第28話

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「そろそろ酔ってきたか?」

 十村が話を中断し、言った。

 神山は火照った頬をじかに感じて、まずいな、と憔悴した。「待ってな」

 と言って十村が離席する。カウンター越しに「水をお願いします」と大将に注文して、すぐに水入りのコップが彼に渡った。

 すぐに神山の前に水が出てきた。それをおもむろに取って一気に飲み干した。

 十村を見やる。開いた左手で頬杖をつきながら、彼もまた神山を見ていた。

「じゃあ、あの部屋は?」

 成美が借りていたあのマンションだ。

「あれはいわば〝中継地点〟だ」

「中継地点?」

 神山は首をかしげた。

「そう。ホムンクルスの材料や試作品を置いておく、特別なスペースってことさ。あそこでいろいろ、物のやり取りを行っていた」

「じゃあ、あの日おまえはなんできた?」

「片づけだよ。つまり、証拠隠滅。小坂みなみさんは物の管理者だったからね」

「なら、あの水は?」

 中継地点にあった、あの大量のダンボール箱。その中におさめられた大量のペットボトル。

「人工血液」

「は?」

「といっても、魔物の血液を濾過ろかしたものなんだけど。本物の人間の血液を使うにしたってかなり数がいる。それなら、魔族を狩って代わりを手に入れたほうがいいってことさ」

 小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、十村は言った。

「小坂みなみさんは」

 十村がこめかみを指で押さえる。

「本当に自殺したんだ」

「え?」

「彼女はもともと中立的な立ち位置にいたからね。クレイヴは彼女を気に入って管理者を任せたけど。聖命学会のいかれた姿を見せられて、逃げたくなったんだろうな。でも、今さら戻れるわけもなかった」

「だから、大量の睡眠薬を摂取して?」

「ああ」

 と、十村が頷く。

 沈黙が流れる。店内に流れるテレビの音と、ほかの客の雑談、包丁でなにかを切る音。それらが神山と十村の沈黙を包み込んだ。

「三年前の事件も、僕の仕業だ」

 唐突に彼は言った。

 だが、たしかにそのとおりなのだと思う。でないと筋が通らないような気がした。

「僕は……死霊を人に取り憑かせ、事故を起こしたり殺人をさせたりした」

「おまえ、なんでそんなむごいことをっ」

「クレイヴの指示だった。効率のためだとね。被害者に身の回りにいた人間に取り憑かせたのは、偶然性と必然性のバランスを考えてのことだった。それに、裁判になって彼らは言うはずだ。記憶にない、と」

「なぜ、わざわざそんなことを?」

「勧誘のためだ」

 勧誘のため?

「事故や殺人によって家族や大切な人を亡くした人間を、主に対象としているんだ。だから意図的に聖命学会の名を視界に入れさせるためにも、心に傷を負わせ、その人のもとに勧誘ポスターを送った。もちろんほとんどの人はそれを真に受けない。でも、ごく少数の人間は聖命学会の名に釣られてやってくるんだ」

 範囲を大きく決めて、その中から少数を釣る。そういう方法らしい。

 十村はたしかに責められない。断れば、妹を殺されるのだ。

「……じゃあ、血が検出されなかったのはなんだ?」

 十村は苦虫を噛み潰したような顔で、

「入会のときに必ずすることがある」

 と言った。

「盃だ。注がれたクレイヴの生き血を飲み干す。むろん大半の人間はそれを拒むが……そもそも彼のもとに訪れた時点で終わりなんだ。強制的に血を飲まされ、洗脳される」

「洗脳……」

 アリスが言ったことを思い出した。

 吸血鬼の血を口腔から摂取した場合、それは劇薬となる。程度によって媚薬にもなりえるとも。

 アリスの推測は当たっていた、ということになる。

「おまえはどうなんだ」

 神山は訊いた。

「いや」

 十村はかぶりを振った。

「なぜかは知らんが、僕はそうならなかった。理由は訊いても答えてはくれなかったよ」

 眉をひそめた。

 クレイヴにとって十村は、殺した友人の息子だ。その息子が自分の組織を訪ねてきたとなれば、ふつうは警戒して、なんらかの策を講じるはずだ。

 しかし彼はしなかった。神山は唸った。あの野郎の考えがまったく読めない。

「神山」

「ああ」

「おまえはこれからどうするんだ」

「これから?」

 青木にも同じことを問われた。

 選択肢は二つ。

 一つ目は、記憶を消して一般人に戻る。

 二つ目は、記憶を保持したまま狩人として生きる。

 ……俺は、どうしたいんだ?

「僕は、さ」

 十村は顔を伏せ、つぶやくように言った。

「おまえには、ふつうの日常を楽しんでほしいって思っているんだ」

「え?」

「僕のいちばんの願いは、神山が楽しく暮らせること。僕はこれまで、そうあってほしいがためにいろんな嘘をついて、いろんな悪いことをした」

「十村」

「許してとは言わない。でも今だけは待っていてくれ。もうすぐで終わるんだ」

 十村が財布から万札を取り、テーブルに置いた。彼はさっと立ち上がり、神山の脇を通っていく。腕を伸ばそうとして、めまいが起こった。視界が揺らぐ。瞼が重い。急な眠気が襲いかかってきたのだ。

 声に出して呼び止めることもできず、そのまま神山は眠りに陥ってしまった。


 目が醒めて、まず周囲を見回した。

 視界がおぼろで、よく見えなかったが、すぐに明らかになった。ここは〈銀太郎〉だ。よく夢野や十村と通いつめている──十村?

 記憶の前後まで曖昧だったが、一つだけわかるのは、十村といっしょにいたことだ。ただ、そこまでわかると靄が晴れてきた。

 十村に誘われてここにきて、彼の口から聖命学会に関すること、彼と聖命学会に関することを聞いたのだ。それから……どうしたんだろう。

 周囲に彼の姿はない。ひょっとしたらトイレにいるのかもしれない。神山はゆっくり立ち上がった。すると、声をかけられた。

「よう、兄ちゃん」

「ああ、大将」

 見れば、いつも帽子を被っている大将が薄い頭髪をあらわにしていた。エプロンもつけていない。

「もう店じまいだよ」

 かっかっか、と豪快に笑って大将は言った。

「えっ? あ、すみません。ここで眠り込んじゃって──」

 四角い顔の彼は手を横に振って、

「いいんだよ。それより、おまえさんのダチが金置いてどっか行っちまったけど、大丈夫なのかえ?」

「ダチ」

 繰り返して、神山は目を見開いた。

「そうだ、十村はっ。えと、俺のダチはどこへ行きましたかっ?」

 大将は引き気味に、

「わ、悪いがよ。俺も知らねえんですわ。ただ出ていくときにお金起きましたからつって、それきりでよ」

「そう、ですか」

 十村を探さないといけない。なんだか嫌な予感がする。根拠のないただの予感だが、十村がなにかをやろうとしていることには違いないのだ。


 ──もうすぐで終わるんだ。


 あの言葉が頭の中で何度も巡った。


「あのおにいちゃんなら、右に行ったよ」

 足元から声が聞こえてきた。視線を下にやると、小さな女の子がぬいぐるみを抱いて、右を指さしている。

「こらこらナナコ。部屋にいなさいってあれほど」

 ナナコの目線にまでかがんで、神山は笑ってみせた。

「ありがとう。わかった、右に行ってみるよ」

 ナナコは目を丸くして、不思議そうに首をかたむけた。立ち上がり、大将にも礼を言って外に出た。

 右へ折れる。走った。がむしゃらに走り続けた。

 あいつはなにをしようとしているんだ。必死に呼吸をしながら考えた。あいつが目標とすること。それは……クレイヴへの復讐だ。クレイヴに手を出すというのなら、あいつはいったいどこへ行くんだ?

 携帯を取り出し、連絡先から青木暁の番号を押した。しばらくコール音が鳴る。出ないか。そう思って耳から携帯を離そうとしたとき、着信に応じてくれた。

「はい、もしもし」

「青木さん! 今いいですかっ!」

「どうした」

 察してくれたのか、いつもより堅い声音で彼が訊いた。

「クレイヴがいる場所ってわかりますかっ!」

「クレイヴだな。ちょっと待ってろ」

 てっきり理由を訊かれるかと思ったが、彼はそのまま応じてくれた。大通りの信号機が赤になって、神山は止まった。

 やがて青木の声が聞こえてきた。

「東来栖町二丁目の〇─××のビル」

「それって……」

「ああ、クレイヴがセミナーを開いたあのビルだ。やつはあそこにいる。おそらく地下だろう」

「ありがとうございますっ!」

「あとから俺も駆けつける。これだけは約束しろ。俺たちがくるまでなにもするな、いいな」

「わかりました」

 そう言って、電話を切った。


 待ってろよ、十村。

 おまえが間違いを犯すってんなら、おまえごとクレイヴを殴ってやるっ!

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