最終章

第25話

最終章


  1


 取り調べ室から解放され、受付で十村を待っていた。彼のおかげで助かったようなものだ。帰りを待って、礼を言いたかった。それに、まず無事を確認したかったということもある。

 人が流れていく。右から左に、左から右に人の群れが過ぎていく。その流れを目で追って、特定の姿を探していた。けれど見つからない。そんな自分が不審に見えたのか、何人かと目が合うと彼らは一瞬眉をひそめた。神山はそんなものは気にせずに、十村の姿を探した。

 けれど見つからない。どうしたものか。神山はため息をついて頭を掻いていた。しばらくして、後ろから肩を叩かれた。すぐさま振り返った。十村だと思ったのだ。だが、背後に立っていあのは青木だった。

 徹夜だったからか、目の下に濃いくまができていて、さらにしわが深くなったように見えた。よれたスーツと無精ひげが抜群に似合って見えたのは、そういうことらしい。

「なにをしてる」

「十村を待っていたんです」

「十村?」

 青木は首をかしげたが、すぐに手を叩いて、

「ああ、あの眼鏡小僧か。あいつならもう釈放されたはずだが。見かけなかったか?」

「え」

 神山は立ち上がって周りを見渡した。まっすぐ出入口に向かって外に出る。すっかり夜になっていた。左右に伸びる公道を何度も見比べたが、それらしき姿は見かけなかった。

「まあ大丈夫だ。監視させてあるからな。逃げ出しやしねえよ」

 ゆっくりと歩み寄ってきた青木が言った。

「いえ、そういう問題じゃ──」

「そうだ」

 青木が指を鳴らす。

「ちょっと一服付き合え」

「一服、って?」

「一服は一服だ。ついてこい」

 背を向けて青木は右の道に折れた。なんだよ、いきなり……思いながら、神山も彼についていく。

 やがて到着すると、そこは近くの公園だった。青木はベンチに座り、セブンスターの箱を取り出した。一本を手にし、神山にも一本取るよう箱を寄せた。

「俺、吸えないですよ」

「未成年か」

「いや、もう成人ですけど……」

「ならいいじゃねえか」

 興味はあったので、一本取った。青木は悪い笑みを浮かべて、神山を見る。なんだか遠慮がなくなったな、この人……少し引き気味になっていると、青木がライターの火を神山の煙草に近づけていた。先端に火がつく。小さく燃えて、煙が舞う。

「吸ってみろ」

「え、ああ」

 頷いて、おずおずとフィルターを口に咥えた。意を決して煙を吸った。それが肺に入ったとたん、一気にむせて何回もせきをした。青木はそんな神山の背をさすって、

「悪い悪い。教えるの忘れてた」

「お、教えるって、なにを」

「吸い方だ。二種類あってな。口で吸うやつと、肺で吸うやつがある」

「ああ」

 煙草を吸っていた友人があることを言っていた。口腔喫煙と肺喫煙とあって、前者は口で煙を転がす、後者は肺に煙を入れるという方法だ。現代では後者が主流らしく、むしろ前者はダサいだのにわかだのと馬鹿にされるらしい。

 とすると、肺喫煙でやったほうがいいのか?

「口でやれ」

「え?」

「口腔喫煙も一つの楽しみ方だ。なんならそっちのほうが味が楽しめるぜ」

「はあ」

 もう一度、フィルターを咥えて煙を吸う。肺に入れないよう注意をして、二秒ほど煙を口の中にとどめる。そして一気に吐いた。

「捨てるときは、ここにな」

 青木がジャケットの裏ポケットから、携帯灰皿を取り出した。彼も咥えながら煙草に火をつける。さぞかしうまそうに煙を吸って吐いて、楽しんでいた。

「あの、なんで俺を誘ったんですか」

 ああ、と青木は携帯灰皿に灰を落としながら言った。

「伝え忘れたことがあってな」

「伝え忘れたこと?」

「おまえはもう異端存在ではない。だが秘匿対象ではある」

 それは、つまり──

「記憶を消さねばならん」

「そう、ですか」

 煙を吐く。頭の中がふわふわとしてきた。

「だが、おまえは特殊な例でな。アリスに従事していた経験もあり、かつ才能もある」

「俺に才能?」

 あり得ない、という本音が声にも滲んだ。

「ああ」

 青木は強く頷いた。煙草を口から離す。

「本来なら選択権はないんだがね。神山君、記憶を消して一般人に戻るか、記憶を残したまま俺の二の足を踏むか。どちらがいい?」

 青木は眉根を寄せながら言った。嫌々に告げているように見える。もしかしたら、彼は後者の選択を嫌悪しているのかもしれない。

「一つ言わせてもらうと、よく考えておけ、ということだ。これ以上いうと俺が弾かれかねないんでね」

 苦笑を交えながら言うと、青木は再びフィルターを咥えた。

 二つの選択。どっちにしたほうがいいんだろう……神山は顔を伏せた。一目瞭然だ。記憶を消したほうがいいに決まっている。それで日常に戻れるのだ。もともとアリスに協力していたのだって、神山が毎日を平穏に過ごすためだ。事件を解決して、アリスから解放され、日常に戻る。自分が望んでいたのはそういう未来だった。

 でも、迷っている。どちらがいいなんて明らかなのに、答えを出すことに躊躇している。ましてや後悔するかもしれない、と考えているのだ。

「答えは決まったか」

 青木も思っているはずだ。前者を選択するはずだ、と。

「……すみません」

「なに?」

「迷っています」

「正気か」

 神山は噴き出した。

「ですよね。そんなんですよ。迷うはずないんです。わかっているんですけど……」

 俺は、なにかに迷っている。なにか? それはなんだ。頭を抱えた。なにに迷っているんだ。そう自分に問いかけて。

「ただ、その──ここで終わらせるわけにはいかないって、そう言っているんです。ここで終わらせたら、自分を許せなくなる気がして」

「情に流されるな」

 青木が一喝した。

「その感情は記憶ごと消える。完璧な、後悔のない選択ってやつだ。一時の気の迷いで行動するな」

 しばらく沈黙が続いた。青木が腕時計をちらりと見て、そっと息をついた。

「明日には決めておいてくれ。俺はもう戻らねばならん」

 そっと彼は立ち上がる。神山は、「青木さん」と呼び止めた。

「あの、小坂鈴江さんは……どうなりましたか」

「ああ、あのビルにいた人か」

「はい」

「あの女性なら、今はこちらで保護している。なにかあっても俺が全力で守るつもりだしな」

 そうですか、とほっと息をつく。

「自分の娘の死が〝誰かの手〟によるものだった。それがわかったとき、その親はなにをすると思う?」

「……復讐、ですか」

「ああ、そうだ」

 青木は頷いた。

「子を失った気持ちは、俺にもわかるからな……」

 誰にともなくつぶやいた言葉が聞こえてくる。だが、聞かなかったふりをした。


 それから十分ほど公園に残り、選択について考えていた。

 結局、答えは出なかった。そんな自分にあきれ果てて、もう家に帰ろうと決めた。

 公園から離れ、散歩がてらに街のほうを歩いて遠回りしようと思った。小さな坂を上がって橋を渡り、街の中へ踏み入った。街の中央からそれた場所──スナック街──をぶらりと歩き回っていると、ふとある看板に目を留めた。


 居酒屋〈雷太〉


 むかし、サークルの新人歓迎会をこの店でやった。大学デビューというのかわからないが、ああいったコミュニティに積極的に参加し、外見から生まれる誤解を解消する。あわよくば友人、欲を言えば恋人を作って大学生活を満喫するつもりでいた。

 しかし、達成できなかった。今まで人と喋ってこなかった経験があの弊害を生んだ。

 質問をされれば、「あ、はい」と短く答えて終わる。あるいはいらないことまで口走って、周りに引かれる。質問をすると、相手は気軽に答えてくれたが、その話題の風呂敷を広げることができなかった。

 ……あのときは堪えたなあ。

「よう」

 ふいに声をかけられる。振り返ると、そこには片手を挙げた十村が微笑んでいた。

「十村、おまえっ」

 すると彼は人差し指を立てた。しーっ、と口の形がそう言っていた。

 彼のほうから近寄ってきて、

「なあ、どっか呑んでいかないか」

「……悪いが、そんな気分じゃない」

「僕もだ」

「じゃあ、なんで誘った」

 半ば苛立っていた。昼間のできごともあるし、十村の正体も結局わからないまま。今では彼を信用していいのかすらわからない始末だ。

 踵を返すと、背後から肩をつかまれた。

「離せよ」

「話したいことがあるんだ」

「あ?」

 顔だけ振り返ると、十村はいつになく真剣な顔になっていた。まっすぐな瞳が神山を見返している。

「なんだよ、話したいことって」

「いろいろだよ。僕のことも、あいつらのことも」

「……本当に、話してくれるんだろうな?」

 ああ、もちろんだ。彼は言った。

 変わらず真面目な表情を見て、神山はため息をついた。十村の腕をつかむ。

「なら、どこへ連れていってくれるんだ」

「え?」

 十村がきょとんとする。

「立ち話もなんだしさ。メシでも食いに行かねえか。もちろん、おまえの〝おごり〟でな」

 神山は笑みを浮かべた。

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