空は白んだ夜明けのころだろう、と。実際、シマ先生曰く──、

「朝の五時……いや、四時からがいいと思う。僕が不寝番を申し出て、その時間になったら交代する。僕と交代する人は君たちが寝るリビングを通って個室へ向かうだろうから、そのタイミングになったら起き上がっていい」

 とのことだった。

 そして、実行日。

 やがて、時計の長い針が「4」を指した。深夜の四時だ。

 そのタイミングになると、職員のひとりが眠そうにあくびをしながら、二階へ消えていく。神山を覆う毛布を軽く叩く。と、すぐにぱっと目を開けた。

 互いにうなずき合って、入口近くまで忍び足で近寄る。わずかに開かれた戸口から、寒風が入り込む。ここは建付けが悪く、いちいち閉めようとすると大きく音が鳴るうえ、閉めにくい。だから子供たちや職員はみな、ここを閉めようとしない。

 反対側の出入口だと寝ている子供たちと距離が近くなる。そのためルートは、この建付けの悪い扉しかない。合図があった。それは扉のわずかな隙間から、かち、っとライターの音がした。煙草に火をつけるときの音を、合図にした。

 坂下と神山はうなずき合って、扉を開けようとした。ここの戸口は閉めるときは困難だが、開くときは比較的すんなり動く。

 ──開いた。その一瞬あとだった。

 前にいた坂下の細腕をつかんで、その強い力に引っ張られ飛ばされる。庭の中央まで投げ飛ばされる。頭や肩を打って、ひどい鈍痛が響いた。

「は、はなしてっ!!」

 女の子のような、甲高い声。神山が、さきほどの坂下と同様に腕をつかまれ、引っ張られたあげく宙ぶらりんになっている。

「神山っ!」

 なんとか立ち上がって駆けだす。が、向かった先で男に思い切り頬を殴られ、そこで気絶してしまった。


 ──目が醒めた。

 瞼を開けて最初に見た光景は、シマ先生だった。彼も同様に気絶している。一瞬、死んでいるかと思ったが息をしていた。

 シマ先生は一糸まとわぬ姿となっていた。瞼は青くなって膨れ上がり、唇の端から血を垂らしている。顔以外も、切り傷のようなものがいくつも見られた。

 シマ先生のそばに立っている男の指導員が、左手にハサミを持っていた。そのハサミの刃が、赤く濡れているのに気づいた。

 坂下が目覚めたことがわかった男は、リュウジよりも汚い笑顔を口許に貼りつけて近寄ってきた。

「おはようさん。よく眠れたか」

「……かみ、やまは……」

 男は、坂下の頭をその大きな手で覆い、鷲づかみにした。

「質問してんの、こっちなんだけどなあ」

 そのあと男は、鷲づかみにした状態で壁に叩きつけた。後頭部と壁が勢いをつけてぶつかり合う。

 男は手から坂下の頭を離して、次いでつま先で頬を蹴った。またリュウジのときのように、奥歯が取れ、舌の上に乗った。

「かみ、やま……は……こに、」

 神山はどこにやった。

 そう口にしようとするが、呂律が回らなかった。不思議と心地のいい気分だった。痛みはひどいはずなのに、そこまで響かない。頭の中が宙へ浮かんでいる。この浮遊感は、いったいなんなのだろう。

「すげえな、あれだけクスリ盛り込まれてまだ意識がある」

 男のそばに立つ、もうひとりの男が言った。

「あ」男が思いついたように手を打った。「やらせてみようぜ。あのガキと」

「さっき捕まえた気味の悪いやつと?」

「そうだ」

 あははっ、とふたりが笑いあう。

「俺らのおかげでそろそろ〝慣れてきた〟ころあいだろう。ガキのちんぽこぐらい受け入れられるぐらい余裕だろうぜ」

 そんなやり取りを、浮遊した聴覚で聞き取っていた。遥か遠くの場所から聞いたような感覚だ。ふわふわと浮かぶ脳内で言葉を咀嚼し、理解する。

 ──やらせる。

 すべての言葉に込められた、下卑た考えを見抜いたとき、坂下の身体は飛び上がった。殴ろうと思った。いや、それどころか殺してしまおう、とさえ。

 が。

「釣れたな」

 男は言って、坂下の首をつかんで組み伏せた。坂下の白い頬に顔を近づけて、男は口をもごもごと動かした。中から水音がし、厭な予感がしたときには、男の唇から唾がだらりと垂れてきた。目や頬、唇さえその気持ちの悪い感触は広がっていく。が、鋭敏に反応できるほど坂下に余裕はなかった。

「さっきのガキ連れてこい」

「了解」

 もうひとりの男がうなずいて、少しして神山が現れた。また坂下の身体が、無意識に飛び上がる。ただ、組み伏せられているため自由に身動きできるはずもなく。

「おい」と、男が坂下に耳打ちする。「あのガキとやってみろ」

 限りなく薄い自意識のなか、坂下はなんとかかぶりを振った。だが男はそれでもと囁く。

「さもないと──」

 まさに、悪魔の囁きだった。男は坂下の上から離れて、顔をつかんできて無理やり起き上がらせた。揺らぐ視界の真ん中、壁にもたれるように、神山がぐったりとうなだれている。死んでいるわけじゃない、はずだ。ただ、わずかに開かれた瞼から覗く瞳からは、「生」など掻き消えていた。

 そんな弱々しい状態の彼に、あるもうひとりの男が近づく。今度はその男がハサミを持って、彼のそばに寄り、腕を振り上げた。

 そして、振り下ろされようとしたその瞬間に。

 坂下の身体が弾かれたように動いて、叫んだ。やめろ。叫んだつもりだったが、もしかしたらか細いものだったかもしれない。ただ──その叫びは、彼らに聞こえたようだった。

 ハサミの男は唇の端を、耳の付け根にまでつり上げた。甲高く笑って腹を抱えていた。後ろの男も同様に、額に手をあてて大笑いしていた。

 神山。生きよう。ここから出よう。大丈夫だ。おれがこんな奴ら、殺してやるから。おまえを、こんな汚い世界から守ってやるから。だから、神山──、

「やれよ」

 囁く。

「じゃないと、ハサミ、だもんなあ?」

 囁く。

「早くやれよ。興奮してるんだろ?」

 囁く。

「なんだよ、しっかり〝たってる〟じゃねえか」


 だから、神山──ゆるしてくれ。


 一瞬、輝いた。虚ろになりかけていた瞳の中で灯っていた。が、その瞳と坂下の瞳が合ったとき、その輝いた瞳はそのままで、絶望が少年の吐息から現れていた。


 ……さかした、くん……


 少年の目に映る、友人の姿は酷かった。いま、たすけるからな。そう言いながら、少年の小さな身体をまさぐり、喜びをその瞳に映し出させていた。この場で誰よりも少年を求めて、かつ希望を挫き、散らしたかったのは──その友人だった。


 坂下誠一郎は、神山瞳也を犯したかった。


 その日は、いつまでも、いつまでも。

 神山は、彼の腕の中で〝ずっと〟包まれていた。

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