第29話

  6


 鼠色の扉が開いた。

 中に入り、『B1F』のボタンを押した。十村は気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。

 覚悟は決めている。

 地下一階に到着するまでに、十村はこれからやるべきことを考えた。

 まずクレイヴと対面することになる。おそらく彼はこちらの存在に感づいているだろう。護衛も用意しているはずだ。ならば十村の側も本気でかからねばなるまい。

 舌打ちした。

 本当なら、こうして実行するのは今週末になるはずだった。金、土、日の三日間。神山と夢野にはウィーンへ行ってもらい、十村は適当に用事ができたと言って、そのあいだにクレイヴを殺害するつもりでいた。

 すべてはこの旅行のときのためだった。もし失敗した場合は青木葵に任せる流れだったが、成功した場合もまた彼女の力を借りることになっていた。

 神山と夢野の、ウィーンの移住。ウィーンは青木葵の故郷という話だった。彼女に匿ってもらうかたちで、神山と夢野にはウィーンに暮らしてもらう。物件も職業も、こちらですでに手は打っていた。

 この計画が狂ってしまった原因は、おそらく彼があのアリスという少女に出会ったことだろう。それはいつのことだか知らないが、彼女と接触し、十村の知る裏の世界へ踏み入ったことでさらに嘘を重ねることになってしまった。

 そのうえ、神山自身も決断しかねているようだった。日常に戻るか、戻るまいか。

 おそらく中途半端にアリスと接触したことで、義理や情を感じたのだろう。神山はそういうやつだ。誰に対しても優しい。それが、十村にとっては唯一憎らしい部分だった。

 扉が開く。

 深く息を吸って、十村は親指の腹に唇を近づけた。その皮を噛みちぎって、額に押しつけた。


「─────」


 降りかかる、一つの魂。優秀な魂を自身に憑依させることで、能力を得たり、身体能力を強化したりすることができる。とはいえ、制限はある。

 持続時間だ。今回は三十分。これはほぼ限界に近い。この時間内にすべてを終わらせるのだ。

 筋肉が変化する。ほとばしる血の奔流。耐え難い苦痛だった。異質の魂がそなわると肉体が中の情報を読み取って、適応しようとする。無理やり骨格を組み替えているようなものだ。当然、痛みもある。

 扉が、開いた。視界が開ける。まっすぐ道を進んだ。前には天幕がステージを覆っている。この場に人の姿はないが、わずかに気配を感じた。

 足を止める。ステージとはある程度、距離を空けた。

「そこにいるんだろう、オスカー・フィン・クレイヴ」

 そう問いかけると、しばらくして天幕が左右に引いていった。ステージの真ん中にクレイヴは立っていた。豪奢なスーツを着て、皮肉っぽく笑っている。

「久しぶり、ってほどでもないか。十村誠一郎君」

 十村は彼を睨みつけた。

「私を殺しにきたんだろう。知っているさ。君の父君を殺した日から、すでにね」

 その憎たらしい唇を今すぐにでも引き裂いてやりたかった。

「しかしいけないね。監視の人間に手を上げるなんてさ。相手は仮にも警察。しかも狩人だ。あとでどんな仕打ちを受けるか──」

「想像に難くないさ」

 十村は言った。

「とっくのむかしから道を外れている。悪者同士なんだよ。僕らは」

 クレイヴは舌なめずりをして、つぶやいた。「それもそうか」

 周囲にぞろぞろと人が集まる。みな、聖命学会の構成員だ。それぞれバットや包丁などの狂気を所持していた。彼の殺意の先は、むろん十村へ。

「やるか」

 最後の深呼吸を終えて、床を蹴った。


 東来栖町に入って十分。

 〈銀太郎〉からは四十分だった。自宅からバイクを引っ張ってくればよかった、とさんざん後悔した。

 いったん足を止めて呼吸を整える。もうビルは目と鼻の先だ。休憩して青木たちの帰りを──

「え?」

 右に続く路地裏に、人の姿が見えた。不審に思い、ゆっくりと路地裏を歩いた。近寄ると、スーツ姿の男が壁にもたれかかっていた。

「ちょ、おいおいマジかよっ!」

 くそっ、と心の中で毒づいた。

 神山はその男の頬を軽く叩きながら、

「あの、意識はありますか。あるなら答えてくださいっ!」

 どんなに大声を出しても、男は目覚めなかった。下唇を噛みながら、携帯を取り出す。すぐに緊急番号から救急を呼びつけた。

 立ち上がり、路地裏から出る。ビルと向かい合って、両手を握りしめた。爪が手のひらに食い込んで、皮を破る。血が垂れてきているのがわかった。

 十村。おまえ、なにをしている。勝手なこと言って、勝手なことをして。それで罪滅ぼしのつもりか。

 とりあえず、青木がくるまで待つつもりでいた。それから五分経ってもこなかった。電話をかける。しばらくして、青木の応答はなかった。かけ直しても結果は同じだった。

 さすがに待てない。これ以上、十村を一人にさせるのはまずい。


 ──アリスの二の舞にはさせない。


 神山は大きく息を吸い込んで、吐いた。汗が噴き出す。背中と衣服がくっついて気持ち悪かった。拳が震える。足が震える。

 それでも、一歩目を踏んだ。

 ビルのロビーに入り、エレベーターを使う。そういえば警備員はいないのだろうか。軽々と侵入できたのが不思議だった。もしかしたらここは借用ではなく、実際に購入した物件なのかもしれない。

 エレベーターが地下から上がってくる。やはり、十村は下へ行ったのだ。

 中に入り、地下一階へ下る。扉が開くと、独特の匂いが一気に漂ってきた。顔をしかめる。

 行くぞ。一歩目を踏み込んで、前へ進んだ。

 周囲を見回すと、人が何人か倒れていた。腕や足がちぎれ、頭部が半分破壊され、胸に穴が開いている。ひどい状態だった。

 前にはステージがある。その奥の壁に、十字型のなにかが見えた。いや……あれは、


「十村!」


 十村が、両手を広げて壁にくっついている。近づいてみると、両腕になにか杭のようなものが刺し込まれていた。走って、ステージを上がろうとすると後ろから肩をつかまれた。

 全身を引っ張られて、頬に衝撃がくる。後ろへ吹っ飛ぶ。背中や腕、手の甲が床で擦れて鋭い痛みが走った。

 呻き声が洩れる。ゆっくりと上体を起こすと、ステージの前にクレイヴが立っていた。相変わらず笑みを浮かべている。じつに憎たらしかった。

「てめえっ……!」

「そう睨むなよ、神山瞳也」

「十村になにしやがった!」

 クレイヴは依然として余裕な面持ちで、

「なにって、わかるだろう? 飾りつけだよ」

 と言った。

「ああ、大丈夫だよ」

 思い出したように彼は手を叩いた。

「たしかに死んでるけど……彼の場合、とっくのむかしに死んでいるのさ」

「は?」

 なにを言ってやがる。神山は思った。だが、ただの酔狂であんな嘘をつくとは思えなかった。

 クレイヴは意外そうな顔をして言った。

「あれ、聞いてないのか」

 うーん、と唸り、彼は頷いた。

「さっき言ったとおり、十村君は死んでいる。彼の義父、彰文君とともにね」

「どういう……ことだ?」

 脇側の階段を使って、彼はステージに上がった。紳士のように手を後ろで組んで、神山を見下ろした。

「あのとき彰文君は私から逃げようとした。しかし彼も私の血を飲んでいた。うまく〝適合〟したみたいだが、残念ながら〝位置情報〟は常に把握している。逃げたところで無駄ってことさ」

 後ろの十村を一瞥して、クレイヴは続けた。

「早めに始末してしまおうと思ってね。サービスエリアで睡眠中だったところをサクッとやったところ、彼の実娘に目撃されてしまったんだよ。面倒だからその娘も殺してしまおうと思ったけれど、少年が起き上がってその娘をかばった。そして死んだのさ」

 クレイヴは自嘲するように鼻で笑った。

「娘のほうは知っていたものの、少年のほうは初対面だったんでね。調べたんだ。この〝記憶いじり〟でね。そしたら面白いことに、君の顔が出た」

「……俺の?」

 そんなわけがない。当時、十村はまだ少年といえる年齢だった。彼とは大学で知り合ったのだから、神山の顔が彼の記憶にあるはずがない。

「むかし、まほろが君のような存在を求めていると言ったことある。そう、虚無ウツロの──」

「クレイヴぅぅぅ!!」

 奥の十村が顔を上げて叫んだ。頭部から血が流れて、左目に滲んでいた。

「おや、もう起きたのか。早いな」

 嬉しそうに笑って、クレイヴは拍手をした。笑い声とその音が耳障りだった。

「でもちょうどいい。この組み合わせはじつにちょうどいい。神山君という存在に再び巡り合わせるために、私は彼を〝屍鬼グール〟にしたんだ。あの手記も、私が用意したものだ。あれさえあれば、君は私のところにきてくれる。そして仕事を受けるんだ。〝偽物の家族〟への、なにより遥かむかしの贖罪のためにな。

 ──そうだろう? レイプ魔が」

 最後の言葉に反応したかのように、十村が目を見開いた。必死に彼はかぶりを振った。違う。そう繰り返しながら。

「僕は、違う……そんな」

「違わねえだろう!? おまえが神山君を狂わせた。神山君に最初の傷を負わせたのは、間違いなく君なんだろう? なあ、憶えているよなあっ、あの聖陽園でのことを!」


 ──は?


 めまいが起きた。聖陽園。その単語を聞いただけで、吐き気がこみ上げてくる。胃液が喉元までせり上がる。口元を手でおさえた。とにかく、その液体を飲み込もうとした。

 足音はわずかに聞こえる。おそらくクレイヴがステージから降りてきたのだ。視界は揺らぎ、聴覚は曖昧になっている。息ができなかった。肺に詮をされたような感覚だった。声が掠れる。

 荒れる水面のような視界に、二本の白い線が現れる。クレイヴの足だ。

「や、めろ……!」

 近づくな。そう言おうとしたが、声が出ない。今度こそ詰まったようだ。指先が震える。背中に冷たいものが這う。唾液が口から垂れて床にこぼれた。恐怖心で涙が流れ出た。

 額をつかまれる。曖昧だが、ひんやりとした感触だった。クレイヴの手だろう。彼が神山の頭をつかんでいるのだ。

「答え合わせの時間だ、神山瞳也」

 その声が頭の中に流れたとき。切羽詰まっていた身体が嘘みたいに軽くなった。

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